常盤平蔵のつぶやき

五つのWと一つのH、Web logの原点を探る。

私情は詩情にのせて

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コラテラル・ダメージ

ダメージがつかない方の映画「コラテラル」で、トム・クルーズ扮する殺し屋が、タクシー運転手に説教するシーンがある。ジェイミー・フォックス扮するタクシーの運転手はリムジンタクシーの会社を作って成功したいという夢があるのだが、その事は年老いた病気の母を見舞いに行くときに話すホラ話でしか無い。いや、自分ではそれを目標として生きているのだ。ただ、まだ実現できていないだけ、本気出していないだけだと思っている。それを聞いたトムは彼にこう語る。そうやって自分に言い訳して、実際はただ惰性で生きているだけじゃないのか、と。そしてトムは彼におそろしいイメージを語るのだ。年老いたある日、自宅のリビングにあるカウチに深々と腰掛けて、缶ビールを飲みながら大リーグの試合中継なんかを見ている。そしてふと、俺にもそういえば夢があったな。結局叶わなかったが……と思い出すのが関の山だと。
つい先日その内容を告げに私のところにもトムが現れた。そしてあの人懐こい笑顔で私に「すでに君はカウチに座っている」とおそらく英語で語った。(私は下に出た字幕を読んだ)もちろんそれは私の妄想だが、なぜそう思ったのか。先月から復活した家探しのせいもあると思う。家探しをしている最中に、自分の今の年齢をよくよく考えてみたら、もう定年までも数年しかないということに気がついた。若い不動産屋の営業マンはこともなげに「ローン組めるのも働いているうちですからね」といった。まさに映画の中で「リムジンの頭金だけでも払ったのか?」と聞かれていたが、ローンどころか家の頭金すら払っていない状態である。(買っていないんだから当たり前だが)

 

ジャケット写真だとトムが主役扱いに見えるな。

 

ダメージがつく方。

 

そこに詩はあるか?

プレバト!!」という番組で俳句の添削をやっている夏井いつき先生が、NHKのプロフェッショナルに出ていた回で聞いたのだが、先生は俳句を評価するときに「その俳句に詩があるかどうか?」が判断の基準になるととおっしゃっていた。それを聞いたときは漠然とそうなのかと思った程度だったが、言葉に詩があるかどうか?というのは、文章を書く上でも非常に大事な視点じゃないかと思っている。先日取り上げた金子光晴の「どくろ杯」の文章の魅力というのも、まさに選ぶ言葉に「詩(情)」があるからなんじゃないかと考えて腑に落ちた。

 

tokiwa-heizo.hatenablog.com

 


高校の国語でこれからは文学ではなく論理的文章(科学論文や法律)を教えなければならないという、文部科学省の行き当たりばったりの方針のせいで現場は大変に混乱しているとどこかに書いてあったが、そもそも文学的な文章と論理的な文章に厳密に分けることができないからだとも書かれていた。当たり前だが文章というのはロジックだ。伝えたいこと、表現したいことがあって、それをひとかたまりの文章で伝えるためには、最初の一文字から最後の丸まで一方向に読むことで、何某かが読んだ人間に伝わらないといけない。そのロジックは例えば俳句のような17文字にその伝えたいことを込めようとした場合に夏井先生が添削するときの解説を聞けばわかるが、大変ロジカルに説明されている。ロジカルに説明できるということは、俳句もまた詩情を込めるためのロジックなのだ。科学論文や法律文だけがロジックで構成されているわけではないのである。

 

私(わたくし)の感情

「すでにカウチに座っている」と告げられた私の中に生まれた感情について書くためにも、ここまで二節に渡って書いてきた論理的な積み上げが必要なのである。
夢、やりたかったことなどを考えると、まるででたらめな色で塗りつぶしたキャンバスのような、一つ一つの色、筆の跡、その強弱や長短を読み取ることができないけれどもそこにあるのが唯一「混沌」であることだけはわかるような景色が見える。おそらくその何処かをつまみ上げようとすると、絡まった部分が一緒に付いてきてとても筋などは読み取れないだろう。しかし、その塊こそが、叶わなかった夢ややりたくてもできなかったことの形と言える。そして私が座っているカウチの深々としたクッションに詰まっているものの正体もこのひどく絡まった糸のような塊が、私の尻の形に凹んでいて、そこにすっぽりとハマったカウチと一体化した自分自身がある。右手に缶ビール、目の前には観る気もなく映し出されている野球中継。
そのままそこに座り続けていれば、やがてまた人懐こい笑顔のトムが玄関から挨拶抜きで入ってきて「お迎えがきましたよ」と告げてくれるはずだ。さあ、そこで、である。

 

プライドは砕けてからが勝負

鍵をかけようが防犯装置を取り付けようが、勝手に入ってくる「トム」を待つのが嫌なら、やることは一つしかない。カウチから再び立ち上がるのだ。自分の形にへこんだ、ある意味今の自分を作っているその凹みから離れて、新しい自分の形を見出すしかない。気づいてしまった以上いつの間にか自分の外側に生えてしまったカウチの形をしたかさぶたなのか垢なのかわからない気持ちの悪い物を自分から切り離さなければならない。そしてまた、採用面接で新卒の候補者が座らされるような、パイプ椅子に座り、新人ダンサーの採用面接のように冷徹な目玉が並ぶ前で会議室に作られた小さなスペースのような場所で自分ができる本当に精一杯を踊るしかない。もちろんその冷徹な目玉は自分自身のものである。

 

日経の書評でそう書いてました。