常盤平蔵のつぶやき

五つのWと一つのH、Web logの原点を探る。

読書と執筆は形稽古である〜 「本を書く」を読んだ

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◯本を書くという本

アニー・ディラードの「本を書く」という本を読んだ。とてもスタイリッシュというか、香り高い文章というか、翻訳なので原文がどうなのかは全然わからないが、翻訳者の方がこのような文章に訳したということは、元の文章もそうであると信じるしかない。
そんな中で「コーヒーの入った(おそらく魔法瓶の名前)ターモス」という文章が出てくる。現在我々はThermosを「サーモス」と読んでいると思う。なぜこの翻訳をされた方が「ターモス」にしたのか?この本が発行されたのは奥付によると1996年だった。確かにそのころ魔法瓶のThermosが日本でそこまで有名だったかどうかは明確にはわからない。だが、英語の読み方を習った人間は「th」は「さ行」(Thank You!の「サ」)と発音する方が自然に感じる。
試しにWikipediaでこの会社のことを調べてみると、元々のこのメーカーの商標になっている「Thermos」はギリシャ語の熱を表すTherme(テルメ)から来てきているらしい。むむ? そしてその会社は1904年にドイツで創業されたと書いてある。むむむ。そしてこの本を翻訳された方はスェーデンで勉強された方のようだ。
以上のことから想像するに、日本人的には「サーモス」と読まれる事が自然であることは承知した上で、あえて原音に近い表記を選んで翻訳されていると思われる。
このことから考えると、やはり冒頭で立てた仮説は信じるに値するものだと思われる。

 

 

◯この本に出会ったきっかけ
この本に出会ったきっかけは先日も紹介した「あらすじだけで人生の意味がわかる世界の古典13」の中に出てくるプーシキンの「大尉の娘」(この本も読んだのでいずれブログでとりあげます)の紹介の章に引用されていたのである。ただ、この引用されている部分(例え話)を近藤氏は別のことの例えとして利用するという変則技を繰り出していたので、元々の例え(文章論)についてはなんと書いているのかを読むのがそもそもこの本を読む目的だった。
その例え話というのはこうである。
あるレスラーがワニと勝負した。観客を集め、木戸銭を取り沼地でワニと文字通り腹と腹を突き合わせてくんずほぐれつの戦いをした。やがて二人が激しい水飛沫をあげて水中に没する。1分たち、2分たち、水面は静かなままだ。やがて水面に血が浮かんでくる。観ている観客たちに気まずい空気が流れ出す。10分たち、20分経つ。水面は相変わらず動かない。観客は一人、二人とその場を立ち去り、やがてその沼の周りから人がいなくなった。
というような話である。(あえて原文そのままでなく記憶で書いてみました)
先述の「あらすじで・・・」の中で近藤氏は、この後で著者のアニー・ディラードは素晴らしい文章論を展開すると書いてあった。
実際にその部分を探し出して読んでみた。正直読んだときは、なぜこれが素晴らしい文章論なのかわからなかった。しかし、今自分でワニとレスラーの話を記憶で書いてみてわかった気がする。
自分が何とか捻り出して書いている文章というのは、やっている当の本人にはワニと素手で格闘しているような大変さを伴っていても、それを読んだ人間がどう思うかとは全く関係ない(むしろ、ダメな文章を読まされたら気まずい空気が読後に残る)のだという意味ではないだろうか。

 

 

◯執筆・読書と型稽古の共通点
この本にはワニとレスラーの例え話による文章論の部分だけでなく、他にも含蓄のある話がたくさん出てくるのだが、それら全体を読んで漠然と思った事がある。それは「読み書きと形稽古の仕太刀(しだち)、打太刀(うちだち)は同じ構造を持っている」というものだ。
形稽古というのは、私が嗜んでいる杖道の稽古のやり方もそうであるが、居合や古武道では一般的で、そもそも剣術の稽古というのは形稽古のほうが普通だったのである。竹刀による打ち合いの稽古を始めたのは有名な北辰一刀流の千葉道場ぐらいからというのが定説である。その形稽古では、仕太刀と打太刀は決まった手順で打ち込む側とそれを捌く側に分かれる。一方は技を仕掛けていき、もう一方は技を受けてそれを捌く。そして稽古としてはその両方を同じようにできるようにするのが目的である。この場合技を仕掛けていくのが書くことで、技を捌いていくのが読むことに当たると考えたのである。
杖道にも試合があり、仕杖と打太刀をそれぞれ同じ数だけ何百回、何千回いや、何万回も稽古してから試合に臨む。それでいて、その形の実行が決め事に見えない、実際に戦っているように行うことが求められる。それをみている人々に気まずい空気が流れるようではダメなのである。
この本のタイトルにあるように「本を書く」ということは、(私がこのブログでやっているように)ただ文章を書くということではなく、書いて、読んでのそれぞれの立場から見たそれが高い完成度を持っていなければならないことだと教えられた。