常盤平蔵のつぶやき

五つのWと一つのH、Web logの原点を探る。

杖道がうまくなるために何冊か本を読んだ

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今年も残すところあと1週間

師走である。と思っていたらもう既に月の半ばを過ぎていた。今年一年をほぼ終わってみて、結局のところ「ブログを月三本書く」という目標は果たすことが出来なかった。十二月もこれを書ききれなければ0になる所であった。別に誰に頼まれているわけでもなく、好き勝手なことを書いているのだから別に月に三本書けなくてももちろん誰も困らないのだが、なかなかその壁が高くて超えられない。もう数年同じ目標を立てて挑んでいるのだが、文章を書くというのは精神の状態に大きく左右されるので、その波をうまく捕まえて書くだけで精一杯……いや、やっぱりそれはなんか言い訳じみているので、懲りずに来年も『月三本』を目標にして書いていきたいと思う。

前回杖道について書いたが、都大会で入賞して、昇段審査で落ちたという事件の少ない杖道修行に突然現れた山谷のお陰で、再び杖道(その先の武術としての神道夢想流杖術を見据えて)上達のために色々と本を読んだのでそれらについての感想をまとめて書いてみたいと思う。

 

一冊目「怪物に出会った日」を読んだ

ボクシングというのは階級社会の中で生み出された人間がやる闘牛のような娯楽だ、という認識があるのであまりスポーツとしてのボクシングには興味がない。しかし、怪物と呼ばれる選手がいて、その強さというものを多少なりとも明らかにしようという試みの本なので、これは読まねばと思い手に取った。

井上尚弥の強さを、井上と戦って負けた人にインタビューして明らかにしようという試みは半ば成功しているが、私のように純粋にこの本で井上尚弥を知った人(そんな人はごく少数かも知れない)には、少々物足りない部分もあった。当の井上本人のインタビューは皆無(たまにコメントした内容が拾われているが)であるからだ。

この本に収録されている選手たちは井上と対戦して負けたことで、選手人生を大きく変えられている人がほとんどだ。中には井上と自分の子供が対戦してリベンジ(?)する日が来るのではと考えている人もいる。その様なスケールで対戦相手に思われる選手というだけでもすごい事だろう。

今回私も昇段審査で初めて落ちた事で、杖道との向き合い方を考えることになり、この本も手に取ったわけで、ある意味負けたことから豊かさを引き出す事も出来るということを実感している。競技としての杖道は、空手の型を競う競技の様に、実際に戦うわけではないが、杖道は組み型であり、杖に対して太刀が、太刀に対して杖がお互いの技を成り立つ様に打ち合う。その技に説得力があることが必要だ。

 

 

二冊目「熟達論」も読んだ

何といっても、為末さん自身が「現代の五輪書」を書きたいというところからこの本の企画が始まっているらしい。それは読まないわけにはいかないだろう。「五輪書」と言えば我々の宿敵(?)宮本武蔵がその武術論を余すところ無く書き記した書物である。宿敵が手の内を明かした本を出したなら、当然流祖である夢想権之助も読んでいたに違いない。それが現代に蘇ったわけではないが、我々流派の末端に列なる者にも必読の書であるだろうということで読んでみた。

内容も本家と同じく5段階(遊、型、観、心、空)に分かれている。それぞれの段階で到達する技術や精神のあり方について書かれている。

一つ目の段階「遊」つまり遊ぶことというのは、目的の動作を行う上で自分の体を使って出来ること、やりたい事をやってみるということの様だ。これに関しては、私の杖道の師範が私が杖道を始めた時にいみじくもおっしゃっておられた言葉を思い出した。入門してまだ右も左も分からない頃に、私は師範に家でどの様な練習をしたら良いでしょうか?とお尋ねしたところ「杖を使って遊びなさい」とお答えになったのである。為末さんも最初に「遊」を挙げており、その理由は自分が楽しんで体を動かすこと=自分にもともと備わっている身体能力の追求にあるからだと書かれていたので、おそらく師範の「遊びなさい」ということの真意も同じだったのではないかと考えた。

二つ目の段階「型」の中で、走ることの基礎となる型は「片足で立つこと」のみであると書かれていた。為末大さんの本職は走る人であるので、ただ走るだけにそんなに沢山の技術が必要なのかと最初は思った。もちろんそれは私がやっている杖道と比較しての話なのだが、杖道は型武道として全日本剣道連盟の制定型は十二本ある。しかし、何か別の本で剣術というのは究極的には「刀を振り上げて振り下ろす」事であると結論づけていた本もあった。

その後の「観」「心」「空」に関しては、まだまだ辿り着けぬ境地だと思うので、これからも折に触れて読み返していきたいと思う。

 

 

 三冊目「ロバのスーコと旅をする」も読んだ

ロバと旅する男の話がどこら辺で武術とどの様にして繋がるのかは私にもわからない。しかしこの著者も別に大それた野望があってロバと旅している訳では無いと書いている。ただ、徒歩でロバを連れて(連れられてか)旅をしたいと思い、再び外国に飛んだのである。何か繋がりがあるとすれば、私が杖道を続けているのも、別に命を狙われているから自衛のための技術を学ばなければならないというような差し迫った理由はない。そう言ってしまえば、ただ白樫の丸棒を振り回していたいからだとも言える。(いや、それではまだ「遊」の段階ということになってしまうが……)

この本を読んでいただくとわかるが、ただロバと歩いて旅をしたいというだけにしては、結構この人は危険な目にも遭っているし、そのために行なっている努力も普通じゃないと思う。その、何のためにそれをやっているのかはよくわからないが、そのためには人から見ると驚くような労力をかけている、というのは何かに熱中してやり続けていることには共通のことの様な気がする。世間では推し活などと言われている、自分の推しのために尋常じゃない努力(ほとんどはお金をかけることだが)は、本来はそういう自分のために使う力なんじゃないかと思う。

ちょっと脱線したが、ロバと旅をするという目的のために様々な手段を駆使する姿は読んでいて共感できるし、大変勇気をもらえたと思う。杖道を続けていく上でも大変参考になる本だった。

 

 

四冊目「腰痛は怒りである」も読んだ

中国からの長い出張から戻って、杖道を再開した際に何度か腰痛に見舞われた。そんな時に杖道の先輩から、こんな本があるよと勧められたのがこれである。杖道が上手くなるためにはとにかく稽古を続けるしかない。杖道を続けるために身体のメンテナンスは欠かせない。すでにアラカン(阿羅漢ではない)なので、若い頃のように力任せで動くと、身体の方が先に悲鳴をあげる。また、武道で大切なことは「一眼二足三丹四力」といって力は4番目だ。二番目の足捌きが重要ということはわかるが、その足腰が上半身を乗せて動くため、一番負担がかかるのはその連結部である腰なのだろう。

で、この本だが、何と腰痛というのはそういったフィジカルなダメージよりも感情「怒り」がその原因であるという驚くべき説なのである。いわゆる認知行動療法と言われるものだと思うのだが、それにしても「怒り」である。映画「インターステラー」の劇中に『Do not go gentle into that good night』というディラン・トマスの詩を朗読する場面があったが、あの詩にあるように「死にゆく光に向かって怒れ」というような強い怒りが体に湧き上がったら、腰痛どころかいろんなところが痛くなるかもしれないが、日常的に持っている不満や怒りが腰痛を引き起こすというのはちょっと考え難い。しかし、この本によると、何よりそのメカニズムを信じなければならず、自分の中にある怒りをきちんと認識した上でそれを受け入れるしかないし、それができたら腰痛も消えるということなので、自分の中にある「怒り」についてもう少し慎重になってみようと思う。審査に落ちたことに対する怒り(誰に対して?)で腰痛になったのであれば、次回こそ合格出来るよう最善を尽くしていきたい。

 

 

杖道上達のための読書

杖道の上達のために以上四冊を読んでみて全体の感想としては、改めて本のタイトルを見てみると全然杖道や武術に関係ないように見える。しかしながら必ずしも術技そのものに関係なくても自分が何かを探究していれば、そこからヒントを読み取ることはできる。大事なのは探究を続ける事なのだと思った。読み取ったヒントを実際の稽古に生かしていかなければ意味がないので、できる限りお稽古を続けるしかない。そしてあわよくば三月の次回昇段審査で合格して怒らずに済むようにしたいものである。今年も当ブログ読んでいただきありがとうございました。皆様良いお年をお迎えください。