常盤平蔵のつぶやき

五つのWと一つのH、Web logの原点を探る。

処刑機械をリアルに想像する~ 「流刑地にて」を読んだ 「海辺のカフカ」再読(1)

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海辺のカフカ」再読

村上春樹の「海辺のカフカ」を再読している。なぜ今「海辺のカフカ」なのか? は全部読み終わったときに書くことにしたい。再読と言っても二回目だが、一度は読んだはずなのに、全然覚えていないエピソードがたくさん出てくるのは自分でもどうなのかと思う。映画も一度見ただけでは気が付かない箇所が二回目、三回目と観ることで気がつくことがすくなからずある。小説でももちろん二度目の読書で何故か新発見し、それに新鮮な驚きがある事自体は珍しくない。だがしかし、村上春樹の小説に限って言えば、ほぼどの本にも言えるとおもうのだが、通り一遍読んだだけでは「あー、おもしろかった」で終わってしまうが、しばらく経ってから改めて読んでみると「こんな話だったっけ?」と首を傾げることが多い。気づかなかった箇所というレベルではなく、エピソードそのものがすっぽり抜け落ちていたり、記憶の中で違う話に置き換わっていたりするのである。

今回も読み返してみて、早速そのような箇所に遭遇した。上巻の最初の方にフランツ・カフカの「流刑地にて」という短編を主人公であるカフカ君が大島さんとその内容について話す場面がある。前回読んだときはスルーしてしまったが、今回はこの「流刑地にて」という短編がどんな話なのかを知ってから続きを読もうと思い、図書館で借りてきた。

このお話には、本好きにとっての理想のような場所である「甲村記念図書館」という私設の図書館が物語の舞台として出てくるが、私が今回読んだ「流刑地にて」を含む「カフカ短編集」を借りた「武蔵野プレイス」も本好きにはかなり理想に近い場所だと思う。先頭に写真を貼ったが、建物のデザインからして謎っぽい感じを醸し出しているのがわかると思う。中に入ると、いきなりカフェがあったりして本好きのパラダイス感があふれていると思う。

 

 

 

あらすじ(もちろんネタバレです)

この話には固有名詞は出て来ない。登場人物はすべて職業(「囚人」が職業かどうかはこの際おいておくが、シナリオ学校で「泥棒」も職業と習った気がする)あるいは役職で呼ばれる。主人公は「旅行家」だ。旅人と言ってもいいかもしれない。その旅行家が辺境の流刑地にやってくる。そこで現地の「将校」からその地にある奇妙な処刑機械の説明を受ける。場面としてはその処刑機械のある荒れ地の谷底のような場所一場面のみで物語は進行する。

その処刑機械は言葉だけで説明するには少々複雑な構造をしている。「製図屋」と呼ばれるコントローラー部分と「ベッド」と呼ばれる、囚人をそこにうつ伏せに固定しておく部分に分かれている。「製図屋」の中には精密な歯車やモーターで構成された機械で、その下側に「馬鍬(まぐわ)」と呼ばれる部分がついている。この馬鍬が説明するのが困難なのだが、この部分が囚人の体の表面に切り傷を刻んでいくことで文章を書くのである。

今であればコンピューターとセンサーで、サーボモータを動かして人体表面を切り刻む機械を作るのは簡単だろう。事実「DaVinci」のような外科手術支援ロボットも開発されている。そういう機械のスチームパンク・バージョンを想像すれば良いのだと思う。そういう意味では動力は蒸気機関である方がよりしっくり来る気がする。製図屋からぶら下がっている馬鍬が、XYZの三軸を持っていて、ベッドの側もヨーとピッチの二軸を持っているのだろう。五軸のNC工作機械と同じだ。短い文章を書き込むのに今だったらものの数十分で終わると思う。それだと拷問にはならないが、この小説に出てくる機械はなんと十二時間もかけてわずか数語の短文を刻み込むのである。実は肝心の判決文を一行書いたら終わりではない。耳なし芳一のように、背中の真ん中に書いた判決文の周り一面にびっしり細かい飾り文字で彫り込むようだ。腕や足にもその飾り文字が刻み込まれると書いてある。

この「処刑機械」の説明をできるだけ細かくしておくことが、実はこの短編には重要である。それを誰が作り、誰が維持しているかや、その機械がいかに精巧作られていて称賛に値するものであるかなどを「将校」から説明される。しかし、その機械の存在意義や機械が行うことに「旅行家」は同意できない。その立場の違いが鮮明になり、最後には平行線だということがわかると「将校」は「囚人」を放免して自分がその「ベッド」に横たわるのである。そして処刑機械を作動させる。しかし、長年の整備不良や部品不足等によってだましだまし動かしてきた機械は、動作中に本格的に壊れはじめ「製図屋」から歯車が飛び出す。結局将校は機械の間違った動作によって殺される。

 

 

 

カフカ君にとっての「処刑機械」

この短編のオチは一体どう解釈すればいいのか?このあと旅行家は、この処刑機械を一人で設計製造した元司令官の墓が街なかの喫茶店の奥に隠してあるということを聞いて、それを観に行く。そしてその街を離れるのである。再び「海辺のカフカ」のカフカ少年の話に戻ると

その複雑で目的の知れない処刑機械は、現実の僕のまわりに実際に存在したのだ。

(「海辺のカフカ」上巻 P119 13行目)

流石に私もこの奇妙な機械が実際に存在したといわれても、それはなにかの比喩として考えざるを得ない。 ・・・いや、それが間違いで、本当に存在する?彼に何がしかの烙印を体に刻み込んで、挙げ句死に至らしめるような機械が?それは一体何のことなのか? 何某かの烙印は、物語の中で父がカフカくんに言ったとされる予言のことだろうか? その予言を機械のように彼に刻み込んでいくのは周りの人間? 環境? いずれにしてもそれは主体的な意図を持たない=機械的にそれを行うものということなのだろう。機械そのものが存在しなくても、結果として皮膚を切り刻むことによって描かれる烙印さえも存在しなくても、それが実際に自分に起こっていると思うならそれは現実ということなのだろう。

 

流刑地にて」、私の好きな話です

カフカくんと話している大島さんは「流刑地にて」について「僕の好きな話だ。」という。それは大島さんもその複雑な立ち位置から「機械に烙印を押される」という経験をしてきていて、カフカくんが感じているものと近いものをこの話から感じ取っているからかもしれない。

余談だが、この「僕の好きな話だ」というセリフを読んで、先日観た「シン・ウルトラマン」に出てくるメフィラス星人の格言好きを思い出してしまった。

更に余談だが、この「カフカ短編集」の「流刑地にて」のあとに掲載されている話は「父の気がかり」というのだが、そのなかに「オドラデク」という単語を発見して驚愕した。「DEATH STRANDING」の中に出てくる幽霊を探知するセンサーの名前がそれだったのだが、その元ネタはこれだったのか! と解ったという話である。(オチはない)

では、「海辺のカフカ」の続きを読みます。(つづく)

 

 

来たぞ、我らの・・・?「シン・ウルトラマン」を観た

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吉祥寺オデオン

正直、オデオンでは観たくない。しかしながら、家から一番近い映画館であるという一点の理由により、急遽思い立って見に行く映画の場合かなりの高確率でこの映画館のシートに座っている。何が問題かというと、根本的に座席の設計が古いため、今のシネコンのように傾斜の角度が高くない。従って画面の下に人の頭で隠れる部分がある。今日の座席はさらに上映2時間ぐらい前にチケットをネットで購入したため、後ろでしかも左側に寄った位置に座る羽目になった上に、私の前に座っている人間が、野球帽を被ったまま映画を観ると決めたようなので、帽子のつばの部分が頭よりもさらに上に突き出しており、一瞬「上映中は帽子を取っていただけませんか?」と交渉しようかと思ったが、様々な理由によって人前で帽子を取りたくない人もいるかもしれないと思い、ぐっと堪えることにした。次回はなんの映画を観に行くにしても絶対に他の映画館を選ぼう。

 

ネタバレ厳禁

正直に告白すると、私は今回の映画「シン・ウルトラマン」を「シン・エヴァンゲリオン」程は楽しむことができなかった。

 

 

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しかし、まだ映画は公開し始めたばかりなので、あらすじなどを紹介することも難しいし、劇場で購入したパンフレットにも「ネタバレ注意」の紙帯が巻いてあり、その帯に注意書きとして「映画をよりお楽しみ頂くため、映画ご鑑賞後にお読みください。」と書いてあるため、ここで内容について触れることは自粛したほうが良いだろう。
しかし、内容に全く触れずに感想を書くことは極めて困難だ。そこで、私にとっての「ウルトラマン」がどういうものかを書くことによって、間接的に今回の映画の感想を語りたいと思う。

 

ウルトラマンとの思ひ出

私にとって「ウルトラマン」でもっとも思い出深いのは全長30cmぐらいのウルトラマンのソフビ人形である。メーカーはブルマークだ。おそらく小学生の低学年だったと思う。ソフビ人形は、胴体と頭、両手、両足の6個のパーツからできており、頭、両手、両足それぞれのパーツは胴体に差し込まれる側がラッパ状に広がっており、組み立てるときは樹脂の柔軟性を利用して無理矢理押し込んで嵌めるように設計されている。
それを買ってもらった小学生の私は、しばらくはウルトラマンの両腕を上に向けて飛行ポーズをとらせて空を飛んでいる姿を演じさせたり、両足をはめ込み部分で半回転させてお相撲さんの股割りのようなポーズを取らせたりしていたが、最後には手や足を引っこ抜いてはまた嵌めるというような、なぜそうしているのかわからないような遊びをはじめていた。前述の通り、差し込み部分はラッパ状になっているので、抜くときは引っ張れば抜けるが、再度嵌めるときは、そのラッパ部分をうまく丸めながら胴体側の穴にはめないといけない。そこにはまさに素材がソフトビニールであることの柔軟性を利用しているわけだが、頭を引っこ抜いたあとで、どうしてももとに戻らないということが判明した。理由は、ラッパ状の部分が長いためどこをどう押し込んでも全体が穴の中に入ってくれないのである。
困り果てた私は風呂に浸かっていた母親のところへ首のもげたウルトラマンを持っていった。「頭がどうしてもハマりません。なんとかなりませんか」という趣旨のことを告げて、気持ちよくバスタイムを楽しんでいた母親に困難な作業を託したのである。怪訝そうにウルトラマンの頭と胴体を受け取った母親はそれでも5分ぐらいはなんとか胴体と頭をつなげようと努力してくれた。しかしながら、全然首がつながる気配がない。そのうちに風呂の湯にのぼせたのか、顔が真っ赤になり派手な音を立てて何度か押し込もうとして失敗した刹那、私の方を向き「なぜ自分で元に戻せないのに首を取ったのか!しらん!」と言いながら首を、更に胴体をこちらに投げつけた。風呂のお湯で濡れたウルトラマンの頭は私の頭とぶつかり乾いた音を立てた。ソフトビニールとは名ばかりで、思いの外痛かったのでしばらく泣いていたと思う。その後、どうやってウルトラマンの首と胴体が繋がったかはよく覚えていない。だが、私も二度と首を引き抜くことはなかった。余談だが何年か前のお宝鑑定団かなにかで、当時のもので程度のいいものはちょっと驚く値段が付いていたのを観た記憶がある。そのソフビ人形が今どこにあるかは分からない。

 

小ネタ1 シン・長澤まさみ

長澤まさみはすでに宇宙人とバディを組む映画がある。「散歩する侵略者」である。この映画は面白かった。以前ブログに感想を書いたが、このときの長澤まさみは役柄もあって大変良かった。今回の配役は「キューティーハニー」で市川実日子がやっていた役どころに近い。それがいいか悪いかは、人それぞれだと思う。

 

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小ネタ2 シン・早見あかり

今回の映画では「シン・ゴジラ」では(またまた)市川実日子の役どころだった、いわば生物学から怪獣を分析する役割の役を早見あかりが演じている。あれ?長澤まさみもいるのに、隊員の中に女性が二人もいる?TVシリーズウルトラマンでは、科特隊には紅一点のフジ・アキコ隊員だけだった。やはりこのジェンダーギャップを過去のものとするべく、女性の割合を増やしたのかもしれない。早見あかりという女優は好きな方だが、以前「ラーメン大好き小泉さん」の小泉さん役だったとき・・・と思ったが今回も・・・いや、まあそれも人それぞれ好みの問題だと思います。

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言葉のメタファーとしての刃物

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切れない刃物で切ると

昔、裏面に糊の付いた紙をハサミで切っていて、刃に糊がついてしまったので、その糊を指で剥がそうとしたことがある。ちょっと考えれば分かりそうなものだが、刃のエッジに着いたものをその刃に沿って指で擦ったらどうなるか?糊が取れた所で刃と指が振れる。刃が指を切り裂く。血がどばーという具合である。

ハサミの刃というのは包丁のように鋭くないが、2つの刃がお互いを削り合うようにして交差し、その間にあるものを切断する。ミクロで見たらお互いの刃が相互に間の物体を支えると同時に潰すようにして切り裂くのだろう。そのために鋭利ではないが硬い刃で指の皮膚を咲かれものすごく痛い思いをした。カッターナイフの刃のような鋭いもので切ってももちろん痛い。だが、切れない刃で切るとその痛みは十割り増しである。痛さマシマシである。

 

辞書は砥石

「言葉は現実を切り取る刃物」であるというのは、昔何かの辞書に詩人の谷川俊太郎さんが帯のキャッチコピーに書いていたのを読んだ記憶がある。そしてその後こう続く。「言葉が刃物ならば、辞書はその砥石」この時に読んだこの文言で、言葉=刃物というメタファーで語ることを覚えた。

そこで先ほどの「切れない刃物で斬られると(とても)痛い」ということにつなげようという話である。正直自分の選んでいる言葉が十分に「鋭くて」その概念を的確に表せているとは思えない。だからと言って「文章が下手だから」ということにされてしまうと、ちょっと違うのではないかと自分では思う。

ミケランジェロが彫刻をする時に大理石の中に既に「その姿」が見えていて、自分は「それ」を掘り出しているだけだ、というような話をどこかで読んだ気がするが、しかしいくらその姿が見えていても、ノミやタガネが鋭くないと余計な力が入ったりして的確にそれを掘り出すことはできなくなってしまうのではないか。

言葉もそれと同じで、いくら表現したい「それ」があっても、それを形にするために用いる言葉が十分研ぎ澄まされていないと、歪なもの、痛いものとしてしか読み手に伝わらないのではないか。

 

リアリストは現実(リアル)を斬る

私が勝手に師と仰いでいる内田樹先生が「リアリストとは現実を追認する人のことではない。現実を直視して、その中であるべき姿を創り出す努力をする人のことである」ということをブログで書かれていた。この考え方を一読すると「あれ?」と思う。あるべき姿を創るのであればそれはリアリストではなく理想主義者なのではないのか?と。

しかしよくよく考えてみると、ただの理想主義者であれば、現実とはいくらかけ離れていようとも理想だけを追い求める人だ。しかし、リアリストであってもただ目の前にあることを現実だからと認めるだけではなく、目の前にあることのなかから選びうるもっともよいものを目指すのが、リアリストであるということだと解釈した。つまりこれは目の前にある現実という大理石の塊の中から「その(あるべき)姿」を見出し、世の中に提示することのできる人のことだろう。そのために必要なものは混沌とした情報の塊から、あるべき姿を切り出せる切れ味のよい言葉だ。その切れ味の良さは切るという動作そのものの鍛錬と、切るための道具である言葉=語彙を常に磨いておくことの両面から行う必要がある。

 

blog.tatsuru.com

 

変わりゆく現実を斬れ

コロナ禍が2年を経過してようやく収束に向かう最中に、今度はロシアがウクライナに侵攻した。スマホや衛星ネットワークなどの情報テクノロジーが、リアルな戦場の姿を日々伝えてくる。実際に破壊されたロシア軍の戦車のねじ曲がった車体や砲塔がニュース映像に映し出されている。

戦争というのは、それを準備している段階では「先の戦争」を想定しているが、新しい戦争が始まった時には全く異なる手段が主流になっていくものらしい。戦車というのは第一次世界大戦で開発され、第二次世界大戦で大きく発展したが、今回のウクライナ侵攻では「ジャベリン」に代表されるような安価なロボット兵器で簡単にスクラップにされてしまっている。

我々にウクライナの現状を鮮明に伝えてくれる民間用のドローンが、戦場では偵察用途として有効であることも今回の戦闘で証明されているようである。数年前にRaspberry-Piを頭脳にした戦闘機とベテランパイロットが模擬戦をして、ラズパイが圧勝したというような記事もあったが、コンピューターが戦闘に本格的に利用されるようになれば人間には勝ち目はない。

 

www.itmedia.co.jp

 

ようやく人類が、地球環境の事を考えて経済活動を行おうとした矢先に、むしろ誰も望んでいないテクノロジーが日々進歩し続けている。現実を追認するだけでなく、あるべき姿をその中に見出して提示するためには、選び尽くされ、磨き抜かれた言葉をもって目の前にある「現状」からあるべき「現実」を切り出さなければならないと強く思う。

私情は詩情にのせて

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コラテラル・ダメージ

ダメージがつかない方の映画「コラテラル」で、トム・クルーズ扮する殺し屋が、タクシー運転手に説教するシーンがある。ジェイミー・フォックス扮するタクシーの運転手はリムジンタクシーの会社を作って成功したいという夢があるのだが、その事は年老いた病気の母を見舞いに行くときに話すホラ話でしか無い。いや、自分ではそれを目標として生きているのだ。ただ、まだ実現できていないだけ、本気出していないだけだと思っている。それを聞いたトムは彼にこう語る。そうやって自分に言い訳して、実際はただ惰性で生きているだけじゃないのか、と。そしてトムは彼におそろしいイメージを語るのだ。年老いたある日、自宅のリビングにあるカウチに深々と腰掛けて、缶ビールを飲みながら大リーグの試合中継なんかを見ている。そしてふと、俺にもそういえば夢があったな。結局叶わなかったが……と思い出すのが関の山だと。
つい先日その内容を告げに私のところにもトムが現れた。そしてあの人懐こい笑顔で私に「すでに君はカウチに座っている」とおそらく英語で語った。(私は下に出た字幕を読んだ)もちろんそれは私の妄想だが、なぜそう思ったのか。先月から復活した家探しのせいもあると思う。家探しをしている最中に、自分の今の年齢をよくよく考えてみたら、もう定年までも数年しかないということに気がついた。若い不動産屋の営業マンはこともなげに「ローン組めるのも働いているうちですからね」といった。まさに映画の中で「リムジンの頭金だけでも払ったのか?」と聞かれていたが、ローンどころか家の頭金すら払っていない状態である。(買っていないんだから当たり前だが)

 

ジャケット写真だとトムが主役扱いに見えるな。

 

ダメージがつく方。

 

そこに詩はあるか?

プレバト!!」という番組で俳句の添削をやっている夏井いつき先生が、NHKのプロフェッショナルに出ていた回で聞いたのだが、先生は俳句を評価するときに「その俳句に詩があるかどうか?」が判断の基準になるととおっしゃっていた。それを聞いたときは漠然とそうなのかと思った程度だったが、言葉に詩があるかどうか?というのは、文章を書く上でも非常に大事な視点じゃないかと思っている。先日取り上げた金子光晴の「どくろ杯」の文章の魅力というのも、まさに選ぶ言葉に「詩(情)」があるからなんじゃないかと考えて腑に落ちた。

 

tokiwa-heizo.hatenablog.com

 


高校の国語でこれからは文学ではなく論理的文章(科学論文や法律)を教えなければならないという、文部科学省の行き当たりばったりの方針のせいで現場は大変に混乱しているとどこかに書いてあったが、そもそも文学的な文章と論理的な文章に厳密に分けることができないからだとも書かれていた。当たり前だが文章というのはロジックだ。伝えたいこと、表現したいことがあって、それをひとかたまりの文章で伝えるためには、最初の一文字から最後の丸まで一方向に読むことで、何某かが読んだ人間に伝わらないといけない。そのロジックは例えば俳句のような17文字にその伝えたいことを込めようとした場合に夏井先生が添削するときの解説を聞けばわかるが、大変ロジカルに説明されている。ロジカルに説明できるということは、俳句もまた詩情を込めるためのロジックなのだ。科学論文や法律文だけがロジックで構成されているわけではないのである。

 

私(わたくし)の感情

「すでにカウチに座っている」と告げられた私の中に生まれた感情について書くためにも、ここまで二節に渡って書いてきた論理的な積み上げが必要なのである。
夢、やりたかったことなどを考えると、まるででたらめな色で塗りつぶしたキャンバスのような、一つ一つの色、筆の跡、その強弱や長短を読み取ることができないけれどもそこにあるのが唯一「混沌」であることだけはわかるような景色が見える。おそらくその何処かをつまみ上げようとすると、絡まった部分が一緒に付いてきてとても筋などは読み取れないだろう。しかし、その塊こそが、叶わなかった夢ややりたくてもできなかったことの形と言える。そして私が座っているカウチの深々としたクッションに詰まっているものの正体もこのひどく絡まった糸のような塊が、私の尻の形に凹んでいて、そこにすっぽりとハマったカウチと一体化した自分自身がある。右手に缶ビール、目の前には観る気もなく映し出されている野球中継。
そのままそこに座り続けていれば、やがてまた人懐こい笑顔のトムが玄関から挨拶抜きで入ってきて「お迎えがきましたよ」と告げてくれるはずだ。さあ、そこで、である。

 

プライドは砕けてからが勝負

鍵をかけようが防犯装置を取り付けようが、勝手に入ってくる「トム」を待つのが嫌なら、やることは一つしかない。カウチから再び立ち上がるのだ。自分の形にへこんだ、ある意味今の自分を作っているその凹みから離れて、新しい自分の形を見出すしかない。気づいてしまった以上いつの間にか自分の外側に生えてしまったカウチの形をしたかさぶたなのか垢なのかわからない気持ちの悪い物を自分から切り離さなければならない。そしてまた、採用面接で新卒の候補者が座らされるような、パイプ椅子に座り、新人ダンサーの採用面接のように冷徹な目玉が並ぶ前で会議室に作られた小さなスペースのような場所で自分ができる本当に精一杯を踊るしかない。もちろんその冷徹な目玉は自分自身のものである。

 

日経の書評でそう書いてました。

 

 

理想の暮らし3

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まだまだ妄想する

ダイブ・イントゥー・ボトム。源に触れろ。理想の暮らしへの欲望を、もう少しだけ自分のコアの方へ潜ってみたい。あんまり自分の個人的な思い入れの部分ばかりを記述すると、他人には何のことかさっぱり解らない話を書き連ねそうなので、今回でひとまず最後にしたいと思う。エヴァみたいにコアとのシンクロ率が上がりすぎても戻ってこれなくなるし。

 

壮年は荒野をめざす?

欲望を育てるためには、それにふさわしい厩舎が必要と前回書いた。しかし欲望が野獣(或いは黄金の毛並みを持つ駿馬)であるならば、そもそも屋根の下で育つものだろうか? 囲いや屋根の下で育てられるものといえば家畜と決まっている。家畜人ヤプーである。それでは真の欲望、野望は育たない。では、野獣はどこで育つのか? 荒野である。青年は荒野をめざすものなので、それはすなわち己の欲望を育てるために向かったのであろう。青年ではなくなり、中年を過ぎ、壮年と呼ばれるような、初老の人間が向かう荒野というのはどこにあるのか? それはどういったものであるのか?
……なんか、三途の川の河原の様な場所しか思い浮かばない時点でもはや死亡フラグが半分立っている。もともと荒野とは使える資源に乏しく、生き抜くのにテクニックを要する最近流行りのフロムソフトウエアのゲームフィールドみたいな場所であろう。死んでから攻略方法を覚えて先に進むことは現実では無理なので、青年はその様な場所でさまざまな経験を積み重ね、主に精神的なトラブルや事件に対する対処の仕方を学ぶものだと思う。その様なものを既に身につけた壮年期の人間が荒野に放り出されたらどうなるのだろう。

 

荒野で童心に帰れるか?

既に経験した事ではあるが、新鮮にその出来事に対応するだろうか?それとも既にその先を見た人間として、覚めた目で傍観してしまうのか? Netflixのドラマ「イカゲーム」は正にそんな状況だった。大人が子供時代にやった遊びで真剣勝負する。ドラマでは命懸けだったので、傍観者の立場でいる事は叶わないが、一方で主人公は童心を失わずにあの場にいたことが、より結末の辛さを増幅していた様な気がする。しかし彼はその事で欲望の果てを見ることになって結果として生きることの目的を取り戻す。そういう荒野であるべきだろう。

 

通勤電車の中で

目が死んでる。魚の目、羊の目。まつ毛がきれい。たったまま何かを見つめてる。横顔に光が当たる。その色の美しさにハッとする。
そんな事を考えながら車内の乗客たちを眺めつつこの文章を書いている。そしてはたと気がつく。ここが荒野なのだ。人生いたる所青山あり。ここがロドスだ、ここで跳べ。欲望という名の電車に乗っているではないか。いや、そうなのだろう。自問自答の環状線に乗ってしまったようだ。
もう一度車内を見渡してみる。老いも若きも、男も女も何かに取り憑かれた様にスマホを見ている。この荒野からの出口を探しているのだろう。荒野を生き延びるための何かはスマホの中からは出てこない。

 

荒野へ

原作本も読んだ「荒野へ」という映画では、主人公のクリス・マッカンドレスがアラスカの荒野に一人で入っていく。そこで彼は他人とのつながりを絶って生きて行こうとする。しかし、ちょっとした間違いから彼は周りに誰も助けてくれる人のいない荒野の真ん中で死ぬ。しかしこの人の溢れた都会でも、バス停で一人で死んでいた老女や、地下鉄の中で強盗にあっても、周りの人間はスマホに夢中で全然気がつかないというようなことが起きる。
まず大切なのは、ここが荒野だと気がつく事なのではないか。そして、その場所でのみ己の欲望を鍛えることが出来る事を常に忘れない事だろう。それしか無いのでは無いか。己の欲望のみが導いてくれる己の夢のありかへと続く道への手がかりは。
その為にしなければならない事は、正確に世界を見て、その世界を自分の言葉で語り、それを自分が読んで、そこから己の欲望の姿を知る。その欲望の赴くままに荒野へ、その深奥へと進むことしかないと思う。

理想の暮らし2

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◯イメージ!イメージ!
想像せよ。理想の暮らしを。戦え。何を? 人生を。
というわけで、もう少し自分にとっての「理想の暮らし」とは、どんなものなのか、妄想を続けてみたい。パブリックイメージリミテッド。
もちろん万人に向けてのそれではなく、既に半世紀をこの世界で生きてきて、コロナ禍前からやわらか戦車のように「後向きの興味」全開の私にとっての「理想の暮らし」である。
その「後向きの興味」についてだが、フィリップ・K・ディックのユービックのように、既に自分の中では世界は逆転を始めているのかもしれない。後向きの興味は、昔読んだ絵本「ウサギの耳はなぜ長い?」の話に出てくる、人間の寿命50歳を超えたことで既に折り返し地点を超えて生きている事から自然に起こる現象なのでは無いかとも思えてくる。
理想なんだから、あまり現実にこだわらずにまさにイメージの中の理想の世界を想像してみたい。

 

◯50代の理想はそれまでとは違う?
純白のテスラ、温泉付きの別荘、モンローの生まれ変わりみたいな女と寝床で大吟醸…みたいな理想は既に遠い過去の話だ。
だいたい金で買えるものの価値はバブルと共に全てその真の姿をらさしているので、今更そんなものを理想とは思わない。
では、何が理想の暮らしなのか。一番は暮らしていて毎日が楽しいことだろう。それにはまず健康だ。健康のためには運動だろう。私だったらいつもやっている杖道が普通に出来ることだ。ということは、杖道の道場が近くにあることは大事だろう。
運動して家に帰る、または日々の仕事をして家に帰ればやはり体を休める為の場所であるから寝床と風呂が大事であろう。

身体中の力を振り絞って、全力で走りたいとか、全身がバラバラになる様な轟音を聴きたいとか、そんな欲望はもはや半世紀を生きた身体では、望みを持つことすら想像力がもたない気がする。それでも理想の暮らしなどを夢見るためには、その空になったビールの缶のような身体の内側に、飲み干したコーヒーに入れたのに混ぜるのを忘れて溶け残った砂糖のようなどろりとしたものを丁寧に掬い上げるしかない。

 

◯理想の暮らしの基盤としての家
もう若く無い。それはよーくわかった。だから、理想の暮らしというもののためには、その基盤となるべき場所、つまり路上に吐き出された唾液の如き心細くなった欲望を、再びこの世にあるためにふさわしい形まで育て上げる為の厩舎の様な家が必要なのだろう。名白楽無くして名馬なし。己の欲望という、暴れ馬になるべくして生まれて来なければならない子馬を、本当に鼻先から尻尾の毛の先まで目にも眩い黄金の金箔を貼った(金閣寺か)美丈夫に育て上げなければならない。
家はそんな場所でなければならないとなると、また大変な一大事業である。

History Is Made at Night
歴史は夜作られる。高校の頃友人達と、ある裕福な親を持つ友人の邸宅の庭先にテントを張って夜明かしした事がある。その時ふと頭に浮かんだ言葉がこの言葉だったのだが、今検索してみると、古いアメリカ映画のタイトルであり、その内容はちょっとびっくりする様なストーリーだった。興味のある方はリンク先を参照して下さい。
https://www.allcinema.net/cinema/25295
何故このタイトルがこの内容の映画に付けられたのか?は映画を観ないで語れるものではないが、17歳の頭に浮んだ意味とは異なるのは確かだろう。そして50歳を過ぎた今の頭に浮かぶ意味の方が、近いに違いない。
私がもし家を建てたなら、その家にはこのタイトルを飾ろうと思う。歴史は欲望によって作られるものだとわかったからだ。そしてそれはこの映画にこのタイトルを付けた人の考えたこととそんなに大きく違わないと思う。

理想の暮らし


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奄美大島のあやまる岬


コロナ禍が始まって、第3波か第4波の間にGotoトラベルキャンペーンが実施されたことがあった。もともとGoToトラベルのキャンペーンを使うつもりはなく、波が収まる頃を見計らって予約してあった旅行先があった。それが奄美大島である。実際はちょうどキャンペーンにハマって、ほぼ半額をクーポンなどで還元してもらうことができたので大変オトクに旅行することができた。今はオミクロンの第6波によって、当分GoToトラベルキャンペーンができるかどうかわからないので、あの一か八かの賭けでした予約は本当に運が良かった。
その時の詳細は過去のブログにまとめてあるのだが、あえてもう一度記憶を呼び起こして書いてみると、羽田から飛行機に乗り、奄美大島空港に着いて、空港の道路を挟んで反対側にあるレンタカーやで軽自動車を借りて走り出すともうさとうきび畑が広がっており、東京での鬱屈した生活にうんざりしていた自分にとっては天国に来たような解放感だった。
そのまま、ガイドブックに書いてあった「夕陽が美しい浜」へ車で直行した。車を降りて砂浜へ出て、東シナ海に沈む夕日を黙って見つめていた。東京では絶対に見ることのできない風景だと思った。
翌日もレンタカーに乗って島の中を走りまたしても夕暮れ時よりも少し前に島の北端にある「あやまる岬」と言うところに着いた。あやまると言っても別に謝罪する場所ではなく、岬一帯の地形が“アヤに織られた手鞠”に似ているからそう呼ばれているそうだ。その公園の一番高い所にお土産売り場を兼ねたカフェがあった。コーヒーを一杯注文して、ガラス窓の方に向いたカウンター席に座って景色を眺めながらコーヒーを飲んだ。
目の前に広がるパノラマには、視界いっぱいに広がる海から押し寄せる波が見えた。時計を見ると午後4時45分過ぎ。コーヒーを出してくれた店員さんは既に店仕舞いを始めている。
この同じ時間の東京、例えば吉祥寺のスタバで働く店員さんと比べて目の前に広がる光景が全然違うだろうと想像した。いや、自分自身の毎日の通勤や職場で見る光景とも全く異なる。こんな景色を毎日見ながらする仕事というものがこの日本の中にもあると言う事実。そう考えた時になんだか静かに全身に走る衝撃を感じた。

 

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地方移住?

だからと言って、今すぐ奄美大島に移住して、ここのカフェで雇ってもらうことは難しいだろう。いや、難しいと言うより無理だ。色々なしがらみが東京にはあり、それらを一つ一つ断ち切って整理しなければ、離れることはできない。それ以上に、仕事や生活も全く知らない土地で一から始めなければならない。
なぜ、今そんなことを考えているかというと、実際に引っ越しを検討しているからだ。実際昨年は東京都が史上初めて転出超過となったと言う記事も日経に出ていた。実際に都心から人が郊外、または近県に移動しているのだと思う。理由はニュースでも報道されている通り、コロナ禍によってリモートワークが当たり前になり、今までの住居では仕事と生活を両立させていくのが難しくなったからだろう。我が家でも同じ問題が勃発しており、私には全くその気配はわからないのだが、妻曰く、色々な意味で隣人とはロシアとウクライナ並みの緊張関係にある。どちらがロシアでどちらがウクライナなのかもわからないが一触即発の状態だと言うのだ。
パンデミックが起きる前のように、住居がカラスのねぐらのように、日が暮れてから日が登るまでしか滞在しない場所だった時は、狭くてもなんとかなった。しかし、今はどのウチも部屋の中で会社と繋がっており、四六時中テレビ会議などをしているため、どこでもオフィスの有様だ。
私の方はコロナ禍以降一時はリモートワークになった時期もあった。しかし、ワクチン2回接種した後は基本的にというか完全に毎日通勤している。しかし、一度リモートワークを経験し、通勤というものをしない働き方をして、その快適さを知ってしまうった。コロナと同じでパンデミック前の世界には戻れないように、そう言う働き方ができたらその方が良いと考えるようになってしまった。

 

理想の暮らし

全くの空想で、現実の制限を度外視して理想の勤務、理想の暮らしを想像してみる。あやまる岬のような景色の見えるオフィスに通勤時間0で通えて、住んでる街には秋葉原のような電気街があって、家の周りは緑や自然が豊富にあると同時に、洒落たレストランやバーがあるような場所……電気街はまあ、秋葉原にしかないので、それ以外の条件に相当する場所、それってつまりリゾート地ということだ。おそらくそんな場所は日本にはない。逆に言えば秋葉原にリゾート(海も近い事だしビーチを作ることは可能かも知れない)を開発してしまえばいいが、そんなことはイーロン・マスクぐらいにしかできそうも無い。
ということ海外(のリゾート地)に行かなければ無理だろう。海外ということは現地の言葉、少なくとも英語を喋れないと生活に不自由しそうだ。
途中からネガティブな方向に話が流れてしまい、うまくイメージできない。イメージできないということは、実現することも難しいということだ。もう少しこの問題はじっくり取り組んで、どういうイメージを持てば、それが実現可能かを考えないといけないようだ。