常盤平蔵のつぶやき

五つのWと一つのH、Web logの原点を探る。

原作は先に読む派です~ 「急に具合が悪くなる」を読んだ

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再オープンした三省堂本店へ

カンヌで有名になった表題の映画に原作本があるということで、さっそく本屋へ行って探した。少し前の日曜日、そういえば新しく改装してオープンした神田の三省堂にまだ行っていなかったので、ついでに覗くのも悪くないと思い、秋葉原から歩いて行った。一階の入り口から入ってみると、以前とガラッと変わって凝った配置の棚になっており、レジがどこにあるのかすらわからなかった(店の奥の見えないところにあった)。目的の本は入ってすぐの通路に平積みされており、拍子抜けするほど簡単に入手できた。映画の評判を聞いてすぐ増刷されたのだろうと推測する。表紙は割とポップな感じで、映画のシリアスな感じとはちょっと異なっていた。

 

この本の概略

この本の基本的な構成は哲学と医療人類学の学者同士の対話(往復書簡)で、この本の出版後に哲学者の方はお亡くなりになったようである。ここんところ、物語の中で人(登場人物)が死ぬということを考えるのが自分の中で裏テーマ的なものになっている気がする。ただし、この本はノンフィクションで、死ぬシーンがあるわけではないが、この本の出版後にはすでに片方はこの世の人ではなかったようである。リアルタイムで書簡を往復していた間は、もちろん生者と生者の対話だったと思うが、それが書籍としてまとめられて世に出たものを読んだ読者としては生者と死者の対話がこの後に続いているように思われる。

 

「急に具合が悪くなる」は死

お互いのバックグラウンドや、活動に関してほとんど知らない状態で読者は読むので、哲学者が医者から言われたという「急に具合が悪くなる(かもしれません)」というキーワードというかフレーズ、これがタイトルにもなっているが、それが何故この本で最も大事なことなのかはこの時点ではよくわからない。余命宣告をされて、あと半年の命であり、その「急に具合が悪くなる」というのは、死ぬこと意味しているということが最初の方で明かされるのだが、その危機迫る状況でも、特に当事者の哲学者は文章の中では、冷静に論理的に思索を深めていくのである。

 

魂の姉妹

この本が成立した背景として、この著者二人が出会ってしまったことが大きいのだと感じた。そこにいわゆる化学反応がないと、このような対談の深まりというのは見出しえないと思うし、お互いがお互いを唯一無二の存在と思わなければ、出てくる言葉もおのずと違ったものになったと思う。これを読んだ我々読者が、そこから読み取るのはその思想というより、人間が生きる上で他者とつながる感覚のお手本として、自分たちも死ぬまでに、どこかにいる誰かとこのような関係に至りたいと思うかどうかじゃないかと思った。その辺を映画では中心に据えて描いているのではないかと想像する。上映時間が3時間越えなのでちょっと気が引けてるが、機会があれば観ておこうと思う。

食べ合わせが悪かった~ 「シラート」(ともう一本)を観た

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一日に二本映画を見る日

何年かに一度、一日に映画館をはしごして観てしまうというようなことが起きる。起きるというと自発的にそうしてるんじゃないのかと思われると思うが、一本目の映画をみて、残念ながら期待が外れた場合、それを取り返そうとして続けて別の映画を見てしまうということはないだろうか? そのためには、一本目を見終わった後で、すぐ都合のいい時間に別の映画の上映が始まるというタイミングも必要になる。ずいぶん昔になるが、一本目に「グレイテスト・ショーマン」を観てから「スリー・ビルボード」を観たことがあった。この時のことをブログに書いているが、それを読むとその時は最初からそう言う予定を組んで観に行ったようである。

 

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それにしても、この時の組み合わせもなかなかの凸凹感だが、今回はさらにひどい。同じ日に「マンダロリアン&グロークー」と「シラート」を観てしまった。今回は、とにかく映画を観ようと思い、せっかくスターウオーズの新作がかかっているのに見逃すわけにはいかないと思って観に行くことにした。ただし、「ハンソロ」の時は結局前評判の悪さに恐れをなして劇場では観なかったのだが、のちに出張の飛行機の中で見た。そして自分的にはそれほどひどくないし、むしろ楽しめたので、「マンダロリアン」もきっと楽しめるに違いないと思ってわざわざ観に行ったのだが、それは半分当たりでもう半分は、ちょっと残念だった。しかし、そのちょっと残念の部分を埋めようと、たまたま隣の劇場(今回も新宿ピカデリーで見たのだが、まさに7階のシアター3で「マンダロリアン」、同じ階のシアター2で「シラート」がやっていたのである。一階に降りて、いったん晩飯を食べつつ時間調整し、またネットでチケット買い(すぐ次の回を選んだら、ほぼ満席状態であった)急いで劇場に戻ってまたゲートをくぐり、エスカレーターで7階まであがってシートに座った。

 

 

 

 

マンドー!(ネタばれ注意!その1)

まずは「マンダロリアン」の感想から。そもそもディズニーが作っている時点で、ある意味子供向けというか、全年齢向けというかそういう配慮になっているので、何か気の利いた大人のやり取りとか、ちょっと趣味に走りすぎているみたいな部分はないと覚悟していた。マンドーの素晴らしい立ち回り、アクションでピンチらしいピンチもなく敵をバッタバッタをなぎ倒していく様は、少なくとも爽快感はあった。しかし、あれ(無双)ができるのはフォースが使えるジェダイの騎士というのスターウオーズのお約束なのではなかったのか?

個人的なツボだったのは今回の共和国軍側の司令官というかトップを演じているのがご存知シガニー・ウィーバーだったので、おおーっとなったのだが、最後自らXウイングに乗って敵地に乗り込んでくるという活躍ぶりで大変良かった。「エイリアン2」でパワーローダーを操縦してクイーンエイリアンと激闘を繰り広げた姿を思い出すと、Xウイングの操縦くらい軽いと思わずにはいられないが、Xウイングの計器類やヘルメットなどの装備がスターウォーズのEpsode4から6までの時のものなども、我々の世代にはしびれるものがあったが、考えてみると、それらを全く知らない今の若い世代には何も響かないとなると厳しいと思わざるを得ない。

また、劇中シガニーがマンダロリアンに対して「マンドー」と呼びかけるシーンがあるが、この響きで「ランドー」を思い出したのも老人の脳のなせる業だろう。

今作ではグロークーというヨーダと同じ種族と思われる宇宙人がマンダロリアンの相棒として出てくる。ハンソロにはチューバッカという相棒がいるように、マンドーにはグロークーなのだと思うが、このグロークーがどうもフォースを使うのだ。私はDisney+を契約していないのでマンダロリアンのTVシリーズは全く知らないが、スピンオフでフォースを使うキャラクターがいるのは初めてなんじゃないだろうか。ただ、そのグロークーが幼児レベルの知能なので、活躍らしい活躍をしないのがちょっと残念だった。

全体としては結構尺を取っているのに、話の筋立てがほぼ一本道だったのも、ちょっとがっかりポイントであった。当然いったん帝国が滅んでいるので、共和国側が絶対的な勢力になっている上での帝国の残党狩りという筋立てなので、一つ一つのエピソードが小さくなりがちなのはわかるが、もう少しフォースを使う以上本筋にも絡むような複線的なエピソードがあってもよかったのかなと思う。そういう意味でスターウオーズ・サーガをコントロールする人間(かつてのジョージ・ルーカス)がいないことは今後のシリーズを創っていくうえでもどうしても場当たり的になるので難しいと思う。

 

シラート!(ネタばれ注意!その2)

そして「シラート」である。ちなみにシラートとは最後の審判の時に地獄と楽園をつなぐ一本道(橋)で、それは髪の毛より細く、剣よりも鋭いされている(という解説が入る)芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を思い出してもらうとなんかわかるような気がするが、地獄と天国をつなぐ道というか橋というか、まあ表現的には糸なのだが、そういうものが存在するということになっているのは洋の東西を問わないようである。ものすごく可能性は低いが、地獄に落ちてもまだチャンスはあるというのがニクイ。こういう意地の悪いことを考える人類はどうなのかと思うが、とにかくそれがこの映画のタイトルであり主題なのだろう。

あらすじとしては、アフリカのモロッコで屋外(砂漠)でレイドパーティを開いている集団のところへ、自分の娘を探している父とその弟がやってきて、行方不明人のビラを配りながら訪ねて回っている。そのパーティでは見つからなかったが、もっと南で別のパーティがあるという集団に出会い、その集団についていく。今考えると、その集団がレイドパーティを主宰していたのかもしれない。しかし、途中で弟は犬と一緒にがけ下に落ちて死亡、父は途方に暮れながらもその集団と一緒に移動を続ける。落ち込む父親を元気づけようと、砂漠の真ん中でスピーカーを設置し大音量で音楽を流し始める。大麻?らしき薬物をやりながらその音楽に合わせて踊り始めた矢先、一人の女が爆発して吹っ飛ぶ。え?なに?と思ってもう一人がその女を助けるために駆け寄ると、その男も爆発して吹き飛ぶ。実は自分たちは地雷原の真ん中でレイドパーティを開いていたことに気が付く。

何とかそこから脱出しようと、乗ってきたトラックをハンドルを固定してまっすぐ走らせて、安全な道を見つけようとするが、二台とも途中で地雷を踏んで派手に爆発、炎上してしまう。それでも二台目のトラックが爆発したところまで歩くが、安全そうな岩山まではまだ5、60メートルはありそうだ。突然父親が立ち上がり、すたすたと歩きだす。そしてあれよあれよという間に岩山まで歩き切る。それを見たひとりの男が急いでそのあとを走っていくが、もう少しというところで爆発して消し飛ぶ。さらに残った二人は訳が分からなくなり、岩山にいる父親に「どうやってそこへ行ったんだ?」と聞くと、父親は「何も考えなかった」と答える。そこで残った男女は目をつぶって同じ道を歩き、見事岩山までたどり着く。その後汽車に乗って帰国の途(?)に就くところで映画は終わる。

 

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「スリー・ビルボード」と「シラート」

今回たまたま、前回の一日二本立てで映画を見た日に観た「スリー・ビルボード」について書いたブログを読み返してみて、何となく今回の「シラート」と「スリー・ビルボード」は似ていると思った。スリー・ビルボードでは無残に殺された娘の事件の犯人を見つけてほしいと思う母親で、シラートでは行方不明の娘を探す父親だが、どちらも探していたものは見つからないまま終わる。どちらもどうしてこうなってしまったのか悩みながら生きているが、最後に求めていたのとは違う形で、一種の救いを得る(ようにみえる)どちらも展開は全く読めないが、かといってその展開に違和感はない。まるで現実の世界を生きている我々の日々のようなものだ。先は読めないが、過ぎてみるとそれ意外には道なかったというような。

地雷というと「ノー・マンズ・ランド」という傑作を思い出すが、踏んでしまったら動けなくなるのは当然としても、今回の映画のように周りに地雷が敷設されている場所が迷い込んで、何とかそこから脱出しなければと思ったら、正直恐ろしく一歩も歩けないと思う。そのまま動けないまま餓死するしかないと思う。そんな時グロークーがいれば、地雷のない道を見つけ出してくれるはずだ。

 

美女と野獣はおなじもの〜「椿姫」を読んだ

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野生の熊たちとその死

先日NHKスペシャルで知床半島の熊の特集があった。NHK ONEでも見ることができるので興味のあ方はぜひご覧になるとよろしいかと思う。www.nhk.jpこの番組を何となく見ていて、最近人間の生活圏に熊が侵入してきて、ケガをさせたり人間を殺したりする話題がニュースでもたくさん取り上げられていたので、正直熊は駆除されるべきと思っていた。確か昨年だったと思うが、知床で山登りしていた男性が熊に襲われて死んだ事件も記憶にあり、もはや東京でも西の方では熊が出るご時世なので、知床でも同じような状況なのかと思ったのだが、少し違った。夏場は一番食料が乏しく、仕方なく海岸沿いをうろついて、イルカやトドなどの死骸が打ち上げられているのに出会えればラッキーというような状況らしい。その夏を何とか乗り切れば、川には大量のサケが上ってくる……はずなのだが、実は地球温暖化の影響で川の水温が上がりぱったりサケが遡上しなくなったらしいのである。生物はもともとDNAにプログラムされた行動から外れることが難しく、水温や気温、その他の環境要因の変化に大変弱い。そのせいで秋になっても熊の口にサケがはいらない。そうなると人間の生活圏にまで餌を探しに来ないわけにいかず、それによって研究者が10年前から、まだ子熊の時からウオッチし続けてきたハッチという熊がその子熊とともに駆除されたというエピソードは大変胸が痛かった。知床の雄大な自然をバックに空撮で映し出される熊は、町中の防犯カメラで人に襲い掛かってる姿とは全然違う野生動物がもつある種のどうしようもなさというか、ありのままの姿をさらけ出してしまっているように感じた。番組後半海岸に白骨化した若い雌の熊の遺体が映し出される。この骨の白さをみた時、しばらく前に読んだ本の主人公、椿姫ことマルグリット・ゴーティエの名前が頭に浮かんだ。

 

恋愛小説の古典

この本を読むきっかけは津村記久子さんの「やりなおし世界文学」で取り上げられていたからである。恐らくそこで取り上げらていなかったら、死ぬまで読まなかったと思う。もしそうなっていたら大変もったいないことになっていたので、ここで出会えたことに深く感謝したいと思う。この本で津村さんは、小さいころにレコードセットでそのタイトルをみて「お姫様の話かな」ぐらいに思ってそのままスルーしたというようなことが書いてあったが、正直なところ私はこのタイトルを一度も見たことがない。あるとすればオペラの広告か、演劇の広告で見たのだと思う。当然ながら内容については全く知らなかった。津村さんもそこは同じようで、まさにやり直してみて、作中で椿姫と呼ばれている女性が実は高級娼婦であったことを知って驚いていた。また、この本の作者はデュマ・フェスという人なのだが、デュマといえばアレクサンドル・デュマの名前が浮かぶ……と言いながら実は「三銃士」も読んだことがないのだが、フェスはアレクサンドルの息子なのだ。正確に言えば私生児であったらしい。二世作家という言葉があるかどうかは知らないが、小説家である以上著作で評価されるわけで、二世タレントのように親の七光りだけでは後世まで残る作品はかけないと思うので、才能もあったのだろう。というか、読んでみて、そういう上流階級で生きていくことの大変さのようなものを訴えたいという部分がコアなんじゃないかと思った。その意味で、この時代の貴族の風俗というか生活に対する知識がないと理解が難しい話か?というとそうでもない。恋愛小説の古典という評価は間違っていないと思う。なぜそう思ったかというと、恐らく歳をとったからわかったのだと思うが、登場人物の行動や気持ちの動きが腑に落ちたからである。自分も少ないながら、そういうことを経験してきており、その記憶が物語の信憑性を裏づけてくれるようになったのである。なんにせよ長生きはするものだと思う。

 

物語の中で人が死ぬということ

津村さんは、この話は冒頭で(すでに)死んだ椿姫の遺品が競売にかけられているところから始まると書いており、お金の話から始まることはこの話にとって象徴的で、高級娼婦という「職業」がどのような経済によって成り立っているかについて徹頭徹尾明快に描いているからであると書いていた。私もそれには全く同感で、この経済的な裏付けというか、現在と同じで、何をするにも金がかかるという現実が最終的には椿姫を殺すと言ってもいいのではないかと思う。読んでない人には何を言ってるかわからないと思うが、実際の椿姫の死因は病気(結核?)である。私が、この本を読んで一番衝撃を受けたシーンが以下に述べる部分なのだが、その死んだ椿姫は当然埋葬されて棺桶に入って墓に埋められている。そのあとで、死んだという知らせを受けた元恋人のアルマンは、その死に顔を一目見たさに、墓を移設するという名目で、警察官立ち会いのもと、棺桶を掘り出してその蓋を開け、死後どのぐらい経っていたかわからないが、その死に顔を見るのである。このシーン、作者として一緒に立ち会っているという書き方で、淡々と描写されているのがまたリアルですごい。棺桶の蓋を止めている釘を抜いて、蓋を取り外したときに、周囲に漂う臭いについての描写など鳥肌ものである。
この本は、前回取り上げた「サンキュー、チャック」のように凝った構成になっており、本の冒頭で椿姫は既に死んでいる。作者はその元恋人と出会って、馴れ初めから死別までを再体験するような形で語られていき、最後はまた椿姫が死ぬところで終わる。死んで墓の中で腐っているところを見せてから、生き生きとして恋に落ちる姿を見せるという、スティーブン・キングとはまた違った意味での登場人物の殺し方である。

知床の浜辺で目を閉じた熊は

この本の中で、マルグリットを死へと向かわせるのは、アルマンの父である。この父の人物造詣がとても恐ろしい。マルグリットの人柄や息子アルマンへの愛が誠実であることは認めながらも、世間からみたら、娼婦を嫁にもらった家がどうみられるか、息子が将来的にどうなるかということを論理的に説明し、息子を愛するからこそ身を引いてほしいと「お願いする」のである。我々が、映像の画面越しや、動物園の檻越しに見ている熊は可愛かったり、興味深かったり、美しかったりするが、日々の生活の中で路上で出会うことや、まして自分の家に来られたら困る、今すぐ駆除してほしいと思う論理と全く同じなのではないか。熊とはまごうことなき野獣である。どんなに鍛えた人間も熊の前では同じコンディションで戦ったら絶対に勝てない。だから人間は文明を武器に野獣を我々の生活圏から追い出し、自らの縄張りに入ってきたらそれを全力で駆除する。美女というものも、天から授かった美貌の肉体を持ち、それを見た普通の男はその魅力に逆らうことができないという意味で無力である。「美女と野獣」とは対極にあるもののように見えて実は同じものなんじゃないかと思った。

創造主から見た世界~ 「サンキュー、チャック」を観た

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今回も新宿ピカデリー

ゴールデンウイークに東京にいるメリットというのがあって、それは普段の休みなら都心には人が常に過剰にいるのに、長期の休みであるゴールデンウイークや年末年始、お盆休みなどでは逆に都心から人がいなくなるという現象が起こる。その現象がメリットなのだが、それを見込んで子供の日に映画を見に行くことにした。

そんなわけで、今回も前回の「ヘイルメアリー」に続いて、快適なシートで観たいという気持ちに逆らえず、新宿まで出かけていった。上映時間ギリギリに駅に着いて、劇場までの道を小走りで進んだが、やはり人混みが若干少ないと思った。インバウンドは相変わらず多いが、日本人が少ないためか割と平和な様子の新宿を眺めながら急いで劇場に向かった。

今回取り上げた映画「サンキュー、チャック(原題は「The Life of Chuck」)」を見ようと思ったきっかけは、日経夕刊に紹介されていたからだが、そのあらすじを読んで、世界の終わり(それって今のことだと思う)について描かれていることが書いてあったからである。

恐らくいつの世も、誰しもが「この世の終わり」には興味があると思う。それはエジプトのピラミッドに紀元前からある落書きにも書かれているように

1.我々はどこから来たのか? 

2.我々は何者か? 

3.我々はどこへ行くのか?

の3に関係するからだと思う。我々の行き先が、ヘイルメアリーで描かれたように宇宙へ進出していくのか、そうでなかったらもう限られた地面と資源の取り合いになり、破滅へ向かうしかないと世界中のあちこちでそう思っている人は多いと思う。

一部の権力の中枢にいる暴君のせいで、例えばいつ床が抜けるかわからないような古い建物の部屋の中にいるのに、一緒にいる人が踊り狂って床を飛び跳ねているさまを見つめているような感覚(まさに「待っている間が一番つらい」)を少しでも忘れて、床が抜けたらどうなるのかを観たいと思い映画館に向かった。

 

 

あらすじ(ネタばれ注意)

この映画はとにかく内容について書くと、その構成なども含めて仕掛けがあるため、これから見ようと思っている人の楽しみを奪いかねないと思うので、少なくともこの時点でこれからこの映画を見に行こうと思っている方は今すぐ読むのを中止されたほうがよろしいかと思う。

 

※ここからネタバレです

 

この映画は第三章から始まる。その章題が「サンキュー、チャック(Thanks! Chuck)」である。これが日本では映画のタイトルになっている。映画紹介のあらすじにもあるように、世界がどんどん破滅に向かっていく。世界中で天変地異が起きているというニュースがアメリカの片田舎の町にも流れてくる。そういう終末的なニュースの合間に、色々な媒体で「素晴らしい39年間、ありがとうチャック」という内容の広告が流れるのを色々な登場人物が見たり聞いたりしていく。やがてネット、テレビ、電力などがすべて途絶えると、どのような方法なのかは全くわからないが、全ての家の窓にその広告が表示される。夜空からも星が消え始め、最終的に地球も消えたものと思われる。

この終末に向かう世界と、そのことを受け止める登場人物たちの漏らす呟きが大変にリアルである。個人的にはディストピアというか、どのように文明が崩壊するかに興味があるので正直、破滅に向かう地球の描写だけでも見る価値はあったと思う。第三章をみている限りでは、「世界」が破滅に向かっているとしか思えないのだが、それは実は最後まで見るとそうではなかったことがわかる。

第二章でチャックがどういう人だったのかというエピソードが描かれる。これまたごく普通の会計士として仕事をしたり、街角でストリートミュージシャンのたたくドラムに合わせて即興で踊ったりする以外はごく普通の人である。第二章の章題が「大道芸人万歳(英語は忘れた)」だったのはここからきているのだが、このシーンがメインになってのこのタイトルだろう。

そして最後に第一章「私の中には無数の人が存在する(I contain multitudes.)」 なのだが、これはチャックが小学校の先生から聞くホイットマンの詩からきている。この部分を見てやっとこの映画の構造が理解できた。内容はチャックの幼少期(小中学校時代)から大学生になるまでの成長過程で何があったのかを描いている。それと同時に両親が交通事故で死んだ関係で引き取られた祖父母の家にある塔(といってもちょっと屋根からはみ出ている円筒形+円錐形の小さな屋根裏部屋)からは「見たくないもの」がみえるということを祖父から聞き、それの謎を明らかにしていくという伏線が展開する。最終的にその「見たくないもの」というのは身近な人間の死にざまだということが明らかになり、自分自身の未来の死にざまを見てしまう。そこでこの映画は終わる。

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映画や小説、その他創作で世界を創ること

死んでいくチャックの頭の中で起こっていたことが第三章の内容であり、二章、一章はそこへ至るチャックの39年間の人生を描写している。さてここでこのチャックの人生を創造したのはだれかといえば、ほかならぬ原作の著者スティーブン・キングである。それを映画化したのはマイク・フラナガン監督だ。さらにキングは「シャイニング」のスタンリー・キューブリックによる映画化の内容に納得していないため、映像化には不信感があるらしく、今回の映画にも参加している。この二人がこの世界から消えても(死んでも)作品は残る。また、本を読んだ人は何度でもチャックの人生を体験するだろうし、映画を見た人もそうだろう。

しかし、ここで少し考えてみた。確かに作品は残るのだが、その「世界」は消滅したとは言えないだろうか? 小島監督抜きで何度もリバイバルされるゲームソフト「メタルギア」の中のスネークは生きているだろうか? わたしが、現コナミからリリースされるリメイク版を全く買う気が起こらないのは、スネークを取り巻く「世界」を創造した人間がすでにかかわっていない以上、そのリメイクに魂はないと思うからだ。

このドラマの主人公であるチャックを39年の人生にしているのは神様だろうか? 客観的に考えて、無神論者であれば、それはさまざまな偶然の産物ということになるかもしれないが、このドラマを作ったのは明確にスティーブン・キングである。劇中のセリフで「待っているのが一番つらい」とあるのはまさに創造主であるキングの心情なんだろうと思う。両親を交通事故で殺し、近所の少年を首つり自殺させ、祖母を食料品店のパン売り場で殺し(心臓発作?)、祖父をアルコールの飲みすぎで殺して、最後にチャックも39歳で難病の末に死ぬように「設定」してそのドラマを書いていく過程で、やはりそのシーンが来るまで、そんなことは起こらないように原稿を書き進めていくことだろう。しかし、キングの脳裏には塔から見えるように、死ぬときの姿と時期が見えてるわけである。

そして最終的にキングが死ぬとき、これまで自分が書いた小説の中の登場人物はすべて消滅する。もうこの世に残っているのは「作品」だけとなる。どれかの登場人物が、続編で登場することはない。急に結末が気に入らなくなって、書き直されることもない。(ちなみにホイットマンは自作の詩を晩年まで改訂しつづけたらしい)言い換えれば、自分が死んだあとで自分が創造した登場人物たちがどうなるかと考えたキングが、その姿を見たいと思ったのが第三章だと思うとなんだかおもしろい。そのリアルな描写には登場人物たちへの愛着が感じられると思うからだ。そういう部分を監督とも話して、あのように淡々とした描写だがチャック抜きの世界でそれぞれの「脇役」たちがこの世の終わりに震える姿を描いたのではないだろうか? 

 

 

 

武芸百般の細腕繁盛記〜 「Ghost of Yotei」をプレイした

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主人公は復讐の女剣士

前作である「Ghost of Tsushima」(以下GoT)は一応クリアして、さらにDLCである「Legends〜冥人奇譚」もやったので、発売前からあのリアル侍ゲームの続編「Ghost of Yotei」(以下GoY)が企画されているということで、これは是非とも体験せねばと思っていた。しかし、以前のブログにも書いたように、レトロゲームにハマって、やはりゲームはパッケージも含めてゲーム体験だった世代なので、これからはできるだけダウンロード版ではなくパッケージ版を買うようにしようと思っていた。そこで、発売後にブックオフやハードオフで買うチャンスを伺っていたのだが、なかなか出会わない上に、値段も下がらない。

需要と供給の関係で市場に出回る数が少なければそうなると思うが、やはりこのゲームを選ぶのはある程度年齢のいった私のようなオールドゲーマーではないかと思うので、やはりパッケージ版を選んで買うより、やりたい、やれるというタイミングでダウンロードしたほうが手っ取り早いと考える人が多かったのではないだろうか。ただ、後にも書いているが、主人公のビジュアルが今ひとつキャッチーではないため、それほど販売数も伸びていないからということもあり得る。おそらく両方の要因から、パッケージ版の市場に出回る数が減少しているのではないかと推察する。

 

 

 

 

アクション自体は前作のものとほぼ同じ

ゲーム内の操作で行えるアクションはほぼGoTと同じだったので、スムーズにゲームプレイをすることができた。前作をやったのがかなり前なので正確な比較はできないが、今作GoYでは剣(片手、両手)、槍、鎖鎌、大太刀が使える。それぞれが厳密にじゃんけんの関係になっているわけではないが、特効のある武器があって、相手によってはそれに瞬時に切り替える必要がある。また、敵のほうもずっと同じ武器ではないので、向こうが切り替えたタイミングで、こちらもそれに適した武器にチェンジする必要がある。それが、後半になるにつれて敵も頻繁に切り替えるようになったり、その切り替える武器の種類が増えたりする。それがスムーズに切り替えられて、なおかつ敵の攻撃をL1のパリイではじいたり、〇とレバーでよけたりがきれいに決まると、達人的ムーブを味わうことができる。

個人的な感想になるが、私のやっている武道である杖道の元になっている武術である「神道夢想流杖術」は宮本武蔵の二刀流剣術に対抗するために生み出された武術なので、型の中で二刀を扱うことがある。型で行うのは、木刀の太刀と小太刀の二刀なので、真剣よりも全然軽いが、それでも、両手に剣を持って振り回すのはかなりの丹力がいると感じる。

このゲームの中では、二刀流の剣が、両方とも太刀であることにはちょっと違和感を感じるが、アクションとしては、片方を逆手に持って風車のように回転する動きは大変カッコいい。刀(片刃)ではなく剣(両刃)の中国武術的な動きな気もするが、二刀流だと、長物(槍や薙刀)に対して有利になるという設定も考え方によっては理にかなっている(片方で捌いて片方で攻めるというような二刀流の利がある)気もするのでヨシとする。

 

 

 

【PS5】Ghost of Tsushima Director's Cut

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ウエスタンの味わい

武芸百般の女剣士が活躍するという時点でファンタジーではあるが、なんとなくタランティーノ監督の「ジャンゴ」を思い出す感じで、それが成り立つために必要なモノをかき集めることで帳尻を合わせてる気がする。前作でもそうだったが、中ボス(?)的な敵キャラと一騎撃ちをする時の演出が、お互い静かに見つめあって、剣を抜き構えてから「いざ勝負」という感じで斬り合いアクションに移行する。その時のアップの顔、煽り方などが毎回同じなのだが、その演出が入ることで、こっちもコントローラーを握り直して、画面を見つめるきっかけになる。

また、サブクエスト的なエピソードは、割と日本文化を理解したような感じはするが、前述の武芸者ムーブを教えてくれる師匠が各地にいる。その師匠たちとのやりとりが、微妙に子弟関係故の上下がない台詞回しになっている。外国の人には、日本的な子弟関係がわかっているようでわかってない部分があるんじゃないかと思った。製作はサッカーパンチというスタジオだが、プレイステーションスタジオも関係しているはずなので、監修は受けているとは思うが、シナリオを書いた方の意向を優先したのだろう。

ウエスタンのゲームといえば「レッドデッドリデンプション」があるが、こちらの製造元はロックスターゲームズだ。こちらのゲームについては、GOYEの2を購入したが、しばらくやったところでやめてしまった。理由はいろいろあると思うが、ウエスタン的なお約束というのが理解できなかったからというのが大きいかもしれない。侍ゲームだと、もちろん前作GoTを遊んでいたからというのもあるが、お約束がプレイするこちら側にあるので、なんとなく行動する方向が分かる(それ以外にも、製作者側の配慮によって、前作よりかなり遊びやすくなっている)が、西部開拓時代の終わりのアメリカにおけるお約束というのが自分の中にないのが、とっつきにくくしていると思う。そう考えてみると、ウエスタンの味わいを感じるというのもどこまで?というきもするが……

 

 

 

 

松前藩とアイヌ

このゲームの敵方である羊蹄六人衆とは、「斉藤」を首領として、その息子たちである「蜘蛛」と「龍」、忍びの「狐」、さらに家来で鬼面隊を率いる「鬼」と「蛇」のことである。さらにそれぞれの下に家来や強制的に戦わされている人々などがおり、それが松前藩と対峙している。アイヌはどちらとも組まず、蝦夷地で平和に暮らしたいと思っているだけというような存在となっている。そんな設定なので、この三つの勢力が蝦夷地の中でせめぎ合っているわけではなく、その中で戦っているのは斎藤勢と松前勢の二大勢力ということになる。斎藤は本土での戦(いくさ)に敗れて、蝦夷地へ流れてきて、そこで一旗揚げようと考えているが、蝦夷地を開放するとか、独立するとかまでは考えていないように見える。なんとなくだが、幕末の幕府軍VS維新軍の図式に影響されている気がする。斎藤は幕府軍の残党的な位置づけで想定されているのではないだろうか。

野暮を承知で指摘するが、現実には斎藤勢(羊蹄六人衆)はおらず、蝦夷地で対立する関係にあったのは松前藩とアイヌである。江戸時代には薩摩の琉球支配のように蝦夷地は松前藩によるアイヌ搾取があり、その辺の話が「ゴールデンカムイ」では強いアイヌ、ただ搾取され追いやられた少数民族というような描き方ではなくいきいきと冒険する姿を描いたことでアイヌの存在感がかなり強まったと思う。このゲームでも、篤の味方になってくれるのは確かだが、恐らく製作陣の考えからあまり重要な役割を与えられてはいない感じだった。

 

篤(あつ)姉さん

Youtubeのショート動画でも主人公のビジュアルが違ったらもっと売れていたと言っているものもあったが、その方向性が漫画的な美少女(スマホゲームに出てくるようなトゥーンレンダリングの絵柄)を指していたので、それはやっぱり違うと思った。前作でもあったイベントに、野外に突然現れる露天風呂に入ると、体力ゲージがちょっと増えると言う効果があるのだが、今回は……野郎ども!女性主人公(の入浴シーン)だぞ、ヤッホー!という感じもあまりしない。古傷が身体中にある筋肉質の女性が静かに風呂に入って「思うこと…」という選択肢を選ぶと、やはり前作のGoTであったと同じように戦いの中で、ほっと一息付ける瞬間である。それで体力ゲージが増えるというのは非常に理にかなっている(?)と感じる。

序盤は、これも前作のGoTでの主人公のイメージである侍=男というのが残っていたからか、主人公(=操作キャラクター)に何となく違和感を持ちながら進めてきたが、どの辺まで進めたころかちょっと覚えていないが、気づいたら途中から違和感はなくなり、むしろ主人公と一体化していき篤イケてる!美人じゃんよ!という感覚になっていた。最後までやって改めてアツ姐さんを見ると、かなりうっすら柴咲◯ウに似てると思った。

また、敵の首領である斎藤が篤のことを「オオカミの姫」と呼ぶのは、ゲームの途中でオオカミを助けるイベントがたびたびあり(それによって「一騎打ち」の際にオオカミが助力してくれるようになる)、オオカミと絆を深めていくことと、親を殺された篤とその弟の十兵衛が、復讐のため剣を取り負け犬ではなくそれぞれが一匹オオカミとして戦いの日々を生きることを選んだということからきている…… のだと思うが、「もののけ姫」のなかでアシタカがサンを「ヤマイヌの姫」というのからきている感も少しあると思う。ただ、篤のオオカミ感というのはそこもあまり表立ってはフィーチャーされておらず、なぜ斎藤が要所要所で篤のことを「オオカミの姫」と呼ぶのかがちょっと謎な感じはする。この辺はゲーム制作側が、あくまでプレイヤーのイメージでプレイしてほしいという配慮で、あえてそれを前面に出すイメージは減らしているのかなと思った。

 

 

 

 

前作との繋がり

ゲームの終盤、あるクエストでこのゲームと前作の繋がりを暗示させる部分があった。蒙古襲来と松島藩による蝦夷地支配はかなり時間的にずれている(正確にはわからないが、主人公は関ヶ原で戦ったのち、蝦夷地に帰ってきている)ので前作と今作の時代背景には数百年の隔たりがあるのだが、何となくあの後、ここで暮らしていたのかと思うと感慨深いものがあった。

この時間の隔たりを超えて響きあう感覚は、「ゼルダの伝説ティアーズオブザキングダム」にあったものと似ているが、あちらは、それがストーリーにとってかなり大きな要素であったのに対して、GoYのなかでのGoTというのは、あくまでおまけ的な要素になっているのが残念と言えば残念だった。

 

紛争下のJKトゥルーパーというファンタジー ~「ビューティフル・プレイス」を(4巻まで)読んだ

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芝山千代田駅へ

先日、仕事で「芝山千代田」駅へ行くことがあった。ポルナレフばりに「見てきたままを話すぜ」という話なのだが、おそらくその筋(どんな筋?)の人には全然珍しくない話だと思う。私としては以前ブログに書いた佐世保の電波塔以来の不思議体験だったので、書いておこうと思った。

その日あくまで仕事で午後イチにその駅近くにある倉庫まで行かなければならなかったので、まずはその「芝山千代田」というのをYahoo!乗換案内アプリで探した。スマホの画面上に数秒後に結果が表示されるのだが、なんとなく要領を得ないのである。試しにGoogleマップで位置を検索すると、空港の東側にあるのは分かった。その路線を辿ると、どの線路につながっているのかが判然としないのである。

空港第2ビル駅からバス停まで歩いてバスに乗るという乗換案内アプリの指示通り、まずはスカイライナーで京成の「空港第2ビル」駅へと向かった。改札を出て、ビルの入口に入る前にかつて荷物検査、パスポートチェックなどをしていたカウンターがある空間がある(今は荷物を乗せるカウンターの上に「ようこそ成田空港へ」という看板が乗っている)が、そこへ行く途中に「SB 芝山鉄道~日本一短い鉄道~」という文字が目に入った。あれ?確か目指す駅「芝山千代田」駅は芝山鉄道と書いてあったような……?と思ってその方向に行くと連絡通路がある。ここを通れば芝山鉄道に乗れるのか?と思い、その通路に吸い込まれるように入ってみた。

ここがまさに異空間への入口で、この先にあるのがMIBの本部でも驚かないという感じだった。通路としては途中に標識もあるように全長は500mしかないようだが、人気のない空間で、時折頭上をなにか重たいものが通過するような音(ジェット機が通っているんだろう)が聞こえる中を黙々と歩く。壁には「芝山町のポスター」が貼ってあるのだが、これがまた奇妙な写真で、民族衣装のようなものを着た子どもの顔に赤い絵の具のようなものでペイントされている写真と文字で「芝山町」と書いてあるだけなのだ。諸星大二郎の「マッドメン」を思い出す。

その通路の終点にあったのが「東成田」駅であった。その空間に入ったときの違和感を言葉で表すのは難しいが、とにかく自分が変なところへ来たというのはわかった。そのうえであたりを見回すと、意外にも数人の男女が思い思いの場所でくつろいでいる。変な仕切壁があり、その向こうにも薄暗い空間が広がっているのだが、そちらに目を凝らすとコーヒーショップのような看板も見える。一体ここはどうしてこうなったのか?

ひとまずその疑問は置いておいて、芝山鉄道の改札を見つけ、ICカード(モバイルSuicaだが)をかざして入場する。ホームに降りていくと、降りたホームと反対側にもプラットフォームがあるようだ。その駅名をおぼろげながら読むことが出来た。「成田空港」駅だ。これは一体どういうことなのか?

 

 

 

 

 

 

過去と今が混在する場所

Wikipediaで答え合わせをすると、以下のことがわかった。北総線経由のスカイライナー、アクセス特急が出来るまでは、こちらの「東成田」駅が京成線、スカイライナーの「成田空港」駅だったのである。昔を知る人なら「何を今更驚いているのか」と思われるだろう。ネットを検索するとこの駅をネタにしているページがいくつも見つかるし、YOUTUBEでも、動画で私が辿った道筋を見られる番組もたくさんあるので、興味のある方は見てみるといいと思う。要するにこの駅は過去の「成田空港」駅だった部分と、今「東成田」駅である部分が混在している場所ということだ。

前置きがかなり長くなったが、今回のブログの本題は「ビューティフル・プレイス」という漫画についてだ。この漫画を読んで感じたのもまさに、過去と今が混在しているところなのである。漫画の舞台背景を簡単に説明すると、N崎市(◯崎市という名前から漠然と川崎市を想像していたが、実はNは長崎のことのようだ)という架空の日本の地方都市で、内戦により市街から砲弾が飛んでくるような場所で女子高校生が挺身活動の一環として治安維持にあたるというファンタジーにもほどがあるというような設定の中で、主人公の桃子(漫研所属)が奮闘する話である。

この設定でなぜ「過去と今が混在」していると感じるのか?別に私が過去に長崎に住んでいたからという個人的な背景は関係ない。余談だが、おそらくこの作者は長崎に住んだことはないと思う。何となく長崎市のスケール感が、私の実感とはかなりズレているというのがその理由なのだが、これはおそらく文章で説明してもわからないと思う。では、何が過去なのかというと、この紛争状況下の設定が、である。

カンのいい人はもうお気づきだと思うが、成田空港は昔三里塚闘争というものがあり、ずいぶんと血なまぐさい歴史のある場所である。今回の「東成田」駅が「成田空港」駅だった頃には、バリケードや砦などがあり、駅自体の開業も数年遅れたと先述のWikipediaにも書いてあった。そして開業してからもスカイライナーが放火されたり、文字通り武力闘争があった場所なのである。

では、今は何かというと、JKのキャラクターたちの基本的な性格がである。ここは私も男性である上に今のJKとの接点もないので完全なるファンタジーとしての実感(?)になるが、過去の「東成田」駅と「空港第2ビル」駅をつなぐ通路のように、今のJKと過去の闘争(の面影)を共存させているのがこの漫画なのではないかと考えたのである。

ja.wikipedia.org

「犬狼伝説」の隣に

私がこれまで読んできた漫画の中で、ずーっと本棚に残っている漫画が一つだけある。押井守原作、藤原カムイ作画「犬狼伝説」である。私が持っているのは上下巻にわかれた黒と朱の表紙のやつだ。(最近完全版というか「改」という合本がでたが、やはり古い方が味わい深い)あの漫画は押井守が「プロテクトギア」というファンタジーを成立させるため、架空の歴史を設定している。その中でかつて日本が戦後の混乱期に国民同士が闘争を繰り広げていた時代に架空の存在(プロテクトギアとそれを使う武装警察)をうまく溶け込ませることに成功している。

それに比べると、この「ビューティフル・プレイス」は、時代設定としてはほぼ現代だろう。私も銃器にはそんなに詳しくないが、JKたちが装備している武器は今世界に出回っているものだと思う。それらを使って同じくJKのクランやゴロツキ、傭兵などと日々戦いに明け暮れる話はもう過去の闘争の面影しか感じない。

現実にはロシアとウクライナ、イランとイスラエル米国連合などが戦争をしているが、ミサイル、ドローンの撃ちあいに終始している。イランでは最終的に地上戦をしなければ、政権を打倒して戦争を終結させることは出来ないと言われているし、イスラエルはガザでハマスに対する地上戦を今もこの漫画のように続けているのかもしれないが、そのパレスチナ難民に対する戦闘も先の大戦後から延々続いている。つまり過去と今がが混在していると言えるだろう。

ただ、設定や背景、現実との比較は正直どうでもいい。事実、劇中でも詳しく語られていないので、なんで紛争下にあるのかもいまいちよくわからない。そんな世界の中で女子高校生が普通に通学できている上に、女子校内部にも階級闘争のようなものがある理由も謎である。でも、そんなことはどうでもいい。この過去と今が混在するファンタジーを読むことが、個人的にはサイコーだ。本棚の犬狼伝説の隣に置く場所を確保して今後も読み続けていきたい。

しかしながら、今回の4巻は今までの3巻と比べての半分ぐらいの厚みしかない。もしかして作者が、このファンタジーを書くのに飽きてしまったのかもしれないが、もともと状況を描くのがこの漫画の趣旨だと私は思っているので、休んでもいいので気長に描き続けてくれたらいいなと思っている。

 

 

人類の未来は宇宙にあるのか? ~「プロジェクト・ヘイル・メアリー」を観た

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新宿ピカデリーで観た

「プロジェクト・ヘイル・メアリー」を書いた作者は「火星の人」を書いたアンディ・ウイアーだ。「火星の人」はなんの前知識もなく、監督がリドリー・スコットだというだけで劇場で見た記憶がある。感想をブログに書いたかどうかは覚えていない(検索したらなかったので書いてないようだ)が、たいへん面白かった。ただ、そのあと「インターステラー」(クリストファー・ノーラン監督)を観て、火星の人の印象のまま登場人物のドクターマン(火星の人の主人公を演じていたマット・デイモンが演じている)を観ていて、なんか騙された気分になったという人も多いのではなかったかと思う。

本屋で平積みにされているのを見かけた時、帯に映画化決定!と書かれているので、映画を見る前に絶対読んでおこうと思って早幾年、既に公開されていることに気が付き、もう映画見よう!と先週日曜日に思い立って上映している劇場を探したが、あいにく吉祥寺オデヲンでは上映していなかった。オデヲンのスクリーンの下側が前の席の人の頭で隠れるシートを愛する私としては、大変残念な気持ちだったが、観たい気持ちを抑えることは出来ず、上映時間的にもぴったりの新宿ピカデリーで観ることにした。残念ながらIMAXではない方のスクリーンだったが、最新のシネコンのシートは縦方向へのズレをきちんと設計されているので、どのシートに座っても前に座っている人の頭がじゃまになるということはまったくなかった。うーん、やっぱりそのほうがいいんだよねー。

 

projecthm.movie

 

ネタバレ注意!

映画館のなかで繰り返し流れているティーザーでも、既になんか岩の塊みたいなものが出現しており、うーん宇宙人とファーストコンタクトする話なんだろうなーとは思っていた。確かに異星人の姿出さないと、話の内容説明できないとは思う。しかし、そこでネタバレされるとやっぱり劇中で初めて見るときのインパクトは薄れてしまうと思う。というわけで、今回の感想はネタバレ全開でいきます。

物語はほぼ現代か少し先の未来、突然太陽のエネルギーが弱まって、このままだと地球の平均気温が15度ぐらい下がってしまうという、現在の温暖化が進む地球とは反対の悩みを抱えてる世界。太陽を観測していると、太陽から金星まで赤外線を放出する線、通称ペトロヴァラインが発見される。ラインを構成しているのは「アストロファージ」と名付けられた、星のエネルギーを食べる単細胞生物であった。そのペトロヴァラインを宇宙で探索してみると、ある星系の恒星でも見つかるが、そこではその恒星が弱まっていない事がわかる。そこでその星まで行けば、何かがわかるんじゃないだろうか?ということで、一縷の望みを託す計画「ヘイル・メアリー」が発動する。計画責任者はドイツ人の女性で、何となくその表情から、この計画自体が確かなものではないという不満のようなものを感じるが、それもそのはず「ヘイル・メアリー」とはアヴェ・マリアの英語表記で、アメフト用語の「ヘイルメアリーパス」というのはゲームの終盤に一か八か、お願いマリア様!という気持ちで投げるパスのことなんだそうである。

 

 

 

 

あらすじ

ライアン・ゴスリング演じる主人公ドクターグレースは、映画の冒頭その宇宙船「ヘイルメアリー号」の中で突然昏睡状態から目覚める。コールドスリープではないという部分が重要だ。「2001年宇宙の旅」や「エイリアン」その他のSF映画では外宇宙、深宇宙へいくためには人間の寿命は短すぎるので、その間をなんとかつなぐ技術が必要だが、この映画では実現していないコールドスリープは使用せず、昏睡状態(つまりは寝ているだけ)で代謝をとことん遅くして時間を乗り越える方法を採用している。もう一つは光速にほぼ近い速度まで出すことのできる推進エンジンの存在が、かろうじてこの計画の成功可能性を0じゃないものにしているのだが、その推進エンジンは実は太陽を食べているアストロファージを利用したものなのである。このエンジンの開発中に事故が起きて、本来は乗るはずではなかったグレースが最終的に無理やり乗せられたということが、映画の終盤にわかるのだが、ここも責任者のドイツ人女性(エヴァ・ストラット=サンドラ・ヒュラ- 名前がエヴァで、日本語吹替版の声が三石琴乃であり、ミサトさんなのでグレースはシンジくん…)が、最初から最適なのはこいつなんだけどなー……と思っていたようにしか見えない。計画責任者として、少しでも計画の成功確率を上げるためには、当然の思考だと思うので、最後の最後で「あなたしかいないの」という時初めて正直に語っているように見えた。

 

 

 

 

 

未知との遭遇

とにかく、宇宙船は自動的に目的の星系まで到着するが、そこでグレースは異星人と遭遇する。今考えるとこれがなかったらおそらくヘイルメアリー計画は失敗してただろう。この広い宇宙で、同じ問題に悩む別々の星系から来た生物が出会う確率はどのぐらいと見積もられているのかわからないが、宇宙全体の広さから考えると、11光年移動したところで、その確率が増えるとは思えないので、やはりここは物語的仕掛け(嘘)なんじゃないかと思う。

その異星人は光学的な目を持たない代わりに、エコロケーションによって空間を把握する能力を持っているため、共同生活をするうえでは、同じ宇宙船の中にいる限り透視されているように丸見え、丸聞こえになるという設定は面白かった。ファーストコンタクトものは、まず最初のどうやってコミニュケーションの手段を確立するかが一つのポイントだが、今回は両者が音声を使った言語を使用していたことから、グレースがコンピューターを使って音声データをサンプリングしてデータベース化し、それを瞬時に英語に変換して読み上げるというプログラムによってほぼリアルタイムに会話することが出来る設定になっていた。最近のファーストコンタクトものではやはりドゥニ・ビルヌーブ監督の「メッセージ」を思い出すが、こちらはブログで感想も書いているが、正直あのストーリーを完全に理解できたとは言い難い。それに比べると、今回の映画はとにかく意思疎通が出来るようにならないとその先の共通の危機に対して協力して行くという段階に進めないので、ある種力技で先に進んだ感じがする。余談だが、最初に音声でコミニュケーションを試みる時に映画「未知との遭遇」で使用された五音階を鳴らすのはニヤリとさせられた。「未知との遭遇」ではファーストコンタクトしただけで終わってしまうが、この映画はその先へ進まなければならない。五本足で岩のような殻を持つ異星人をロッキーと名付け、お互いの知識や技術を出し合いアストロファージへの対策方法を発見して、なおかつロッキーの宇宙船からアストロファージ燃料を分けてもらうことで、4年ぐらいで地球に帰れることにもなるが、帰路についたヘイルメアリー号の中で突然警報がなる。アストロファージの対策となるアストロファージを食べる微生物?が培養容器から逃げ出して宇宙船のアストロファージを食べたら燃料がなくなり帰れなくなる。それをなんとか対処するグレースだが、同じ問題はロッキーの宇宙船でも起きているはずと気がつく。このままロッキーを見捨てて地球に帰るか、それともロッキーを助けに行ってその燃料を使い切るかという選択を迫られたグレースは……

 

 

 

 

地球の未来

この映画を見終わって、じわじわと湧いてくる感情があった。冒頭の危機の地球の姿は、今を生きる我々の地球と全く同じである。地球温暖化がもたらす未来は、環境異変や食糧問題を引き起こし、やがて人類は壮絶な生き残りのための闘争を始めるだろう。映画では数々の幸運が、地球を救うが我々にそのような幸運はあるだろうか。

「火星の人」でもそうだったが、原作者のアンディ・ウイアーは科学技術の発展に対してポジティブなイメージを一貫して持っているように見える。しかし現実には世界はどんどんきな臭い方向に進んでいるし、そこにも科学技術は使用されている。AIやドローンなどの新しい技術は、本来人類の未来のために使用するべきなのに、安直な作成、安い兵器のために使用されている。映画の中で描かれていた「人類が異星人と協力して、星の危機を乗り越える」というファンタジーが、限りなく遠いもの思えて言葉を失ってしまった。