常盤平蔵のつぶやき

五つのWと一つのH、Web logの原点を探る。

「ことばの教育を問い直す」を読んだ

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〇英語と国語
もう30年前の話になるが、中学に入り学校で英語を習うようになった。当時は自分も13歳の子供だったため、学校の授業内容がことさら不思議だとか、おかしいと思うような感覚は無かった。英語の授業には週に一度の「LL教室」というものがあり、ヘッドホンとマイクがついた机にそれぞれの生徒が座って、なぜか教材をヘッドホンで聴いたり、先生の質問にマイクで答えたりしていた。休み時間にはマイクのついたヘッドホンをかぶって「ザボーガー!チェーンパンチ!」などと叫ぶ遊びをしたことを思い出す。しかし、この本「ことばの教育を問いなおす—国語・英語の現在と未来」の中にLL教室も一過性のブームで「条件反射のように言語を習得するという根拠が論理的に破綻し」衰退したそうである。
一方国語も、中学に入って小学校の時の国語の授業で行われていた文字(ひらがなや漢字)を覚える事を中心としたものから、文章を読んで、その内容を読み取るというものへ変わった。私は最初の教材のお話で、先生の質問から、その文章が字面だけを追ったのでは読み取れない内容があるという事を知った。その時の衝撃というか驚きは未だに忘れがたい。自分の脳の中での変化なので、周りにいる人間には全くわからなかったと思う。それ以前とそれ以後では、文章を読むときの脳内の処理が変わったのがはっきりとわかった。

 

 

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〇「大村はま」とは誰か?
残念ながら私は、この本を読み始めてすぐに気がついたが、著者である3人の共通理解となっている「大村はま」の国語教育法を知らない。そのためか、本の最初の方では、読んでいて今ひとつピンとこない事が沢山あり、読むのをやめようかと思ったぐらいだ。しかし、それでも読み進めていくうちに、その事にも意味があると言うことがわかってきた。
大村はまの国語教育は実践をもって旨とすると言うことで、きちんとした定義や理論化をされていない。したがって、各の著者がそれぞれ大村の教育方法について記述するとき、断片的な実践の記録を語ることになる。そこが何とももどかしく、一体どういう指導をしていたんだ?!と思いながら読んでしまう。
最初の方こそそんな感じだったのだが、各著者が語るそれぞれの実例エピソードを何例か読んでいくうちに大村の教育方法がおぼろげながら見えてくる。実例から演繹的にその方法論が浮かび上がってくる構図だ。正にこの理解の仕方こそが、ことばの定義と、実際の用例を、帰納法演繹法を用いて往還し、それぞれのことばの正体に迫っていくやり方と相似形をなしているということなのだ。

 

 

 

 

〇ことばは世につれ、世はことばにつれ
ことばというのは一義的に定義されているものではない。辞書の定義も、実際の用例(それが元々の定義にないものであっても)からのフィードバックを常に受けて更新されていく。人によって世代を超えて使われ続けていくうちに、その用法が変容し、変容した部分をまた定義が吸収して定義も変化(進化)する。しかし一定の理論や方法であるためには、本来その要素は一義的に定義されていなければならない。この矛盾する構造を内包しているのがことばを巡る「現状」なのである。
このことは英語から日本語への翻訳、日本語から英語への翻訳と言う場合でも、やはり帰納法演繹法によってそれぞれの翻訳のアウトプットを検証してフィードバックしてより精度の高い翻訳語へと創り上げていく必要がある。最近昔の本を新訳して再版されることがあるが、村上春樹曰く、翻訳の賞味期限はせいぜい数十年であるとのことだった。世代を超えて読み継がれていく文学の翻訳もまた進化するのである。
この、ことばを巡る「現状」を見たとき私は別のことを思い出した。それは私が飽くなき探求を続けている武道についての「現状」である。

 

 

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〇普及と伝承
私が習っている武道「杖道」は普及型として、もともとは「神道夢想流杖術」を基礎としながらも、その他の様々な棒術の技法を取り込んだ上で一般化して制定された形であり、それは「杖道」に関わる人間の集団の合意によってその定義を変化させる(または時代に合ったものに変化する)ことが出来ることになっている。(現実には合意なんて関係ない政治的な思惑や一部の独断で方向性が決められてしまうとしても)その理由は杖道は万人に開かれた「公的」なものだからだ。しかし、元々の「神道夢想流杖術」は400年前に術を編み出した流祖夢想権之助の技を一部たりとも変えることなく伝承するものであった。その理由は先ほどとは反対に杖術の技は流祖から認められた伝承者だけの「私的」なものだからである。
しかし、伝承者もその免許皆伝して継承した時点で、いわば流祖から受け継いだ内容を改変していることが、伝書などからも明らかになっている。400年間伝言ゲーム(もっと濃密な時間をかけた受け渡しを行っているが)を続けてきて、最初の状態から現在の状態が全く変化しないと言うことはあり得ない。武術の技であれことばであれ、人間という器を通して伝承されるものは、そのままの形(デジタルコピーのような厳密に全く同一のもの)で次の人に渡す事は不可能だ。それは言葉が世代を超えて受け継がれて行く中で変容していく事と全く同じだと思う。伝承に変化を伴わないと言うことはあり得ない。

 

 

 

 

〇人から人へと伝えられるもの
こうして考えると、人から人へ伝えられるものはどんなものであれ、それぞれが器を持っていて、その中に入っている液体を次の人が持っている器へ注いで渡していくようなものなのかも知れない。中には凄く沢山中身の入った大きな器を持って、次の人に渡そうとしたのに、次の人が杯のような容器しか持っていなかったと言うこともあるだろう。その反対ももちろんある。先代から引き継いだお猪口の中身のようなものを樽一杯に増やした人もいたかも知れない。そうやって伝承されたものは豊かになって行くのだろう。漫画「アキラ」の中でミヤコ様が「人は生まれ持っている器というものがある」と根津に言うシーンを思い出す。その器は外からは見えないものだ。

 

 

 

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