常盤平蔵のつぶやき

五つのWと一つのH、Web logの原点を探る。

創造主から見た世界~ 「サンキュー、チャック」を観た

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今回も新宿ピカデリー

ゴールデンウイークに東京にいるメリットというのがあって、それは普段の休みなら都心には人が常に過剰にいるのに、長期の休みであるゴールデンウイークや年末年始、お盆休みなどでは逆に都心から人がいなくなるという現象が起こる。その現象がメリットなのだが、それを見込んで子供の日に映画を見に行くことにした。

そんなわけで、今回も前回の「ヘイルメアリー」に続いて、快適なシートで観たいという気持ちに逆らえず、新宿まで出かけていった。上映時間ギリギリに駅に着いて、劇場までの道を小走りで進んだが、やはり人混みが若干少ないと思った。インバウンドは相変わらず多いが、日本人が少ないためか割と平和な様子の新宿を眺めながら急いで劇場に向かった。

今回取り上げた映画「サンキュー、チャック(原題は「The Life of Chuck」)」を見ようと思ったきっかけは、日経夕刊に紹介されていたからだが、そのあらすじを読んで、世界の終わり(それって今のことだと思う)について描かれていることが書いてあったからである。

恐らくいつの世も、誰しもが「この世の終わり」には興味があると思う。それはエジプトのピラミッドに紀元前からある落書きにも書かれているように

1.我々はどこから来たのか? 

2.我々は何者か? 

3.我々はどこへ行くのか?

の3に関係するからだと思う。我々の行き先が、ヘイルメアリーで描かれたように宇宙へ進出していくのか、そうでなかったらもう限られた地面と資源の取り合いになり、破滅へ向かうしかないと世界中のあちこちでそう思っている人は多いと思う。

一部の権力の中枢にいる暴君のせいで、例えばいつ床が抜けるかわからないような古い建物の部屋の中にいるのに、一緒にいる人が踊り狂って床を飛び跳ねているさまを見つめているような感覚(まさに「待っている間が一番つらい」)を少しでも忘れて、床が抜けたらどうなるのかを観たいと思い映画館に向かった。

 

 

あらすじ(ネタばれ注意)

この映画はとにかく内容について書くと、その構成なども含めて仕掛けがあるため、これから見ようと思っている人の楽しみを奪いかねないと思うので、少なくともこの時点でこれからこの映画を見に行こうと思っている方は今すぐ読むのを中止されたほうがよろしいかと思う。

 

※ここからネタバレです

 

この映画は第三章から始まる。その章題が「サンキュー、チャック(Thanks! Chuck)」である。これが日本では映画のタイトルになっている。映画紹介のあらすじにもあるように、世界がどんどん破滅に向かっていく。世界中で天変地異が起きているというニュースがアメリカの片田舎の町にも流れてくる。そういう終末的なニュースの合間に、色々な媒体で「素晴らしい39年間、ありがとうチャック」という内容の広告が流れるのを色々な登場人物が見たり聞いたりしていく。やがてネット、テレビ、電力などがすべて途絶えると、どのような方法なのかは全くわからないが、全ての家の窓にその広告が表示される。夜空からも星が消え始め、最終的に地球も消えたものと思われる。

この終末に向かう世界と、そのことを受け止める登場人物たちの漏らす呟きが大変にリアルである。個人的にはディストピアというか、どのように文明が崩壊するかに興味があるので正直、破滅に向かう地球の描写だけでも見る価値はあったと思う。第三章をみている限りでは、「世界」が破滅に向かっているとしか思えないのだが、それは実は最後まで見るとそうではなかったことがわかる。

第二章でチャックがどういう人だったのかというエピソードが描かれる。これまたごく普通の会計士として仕事をしたり、街角でストリートミュージシャンのたたくドラムに合わせて即興で踊ったりする以外はごく普通の人である。第二章の章題が「大道芸人万歳(英語は忘れた)」だったのはここからきているのだが、このシーンがメインになってのこのタイトルだろう。

そして最後に第一章「私の中には無数の人が存在する(I contain multitudes.)」 なのだが、これはチャックが小学校の先生から聞くホイットマンの詩からきている。この部分を見てやっとこの映画の構造が理解できた。内容はチャックの幼少期(小中学校時代)から大学生になるまでの成長過程で何があったのかを描いている。それと同時に両親が交通事故で死んだ関係で引き取られた祖父母の家にある塔(といってもちょっと屋根からはみ出ている円筒形+円錐形の小さな屋根裏部屋)からは「見たくないもの」がみえるということを祖父から聞き、それの謎を明らかにしていくという伏線が展開する。最終的にその「見たくないもの」というのは身近な人間の死にざまだということが明らかになり、自分自身の未来の死にざまを見てしまう。そこでこの映画は終わる。

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映画や小説、その他創作で世界を創ること

死んでいくチャックの頭の中で起こっていたことが第三章の内容であり、二章、一章はそこへ至るチャックの39年間の人生を描写している。さてここでこのチャックの人生を創造したのはだれかといえば、ほかならぬ原作の著者スティーブン・キングである。それを映画化したのはマイク・フラナガン監督だ。さらにキングは「シャイニング」のスタンリー・キューブリックによる映画化の内容に納得していないため、映像化には不信感があるらしく、今回の映画にも参加している。この二人がこの世界から消えても(死んでも)作品は残る。また、本を読んだ人は何度でもチャックの人生を体験するだろうし、映画を見た人もそうだろう。

しかし、ここで少し考えてみた。確かに作品は残るのだが、その「世界」は消滅したとは言えないだろうか? 小島監督抜きで何度もリバイバルされるゲームソフト「メタルギア」の中のスネークは生きているだろうか? わたしが、現コナミからリリースされるリメイク版を全く買う気が起こらないのは、スネークを取り巻く「世界」を創造した人間がすでにかかわっていない以上、そのリメイクに魂はないと思うからだ。

このドラマの主人公であるチャックを39年の人生にしているのは神様だろうか? 客観的に考えて、無神論者であれば、それはさまざまな偶然の産物ということになるかもしれないが、このドラマを作ったのは明確にスティーブン・キングである。劇中のセリフで「待っているのが一番つらい」とあるのはまさに創造主であるキングの心情なんだろうと思う。両親を交通事故で殺し、近所の少年を首つり自殺させ、祖母を食料品店のパン売り場で殺し(心臓発作?)、祖父をアルコールの飲みすぎで殺して、最後にチャックも39歳で難病の末に死ぬように「設定」してそのドラマを書いていく過程で、やはりそのシーンが来るまで、そんなことは起こらないように原稿を書き進めていくことだろう。しかし、キングの脳裏には塔から見えるように、死ぬときの姿と時期が見えてるわけである。

そして最終的にキングが死ぬとき、これまで自分が書いた小説の中の登場人物はすべて消滅する。もうこの世に残っているのは「作品」だけとなる。どれかの登場人物が、続編で登場することはない。急に結末が気に入らなくなって、書き直されることもない。(ちなみにホイットマンは自作の詩を晩年まで改訂しつづけたらしい)言い換えれば、自分が死んだあとで自分が創造した登場人物たちがどうなるかと考えたキングが、その姿を見たいと思ったのが第三章だと思うとなんだかおもしろい。そのリアルな描写には登場人物たちへの愛着が感じられると思うからだ。そういう部分を監督とも話して、あのように淡々とした描写だがチャック抜きの世界でそれぞれの「脇役」たちがこの世の終わりに震える姿を描いたのではないだろうか? 

 

 

 

武芸百般の細腕繁盛記〜 「Ghost of Yotei」をプレイした

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主人公は復讐の女剣士

前作である「Ghost of Tsushima」(以下GoT)は一応クリアして、さらにDLCである「Legends〜冥人奇譚」もやったので、発売前からあのリアル侍ゲームの続編「Ghost of Yotei」(以下GoY)が企画されているということで、これは是非とも体験せねばと思っていた。しかし、以前のブログにも書いたように、レトロゲームにハマって、やはりゲームはパッケージも含めてゲーム体験だった世代なので、これからはできるだけダウンロード版ではなくパッケージ版を買うようにしようと思っていた。そこで、発売後にブックオフやハードオフで買うチャンスを伺っていたのだが、なかなか出会わない上に、値段も下がらない。

需要と供給の関係で市場に出回る数が少なければそうなると思うが、やはりこのゲームを選ぶのはある程度年齢のいった私のようなオールドゲーマーではないかと思うので、やはりパッケージ版を選んで買うより、やりたい、やれるというタイミングでダウンロードしたほうが手っ取り早いと考える人が多かったのではないだろうか。ただ、後にも書いているが、主人公のビジュアルが今ひとつキャッチーではないため、それほど販売数も伸びていないからということもあり得る。おそらく両方の要因から、パッケージ版の市場に出回る数が減少しているのではないかと推察する。

 

 

 

 

アクション自体は前作のものとほぼ同じ

ゲーム内の操作で行えるアクションはほぼGoTと同じだったので、スムーズにゲームプレイをすることができた。前作をやったのがかなり前なので正確な比較はできないが、今作GoYでは剣(片手、両手)、槍、鎖鎌、大太刀が使える。それぞれが厳密にじゃんけんの関係になっているわけではないが、特効のある武器があって、相手によってはそれに瞬時に切り替える必要がある。また、敵のほうもずっと同じ武器ではないので、向こうが切り替えたタイミングで、こちらもそれに適した武器にチェンジする必要がある。それが、後半になるにつれて敵も頻繁に切り替えるようになったり、その切り替える武器の種類が増えたりする。それがスムーズに切り替えられて、なおかつ敵の攻撃をL1のパリイではじいたり、〇とレバーでよけたりがきれいに決まると、達人的ムーブを味わうことができる。

個人的な感想になるが、私のやっている武道である杖道の元になっている武術である「神道夢想流杖術」は宮本武蔵の二刀流剣術に対抗するために生み出された武術なので、型の中で二刀を扱うことがある。型で行うのは、木刀の太刀と小太刀の二刀なので、真剣よりも全然軽いが、それでも、両手に剣を持って振り回すのはかなりの丹力がいると感じる。

このゲームの中では、二刀流の剣が、両方とも太刀であることにはちょっと違和感を感じるが、アクションとしては、片方を逆手に持って風車のように回転する動きは大変カッコいい。刀(片刃)ではなく剣(両刃)の中国武術的な動きな気もするが、二刀流だと、長物(槍や薙刀)に対して有利になるという設定も考え方によっては理にかなっている(片方で捌いて片方で攻めるというような二刀流の利がある)気もするのでヨシとする。

 

 

 

【PS5】Ghost of Tsushima Director's Cut

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ウエスタンの味わい

武芸百般の女剣士が活躍するという時点でファンタジーではあるが、なんとなくタランティーノ監督の「ジャンゴ」を思い出す感じで、それが成り立つために必要なモノをかき集めることで帳尻を合わせてる気がする。前作でもそうだったが、中ボス(?)的な敵キャラと一騎撃ちをする時の演出が、お互い静かに見つめあって、剣を抜き構えてから「いざ勝負」という感じで斬り合いアクションに移行する。その時のアップの顔、煽り方などが毎回同じなのだが、その演出が入ることで、こっちもコントローラーを握り直して、画面を見つめるきっかけになる。

また、サブクエスト的なエピソードは、割と日本文化を理解したような感じはするが、前述の武芸者ムーブを教えてくれる師匠が各地にいる。その師匠たちとのやりとりが、微妙に子弟関係故の上下がない台詞回しになっている。外国の人には、日本的な子弟関係がわかっているようでわかってない部分があるんじゃないかと思った。製作はサッカーパンチというスタジオだが、プレイステーションスタジオも関係しているはずなので、監修は受けているとは思うが、シナリオを書いた方の意向を優先したのだろう。

ウエスタンのゲームといえば「レッドデッドリデンプション」があるが、こちらの製造元はロックスターゲームズだ。こちらのゲームについては、GOYEの2を購入したが、しばらくやったところでやめてしまった。理由はいろいろあると思うが、ウエスタン的なお約束というのが理解できなかったからというのが大きいかもしれない。侍ゲームだと、もちろん前作GoTを遊んでいたからというのもあるが、お約束がプレイするこちら側にあるので、なんとなく行動する方向が分かる(それ以外にも、製作者側の配慮によって、前作よりかなり遊びやすくなっている)が、西部開拓時代の終わりのアメリカにおけるお約束というのが自分の中にないのが、とっつきにくくしていると思う。そう考えてみると、ウエスタンの味わいを感じるというのもどこまで?というきもするが……

 

 

 

 

松前藩とアイヌ

このゲームの敵方である羊蹄六人衆とは、「斉藤」を首領として、その息子たちである「蜘蛛」と「龍」、忍びの「狐」、さらに家来で鬼面隊を率いる「鬼」と「蛇」のことである。さらにそれぞれの下に家来や強制的に戦わされている人々などがおり、それが松前藩と対峙している。アイヌはどちらとも組まず、蝦夷地で平和に暮らしたいと思っているだけというような存在となっている。そんな設定なので、この三つの勢力が蝦夷地の中でせめぎ合っているわけではなく、その中で戦っているのは斎藤勢と松前勢の二大勢力ということになる。斎藤は本土での戦(いくさ)に敗れて、蝦夷地へ流れてきて、そこで一旗揚げようと考えているが、蝦夷地を開放するとか、独立するとかまでは考えていないように見える。なんとなくだが、幕末の幕府軍VS維新軍の図式に影響されている気がする。斎藤は幕府軍の残党的な位置づけで想定されているのではないだろうか。

野暮を承知で指摘するが、現実には斎藤勢(羊蹄六人衆)はおらず、蝦夷地で対立する関係にあったのは松前藩とアイヌである。江戸時代には薩摩の琉球支配のように蝦夷地は松前藩によるアイヌ搾取があり、その辺の話が「ゴールデンカムイ」では強いアイヌ、ただ搾取され追いやられた少数民族というような描き方ではなくいきいきと冒険する姿を描いたことでアイヌの存在感がかなり強まったと思う。このゲームでも、篤の味方になってくれるのは確かだが、恐らく製作陣の考えからあまり重要な役割を与えられてはいない感じだった。

 

篤(あつ)姉さん

Youtubeのショート動画でも主人公のビジュアルが違ったらもっと売れていたと言っているものもあったが、その方向性が漫画的な美少女(スマホゲームに出てくるようなトゥーンレンダリングの絵柄)を指していたので、それはやっぱり違うと思った。前作でもあったイベントに、野外に突然現れる露天風呂に入ると、体力ゲージがちょっと増えると言う効果があるのだが、今回は……野郎ども!女性主人公(の入浴シーン)だぞ、ヤッホー!という感じもあまりしない。古傷が身体中にある筋肉質の女性が静かに風呂に入って「思うこと…」という選択肢を選ぶと、やはり前作のGoTであったと同じように戦いの中で、ほっと一息付ける瞬間である。それで体力ゲージが増えるというのは非常に理にかなっている(?)と感じる。

序盤は、これも前作のGoTでの主人公のイメージである侍=男というのが残っていたからか、主人公(=操作キャラクター)に何となく違和感を持ちながら進めてきたが、どの辺まで進めたころかちょっと覚えていないが、気づいたら途中から違和感はなくなり、むしろ主人公と一体化していき篤イケてる!美人じゃんよ!という感覚になっていた。最後までやって改めてアツ姐さんを見ると、かなりうっすら柴咲◯ウに似てると思った。

また、敵の首領である斎藤が篤のことを「オオカミの姫」と呼ぶのは、ゲームの途中でオオカミを助けるイベントがたびたびあり(それによって「一騎打ち」の際にオオカミが助力してくれるようになる)、オオカミと絆を深めていくことと、親を殺された篤とその弟の十兵衛が、復讐のため剣を取り負け犬ではなくそれぞれが一匹オオカミとして戦いの日々を生きることを選んだということからきている…… のだと思うが、「もののけ姫」のなかでアシタカがサンを「ヤマイヌの姫」というのからきている感も少しあると思う。ただ、篤のオオカミ感というのはそこもあまり表立ってはフィーチャーされておらず、なぜ斎藤が要所要所で篤のことを「オオカミの姫」と呼ぶのかがちょっと謎な感じはする。この辺はゲーム制作側が、あくまでプレイヤーのイメージでプレイしてほしいという配慮で、あえてそれを前面に出すイメージは減らしているのかなと思った。

 

 

 

 

前作との繋がり

ゲームの終盤、あるクエストでこのゲームと前作の繋がりを暗示させる部分があった。蒙古襲来と松島藩による蝦夷地支配はかなり時間的にずれている(正確にはわからないが、主人公は関ヶ原で戦ったのち、蝦夷地に帰ってきている)ので前作と今作の時代背景には数百年の隔たりがあるのだが、何となくあの後、ここで暮らしていたのかと思うと感慨深いものがあった。

この時間の隔たりを超えて響きあう感覚は、「ゼルダの伝説ティアーズオブザキングダム」にあったものと似ているが、あちらは、それがストーリーにとってかなり大きな要素であったのに対して、GoYのなかでのGoTというのは、あくまでおまけ的な要素になっているのが残念と言えば残念だった。

 

紛争下のJKトゥルーパーというファンタジー ~「ビューティフル・プレイス」を(4巻まで)読んだ

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芝山千代田駅へ

先日、仕事で「芝山千代田」駅へ行くことがあった。ポルナレフばりに「見てきたままを話すぜ」という話なのだが、おそらくその筋(どんな筋?)の人には全然珍しくない話だと思う。私としては以前ブログに書いた佐世保の電波塔以来の不思議体験だったので、書いておこうと思う。

その日あくまで仕事で午後イチにその駅近くにある倉庫まで行かなければならなかったので、まずはその「芝山千代田」というのをYahoo!乗換案内アプリで探した。スマホの画面上に数秒後に結果が表示されるのだが、なんとなく要領を得ないのである。試しにGoogleマップで位置を検索すると、空港の東側にあるのは分かった。その路線を辿ると、どの線路につながっているのかが判然としないのである。

空港第2ビル駅からバス停まで歩いてバスに乗るという乗換案内アプリの指示通り、まずはスカイライナーで京成の「空港第2ビル」駅へと向かった。改札を出て、ビルの入口に入る前にかつて荷物検査、パスポートチェックなどをしていたカウンターがある空間がある(今は荷物を乗せるカウンターの上に「ようこそ成田空港へ」という看板が乗っている)が、そこへ行く途中に「SB 芝山鉄道~日本一短い鉄道~」という文字が目に入った。あれ?確か目指す駅「芝山千代田」駅は芝山鉄道と書いてあったような……?と思ってその方向に行くと連絡通路がある。ここを通れば芝山鉄道に乗れるのか?と思い、その通路に吸い込まれるように入ってみた。

ここがまさに異空間への入口で、この先にあるのがMIBの本部でも驚かないという感じだった。通路としては途中に標識もあるように全長は500mしかないようだが、人気のない空間で、時折頭上をなにか重たいものが通過するような音(ジェット機が通っているんだろう)が聞こえる中を黙々と歩く。壁には「芝山町のポスター」が貼ってあるのだが、これがまた奇妙な写真で、民族衣装のようなものを着た子どもの顔に赤い絵の具のようなものでペイントされている写真と文字で「芝山町」と書いてあるだけなのだ。諸星大二郎の「マッドメン」を思い出す。

その通路の終点にあったのが「東成田」駅であった。その空間に入ったときの違和感を言葉で表すのは難しいが、とにかく自分が変なところへ来たというのはわかった。そのうえであたりを見回すと、意外にも数人の男女が思い思いの場所でくつろいでいる。変な仕切壁があり、その向こうにも薄暗い空間が広がっているのだが、そちらに目を凝らすとコーヒーショップのような看板も見える。一体ここはどうしてこうなったのか?

ひとまずその疑問は置いておいて、芝山鉄道の改札を見つけ、ICカード(モバイルSuicaだが)をかざして入場する。ホームに降りていくと、降りたホームと反対側にもプラットフォームがあるようだ。その駅名をおぼろげながら読むことが出来た。「成田空港」駅だ。これは一体どういうことなのか?

 

 

 

 

 

 

過去と今が混在する場所

Wikipediaで答え合わせをすると、以下のことがわかった。北総線経由のスカイライナー、アクセス特急が出来るまでは、こちらの「東成田」駅が京成線、スカイライナーの「成田空港」駅だったのである。昔を知る人なら「何を今更驚いているのか」と思われるだろう。ネットを検索するとこの駅をネタにしているページがいくつも見つかるし、YOUTUBEでも、動画で私が辿った道筋を見られる番組もたくさんあるので、興味のある方は見てみるといいと思う。要するにこの駅は過去の「成田空港」駅だった部分と、今「東成田」駅である部分が混在している場所ということだ。

前置きがかなり長くなったが、今回のブログの本題は「ビューティフル・プレイス」という漫画についてだ。この漫画を読んで感じたのもまさに、過去と今が混在しているところなのである。漫画の舞台背景を簡単に説明すると、N崎市(◯崎市という名前から漠然と川崎市を想像していたが、実はNは長崎のことのようだ)という架空の日本の地方都市で、内戦により市街から砲弾が飛んでくるような場所で女子高校生が挺身活動の一環として治安維持にあたるというファンタジーにもほどがあるというような設定の中で、主人公の桃子(漫研所属)が奮闘する話である。

この設定でなぜ「過去と今が混在」していると感じるのか?別に私が過去に長崎に住んでいたからという個人的な背景は関係ない。余談だが、おそらくこの作者は長崎に住んだことはないと思う。何となく長崎市のスケール感が、私の実感とはかなりズレているというのがその理由なのだが、これはおそらく文章で説明してもわからないと思う。では、何が過去なのかというと、この紛争状況下の設定が、である。

カンのいい人はもうお気づきだと思うが、成田空港は昔三里塚闘争というものがあり、ずいぶんと血なまぐさい歴史のある場所である。今回の「東成田」駅が「成田空港」駅だった頃には、バリケードや砦などがあり、駅自体の開業も数年遅れたと先述のWikipediaにも書いてあった。そして開業してからもスカイライナーが放火されたり、文字通り武力闘争があった場所なのである。

では、今は何かというと、JKのキャラクターたちの基本的な性格がである。ここは私も男性である上に今のJKとの接点もないので完全なるファンタジーとしての実感(?)になるが、過去の「東成田」駅と「空港第2ビル」駅をつなぐ通路のように、今のJKと過去の闘争(の面影)を共存させているのがこの漫画なのではないかと考えたのである。

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「犬狼伝説」の隣に

私がこれまで読んできた漫画の中で、ずーっと本棚に残っている漫画が一つだけある。押井守原作、藤原カムイ作画「犬狼伝説」である。私が持っているのは上下巻にわかれた黒と朱の表紙のやつだ。(最近完全版というか「改」という合本がでたが、やはり古い方が味わい深い)あの漫画は押井守が「プロテクトギア」というファンタジーを成立させるため、架空の歴史を設定している。その中でかつて日本が戦後の混乱期に国民同士が闘争を繰り広げていた時代に架空の存在(プロテクトギアとそれを使う武装警察)をうまく溶け込ませることに成功している。

それに比べると、この「ビューティフル・プレイス」は、時代設定としてはほぼ現代だろう。私も銃器にはそんなに詳しくないが、JKたちが装備している武器は今世界に出回っているものだと思う。それらを使って同じくJKのクランやゴロツキ、傭兵などと日々戦いに明け暮れる話はもう過去の闘争の面影しか感じない。

現実にはロシアとウクライナ、イランとイスラエル米国連合などが戦争をしているが、ミサイル、ドローンの撃ちあいに終始している。イランでは最終的に地上戦をしなければ、政権を打倒して戦争を終結させることは出来ないと言われているし、イスラエルはガザでハマスに対する地上戦を今もこの漫画のように続けているのかもしれないが、そのパレスチナ難民に対する戦闘も先の大戦後から延々続いている。つまり過去と今がが混在していると言えるだろう。

ただ、設定や背景、現実との比較は正直どうでもいい。事実、劇中でも詳しく語られていないので、なんで紛争下にあるのかもいまいちよくわからない。そんな世界の中で女子高校生が普通に通学できている上に、女子校内部にも階級闘争のようなものがある理由も謎である。でも、そんなことはどうでもいい。この過去と今が混在するファンタジーを読むことが、個人的にはサイコーだ。本棚の犬狼伝説の隣に置く場所を確保して今後も読み続けていきたい。

しかしながら、今回の4巻は今までの3巻と比べての半分ぐらいの厚みしかない。もしかして作者が、このファンタジーを書くのに飽きてしまったのかもしれないが、もともと状況を描くのがこの漫画の趣旨だと私は思っているので、休んでもいいので気長に描き続けてくれたらいいなと思っている。

 

 

人類の未来は宇宙にあるのか? ~「プロジェクト・ヘイル・メアリー」を観た

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新宿ピカデリーで観た

「プロジェクト・ヘイル・メアリー」を書いた作者は「火星の人」を書いたアンディ・ウイアーだ。「火星の人」はなんの前知識もなく、監督がリドリー・スコットだというだけで劇場で見た記憶がある。感想をブログに書いたかどうかは覚えていない(検索したらなかったので書いてないようだ)が、たいへん面白かった。ただ、そのあと「インターステラー」(クリストファー・ノーラン監督)を観て、火星の人の印象のまま登場人物のドクターマン(火星の人の主人公を演じていたマット・デイモンが演じている)を観ていて、なんか騙された気分になったという人も多いのではなかったかと思う。

本屋で平積みにされているのを見かけた時、帯に映画化決定!と書かれているので、映画を見る前に絶対読んでおこうと思って早幾年、既に公開されていることに気が付き、もう映画見よう!と先週日曜日に思い立って上映している劇場を探したが、あいにく吉祥寺オデヲンでは上映していなかった。オデヲンのスクリーンの下側が前の席の人の頭で隠れるシートを愛する私としては、大変残念な気持ちだったが、観たい気持ちを抑えることは出来ず、上映時間的にもぴったりの新宿ピカデリーで観ることにした。残念ながらIMAXではない方のスクリーンだったが、最新のシネコンのシートは縦方向へのズレをきちんと設計されているので、どのシートに座っても前に座っている人の頭がじゃまになるということはまったくなかった。うーん、やっぱりそのほうがいいんだよねー。

 

projecthm.movie

 

ネタバレ注意!

映画館のなかで繰り返し流れているティーザーでも、既になんか岩の塊みたいなものが出現しており、うーん宇宙人とファーストコンタクトする話なんだろうなーとは思っていた。確かに異星人の姿出さないと、話の内容説明できないとは思う。しかし、そこでネタバレされるとやっぱり劇中で初めて見るときのインパクトは薄れてしまうと思う。というわけで、今回の感想はネタバレ全開でいきます。

物語はほぼ現代か少し先の未来、突然太陽のエネルギーが弱まって、このままだと地球の平均気温が15度ぐらい下がってしまうという、現在の温暖化が進む地球とは反対の悩みを抱えてる世界。太陽を観測していると、太陽から金星まで赤外線を放出する線、通称ペトロヴァラインが発見される。ラインを構成しているのは「アストロファージ」と名付けられた、星のエネルギーを食べる単細胞生物であった。そのペトロヴァラインを宇宙で探索してみると、ある星系の恒星でも見つかるが、そこではその恒星が弱まっていない事がわかる。そこでその星まで行けば、何かがわかるんじゃないだろうか?ということで、一縷の望みを託す計画「ヘイル・メアリー」が発動する。計画責任者はドイツ人の女性で、何となくその表情から、この計画自体が確かなものではないという不満のようなものを感じるが、それもそのはず「ヘイル・メアリー」とはアヴェ・マリアの英語表記で、アメフト用語の「ヘイルメアリーパス」というのはゲームの終盤に一か八か、お願いマリア様!という気持ちで投げるパスのことなんだそうである。

 

 

 

 

あらすじ

ライアン・ゴスリング演じる主人公ドクターグレースは、映画の冒頭その宇宙船「ヘイルメアリー号」の中で突然昏睡状態から目覚める。コールドスリープではないという部分が重要だ。「2001年宇宙の旅」や「エイリアン」その他のSF映画では外宇宙、深宇宙へいくためには人間の寿命は短すぎるので、その間をなんとかつなぐ技術が必要だが、この映画では実現していないコールドスリープは使用せず、昏睡状態(つまりは寝ているだけ)で代謝をとことん遅くして時間を乗り越える方法を採用している。もう一つは光速にほぼ近い速度まで出すことのできる推進エンジンの存在が、かろうじてこの計画の成功可能性を0じゃないものにしているのだが、その推進エンジンは実は太陽を食べているアストロファージを利用したものなのである。このエンジンの開発中に事故が起きて、本来は乗るはずではなかったグレースが最終的に無理やり乗せられたということが、映画の終盤にわかるのだが、ここも責任者のドイツ人女性(エヴァ・ストラット=サンドラ・ヒュラ- 名前がエヴァで、日本語吹替版の声が三石琴乃であり、ミサトさんなのでグレースはシンジくん…)が、最初から最適なのはこいつなんだけどなー……と思っていたようにしか見えない。計画責任者として、少しでも計画の成功確率を上げるためには、当然の思考だと思うので、最後の最後で「あなたしかいないの」という時初めて正直に語っているように見えた。

 

 

 

 

 

未知との遭遇

とにかく、宇宙船は自動的に目的の星系まで到着するが、そこでグレースは異星人と遭遇する。今考えるとこれがなかったらおそらくヘイルメアリー計画は失敗してただろう。この広い宇宙で、同じ問題に悩む別々の星系から来た生物が出会う確率はどのぐらいと見積もられているのかわからないが、宇宙全体の広さから考えると、11光年移動したところで、その確率が増えるとは思えないので、やはりここは物語的仕掛け(嘘)なんじゃないかと思う。

その異星人は光学的な目を持たない代わりに、エコロケーションによって空間を把握する能力を持っているため、共同生活をするうえでは、同じ宇宙船の中にいる限り透視されているように丸見え、丸聞こえになるという設定は面白かった。ファーストコンタクトものは、まず最初のどうやってコミニュケーションの手段を確立するかが一つのポイントだが、今回は両者が音声を使った言語を使用していたことから、グレースがコンピューターを使って音声データをサンプリングしてデータベース化し、それを瞬時に英語に変換して読み上げるというプログラムによってほぼリアルタイムに会話することが出来る設定になっていた。最近のファーストコンタクトものではやはりドゥニ・ビルヌーブ監督の「メッセージ」を思い出すが、こちらはブログで感想も書いているが、正直あのストーリーを完全に理解できたとは言い難い。それに比べると、今回の映画はとにかく意思疎通が出来るようにならないとその先の共通の危機に対して協力して行くという段階に進めないので、ある種力技で先に進んだ感じがする。余談だが、最初に音声でコミニュケーションを試みる時に映画「未知との遭遇」で使用された五音階を鳴らすのはニヤリとさせられた。「未知との遭遇」ではファーストコンタクトしただけで終わってしまうが、この映画はその先へ進まなければならない。五本足で岩のような殻を持つ異星人をロッキーと名付け、お互いの知識や技術を出し合いアストロファージへの対策方法を発見して、なおかつロッキーの宇宙船からアストロファージ燃料を分けてもらうことで、4年ぐらいで地球に帰れることにもなるが、帰路についたヘイルメアリー号の中で突然警報がなる。アストロファージの対策となるアストロファージを食べる微生物?が培養容器から逃げ出して宇宙船のアストロファージを食べたら燃料がなくなり帰れなくなる。それをなんとか対処するグレースだが、同じ問題はロッキーの宇宙船でも起きているはずと気がつく。このままロッキーを見捨てて地球に帰るか、それともロッキーを助けに行ってその燃料を使い切るかという選択を迫られたグレースは……

 

 

 

 

地球の未来

この映画を見終わって、じわじわと湧いてくる感情があった。冒頭の危機の地球の姿は、今を生きる我々の地球と全く同じである。地球温暖化がもたらす未来は、環境異変や食糧問題を引き起こし、やがて人類は壮絶な生き残りのための闘争を始めるだろう。映画では数々の幸運が、地球を救うが我々にそのような幸運はあるだろうか。

「火星の人」でもそうだったが、原作者のアンディ・ウイアーは科学技術の発展に対してポジティブなイメージを一貫して持っているように見える。しかし現実には世界はどんどんきな臭い方向に進んでいるし、そこにも科学技術は使用されている。AIやドローンなどの新しい技術は、本来人類の未来のために使用するべきなのに、安直な作成、安い兵器のために使用されている。映画の中で描かれていた「人類が異星人と協力して、星の危機を乗り越える」というファンタジーが、限りなく遠いもの思えて言葉を失ってしまった。

ポッドキャストのライバルはラジオ?~「プロ目線のポッドキャストのつくり方」を読んだ

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独り言オブ独り言

2026年になって、相変わらずブログの更新数が月に1回もできていな状態が続いている。毎年毎年のことだが、別に誰からも頼まれているわけではないので、一ヵ月あたりの更新数など誰にも関係ない個人的なことではある。しかし、個人的なことを書くブログなので、個人的な事柄を書くのは普通だろうとも思う。そんなことを書いても読者には全然関係ないので大変申し訳ないと思うので、さっそく本題に入ることにする。

 

プロ目線のPodcastのつくり方

プロ目線のPodcastのつくり方

  • 作者:野村高文
  • クロスメディア・パブリッシング(インプレス)
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iPod登場

音楽の聞き方が変わったのは自分としてはアップルからiPodが発売されたことが大きかった。なにせ、自分の持っているCDライブラリは全部格納することができる上に、ポッドキャストと言ってラジオ番組のような音声ファイルもiPodにコピーすることでいつでもどこでも、何回でも聞けるようになった。

私がかつて聞いていたポッドキャストはやはり小島監督の番組で、元々番組名も「ヒデラジ」とついていたので、ラジオ番組だったのかもしれない。今も「コジ10」がやっているのでたまに聞いたりするが、昔からずっと変わらないのは、とにかく小島監督の物事に対する面白がり方が面白いので、小島監督以外の出演者はほとんど聞き役に徹している感じだ。つまり聞いているリスナーもその場で話を聞いているというスタンスになる。

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ポッドキャスト=ラジオ番組?

今回読んだ本によると、アメリカではいまポッドキャストが大変はやっていて、日本の状況は(リスナーの数が)その10年前の水準なので、今後10年できっと日本でも同じ水準になりみんながポッドキャストを聞くようになるので、何らかの情報発信をしたいと思う人は今始めるべき!……ということで、ポッドキャストを始めるためのノウハウを惜しみなく公開しているのが表題の本である。
先述した小島監督のポッドキャストは、元々はラジオ番組であり、今やっている「コジ10」も最高の10時にしよう!というキャッチコピーで夜の10時台に放送されていたものだと思われる。ポッドキャストとはラジオ番組を単にオンデマンド版にしたものなのだろうか?まずそこを少し考えてみたい。

 

ラジオ=時間

ラジオは番組表によって決められた時間に放送されるという、時間に依存する性質がある。それに対してポッドキャストはいつでも好きな時に聞くことができるし、過去にリリースされた回も同様に好きな時に聞くことができると同時に何度でも聞き直すことができる。ポッドキャストには時間に対する制約はない、ということに対して、ラジオ番組には、その時間に紐づいた情報を受け取ることができるという時計の機能、もしくはその先の未来に対する予測の材料になる情報(天気予報や交通情報、ニュースなど)をリアルタイムで入手できるというアドバンテージがあると思う。

ポッドキャストで元々ラジオ番組だったものがオンデマンドになっている番組を聞くと、これは私の個人的な感想かもしれないが、録音であっても、放送される時間を意識して収録されており、その時間帯の空気が番組の中で流れるように作られている感じがする。(あくまで個人の感想です)

 

ポッドキャスト=無時間

上のことを言い換えると、ラジオ番組はラジオを点けた時にやっている番組を聞くしかない。そのための選択肢は別の局を選ぶことだけである。能動的に特定の局の特定の番組を選ぼうとすると、その時間に待ち構えていて、ラジオの電源を入れる、もしくはラジコのようアプリを立ち上げることになる。かつてはテレビも(ビデオで録画しておいて後で観るという方法はあったが、それを言えばラジオこそエアチェックと称してラジカセで録音しておき、後で聞くという方法もあった)番組表に書かれた時間になったらテレビの前に座ってそれを観るという方法だった。

一方で、純粋にポッドキャスト用として作られた番組は、特定の時間に紐づいているという感覚はない。その点はYouTubeの番組と同じである。YouTubeもオンデマンドに見たいものをその都度選ぶことができる。かつてのテレビで出来なかった事ができるようになった便利さはあるが、NetflixやAmazonプライム、その他の動画配信サービスも時間性というものが失われているので、かつてのお茶の間のような空間の共有も必要なくなった。繰り返しになるが、ラジオにも昔は同じような時間と空間を共有する役割があったと思う。かつての実家では朝の台所にはラジオがついており、時間やニュースや天気予報、交通情報などを聞きながら、通勤通学の準備をするのが普通だった。

 

ポッドキャスト≠Youtube?

要するに、ポッドキャストには、時間性はなく、オンデマンドで選択して聞くものだということだ。その部分をYoutubeの番組と比べてみると、Youtubeの方はサイトに行くとサムネイル画像が並んでいて、マウスカーソルを上に置くだけで触りの部分が再生される。無音でもキャプションがあるため、どういう内容の動画なのかが分かる仕組みになっている。もちろんそこに並んでいるのはGoogleさんによっておすすめされている動画なので、そもそも見たいものがある場合は検索すればいいが、自分が登録しているチャンネルをもとにおすすめを並べているので、大抵の人はかなりの確率でそこから選ぶことになると思う。

いま、ポッドキャストを聞こう!と思って、たとえばスマホでアップルポッドキャストやSpotifyを起動したところで、リコメンドされるものがほぼない状態だ。なので、他の媒体でオススメされていたものをほぼ指名で聞くことになると思う。この辺が10年前のアメリカではどういう状態だったのか?はよくわからないが、少なくとも私が物理ホイールのついたiPodを入手して、その中に「ポッドキャスト」されたものを同期させて聞いていた頃も、iTunes Storeの中にポッドキャストのコーナーはあったが、音楽番組かニュースぐらいしか見つからなかった記憶がある。

この本によると、ポッドキャストの強みは「ながら聴き」ができることにあるということなのだが、ながら聴きするために、数少ない選択肢の中から内容を想像して選んで聞くという手間がかなりハードル高いのではないだろうか。言い換えるとこの部分が、ラジオのスイッチを入れて今流れているものを聴くという行為と同じレベルまで下げないと普及は難しいのではないかと思う。

 

はじめるなら

とはいえ、なんとなくあと10年でアメリカ並みに普及するメディアということで、今のうちに青田買いではないが、種を撒いておくという意味でポッドキャストを始めてみたいと考えている。別のYoutubeの番組にこの本の著者の方が出ていた対談番組で、ポッドキャストの企画として万博などであるパビリオンを想像するとわかりやすいという例え話があって、それが結構腑に落ちた。話題や興味を羅列するこのブログなんかそうだが、万博ではそれぞれの国ごとにパビリオンが作られていて、なんとかという国について知りたいことがそこにわかりやすく並んでいれば、そこに行った人はその国のあらましについて理解するだろう。ポッドキャストも、全体の括りとしてそこに行けば何についてわかるのか?というのが最低限必要ということかもしれない。まずは自分のこれまでのブログのトピックの中で一つの世界観、一貫性を持たせられるトピックを選んで、それらをパッケージにできる番組タイトルを考えるところから始めてみようと思う。

 

正月のリフレイン~ 「パラノマサイトFile38伊勢人魚物語」をプレイした

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花粉がひどい

毎日朝のNHKの番組の中で当日の天気予報をやっているが、その最後に花粉の飛散状況を予報する画面がある。関東全域が紫色に塗られているのをみて戦慄する毎日を送っているのは私だけではないと思う。紫色の意味は五段階の最上級の花粉飛散状況を表す「極めて多い」だ。久々に鼻の奥がキリキリ痛い感じとか、目頭がじんじんするほど痒いという状態で、まとまった物事を考えることさえ難しいような時間も頻繁に訪れる。

新聞やテレビではイスラエルとアメリカがイラクに戦争を仕掛けて、ホルムズ海峡が封鎖されるなど、今後日本にも影響のありそうなニュースが報道されているので、それらに対しても個人的にできる範囲で防衛していかなければと思うが、そういう気力を花粉によって奪われている気がする。これって、私以外にも大勢の人間が同じような状況だと思うが、それによって日本全体の対応も遅れるんじゃないかと心配になる。

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現実逃避?

そんな状況で呑気にゲームの話をするのもなんだか場違いな気もするが、今回感想を書くゲームはスイッチの「パラノマサイト File38 伊勢人魚物語」である。前作の「パラノマサイトFile23本庄七不思議」もたいへん楽しませてもらったが、結局感想を書かずじまいだったので、今回は是非とも書いておこうと思った。

前作と合わせてこれからやってみようかなと思っている人には、あまり参考になることをかけるとは思っていないので、むしろ少しでも興味があればすぐにプレイすることをおすすめします。ちなみに、これからやってみようと思う人に対しては、このゲームはダウンロードでしか買えないという点だけは注意が必要かもしれない。私も今回はパッケージで買おうなどと考えていたが、ダウンロード専売なので、そもそも店頭で売られることはない。スクエニのサイトで豪華付録付き(?)みたいなものを売っていたが、それにしてもソフト自体はダウンロード版しかないのである。(もしかしたらコンビニなどで見かける「ダウンロードカード」はあるのかもしれない)

 

 

前作「File23 本所七不思議」について

今作をやり終えてから、久々に前作の方を立ち上げてみたら、色々と演出面で違いがあることに気がついた。その一つが、画面がブラウン管風に歪んでいる(中心が凸になっているように絵が歪んでいる)ことである。これは内容を知っている今から考えると、非常にしっくり来る演出で、昭和後期のTV文化に対するオマージュのようなものが沢山でてくるからだろう。前回のストレンジャー・シングスと同じで、それを匂わせるようなキャラクターや事件が出てくるため、ブラウン管テレビというのはその象徴のようなものであると思う。

話の内容は「呪い」によって人を殺すことができる「呪詛玉(じゅそだま)」というアイテムの争奪と、それを使った生き残りをかけた呪殺バトルにより、本所七不思議をベースにした謎解きをしてアドベンチャーゲームとしては、真のエンドまでたどり着くことが目的のゲームであった。

ゲームをやり終えたすぐは、自分の中でもかなり盛り上がっており、ちょうど錦糸町パルコでポップアップストアがやっていたので、わざわざ見に行った記憶がある。なんか売っていたのは急ごしらえのキャラクターグッズばっかりだったので、何も買わずに帰ったが、推し活的に考えると、ああいうものを熱心に買い求めてお布施するのも一つの方向性なのかもしれない。

私が前作でツボだったキャラクターは「探偵」と「主婦」であった。そのやりとりが大変味があり、テキストを読んでいるだけでニンマリとしてしまった。これに関しては昭和レトロ感とはあまり関係がなく、このゲームのテキスト、シナリオを書いた人の味だったと思う。そのへんのキャラクターのグッズでも買おうという腹づもりだったのだが、残念ながら食指が動くものはなかった。むしろ各キャラクターの気の利いたセリフ(文字)だけでも十分グッズ化できそうな気がしたので、そのへんのものがなかったのは残念であった。

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今作「File38 伊勢人魚物語」について

その前作から、システムやキャラクターイラストの絵柄などはそのまま引き継いでいる。絵柄のこれまでにない感じは、なかなか説明しにくいが、いい意味で泥臭いタッチというか、劇画調というか、この辺も昭和の漫画世代の漫画家のタッチ的な線の太さみたいなものをうまく取り入れている。劇中の書き文字も毛書体で、そのへんの演出は今回も引き継がれていたと思う。

個人的には伊勢志摩は、前回のブログにも書いた通り正月にちょうど訪れたばかりの土地だったので、季節は全く違うものの、土地の雰囲気は記憶に残っていた。そのおかげで大変臨場感のあるゲーム体験になったと思う。このゲームのおかげで更に伊勢志摩が盛り上がると良いが、聖地化までするのかどうかは微妙かもしれない。このゲームの舞台の殆どは「亀島」という島の中になるし、そのモデルとなった島(神島)というのがあるらしいので、そこに詣でる人も増えるかもしれないが、本土側はその土地の特徴のようなものはあまりフィーチャーされておらず、また事件も既に起きてしまったあとで、本筋のための情報収集の場所に終始しているのが少し残念だった。伊勢の観光地といえばやはり伊勢神宮や鳥羽水族館などもあるが、人魚伝説、平家伝説などと絡めるのも難しかったかもしれない。

今作では、主役以外で癖のあるキャラクターとして、海外からの来訪者二人組がいる。今、盛んにインバウンドやオーバーツーリズムが問題になっているが、昭和後期では外国人観光客はそんなに頻繁に見かけるものではなかったと思う。ただ、テレビのなかではおかしなアクセントの日本語を喋る外国人が必ずいつの時代にもいた気がする。そっちをモデルにしていると考えると、ちょっと癖のある喋りもノスタルジーというかレトロというかそのへんを感じさせる気もするが、今回もシナリオ書いている人の筆のノリが良かったのもこのキャラクターだった気がする。

ゲーム全体としてはトゥルーエンドまでやった感想として、大変納得の行くシナリオだったし、夏だ!海だ!青春だ!みたいな(これも昭和的なキャッチフレーズか)感覚と伝説と永遠性みたいな希少感がうまくマッチして大変満足した。本当にまた同じクオリティーで第三弾を期待してしまう出来であった。

 

おまけ

実はこの「伊勢人魚物語」の前に慌ててクリアしたゲームが有る。ある意味似た種類のゲーム「都市伝説解体センター」である。前作とコラボしたり、未だに本屋に行くとコラボカバーの文庫本などが売られている。オカルトを題材にしているところも似ているし、方向性は少し異なるがドット絵でレトロ感を感じるデザインも近いものを感じる。逆に似たような題材(オカルト)だったので、差別化のために見た目の印象はだいぶ違えて来ていたと思う。ただ、オカルトという題材とあのドット絵は、相性良かったか?と言われると疑問だ。そういう意味ではパラノマサイトの劇画調のほうが親和性は高かった。

こちらのゲームのオチは!!!とビックリマークが3個ぐらい並んでしまう感じ(ネタバレはしません)なのだが、次回作は難しい感じの一発ネタだったで少なくともインパクトはあったと思う。

 

2026年の初頭に思うこと~「ストレンジャー・シングス」完結編を観た

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あけましておめでとうございます

もう新しい年も明けて1月も後半になろうとしているのに、あけましておめでとうもないもんだとは思うが、一応新年一発目のブログなのでお決まりの挨拶から始めさせていただきます。

今年の正月は数年ぶりに帰省して、さらに親族一同で伊勢参りに行ったついでに志摩スペイン村に立ち寄った。元旦のスペイン村は正直空いているといっていいのではないかと思うが、その理由はほぼすべての乗り物系アトラクションが20から30分待ち以内だったことである。並んで待つ場所の広さからして、普段はもっと長蛇の列ができると思われるので、湖風と思しき寒風吹きすさぶ中、いろんなアトラクションに待たずに乗れたのはたいへんありがたかった。理由は基本屋外のため待ち時間が寒いからである。20分まって実際にスペイン村にあるジェットコースターの中で一番規模の大きな設備である「ピレネー」に乗った。

3分半ぐらいのライドだが、その短い時間にアラカンの実力というものを思い知った。正直ジェットコースター乗るのも10年ぶりぐらいだったのかもしれないが、昔はコースターの先を意識が進んでたが、今乗ると、完全に意識が置いていかれる。体が先に運ばれていって、あ、あ、ちょっと、ちょっと待ってーー!……と思いながら乗ってる感がある。もう少しすると魂と肉体が分離しそうな感じだった。ちなみにジェットコースターの類は年齢制限があり12歳以下(身長制限もあるが)と65歳以上は不可だった。65歳超えたら自動的にジェットコースターに乗れなくなるのだ。今回乗ったのがおそらく最後かもしれないが、もう乗らなくていいと思った。

 

https://www.parque-net.com/

 

「ストレンジャー・シングス」完結!

「ストレンジャー・シングス」というNetflixのドラマを観だしたのはコロナの最中だったと思うが、とにかく第一シーズンの出来が素晴らしく、これは絶対に続けてみなければと思って、それ以来Netflixにはずっとお布施(投げ銭)をし続けている。世界中にそのような人がたくさんいたのだろう。それこそ年末にはついにワーナー・ブラザーズを買収(しかも現金で)というニュースがあったぐらい儲かっているようだ。これまでブログでは一度もまともに感想を書いていないが、毎シーズンリリースされると同時に一気見して、一息ついて、次のシーズンはどうなるんだろう……と考えながら待っていたものだった。

今回のリリースは、年末というか11月の終わりにPart 5の1話から4話、12月26日に5話から7話、そして1月3日(ちょっと定かじゃないが……)に最終話である8話がリリースされた。Part 4からしばらく立っていたので、一旦は1話から3話ぐらいまで観たのだが、これを機会に最初から見直してみようと思い立って、Part 5を観るのを一旦中断して、まずはPart 1から見直した。これが自分でも面白いぐらいに(ドラマの内容ももちろん”面白い”のだが)内容を覚えていないのだった。自分の記憶の中で勝手に作り変えられていたり、そもそもこんなシーンあったっけ?というようなものがたくさんあり、正直初回と同じぐらい楽しめたと思う。

其の上で、第五シーズン、最終話まで観たので1月も半ばを過ぎてしまった。直前におさらい視聴をしたので、第五シーズンでは色々過去のシーズンでの描写が参照(カットバック)されることがあったが、その意味がきちんと理解できたことも大きかったと思うが、とにかく最後まで安心して楽しんで観ることができた。あの結末についてはいろいろと言いたいこともあるが、ストーリー上の事実としては不満はないし、何よりこれだけの要素を詰め込んで破綻なく(最高に盛り上げて)終わらせる事ができた制作陣に惜しみない拍手を贈りたいと思った。

 

 

研究や解説はしないけど感想など

おそらく世の中には研究本や解説本みたいなものが出てるのかもしれないが、そういう本のようにあのシーンのあれは、アレのオマージュで……みたいなことを書き始めたらきりが無いので、それはそういう本やサイトにお任せする。そのうえでこの第一から第五までのシーズンすべての感想を書いてみたい。今アラ還のワタシが書く感想は、それこそ今の主役Z世代、アルファ世代とかとは全く違うだろう。逆にそういう年齢の方々が、このドラマをどのように面白く感じたのか?のほうが知りたいと思う。いや、きっと面白いはずだ。年代を超えた普遍的面白さが、このドラマにはあると思う。

私の世代というのは、まさにこのドラマの主人公マイク、ウイル、ルーカス、ダスティンの年代なのだ。ということはドラマ的にはアラ還になった4人というのが(死んでなければ)この2026年のアメリカに生きているということになる。その地続き感からするとなんて世界は変わってしまったのだろうと思う。もしかしたらラストで今を生きている4人にフォーカスするかなーと思ったが、逆にこのドラマの制作陣は、ドラマ的な時間の(現代との)距離を置いたままエンディングを迎えさせた。ファンタジー色の強い作品であることを考えると、そのほうが良かったと思う。この変わり果てた現代に戸惑う主人公たちを誰も見たくないのではないだろうか。

 

個人的なツボ(ネタバレあり)

最後に個人的にツボだった部分に付いて書く。たぶんネタバレになると思うので、知りたくない人は先にドラマを視聴してから読まれることをおすすめします。

 

1 マッド・サイエンティストたち

まずツボだったのは「パパ」ことブレンナー博士(マシュー・モディーン)の後釜として就任するオーエンズ博士の役者がエイリアン2の悪徳武器商人企業のバーク役をやっていた人(ポール・ライザー)だったことと、シーズン5で更にオーエンズ博士の後釜というか、研究成果を横取りしようとする軍のケイ博士がターミネーターシリーズのサラ・コナー役(リンダ・ハミルトン)の人だったことだ。どうせならシガニー・ウィーバーにやってほしかった気もするが、どちらも当時の映画での役柄を思い出してしまうため、オーエンズ博士は最後までいい人なのだが、どうしてもここ一番で裏切るという印象が強いため、見ていてほんとか?!ホントにいい人なのか?!と思ってしまった。リンダ・ハミルトンに関しては、完全なる敵役なので、まあなにするかわからん不気味さがターミネーター2以降の姿と重なっているせいでこちらも画面に出てくるだけで緊張感がマシマシだった。ちなみに最初のブレンナー博士役の人は、個人的にあまり知らないのでそういう効果がなかったが、今ちょっとウィキペディアを調べたところ、フルメタル・ジャケットに出てた人だったが残念ながら印象がなかった。

 

 

 

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2 ダンジョンズ&ドラゴンズ

このドラマの最初と最後はテーブルトークRPG=TTRPGである「ダンジョンズ&ドラゴンズ」をプレイするシーンで始まり終わる。ドラマの最終回のエンディングでもTTRPGの「ストレンジャー・シングス」のゲームブックを閉じる形で終わる。残念ながら私はTTRPGをやる仲間がいなかったので同年代の頃に実際に日本でも流行っていたかどうかもあまりわからない。ただ、私の中学生の頃はゲームブックというのが流行っていて「火吹山の魔法使い」という本を友人が持っていた記憶がある。ストレンジャー・シングスのシーズン1を見た直後に興味本位でダンジョンズ&ドラゴンズのスターターキットなるものを買ってみたが、もちろん中学時代に一緒に遊ぶ仲間がいなかったのに50代のおっさんにテーブルを囲んでサイコロを振ってくれる仲間がいるわけもなく、パッケージを眺めて、内容物を確認しただけで棚にしまった。「火吹山の魔法使い」のゲームブックの方も先日復刻されるというニュースを見て一瞬食指が動いたのだが、値段を見て回れ右をした。全シーズンを見終わって、再びD&Dをやってみたい欲が高まっているが、今検索すると「ダンジョンズ&ドラゴンズ デラックススターターキット」というものが売っている。これだと2人ぐらい(頑張れば1人で)遊べるようだ。ちょっと検討してみたいと思う。

 

 

 

 

3 キャラクター名の匂わせ効果

1とも関連するが、キャラクターの名前の付け方にも同じような効果を感じた。当然その時代を知っている人限定の効果にはなるが、例えばメインキャラクターのマイク=マイケルといえばマイケル・ジャクソン、ルーカスといえばもちろんジョージ・ルーカス、ダスティ(ホフマン)など1980年代当時を知る人間にはメジャーな人たちの名前を意図的に使っていると思われる。

ただ私個人的にはウイル=ウィリアムやナンシー、スティーブ(マックイーン?)、(デニス?)ホッパー、ジョイス、エリカなどはあまり特定の人物は思い浮かばないが、それでもメジャーな(よく物語などで目にする名前)ではあると思う。

 

最後に

正直、すべてのシーズンを見終わってロス感はあまりない。そのへんも物語が正しく着地したからなんじゃないかと個人的には思ってる。冒頭に書いたようにジェットコースターのようにアップダウン(アップサイドダウン)の激しいドラマではあったが、各シーズンごとに実際に成長していく役者と、丁寧に作られた脚本、妥協のない画面づくり(おカネあるから?)によりイチ視聴者として置いていかれることなく乗ることができた良作であったと思う。機会があればまた最初から見直して、また新しく気づいたことがあれば語ってみたいと思う。