今回も新宿ピカデリー
ゴールデンウイークに東京にいるメリットというのがあって、それは普段の休みなら都心には人が常に過剰にいるのに、長期の休みであるゴールデンウイークや年末年始、お盆休みなどでは逆に都心から人がいなくなるという現象が起こる。その現象がメリットなのだが、それを見込んで子供の日に映画を見に行くことにした。
そんなわけで、今回も前回の「ヘイルメアリー」に続いて、快適なシートで観たいという気持ちに逆らえず、新宿まで出かけていった。上映時間ギリギリに駅に着いて、劇場までの道を小走りで進んだが、やはり人混みが若干少ないと思った。インバウンドは相変わらず多いが、日本人が少ないためか割と平和な様子の新宿を眺めながら急いで劇場に向かった。
今回取り上げた映画「サンキュー、チャック(原題は「The Life of Chuck」)」を見ようと思ったきっかけは、日経夕刊に紹介されていたからだが、そのあらすじを読んで、世界の終わり(それって今のことだと思う)について描かれていることが書いてあったからである。
恐らくいつの世も、誰しもが「この世の終わり」には興味があると思う。それはエジプトのピラミッドに紀元前からある落書きにも書かれているように
1.我々はどこから来たのか?
2.我々は何者か?
3.我々はどこへ行くのか?
の3に関係するからだと思う。我々の行き先が、ヘイルメアリーで描かれたように宇宙へ進出していくのか、そうでなかったらもう限られた地面と資源の取り合いになり、破滅へ向かうしかないと世界中のあちこちでそう思っている人は多いと思う。
一部の権力の中枢にいる暴君のせいで、例えばいつ床が抜けるかわからないような古い建物の部屋の中にいるのに、一緒にいる人が踊り狂って床を飛び跳ねているさまを見つめているような感覚(まさに「待っている間が一番つらい」)を少しでも忘れて、床が抜けたらどうなるのかを観たいと思い映画館に向かった。
あらすじ(ネタばれ注意)
この映画はとにかく内容について書くと、その構成なども含めて仕掛けがあるため、これから見ようと思っている人の楽しみを奪いかねないと思うので、少なくともこの時点でこれからこの映画を見に行こうと思っている方は今すぐ読むのを中止されたほうがよろしいかと思う。
※ここからネタバレです
この映画は第三章から始まる。その章題が「サンキュー、チャック(Thanks! Chuck)」である。これが日本では映画のタイトルになっている。映画紹介のあらすじにもあるように、世界がどんどん破滅に向かっていく。世界中で天変地異が起きているというニュースがアメリカの片田舎の町にも流れてくる。そういう終末的なニュースの合間に、色々な媒体で「素晴らしい39年間、ありがとうチャック」という内容の広告が流れるのを色々な登場人物が見たり聞いたりしていく。やがてネット、テレビ、電力などがすべて途絶えると、どのような方法なのかは全くわからないが、全ての家の窓にその広告が表示される。夜空からも星が消え始め、最終的に地球も消えたものと思われる。
この終末に向かう世界と、そのことを受け止める登場人物たちの漏らす呟きが大変にリアルである。個人的にはディストピアというか、どのように文明が崩壊するかに興味があるので正直、破滅に向かう地球の描写だけでも見る価値はあったと思う。第三章をみている限りでは、「世界」が破滅に向かっているとしか思えないのだが、それは実は最後まで見るとそうではなかったことがわかる。
第二章でチャックがどういう人だったのかというエピソードが描かれる。これまたごく普通の会計士として仕事をしたり、街角でストリートミュージシャンのたたくドラムに合わせて即興で踊ったりする以外はごく普通の人である。第二章の章題が「大道芸人万歳(英語は忘れた)」だったのはここからきているのだが、このシーンがメインになってのこのタイトルだろう。
そして最後に第一章「私の中には無数の人が存在する(I contain multitudes.)」 なのだが、これはチャックが小学校の先生から聞くホイットマンの詩からきている。この部分を見てやっとこの映画の構造が理解できた。内容はチャックの幼少期(小中学校時代)から大学生になるまでの成長過程で何があったのかを描いている。それと同時に両親が交通事故で死んだ関係で引き取られた祖父母の家にある塔(といってもちょっと屋根からはみ出ている円筒形+円錐形の小さな屋根裏部屋)からは「見たくないもの」がみえるということを祖父から聞き、それの謎を明らかにしていくという伏線が展開する。最終的にその「見たくないもの」というのは身近な人間の死にざまだということが明らかになり、自分自身の未来の死にざまを見てしまう。そこでこの映画は終わる。
映画や小説、その他創作で世界を創ること
死んでいくチャックの頭の中で起こっていたことが第三章の内容であり、二章、一章はそこへ至るチャックの39年間の人生を描写している。さてここでこのチャックの人生を創造したのはだれかといえば、ほかならぬ原作の著者スティーブン・キングである。それを映画化したのはマイク・フラナガン監督だ。さらにキングは「シャイニング」のスタンリー・キューブリックによる映画化の内容に納得していないため、映像化には不信感があるらしく、今回の映画にも参加している。この二人がこの世界から消えても(死んでも)作品は残る。また、本を読んだ人は何度でもチャックの人生を体験するだろうし、映画を見た人もそうだろう。
しかし、ここで少し考えてみた。確かに作品は残るのだが、その「世界」は消滅したとは言えないだろうか? 小島監督抜きで何度もリバイバルされるゲームソフト「メタルギア」の中のスネークは生きているだろうか? わたしが、現コナミからリリースされるリメイク版を全く買う気が起こらないのは、スネークを取り巻く「世界」を創造した人間がすでにかかわっていない以上、そのリメイクに魂はないと思うからだ。
このドラマの主人公であるチャックを39年の人生にしているのは神様だろうか? 客観的に考えて、無神論者であれば、それはさまざまな偶然の産物ということになるかもしれないが、このドラマを作ったのは明確にスティーブン・キングである。劇中のセリフで「待っているのが一番つらい」とあるのはまさに創造主であるキングの心情なんだろうと思う。両親を交通事故で殺し、近所の少年を首つり自殺させ、祖母を食料品店のパン売り場で殺し(心臓発作?)、祖父をアルコールの飲みすぎで殺して、最後にチャックも39歳で難病の末に死ぬように「設定」してそのドラマを書いていく過程で、やはりそのシーンが来るまで、そんなことは起こらないように原稿を書き進めていくことだろう。しかし、キングの脳裏には塔から見えるように、死ぬときの姿と時期が見えてるわけである。
そして最終的にキングが死ぬとき、これまで自分が書いた小説の中の登場人物はすべて消滅する。もうこの世に残っているのは「作品」だけとなる。どれかの登場人物が、続編で登場することはない。急に結末が気に入らなくなって、書き直されることもない。(ちなみにホイットマンは自作の詩を晩年まで改訂しつづけたらしい)言い換えれば、自分が死んだあとで自分が創造した登場人物たちがどうなるかと考えたキングが、その姿を見たいと思ったのが第三章だと思うとなんだかおもしろい。そのリアルな描写には登場人物たちへの愛着が感じられると思うからだ。そういう部分を監督とも話して、あのように淡々とした描写だがチャック抜きの世界でそれぞれの「脇役」たちがこの世の終わりに震える姿を描いたのではないだろうか?




























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