常盤平蔵のつぶやき

五つのWと一つのH、Web logの原点を探る。

元祖「裏世界ピクニック」!~ 「ストーカー」を読んだ

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「やりなおし世界文学」紹介本シリーズ

今回も「やりなおし世界文学」紹介本である。この本の紹介しているジャンルは、いわゆる古典文学だけでなく、SFもいくつか入っているところが面白い。今回はその数少ないSFジャンルから選ばれている「ストーカー」を読んだ。

確かにこの「ストーカー」は、私がまだ中高生だったころに水色の背表紙の早川SF文庫にあったし、その当時からタルコフスキーの映画化によってアニメ雑誌やSF雑誌で言及されることがあったため、気になる本ではあった。今回早川が文庫全体で進めている新訳版によるリプレイスによって本も少しだけ背が伸びていて、本棚にあるとすぐ新版とわかるようになっているのもうまいと思う。しかし、世の中でストーカーという言葉が違う意味で使われてニュースなどで目にする機会が増えたからではないが、この作品の方はいつしか忘れてしまっていた。今回思い出させてもらう良い機会となった。

 

 

 

「ディスクロージャー・デイ」を観てしまった

実はこの本を読み終わってからスピルバーグ監督の「ディスクロージャー・デイ」を観た。日本公開が本国の公開から一か月以上後らされたのにはどんな意味があったのかはわからない。しかし、その間ネタバレ的な情報も特に入ってこなかったと思う。

その理由は、すでにスピルバーグがいつも言っているあの話がとうとう「絵」になったというだけだったために、あまりアメリカでも話題にならなかったのではないだろうか?

本来なら、ブログに単独で取り上げるレベルの尊敬する監督の最新作品であり、それを公開時に劇場で見るという体験は実は私の中でもかなり珍しいことなのではないかと思うが、なにしろ間が悪かった。なにがかというと、「ストーカー」読んだ直後にこの作品を見てしまったことがである。

ある意味ファーストコンタクトものという共通点はあるが、全く真逆の話になっている。かたや、友好的なのに隠されていた宇宙人、もう片方は、人類には全く関心がないし、もうすでに居ない宇宙人(?)の残骸が、超絶オーパーツばかりなので、訳もわからず死んでいく人達がいる中、命からがらそれらを持ち帰って、それを利用したり、売り買いしたりする人達の日々の奮闘を描いている。「裏世界ピクニック」の様に、オカルト的な世界観もない。この作品での来訪者は本当に謎だが、まったく次元の違う残骸を残していっており、その残置物をみるにつけ、イソップ物語のカエルの王様が言う「あなた方にとっては遊びだが、私たちにとっては死である」という言葉を思い出した。

 

disclosureday.jp

 

「裏世界<ピクニック>」の元祖 

まさにその「裏世界ピクニック」であるが、私は先にこっちを読んでいたので、まさかこの「裏世界」という世界観にルーツがあったというのは今回この「ストーカー」を読んで初めて知った。そう考えると、そのストーカーのロシア語原題が「路傍のピクニック」であることから、タイトルに「裏世界<ピクニック>」とつけているのは先行作品に対するリスペクトも入っているのだろう。裏世界の方では<グリッチ>と呼ぶ普通には知覚できない罠のようなものを、ナットを投げて探るという行為も、ゾーンにおけるストーカーの基本的なふるまいだったと思うので、そこにも先行作へのオマージュが感じられる。

また、ゾーンに入った人間が、逆にゾーンからも影響を受けてしまう部分も、本作ストーカーでは、全く意味不明で役に立たない、もっと言えば害をなすものばかりだが、裏世界ピクニックでは、裏世界に対する「<目>=観察」と「<手>=操作」を可能とする能力として、主人公たちに与えられることで、チートではないが裏世界での活動を一つ進んだものにできている。そういう意味ではゾーンに対する知覚や操作ができるような技術が、地球上の科学では全く出来ないというのも不思議だが、ストーカーのなかでは、ゾーン内部での物理法則レベルで異なるような世界観なので、とにかく来訪者という存在が、まったく次元の異なるところから、ただ一方的に通過していったということなのだろう。物語の中でも出てくるが、アリや虫のレベルで、人間が残した痕跡を理解することはないし、ましてやそこから何か有益なものを見出すこともあり得ないという構図を来訪者と人類に当てはめてみるしかないようだ。

 

 

 

キャラクター

主人公であるレッド(レドリック)という人間は、なぜかストーカーであることに対してある種のプライドを持っている感じだが、それがどこからきているのかはいまいちわからなかった。ある種の極限状態を知ってしまった人間(映画「ハート・ロッカー」の主人公とか)のようにゾーンでしか生きている実感を感じられなくなった人間なのかもしれないが、そのゾーン内での心情描写は本書の読みどころの一つだと思う。ロシア文学(そんなに読んだことがあるわけじゃないけど)的に人間の内面を克明に描写することで、小説世界が立ち上がってくる。

そのレッドの娘を<モンキー>と呼ぶのだが、その名前の由来は全身に毛が生えていて、レッドにまとわりついて饒舌にしゃべることからきている。これもレッドがゾーンに行ってから、子供を授かったことに関係しており、ゾーンから受けた影響が遺伝子レベルで作用していると推測させる。そして、物語の後半ではすでに言葉をしゃべらなくなり、医者曰く「すでに人間ではない」という状態になっていく。不気味な存在なのだが、それでもレッドは娘であり続けてほしいと思っている。

この話にはワレンチン・ピルマンという科学者が出てくるが、この人もゾーンに対する不可解さについていら立っているようである。一応話の中ではノーベル賞をもらった学者ということになっているが、彼の研究によっても全くその原理や目的が全くわからないようだ。物語の最初と最後のほうに出てくるが、最初に出てきたとき、<ピルマン放射点>という科学用語についての説明がある。地球の内部を貫通して入り口と出口がそれぞれ三か所ずつあるという説明で、それが地球の自転によってカーブを描いていると述べている。要するに来訪者の進路は地球が自転していること、もっと言えば地球がそこにあったことも全く意に介せず直進していったことを示している。そこまで別次元の存在というものを想像するという作者の感性に脱帽する。

そして、忘れてはならないのはHくんである。彼は午前中の授業と午後の遅い授業には出席していた。ところがその同じ日に200㎞離れた福岡で元カノに目撃されていたのである。私はその話を同級生から聞いた。確かのその当時のHくんはどこか遠い目をしていて、なんとなくこの世の理から離れているような感じだった…… え?いや、この本の登場人物の話ではなく、同級生で<ストーカー>になってしまった男がいたという話である。又聞きで聞いた元カノの証言は以下の通り。「学校からの帰り道H君によく似た人を見かけた気がするが、H君そっちにいるよね?ちゃんと学校行ってるよね?……」その話を聞いた時の戦慄した気持ちも思い出したので、ここに記載しておく。

映像への飛躍と現実との乖離~ 「ラスト・サバイバー」を観た

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立川シネマシティワンで観た

原作を読んだので、映画を観なければ、劇場へ行かなければと思っていたのだが、上映のスケジュールを確認したところ、みんな夜6時以降の一回上映になっていて驚いた。現実にこれだけ雨が降り続いていて、気分も滅入っているところで、人類が滅びかけている映画なんか見たくないというのは全くその通りだと思う。連日長雨大雨による被害が報道されているし、この後もまだ台風が来ていて、いったいこの雨はいつやむのか?と半ば本気で心配しだしている。地球温暖化で雨や台風の被害は、どんどん深刻になってきてると思うが、この映画ではあまり温暖化には触れていなかった。

先ほども述べた通り、このまま待っていても上映劇場自体がどんどん減っていきそうだったので、15時ぐらいから上映している立川のシネマシティに行くことにした。いつも私が見る映画はシネマシティのツーのほうが多いのだが、今回はワンのほうでの上映だった。スクリーンの前に座ってみて思ったが、そもそも見たいと思っている人がどんどん減っているせいで、小さめのスクリーンでの上映になっていた。うーん、いかにリドリー・スコット監督とはいえ、この長雨の影響には勝てなかったと見える。

関係ないが、この映画のヒットにあやかって売ろうと思ったとしか思えない、ブラッド・ピット主演の「ハート・オブ・ビースト」の予告編もやっていたが、こっちも同じような理由で共倒れになるのではないだろうか。

 

tokiwa-heizo.hatenablog.com

 

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キャスティングが良かった

そのブラピの向こうを張って、この映画の主役は実はNetflix版「フランケンシュタイン」で主役(?)のフランケンシュタインを演じたジェイコブ・エロルディが主人公ヒッグを演じている。この配役は、原作を読んだイメージからすると非常にマッチしていて、好感が持てた。その相棒のバングリー役はご存知指パッチンで世界の人口の半分を消した男を演じていたジョシュ・ブローリンである。小説版のバングリーは前半主人公と緊張感を持った関係である。そこは映画版でも同じように描かれていたが、後半主人公はバングリーが暮らしていた部屋をみて、その人格を理解してからバングリーに対する印象が一変するというくだりがある。映画版ではやはり映像で最初から人間を見ていると、そこまで不気味な印象はないし、さらに後半になると小説では最後まで近づくことがなかったメノー派の人々が暮らす集落に行き、宴の場に参加してギターを弾きながら人々の輪の中に入っていくという変わりようを見せる。

そしてシーマである。小説の中でも主人公と絡んで大変重要な役だったが、いったいどんな人をキャスティングするのかと、一番注目していた。予告編で見たときには、ああよかったと思ったが、実はすでによく見ていた女優さんだということを今回調べてみて初めて知った。マーガレット・クアリーは私の大好きなゲーム「Death Stranding」のママー役の女優さんだったのである。やはりゲームの中でデジタル化されている人と生身の人の映像は全然印象が違う。特にそのスケール感が全くわからないのが、こうやって映像で見るとよくわかる。主人公はフランケンシュタインの時もそうだったが、かなり身長の高い人なので、今回はシーマがかなり小さいように見える。

 

 

 

 

 

小説と変えてある部分

今回の映画では原作を先に読んであったので、映像化にあたってなにを変えて何を残すのかをより深く知ることができた。映画「ブレードランナー」にも原作「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」があるが、その時は原作を脚本に直して売り込んだ男がいて、その人のアレンジがあの映画の方向性「フィルムノアールな雰囲気でハードボイルドSF」を決めている部分があるので、その上でリドリー・スコット監督の映像が大変美しくはまっていたと思うが、今回はどうなのだろうと思って観た。

この小説の原題が「The dog Stars」なので、キャスパー(シェパード犬)がどう描かれるかはかなり重要だったと思う。小説では老衰で死ぬが、映画では小説では別々のエピソードだった部分をうまく一つにして、ヒッグがバングリーの元を離れるという行動につなげていた。ただ、バングリーのキャラクター的にあのような「ミス」(アクシデント)によってジャスパーを失う状況になるというのはちょっと考えにくい。キャスティングのところにも書いたが、映画版のバングリーは小説版と少し異なるキャラクターに設定したと理解した。

小説で一番難しいと感じたところが、シーマと父親が暮らす農園にヒッグが接近する場面だった。ここを映画ではどのようにリアリティを失わない方向(と言っても映画としてのカタルシスも欲しい)で三人を一緒にできるようにするのかと思っていたが、なるほど、映像として見せてしまえば、こういう形で軟着陸させるというのもありなのだなーと思った。ただ、このお話の根本的な設定として、よそ者は殺すというのが基本のスタンスなので、小説のほうの作者もここの着地点にはかなり神経を使っていたと思う。そこを「あれ」と「あれ」の出現によってある意味強引に着地させてしまうのは映像の力だと思った。

そして、グランド・ジャンクションである。前回のブログでもその場所で何が起きたかは現時点ではネタバレしてはいけないと思うので、今回も詳細は書かないが、あの世界観はまさにリドリースコット監督のものだと思った。この部分があることである意味娯楽作品的なカタルシスもあると思うので、もう少し人気が出てもいい映画なんじゃないかと思ったが、しかしそのネタをばらすわけにもいかないのが大変残念なところではある。

エリー空港で一人になったバングリーに無法者集団が襲い掛かってくるシーンは、ゲーム「DAYS GONE」の走るゾンビがよみがえってしまい、かなりの既視感を感じた。ここは原作通り、特殊なカルト集団のような姿ではなく、あえて普通の人間のなれのはての容貌で装備も貧弱だけど数を頼んで獰猛になっているような集団の方が、新鮮味があったような気がする。

 

 

 

 

ラスト・サバイバーだったのか?

結局のところタイトルが残念な感じで、印象をひどく中途半端なものにしていると思う。最初の小説版の邦題「いつか僕が帰る場所」というのも微妙だし、原題そのもの(犬の星)でも、この物語が含んでいる詩情を表しているが、やはり難しい。「最後の生き残り」というタイトルでセンセーショナルにあおって劇場に足を運んでもらうという映画ではなかったように思う。「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」を「ブレードランナー」として、今ではそれが伝説となっているが、そっちの方も劇中には一応レプリカントを処分するハンターをブレードランナーと呼ぶという設定はあったが、ブレード(刃)はどこに出てきたのか?というぐらい、なぜそう呼ばれていたかについては説明がない。

今回のラスト・サバイバー(最後の生き残り)も、まだ本当にラストになるには生き残りがたくさんいる感じだ。もともとこの話はコロナ前にに発表されているが、人類はコロナ禍を経験してなお、大幅にその数を減らすことなく繁栄を続けており、それによって地球温暖化は止まらず今年の夏のような異常気象を引き起こしていると思う。しかしこのような異常気象の夏も、その時は大変だが何となく通過してしまうだろう。本当の最後はAIによってもたらされるともいわれているが、本当のラストサバイバーがどんな形になるのかは今のところ全くわからない。しかし、少なくともこの映画のような形でサバイバー達に、使えるリソースが残っている(電気があればAIも残っていそうだ)ことはないんじゃないかと思い暗い気分になる。やはり現実の先行きが不透明すぎて、映画ですら生ぬるく感じてしまったというのが正直な感想である。

 

ロマンス詐欺に気をつけろ~ 「わらの女」を読んだ

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「やりなおし世界文学」紹介本

津村記久子さんの「やり直し世界文学」に紹介されている本は今のところどれを読んでもはずれがない気がしている。やはり小説家がピックアップする名作は、古い本だからといって読まないのはあまりにももったいないという本ばかりだ。どの本も読んでみて「読み甲斐」があったと一言で言ってしまえばそれまでだが、その「読み甲斐」にもいろいろあって、今回の「わらの女」は今の言葉で言えば「イヤミス」に当たるのではないだろうか。正直読んでいてこんなに嫌な気持ちにさせられる本はなかなかない気がする。(個人の感想です)

ちょっと話がそれるかもしれないが、ラストサバイバーを買ったときに一緒に買ってあった村上春樹の新作「夏帆」のなかにヴァルター・ベンヤミンの「善き物語には有用性がある」という言葉が引用されていたが、この「わらの女」の物語に役に立つ成分、有用性があるとしたら、それは「うまい話には気をつけろ」という教訓といったありきたりなものになってしまいそうだが、そのなかでも女性にとっての「玉の輿」幻想のようなものに対しての強烈な否定(絶対やめとけ!)みたいなことになると思う。

 

 

 

 

あらすじ(ネタばれになります)

第二次世界大戦後のハンブルグで翻訳の仕事をしながら細々と暮らしている主人公。新聞のパートナー募集の記事に大金持ちからハンブルグ出身の女性を探している記事を発見して、さっそく申し込む。 

この「ハンブルグ出身」というのが結構後のほうで重要だということがわかるのだが、私を含めて日本の読者にはその意味がよくわからない。一応ネタ晴らしをしておくと、第二次世界大戦中に連合国軍からの空爆を60回以上受けており、そのうち何回かは火炎竜巻(火災による上昇気流によって風が吹き、さらに激しく燃える状態になる)によって、アスファルトも自然発火するような状況になったこともあるようだ。そのぐらいすごい火災に見舞われているので、生き残っている人の係累や友人なのどがほぼいないことを意味している。また、役所も燃えているので戸籍などの記録が残っていないということをその「ハンブルグ出身」というのは意味している。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AF%E7%A9%BA%E8%A5%B2

ちなみにこのWikipediaのページに書いてあるが、この空爆のコードネーム(作戦名)は「ゴモラ作戦」といったそうだ。え?なんでここにウルトラマンの怪獣の名前が?と思ったが、そもそもゴモラは旧約聖書に「ソドム」とともに出てくる「ゴモラ」という都市の名前だ。

話がそれたが、その募集の書類審査に合格した主人公のもとにニース行きの航空券が送られてくる。飛行機に乗って現地に行くと、ある大金持ちの秘書が、その遺産を横取りする計画をたてており、そのためにその大金持ちと結婚する女性を探していることがわかる。なぜ秘書が横取りする計画を立てるに至ったかというと、その大金持ちは性格が悪いので、遺産のほとんどは寄付してしまうという内容の遺書を残しており、秘書にはほんのわずかしか残さないという内容を事前に知ってしまったため、その計画を実行するに至ったと主人公に告げる。

そのため、主人公はまずこの秘書の養女になり、その上で大金持ちと結婚する。そうなればゆくゆくは未亡人となった主人公が遺産を引き継ぎ、それを養父である自分にもほしいだけ分けることが可能になる……というのが計画なのだが、すでにこの時点で、あれ?さらにその主人公を殺せば全額秘書のものになるよなー?という考えが頭をよぎった。実際秘書の計画は裏があり、最終的には自分が総取りする筋書きだったのだ。

その秘書の指示通り、何とか大金持ちを誑し込んで結婚することに成功する。ここで出てくる大金持ちの性格の悪さと、その上で手の内を知り尽くした秘書による主人公を使った心理戦は大変面白く、まさに「がんばれわらの女」と思わないこともない。

しかし、その後まさにニースから延々大型ヨットで旅をしてきた一行が、明日大金持ちの家のあるニューヨークへ帰港する直前に、大金持ちが自室で死んでいることを主人公は発見する。秘書に相談した結果、明日まで大金持ちの死亡を隠し通さないと、遺言書が無効になるとかなんとか言いくるめられて、ヨットから自宅にたどり着くまで何とか生きてるように見せかけるために主人公は文字通り粉骨砕身の努力をする。その際秘書は全く現れず、主人公一人でそれをやり遂げるというのがみそだ。ネタバレもネタバレなんで、ここから先は本当に書かないほうがいいかもしれないが、書かないと意味が分からないと思うので、あえて書くと、大金持ちは秘書が予定通りニューヨーク上陸前に殺害しており、その罪を主人公にかぶせるために一人で隠ぺい工作をさせたのである。翌朝大金持ちの家で死体とともに秘書(が手配した弁護士あるいは医者)を待っていた主人公は見知らぬ男が訪ねてきたので、てっきりその弁護士か医者と思い込みすべてを話すが、それはニューヨーク市警の人間だった。結局主人公は遺産欲しさに大金持ちを殺害した罪で起訴され投獄される。そこで秘書の意図にきがついてすべてをばらしても後の祭りになっている。失意のまま主人公は自殺し、遺産はすべて秘書が受け取り、これからの楽しい生活を想像しながら物語は終わる。

 

 

 

 

計画に致命的なミス?

解説に書いてあったのだが、実はこの話にはこの秘書の計画に致命的なミスがあるらしい。これもネタバレオブネタバレなので、書かないほうがいいのかもしれないが、私も読んでいるときぼんやり(あれれ…?)と思った部分なので、はっきり書いてしまおう。「紀州のドンファン」の事件をご記憶の方もおられると思うが、遺産目当てに旦那を殺したら、遺産は入ってこないはずだ。この話の中でも、旦那を殺した罪で起訴され、刑務所で自殺する。有罪なので相続はできず、その父親にも遺産はいかないという結末になるはずのところを、判決が出る前に自殺したので、有罪にはならず、遺産は主人公(妻=娘)から父親へと引き継がれたということになっているようだ。この悪魔のような秘書は不確実な計画は立てないと豪語していたので、刑務所内で有罪判決が出る前に主人公を暗殺することも計画のうちにあったのかもしれない。正直全体として本当に救いのない話である。

 

悪いのはだれ?

また、これもこの本の解説に書いてあったのだが、大学生を対象にこの本を課題図書にして内容について話し合うゼミを行った際に、大学生のほとんどが、悪い人が最後に勝つラストに納得できないと言ったと書かれている。私も読んでみて、この後味の悪さ、イヤミスっぷりには結構度肝を抜かれた。しかし、最後に悪い人(この場合は秘書)が勝ったと言われればその通りだが、じゃあ主人公はいい人かというと、そもそも金目当てに結婚することについて全く良心の呵責を感じないような人間と描写されている。大金持ちも、その横暴ぶりはかなりのくそったれ爺であり、ヨットの中の使用人であるジャマイカ人に犬の物まねをさせて、一番うまかった奴に金貨をやる、みたいな人非人ぶりを見せつけてくれる。

そう考えると、先ほどの「ゴモラ作戦」で焼かれたというハンブルグの出身者(実は大金持ちもハンブルグ出身のドイツ系アメリカ人)であることは別の意味も併せ持ってるのではないかと深読みしてしまう。ソドムとゴモラはその「不自然な肉の欲の満足を追い求めた」ので神の火によって滅ぼされた都市の名前なのである。要するにこの物語に出てくる人間に善人はいないと考えていいのではないだろうか。

最初の話にもどるが、悪人しか出てこないので善き物語じゃないんだけど、ゴモラ作戦で滅ぼされたハンブルグの出身者(生き残り)はやっぱり悪い人だったから滅ぶべきなのにそういう悪が栄えてる世の中ですから、ロマンス詐欺に気を付けましょう!ということで無理やり有用性を引き出しておく。

 

 

ある意味原作だけど映画は多分見ない~ 「黒い雨」を読んだ

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八月は戦争の記憶

日本では八月になると原爆、終戦関連の特集番組がテレビで放映される。また、新聞記事にもそういう記述が増えていくが、作家の武田百合子という人が、毎年八月には井伏鱒二の「黒い雨」を読み返すという話を引用して、その記事を書いた人も毎年八月には同様にその本を読み返すことにしているというコラム記事があった。私も被爆地長崎で10年以上暮らしていたが、実は「黒い雨」を読んだことがないことに思い至り、今年の八月には読んでみようと思ったのがこの本を手に取ったきっかけである。ブックオフ武蔵小金井店で注文した別の本を受け取りに行ったついでに本棚で見つけて購入した。400円だったと思う。

それと前後して、NHKの「時をかけるテレビ」で「原爆投下後の10秒間」(タイトルうろ覚えです)という番組が(再)放送されていた。池上彰さんが解説してくれるので、その番組の意義や時代背景なども説明してくれることで、ただ再放送するよりわかりやすいのが特徴である。その番組を何となく見ていて、原爆は投下されてから10秒間ですべて終わっていたということを知った。上空で火球が生まれて、地上を燃やしてきのこ雲が上がる前に、地上に向けて中性子が放出されており、その放射線量は半径数キロ以内にいた人間は、その後の熱核爆発を受けなくても致死量の放射線を浴びていたという事実を知った。

このテレビの内容を踏まえて「黒い雨」を読んだことで、原爆はピカドンと呼ばれることもあり、その「ピカ」と「ドン」が具体的に何だったのかがよく分かった。そのうえでこの本の中に出てくる原爆の被害状況を読んでいくと、井伏鱒二の観察がかなり正確にその現象を見抜いてたことがわかると思った。

 

 

あらすじ(ネタばれになります)

終戦から数年たった現在、閑間重松と妻シゲ子、養女の矢須子は広島郊外の村に暮らしていた。矢須子に縁談が持ち上がり、相手は資産家の跡取り息子なので、なんとかまとめたいと思っている重松だが、原爆投下時に、爆心地近くにいて被爆しているという噂がひろまり、それがデマであると証明するため、矢須子がずっとつけていた日記を清書してその証拠としようとする。その過程で、噂とは異なるが、原爆投下直後に重松やシゲ子を探すために広島に戻ろうとしていた途中で放射能をもった黒い雨を浴びたという記述が出てくることに気が付く。清書をしていたシゲ子がこの記述は削除したほうがいいのではと重松に言う。重松もそのまま、縁談を持ってきた仲人に見せるわけにはいかないと思う。その代わりに自分の被爆日誌を資料として付けることを思いつき、そちらの清書を自分で始める。本文の構成としては、戦後数年たったあとの日々の日常と、清書される過程の被爆日誌(8月6日の原爆投下から8月15日の終戦まで)が差し込まれる形で、同時に読者は読み進んでいくことになる。物語の後半、矢須子の原爆病のほうが重いことが発覚し、入院する。そこでもっとひどい被爆をしてそれでも生き残った医者の体験記、その妻の記述なども織り込みながら、その医者がどうやって一度は骨と皮になった身から生還したかを重松が、矢須子を治療している医者に教えて、治療方法もその手記から得た情報によって変えるという展開になる。ただし、物語の最後で矢須子の病気が治ったのかどうかは、わからないまま終わる。

 

井伏鱒二はビジュアルシンカー?

少し前に「ゆる言語学ラジオ」で紹介されていた「ビジュアルシンカーの脳」という本を読んだが、正直ブログに取り上げるほどインパクトのある内容ではなかった。私自身も耳より目のほうが優先して情報処理する人間(ビジュアルシンカー)なんだろうと漠然と思っていたが、そういう人間をビジュアルシンカーと呼ぶことにしたのはこの著者の発明のようだ。

井伏鱒二と同じといいたいわけではないが、僭越ながら私も小さい頃は絵をかいているのが楽しく、色んなものをチラシの裏紙などに一生懸命落書きしていたが、ある日目で観たものを紙の上に「点や線」で描いていくことと、それを言葉の組み合わせで書いていくことが繋がったという感覚を得た時期がある。そうなると、逆にどのようなものであれ文章で表現するということが可能という感覚になり、いわば文字で絵を描けると感じた。

今でも、自分はビジュアルシンカーであると思うが、ビジュアルシンカー(=視覚思考者)絵でものを考える人が文字思考者(文字でものを考える人)に進化(?)することはあり得るのではないか?と思った。逆に文字思考者が視覚思考者に退化(?)することは難しいような気がする。そもそも、私は視覚思考者なので、文字だけ(聴覚による音声や記号のみ)で思考を深められる人の思考がちょっと想像できない。そして、それができている時点で抽象的なもの、形而上のモノに対して高度に論理的な思考が展開できるのであれば、視覚に頼る必要がない気もする。

 

youtu.be

現場を目で観たリアル

そのビジュアルシンカー井伏鱒二による、この作中で読むことになる重松の「被爆日記」の記述が本当にすごい。井伏鱒二はもともと画家を目指していたことがあるというが、まさに文字で絵を「書いて」いると感じる。爆風で歪んだ家々や、悲惨な状態になった人体を明暗、色、においも含め克明に記述していく。しかも、主人公重松は被爆地広島からいったん避難した後、重松の当時の職場である軍用の衣服を作る被服工場を拠点に、自分の家の跡や、会社からの命令で市内にあったと思われる石炭配給を行っていた軍の施設まで交渉のために、日をまたぎ何度も出向くのである。そのため、同じものを日にちを置いて何度も目にしたりするが、その変化もきちんと書かれている。

これらは作中では重松という男の目から見た光景になっているが、これは井伏鱒二が実際に観たものなんだろうか?これらをすべて想像や伝聞でのみ書いているとしたらそれはそれでまたすごいことだと思うが、いずれにしても見たとしか、見ててきたとしか思えないような、すごい記述が全編満載である。ここら辺が視覚思考者から文字思考者に進化した井伏鱒二の真骨頂なのかもしれない。

私はこの本を2026年8月6日ぐらいから読み始めて、まさに劇中の被爆日記とほぼ同じ8月14日前に読み終わった。読んでいる間は文章から読み取った光景が頭の中で再生され続ける。いわば終戦の年の広島を見続ける日々になったと思う。そのため、実際にこれを体験した人々から見たら「ふざけるな!」といわれそうだが、読み終わるころには少し体調を崩しかけた。これを毎年読み返すということはなかなか体力がいることだと思う。しかし、それだけに、この物語の最後の記述を読むとき万感の思いが湧き上がってくる。

とにかく、読むことでありありと原爆被害の現場の状況が見えるこの本は、そのストーリーとも相まって、太平洋戦争とその原爆投下による終戦の空気を真空パックしてくれているような本であった。来年も八月に手に取って読み続けていきたい。

原作は先に読む派なので~ 「ラスト・サバイバー」上・下を読んだ

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巨匠リドリー・スコットによる映画化原作

なんといってもリドリー・スコットが撮る新作映画の原作である。ネットでこの映画の情報を知った時、これは映画館で絶対に観たいと思った。そして、映画に原作があれば先に読む派としては、読んでおいたほうがいいだろうと思ったが、その原作本がアマゾンで予約開始になっていた先月ぐらいに、その値段を見てポチるのをためらっていたのだが、結局武蔵小金井駅前のドン・キホーテ地下にあるくまざわ書店で見かけた際に、映画タイアップでカバーが付いた上・下を手に取ってしまい、そのままレジに持って行った。ちなみにその時同時に買ったのは「地雷グリコ」と「夏帆」である。

 

 

 

あらすじ(ネタばれになります)

疫病によるパンデミックで人類の9割が死んだ世界。生き延びた主人公ヒッグは、ガンマニアのバングリーとエリー空港(https://maps.app.goo.gl/hj4BjrLdujfpHwYXA)を住処として日々襲撃者たちに対処しながら生き延びていた。パンデミックによる文明崩壊から既に9年が経っている。私もこの本の記述で知ったのだが、自動車用のガソリンは、もって三年で、それを過ぎると自動車用の燃料としては使えなくなるとのことだった。話の中で放置されたトレーラーの中に清涼飲料水があるというくだりで、運転して拠点まで運べば良かったというセリフがあるが、ディーゼル燃料は劣化しないのだろうか?…… とにかく、それとは違って主人公が乗るセスナ機の燃料は9年経っても変性せず、今も空港に残っているそれを使って精力的に周囲を飛んで、偵察や調査?のような目的をはたしている。飼っていた犬が死んだことをきっかけに、この世界の寂しさに耐えられなくなり、3年前に飛行中に聞いた無線を頼りに拠点を離れることを決意する。

その飛行中、空からしか見えない隠された農園に男女が暮らしているのを見て、そこへ向かう。その農園でしばらく暮らすが、実はその二人は父と娘の親子で、今年限りでその農園から離れることを計画していたことを知る。理由は地球温暖化による気温上昇で、農園を流れる川が干上がるからであった。そこへ飛行機で主人公が現れたので、飛行機でここから連れ出して欲しいと言われる。ここで、山の上の農園に無理矢理着陸したせいで、三人乗ると飛び立つための助走距離が足りないという究極の選択が持ち上がる・・・と思ったのだが、あるアイデアによってその問題はあっさりクリアされる。三人で農園を離れ、3年前に無線が聞こえたグランドジャンクション(https://maps.app.goo.gl/WPV6NfKBeTrzSBjn6)という町の空港に向かう。そこで待ち受けていたものとは?……

 

飛行機乗りの話

この物語が成立する背景として、作者に飛行機乗りの知識と経験がある事が大変重要であったと思われる。作中に出てくる表現として、主人公は、自分の乗ってるセスナ機にビーストという名前をつけてるのだが、そのビーストには魂、意思があると確信しているという。そのぐらい道具を超えて血の通う相棒のように感じるまで乗りこなし、精通しているからこそ、終盤で起きるあるイベントも、乗り越えられた時のリアリティが感じられる。また、飛行機は無線機で空港とやり取りする。余談だが、最近アマチュア無線用の無線機で航空無線を聴いているが、短いやり取りで必要な情報を交換している様子を聞いていると、プロフェッショナル同士の緊張していない緊張感(なんのこっちゃ?)にしびれる。世界が崩壊しても、空港からそういう声がが聞こえてきたら、ふとその声を信じたくなってしまうというのは非常にわかるきがする。

私はリチャードバックの「イリュージョン」という小説から生きる上でものすごく影響を受けているというのは、これまでもブログで何回か言及してきたが、「イリュージョン」の中で主人公のリチャードはトラベルエア4000という複葉機に乗って、アメリカを旅している。降りられそうな広場を見つけては、その街に降りて、住人に3ドルで空を飛ぼうともちかけ、遊覧飛行をすることで日銭を稼ぎ、放浪して暮らすという話である。個人で空を飛べる機械をもって、それで旅するということが人間の精神に自由と地上では得られない視点を与えてくれるのだろうと、この小説を読むと思う。

「ラスト・サバイバー」の主人公も、飛行機の操縦を習うとき飛行機というのは鳥じゃない凧だと教わる。鳥のように羽ばたいていつでも揚力を得られるような仕組みを持ってるわけじゃなく、エンジンとプロペラの力で揚力を得ているが、それはあくまで一定の速度で機体を空気中を移動させていられればこそであるという意味だと解釈したが、凧が常に糸を張っていないとすぐ落っこちてしまうように、機体に常に揚力を発生させるよう気を付けていないと、すぐ落ちるということなんだろう。また、ある場所から飛び立つときも、主人公が使用するセスナ機の離陸できる距離と速度を開発者、設計者たちがそれこそ何千回とテストして、その関係をグラフや数表に表している書類を引っ張り出してきて検討する部分が出てくる。ビーストには意思があるといいながら、機械としての仕様、性能に正しく準拠しなければ、飛び立つことができないことを考えるシーンは、作者の飛行機に対する深い理解が表れていると思う。

 

最も美しいディストピア小説

もともとこの本は2015年(コロナのパンデミックが起きる4年前!)に日本で発表されている。日本語訳もその時に出ていて、翻訳タイトルは「いつかぼくが帰る場所」(原題は「The dog Stars」)だったようだ。それを今回映画化に合わせてタイトルを映画と揃えて、さらに上下二巻に分けて出版されたというのが事実のようだ。2015年というと、それまでにもゾンビものとかで世界が終わる、終わった後の話、ポストアポカリプス小説や映画はたくさんあった。この本の世間の評判としては「最も美しいディストピア小説」といわれていたらしい。ディストピア小説、ポストアポカリプス小説は「救いのなさ」「生き残った者の地獄」が中心になる。読み終わってみて、その部分は十分あると感じた。その上でそのような地獄を生き続けていくことの心情もまた非常にリアルに感じることができた。ただ、ある意味この主人公は割と迂闊なのに運がいい。運がいいことは人間の資質(?)として大変重要なことだが、そこから起きることが美しい(あるいは幸福にみえる)結末を呼ぶと考えるしかないだろう。

また、この本の作者はもともと自然方面のノンフィクションを書いてきた人ということで、作中で出てくる自然(木や森、そこに暮らす生き物)に関する記述が大変わかりやすく、臨場感をもって理解される。パンデミックで人が減っても、地球温暖化による自然破壊がとまらない世界として描かれており、その壊れていく自然にこそ最大の信愛を込めたまなざしで見ていることが、この小説を単なるディストピア小説、終末小説ではなく、美しいと形容されるものにしているのだと思った。この部分をきっとリドリー・スコット監督は気に入って映画化したいと思ったのだと思う。予告編のティーザーを見る限り、小説にはない部分もありそうなので公開が大変楽しみだ。

www.20thcenturystudios.jp

原作は先に読む派です~ 「急に具合が悪くなる」を読んだ

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再オープンした三省堂本店へ

カンヌで有名になった表題の映画に原作本があるということで、さっそく本屋へ行って探した。少し前の日曜日、そういえば新しく改装してオープンした神田の三省堂にまだ行っていなかったので、ついでに覗くのも悪くないと思い、秋葉原から歩いて行った。一階の入り口から入ってみると、以前とガラッと変わって凝った配置の棚になっており、レジがどこにあるのかすらわからなかった(店の奥の見えないところにあった)。目的の本は入ってすぐの通路に平積みされており、拍子抜けするほど簡単に入手できた。映画の評判を聞いてすぐ増刷されたのだろうと推測する。表紙は割とポップな感じで、映画のシリアスな感じとはちょっと異なっていた。

 

この本の概略

この本の基本的な構成は哲学と医療人類学の学者同士の対話(往復書簡)で、この本の出版後に哲学者の方はお亡くなりになったようである。ここんところ、物語の中で人(登場人物)が死ぬということを考えるのが自分の中で裏テーマ的なものになっている気がする。ただし、この本はノンフィクションで、死ぬシーンがあるわけではないが、この本の出版後にはすでに片方はこの世の人ではなかったようである。リアルタイムで書簡を往復していた間は、もちろん生者と生者の対話だったと思うが、それが書籍としてまとめられて世に出たものを読んだ読者としては生者と死者の対話がこの後に続いているように思われる。

 

「急に具合が悪くなる」は死

お互いのバックグラウンドや、活動に関してほとんど知らない状態で読者は読むので、哲学者が医者から言われたという「急に具合が悪くなる(かもしれません)」というキーワードというかフレーズ、これがタイトルにもなっているが、それが何故この本で最も大事なことなのかはこの時点ではよくわからない。余命宣告をされて、あと半年の命であり、その「急に具合が悪くなる」というのは、死ぬこと意味しているということが最初の方で明かされるのだが、その危機迫る状況でも、特に当事者の哲学者は文章の中では、冷静に論理的に思索を深めていくのである。

 

魂の姉妹

この本が成立した背景として、この著者二人が出会ってしまったことが大きいのだと感じた。そこにいわゆる化学反応がないと、このような対談の深まりというのは見出しえないと思うし、お互いがお互いを唯一無二の存在と思わなければ、出てくる言葉もおのずと違ったものになったと思う。これを読んだ我々読者が、そこから読み取るのはその思想というより、人間が生きる上で他者とつながる感覚のお手本として、自分たちも死ぬまでに、どこかにいる誰かとこのような関係に至りたいと思うかどうかじゃないかと思った。その辺を映画では中心に据えて描いているのではないかと想像する。上映時間が3時間越えなのでちょっと気が引けてるが、機会があれば観ておこうと思う。

食べ合わせが悪かった~ 「シラート」(ともう一本)を観た

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一日に二本映画を見る日

何年かに一度、一日に映画館をはしごして観てしまうというようなことが起きる。起きるというと自発的にそうしてるんじゃないのかと思われると思うが、一本目の映画をみて、残念ながら期待が外れた場合、それを取り返そうとして続けて別の映画を見てしまうということはないだろうか? そのためには、一本目を見終わった後で、すぐ都合のいい時間に別の映画の上映が始まるというタイミングも必要になる。ずいぶん昔になるが、一本目に「グレイテスト・ショーマン」を観てから「スリー・ビルボード」を観たことがあった。この時のことをブログに書いているが、それを読むとその時は最初からそう言う予定を組んで観に行ったようである。

 

tokiwa-heizo.hatenablog.com

 

それにしても、この時の組み合わせもなかなかの凸凹感だが、今回はさらにひどい。同じ日に「マンダロリアン&グロークー」と「シラート」を観てしまった。今回は、とにかく映画を観ようと思い、せっかくスターウオーズの新作がかかっているのに見逃すわけにはいかないと思って観に行くことにした。ただし、「ハンソロ」の時は結局前評判の悪さに恐れをなして劇場では観なかったのだが、のちに出張の飛行機の中で見た。そして自分的にはそれほどひどくないし、むしろ楽しめたので、「マンダロリアン」もきっと楽しめるに違いないと思ってわざわざ観に行ったのだが、それは半分当たりでもう半分は、ちょっと残念だった。しかし、そのちょっと残念の部分を埋めようと、たまたま隣の劇場(今回も新宿ピカデリーで見たのだが、まさに7階のシアター3で「マンダロリアン」、同じ階のシアター2で「シラート」がやっていたのである。一階に降りて、いったん晩飯を食べつつ時間調整し、またネットでチケット買い(すぐ次の回を選んだら、ほぼ満席状態であった)急いで劇場に戻ってまたゲートをくぐり、エスカレーターで7階まであがってシートに座った。

 

 

 

 

マンドー!(ネタばれ注意!その1)

まずは「マンダロリアン」の感想から。そもそもディズニーが作っている時点で、ある意味子供向けというか、全年齢向けというかそういう配慮になっているので、何か気の利いた大人のやり取りとか、ちょっと趣味に走りすぎているみたいな部分はないと覚悟していた。マンドーの素晴らしい立ち回り、アクションでピンチらしいピンチもなく敵をバッタバッタをなぎ倒していく様は、少なくとも爽快感はあった。しかし、あれ(無双)ができるのはフォースが使えるジェダイの騎士というのスターウオーズのお約束なのではなかったのか?

個人的なツボだったのは今回の共和国軍側の司令官というかトップを演じているのがご存知シガニー・ウィーバーだったので、おおーっとなったのだが、最後自らXウイングに乗って敵地に乗り込んでくるという活躍ぶりで大変良かった。「エイリアン2」でパワーローダーを操縦してクイーンエイリアンと激闘を繰り広げた姿を思い出すと、Xウイングの操縦くらい軽いと思わずにはいられないが、Xウイングの計器類やヘルメットなどの装備がスターウォーズのEpsode4から6までの時のものなども、我々の世代にはしびれるものがあったが、考えてみると、それらを全く知らない今の若い世代には何も響かないとなると厳しいと思わざるを得ない。

また、劇中シガニーがマンダロリアンに対して「マンドー」と呼びかけるシーンがあるが、この響きで「ランドー」を思い出したのも老人の脳のなせる業だろう。

今作ではグロークーというヨーダと同じ種族と思われる宇宙人がマンダロリアンの相棒として出てくる。ハンソロにはチューバッカという相棒がいるように、マンドーにはグロークーなのだと思うが、このグロークーがどうもフォースを使うのだ。私はDisney+を契約していないのでマンダロリアンのTVシリーズは全く知らないが、スピンオフでフォースを使うキャラクターがいるのは初めてなんじゃないだろうか。ただ、そのグロークーが幼児レベルの知能なので、活躍らしい活躍をしないのがちょっと残念だった。

全体としては結構尺を取っているのに、話の筋立てがほぼ一本道だったのも、ちょっとがっかりポイントであった。当然いったん帝国が滅んでいるので、共和国側が絶対的な勢力になっている上での帝国の残党狩りという筋立てなので、一つ一つのエピソードが小さくなりがちなのはわかるが、もう少しフォースを使う以上本筋にも絡むような複線的なエピソードがあってもよかったのかなと思う。そういう意味でスターウオーズ・サーガをコントロールする人間(かつてのジョージ・ルーカス)がいないことは今後のシリーズを創っていくうえでもどうしても場当たり的になるので難しいと思う。

 

シラート!(ネタばれ注意!その2)

そして「シラート」である。ちなみにシラートとは最後の審判の時に地獄と楽園をつなぐ一本道(橋)で、それは髪の毛より細く、剣よりも鋭いされている(という解説が入る)芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を思い出してもらうとなんかわかるような気がするが、地獄と天国をつなぐ道というか橋というか、まあ表現的には糸なのだが、そういうものが存在するということになっているのは洋の東西を問わないようである。ものすごく可能性は低いが、地獄に落ちてもまだチャンスはあるというのがニクイ。こういう意地の悪いことを考える人類はどうなのかと思うが、とにかくそれがこの映画のタイトルであり主題なのだろう。

あらすじとしては、アフリカのモロッコで屋外(砂漠)でレイドパーティを開いている集団のところへ、自分の娘を探している父とその弟がやってきて、行方不明人のビラを配りながら訪ねて回っている。そのパーティでは見つからなかったが、もっと南で別のパーティがあるという集団に出会い、その集団についていく。今考えると、その集団がレイドパーティを主宰していたのかもしれない。しかし、途中で弟は犬と一緒にがけ下に落ちて死亡、父は途方に暮れながらもその集団と一緒に移動を続ける。落ち込む父親を元気づけようと、砂漠の真ん中でスピーカーを設置し大音量で音楽を流し始める。大麻?らしき薬物をやりながらその音楽に合わせて踊り始めた矢先、一人の女が爆発して吹っ飛ぶ。え?なに?と思ってもう一人がその女を助けるために駆け寄ると、その男も爆発して吹き飛ぶ。実は自分たちは地雷原の真ん中でレイドパーティを開いていたことに気が付く。

何とかそこから脱出しようと、乗ってきたトラックをハンドルを固定してまっすぐ走らせて、安全な道を見つけようとするが、二台とも途中で地雷を踏んで派手に爆発、炎上してしまう。それでも二台目のトラックが爆発したところまで歩くが、安全そうな岩山まではまだ5、60メートルはありそうだ。突然父親が立ち上がり、すたすたと歩きだす。そしてあれよあれよという間に岩山まで歩き切る。それを見たひとりの男が急いでそのあとを走っていくが、もう少しというところで爆発して消し飛ぶ。さらに残った二人は訳が分からなくなり、岩山にいる父親に「どうやってそこへ行ったんだ?」と聞くと、父親は「何も考えなかった」と答える。そこで残った男女は目をつぶって同じ道を歩き、見事岩山までたどり着く。その後汽車に乗って帰国の途(?)に就くところで映画は終わる。

 

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「スリー・ビルボード」と「シラート」

今回たまたま、前回の一日二本立てで映画を見た日に観た「スリー・ビルボード」について書いたブログを読み返してみて、何となく今回の「シラート」と「スリー・ビルボード」は似ていると思った。スリー・ビルボードでは無残に殺された娘の事件の犯人を見つけてほしいと思う母親で、シラートでは行方不明の娘を探す父親だが、どちらも探していたものは見つからないまま終わる。どちらもどうしてこうなってしまったのか悩みながら生きているが、最後に求めていたのとは違う形で、一種の救いを得る(ようにみえる)どちらも展開は全く読めないが、かといってその展開に違和感はない。まるで現実の世界を生きている我々の日々のようなものだ。先は読めないが、過ぎてみるとそれ意外には道なかったというような。

地雷というと「ノー・マンズ・ランド」という傑作を思い出すが、踏んでしまったら動けなくなるのは当然としても、今回の映画のように周りに地雷が敷設されている場所に迷い込んで、何とかそこから脱出しなければと思ったら、正直恐ろしく一歩も歩けないと思う。そのまま動けないまま餓死するしかないと思う。そんな時グロークーがいれば(いません)地雷のない道を見つけ出してくれるはずだ。