常盤平蔵のつぶやき

五つのWと一つのH、Web logの原点を探る。

夜明けまで考える日~ 「坑夫」を読んだ  「海辺のカフカ」再読(2)

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「坑夫」の概略

日本で最も長い在任期間を持つ元首相が暗殺された日に「坑夫」を読み終えた。別にその事自体になにか意味があるわけではない。小説としての「坑夫」は私にとって大変面白かった。話の筋は単純である。ある青年が銅の鉱山で五ヶ月間働いた。ただそれだけの経験を語るお話である。今で言えば『お仕事小説』というジャンルに入れてもいいのではないかと思う。

ただし、この話は漱石が全く一から創作したわけではなく、ある青年が自分の経験を買ってほしいといって持ち込んだ「企画」なのだそうだ。Wikipediaによると、漱石は最初「あなた自身が書けばいい」といって断ろうとしたが、本来島崎藤村が書くはずだった新聞小説が書けないということになり、急遽漱石にお鉢が回ってきたため、手っ取り早くこの「企画」を採用することで「坑夫」という作品が始まったようである。

ということはおそらくだが、この青年の経験の顛末は、いわば「往きて帰りし物語」という最低限の物語の構造は持っていたと思われる。従って漱石としてはそこにディティールを載せて、毎日新聞に一定の字数が載ることに対してそれなりの物語的緩急をつけつつ全九十六回の連載を引っ張ったのだと思われる。

 

 

 

 

 

 

カフカくんと大島さんの意見

私が買った岩波文庫版の解説を書いている紅野謙介さんも引用しているが、「海辺のカフカ」の中でカフカ少年が「坑夫」読んだ感想を大島さんに聞かれて、それを言う場面がある。大島さんに感想を聞かれたカフカ少年は

「なにか教訓を得たとか、そこで生き方が変わったとか、人生について深く考えたとか、社会のあり方について疑問を持ったとか、そういうことは特に書かれていない」

と答え、それに対して大島さんが

「(「坑夫」は不完全であるものの)不完全であるがゆえに人間の心を強く引き付ける- 少なくともある種の人間の心を強く引き付ける」

と答えるのである。

この「坑夫」は不完全ということに関しては、この小説の最後に漱石自身が「小説になっていないんでも分かる」と締めくくっているように、作者自身も不完全だと考えていると読める。読めるのだが、それこそ前回の平野啓一郎「小説の読み方」に出てくる四つの視点から、この最後の一文にこめられた意味を解釈をする必要があると思う。四つの視点をおさらいしておくと、

①    カニズム(それはどのようなメカニズムで成り立っているのか?)

②    発達(それはどのような個体の発達過程を経て獲得されるのか?)

③    機能(それはどのような機能を持つのか?)

④    進化(それはどのような進化の過程をへたのか?)

であるが、①と②に関しては、最初の段に書いた通り、漱石は青年の経験談というネタ元を脚色する形でこの物語を構築したというところまでは分かるが、どの部分が元ネタどおりでどの部分が漱石の創作なのか?はそのネタ元にあたってみないと正確なところはわからない。ただし、解説の紅野さんも書いているが、書き出しはリアルタイムのように松原を歩いても歩いてもなお松原が続く、というような今現在歩いているという描写で始まるのに対して、話の途中でこれは鉱山に五ヶ月間いて、その後に回想しているという話になっており、今だったら編集者に猛烈に直されるようなミス(?)があるが、本になった段階でもそこは直していない(その辺の事情も謎ではある。直したかったが死んでしまったのかもしれないし、そもそも直す気がなかったのかもしれない)ことから、これで良いとも受け取れるし、まさにその様に時制を間違えたことが「小説になっていない」と書いた理由かもしれない。

③に関しては、冒頭にも書いたが今では「お仕事小説」と呼ぶべきものであり、もっとリアル寄りに書かれたものなら「ノンフィクション」、「ルポルタージュ」ものと言うことになると思う。こちらを重視して書いたから「小説になってない」と書いているのかもしれない。文中にも出てくるが澄江さんという女性を描写する際に「新聞小説には出て来ない」と書いている。当時の新聞小説は巻末の解説によると、新聞はお茶の間に置かれるものであり、家庭の誰でもが読める内容、すなわち家族や恋愛に社会問題などを程よく混ぜたものが書かれたとある。ちょっと前に読んだ林真理子の「癒楽にて」とか最近連載されているものは、そういう制限はなくかなりキワドイ内容で、逆に新聞が子供には読まれていないことを痛切に感じるが、この当時は誰にでも馴染みのある家庭や都会の職場を舞台にするのが普通なところをあえてそういう舞台を全て外してアウトローな世界を舞台にしていることが「小説になってない」と書いた理由だろうか。

④に関しては、明治時代(!)に書かれた作品であり、日本文学盛衰史で学んだ文学の

進化過程に寄ると、口語文で書かれた今の小説の始祖に当たる作品群の一つといえるだろう。

 

小説になってない?

海辺のカフカの中で大島さんがいう「坑夫は不完全である」ということについては前段で見たようにそれぞれの面で不完全な部分があるため現代における小説という「フォーマット」には未達なところがあるという意味かもしれない。それとは別に私が今回この「坑夫」という作品を読んで面白いと思った部分を書いてみる。

まず、この話を通して主人公の「十九歳の青年」の考えていることは、これだけ時代を経ていながら大変リアルに感じられた。私の個人的な経験に照らしてみても奇しくも十九歳で実家を出るため夜行列車に乗って名古屋から博多まで向かった。事実その後は一度も実家には戻っていない。この小説の主人公は十九歳で二人の女性との関係に懊悩し、死にたくなって家を出たわけだが、その辺の事情は私とはずいぶん違うとしても、そうやって生まれてからずっといた馴染みのある世界から外に飛び出したときの感情というのはずいぶん似たものがあるなと感じた。「海辺のカフカ」のカフカ少年も十五歳で止むに止まれぬ事情で家を出ているので、この小説が引き合いに出されているのは合点がいく。

実際この小説内で流れる時間はせいぜい数日間である。その後鉱山で五ヶ月働いた後そこを去るが、その部分の描写は皆無である。したがって小説内を流れる時間の密度が濃い。ポン引きと出会って鉱山まで連れられていく間も時間は流れるし、汽車に乗って東京から足尾銅山まで行くのも結構な長旅だが、その間にどの様に景色を見て感じたかが書かれている。それらの描写が心細いながらも自暴自棄になっている青年が見る景色として大変真に迫って感じられる。何しろ知らない土地へ引っ張られていくので、会う人会う人が新しくそれを十九歳なりの感性で見定めていく描写が本当に面白い。ここらへんは絶対に漱石が小説として面白くしようとしていると感じられるため、最後の一文はなんとなく照れ隠しと言うか被虐的に言っているように感じる。

鉱山についてからの描写も凄い。南京米を食べ、南京虫に刺されたり鉱山での葬式を見たりする。そして翌日ついに鉱山の中へ入る際の文章は、読んでいるこっちが息苦しくなるような身体感覚に訴えかけてくる。そしてその穴の底で案内人に置き去りにされたときにもう本当にここで終わるのだと考えたときに「嬉しくなった」と感じる。そこからのこの主人公の怒涛の心理の変化が本当に面白い。

 

歴史は夜作られる

この世の仕事の中で坑夫は最下層の人間の仕事であるのは、何も過酷な環境であるだけでなく、この主人公が「獰猛」と表現する教養もモラルもない鉱山労働者たちがその職場を構成しているからだ。しかし、そこで主人公は「安さん」という自分と同じように元は東京で普通の知識階級で生きていた人が働いているのに出会う。地獄で仏に遭うような状況だが、その安さんにここにいちゃだめだ、東京へ帰れと言われてむしろそこで働こうと決心する。ところが健康診断を受けて「気管支炎」と診断され坑夫としては働けないということが判明する。そこで主人公はゲシュタルト崩壊をおこして、返って十九歳までの自分の一本道のストーリーが分解する。火の消えた囲炉裏端で朝まで考え続けるが、そこに浮かんでくる想念はすべて「干枯らびている」。

この小説のアポリアはじつは表紙のカバーに見返しにはっきり書いてある「本当の人間は妙に纏めにくいものだ」という一文だろう。その纏めにくさが「嬉しくなった」当たりから「干枯らびている」と感じるところまでの主人公の思考の変遷に表されている。

 

そろそろ海辺のカフカに戻る

この、穴の中に降りていくというエピソードは、村上春樹の作品にもよく出てくる。そのメタファーがどの様に創作の技法と結びついているかは「職業としての小説家」に詳しく書かれているのでそちらをお読みいただきたいが、巻末の解説によると夏目漱石自身が、この鉱山の坑道に潜っていくことを描写することが、創作のメタファーとして意識していたというようなことが書いてあるのは意外だった。

流刑地にて」と「坑夫」でがっつり寄り道をしたのでそろそろ本編「海辺のカフカ」に戻ろうと思う。と言ってもまたすぐ寄り道するネタが出てきそうな気はするが。