常盤平蔵のつぶやき

五つのWと一つのH、Web logの原点を探る。

理想の暮らし3

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まだまだ妄想する

ダイブ・イントゥー・ボトム。源に触れろ。理想の暮らしへの欲望を、もう少しだけ自分のコアの方へ潜ってみたい。あんまり自分の個人的な思い入れの部分ばかりを記述すると、他人には何のことかさっぱり解らない話を書き連ねそうなので、今回でひとまず最後にしたいと思う。エヴァみたいにコアとのシンクロ率が上がりすぎても戻ってこれなくなるし。

 

壮年は荒野をめざす?

欲望を育てるためには、それにふさわしい厩舎が必要と前回書いた。しかし欲望が野獣(或いは黄金の毛並みを持つ駿馬)であるならば、そもそも屋根の下で育つものだろうか? 囲いや屋根の下で育てられるものといえば家畜と決まっている。家畜人ヤプーである。それでは真の欲望、野望は育たない。では、野獣はどこで育つのか? 荒野である。青年は荒野をめざすものなので、それはすなわち己の欲望を育てるために向かったのであろう。青年ではなくなり、中年を過ぎ、壮年と呼ばれるような、初老の人間が向かう荒野というのはどこにあるのか? それはどういったものであるのか?
……なんか、三途の川の河原の様な場所しか思い浮かばない時点でもはや死亡フラグが半分立っている。もともと荒野とは使える資源に乏しく、生き抜くのにテクニックを要する最近流行りのフロムソフトウエアのゲームフィールドみたいな場所であろう。死んでから攻略方法を覚えて先に進むことは現実では無理なので、青年はその様な場所でさまざまな経験を積み重ね、主に精神的なトラブルや事件に対する対処の仕方を学ぶものだと思う。その様なものを既に身につけた壮年期の人間が荒野に放り出されたらどうなるのだろう。

 

荒野で童心に帰れるか?

既に経験した事ではあるが、新鮮にその出来事に対応するだろうか?それとも既にその先を見た人間として、覚めた目で傍観してしまうのか? Netflixのドラマ「イカゲーム」は正にそんな状況だった。大人が子供時代にやった遊びで真剣勝負する。ドラマでは命懸けだったので、傍観者の立場でいる事は叶わないが、一方で主人公は童心を失わずにあの場にいたことが、より結末の辛さを増幅していた様な気がする。しかし彼はその事で欲望の果てを見ることになって結果として生きることの目的を取り戻す。そういう荒野であるべきだろう。

 

通勤電車の中で

目が死んでる。魚の目、羊の目。まつ毛がきれい。たったまま何かを見つめてる。横顔に光が当たる。その色の美しさにハッとする。
そんな事を考えながら車内の乗客たちを眺めつつこの文章を書いている。そしてはたと気がつく。ここが荒野なのだ。人生いたる所青山あり。ここがロドスだ、ここで跳べ。欲望という名の電車に乗っているではないか。いや、そうなのだろう。自問自答の環状線に乗ってしまったようだ。
もう一度車内を見渡してみる。老いも若きも、男も女も何かに取り憑かれた様にスマホを見ている。この荒野からの出口を探しているのだろう。荒野を生き延びるための何かはスマホの中からは出てこない。

 

荒野へ

原作本も読んだ「荒野へ」という映画では、主人公のクリス・マッカンドレスがアラスカの荒野に一人で入っていく。そこで彼は他人とのつながりを絶って生きて行こうとする。しかし、ちょっとした間違いから彼は周りに誰も助けてくれる人のいない荒野の真ん中で死ぬ。しかしこの人の溢れた都会でも、バス停で一人で死んでいた老女や、地下鉄の中で強盗にあっても、周りの人間はスマホに夢中で全然気がつかないというようなことが起きる。
まず大切なのは、ここが荒野だと気がつく事なのではないか。そして、その場所でのみ己の欲望を鍛えることが出来る事を常に忘れない事だろう。それしか無いのでは無いか。己の欲望のみが導いてくれる己の夢のありかへと続く道への手がかりは。
その為にしなければならない事は、正確に世界を見て、その世界を自分の言葉で語り、それを自分が読んで、そこから己の欲望の姿を知る。その欲望の赴くままに荒野へ、その深奥へと進むことしかないと思う。