常盤平蔵のつぶやき

五つのWと一つのH、Web logの原点を探る。

神と遊ぶな?~「書くインタビュー」からの「神前酔狂宴」を読んだ

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まず「書くインタビュー」1巻から6巻まで読んだ

「鳩の撃退法」を読み終えて本棚にあったこの「書くインタビュー」シリーズを見つけ、今だ!今がこれを読むタイミングだ!と思って読み始めた。ちょうど最近出た6巻を手にとって読み進めて行くうちに最後のページで衝撃の記述があった。またしても一旦中断になるようである。おそらくこの中断後に先日刊行された「冬に子供が生まれる」を執筆(一旦書いたものを、連載形式にしてブラッシュアップしつつ完成を目指す)していたものと思われる。もうひとつの理由としては佐藤正午さん自身の体調(耳鳴り)もあったと思うが、連載媒体であるWEBきららも休刊(廃刊?)になってしまったようで、発表する場がなくなったので、本の刊行後に再開しているのかどうかは正直わからない。

一巻の冒頭付近で、初代インタビュアーの代役として登場した東根さんは、その後なんとか佐藤さんの厳しい塩対応に食らいついて、創作の秘密(小説の作り方が副題なのだから、インタビューの狙いはそれだと思う)を明らかにするための質問メールを佐藤さんに投げ続けてくれた。それに対する佐藤さんからの真っ直ぐだったり、曲がりくねっていたりする回答を、私も一読者として楽しむことが出来た。しかし、東根さんは途中でやむをえぬ事情(双子を出産)によりインタビュアーを降板してしまう。その後は後継のインタビュアーを別に仕立てることなく、佐藤さんと付き合いの長い編集者のオオキさんがインタビュアーを努めていて、5巻ではオオキさんしかインタビュアーがいない。6巻の終わりに東根さんが復活したが、質問らしい質問に答える前に終了してしまった……という印象だ。

副題は先ほども書いた通り「小説の作り方」で、佐藤正午の小説作法?として大事なところを、すごく丁寧に、誠実に答えている(時として乱雑にもみえるが……それも一つの回答と考える)。ただ、インタビュアーがオオキさんに変わってから競輪の話題が増える(二人は競輪仲間である)が、それは「小説の作り方」にはあまり関係がないように思えるがどう捉えるべきなのだろうか? 作者の生きている上で嗜好することが、小説に関係がないはずはない、といえばそのとおりだろうと思う。デビュー作「永遠の1/2」の冒頭も競輪場だし、まだ読んでいない「Side B」なんかも競輪の話らしいので、まずはそれらを読んでみることにする。そう考えると、「書くインタビュー」のなかで二回ほど出てきた「親の葬式に出ないで競輪に行ったエピソード」も何かを創作に対して意味があるのだろう。しかし、このシリーズ最大の謎(しかも完全に放置)は、最初のインタビュアーはその後どうなったのか? じゃないかと思う。きっとどこかで細々とライター稼業を続けているとは思うが……。

 

 

5巻で出てくる「神前酔狂宴」を読んだ

5巻のオオキさんとのやりとりの中で、佐藤正午自身が色々な場面でどう呼ばれるかという話から「登場人物が性別にかかわらず姓だけで呼ばれる(本文中で表記される)小説」の例として引用される古谷田奈月の「神前酔狂宴」という小説が出てくる。佐藤さんの疑問として、この作品では男女問わず姓だけで呼ばれるという書き方がされているが、自分を含め他の大抵の作品では何故そうでないのか? がこの作品を引用して展開される。この本「神前酔狂宴」を佐藤さんが面白いと評しているし、「書くインタビュー」を読むことで、インタビュアーと作家のやり取りを一種のライブ感覚を味わいながら楽しんでいるのだから、私も先を読み進めることを中断してこの本を読んでみることにした。本屋で探したが見つからなかったので、三鷹図書館で借りることにしたところ、駅前館の書架に普通に置いてあった。

 読んでみて、確かに姓だけで表記されることが続くと、私のように迂闊な人間には、登場人物の性別がわからない事があった。佐藤さんは読めばわかるように書くのが小説であると書いている。ページをめくるごとにその人物に詳しくなっていくからわかるはずだと。しかし、私は読み進めている間結構長い期間いろいろな登場人物が男性か女性かわからないまま読み進める羽目になった。きっとそのヒントというか、決定的な描写を読み取れていないからということもあるかも知れないが、その一方でこれは意図的にそうしているのではないか? と思えてきた。ここからこの「神前酔狂宴」が、なぜこの形式 ―あえて姓だけで登場人物を呼び慣わしているー かについて自分の説を述べたいと思う。

 

 

この小説ではあえて性別を曖昧にしていると思われる理由(1)

物語中の詳しい前提は省くが、この話の主人公である浜野は「表参道にあるシナリオ学校」へ通いながら結婚式場で働くという設定だ。「表参道にあるシナリオ学校」といえば、私にも心当たりがある。以前のブログにも何回かそのことについて書いているが、何せそこへ2年近く通っていたのだ。もしかして作者もこのシナリオ学校へ通ったことがあるのかもしれない。毎週課題が与えられ、それについて10分間、ペラ20枚のシナリオを書くという経験をしたのかもしれない。作中でも主人公がただ純粋にお話を考えて書くことが楽しかったという一節があるが、全く同感である。

このシナリオ学校で最初に習うシナリオの作法として、登場人物の性別について男性は名字で書き、女性は名前で書くというものがある。また、たとえペラ20枚の短い課題シナリオでも、冒頭に登場人物はすべて列記して、さらに職業と年齢を書く事になっている。シナリオは音声(ラジオドラマ)や映像作品になることが前提で書かれるものなので、配役が何人必要で、どんな内訳(男なのか女なのか、若いのか年寄りなのか)などを明確にしなければならない。制作側は、その情報を元に俳優を手配したり、撮影場所を考えたりするからだ。

翻訳の推理小説なんかだと、最初のページに先ほどのシナリオと同じように、登場人物が全て列挙してあり、どんな人物かの短い説明文ついていたりする。普通の小説でも、登場人物が出てきた時点で一旦はフルネームを書いたり、男性あるいは女性に特徴的なセリフを持ってきたりすることで性別を明らかにするというテクニックを使っていると思う。その理由は実はこのお作法が基にあるのではないだろうか? この作者がシナリオ学校での学習内容のことを直接か間接かはわからないが、何らかの形で知っていたらやはりこの作法は尚の事知っていると思われる。いや、普通の小説家ならかなりの読書家であるはずなので、そのような作法やテクニックを殆どの作品で読んでいるはずであるから、知らないとは考えにくい。この作品でのこの書き方はあえてやっていると考えるのが自然だろう。

 

この小説ではあえて性別を曖昧にしていると思われる理由(2)

この小説は一種の「お仕事小説」である。結婚式場で働く面々の引き起こす様々な騒動?を描写しつつ、神前で結婚式を挙げることの不思議さを、主人公の目線から語っていく。主人公が属している高堂神社の結婚式場は、割と商売としての結婚式場を肯定しており、一日に何組ものカップルが式を挙げていく。その事を評して呆れ半分に「また結婚してる」と主人公は言うのだ。それぞれのカップルにとっては一生に一回の事でも、式場にとっては秒単位で進行し、主賓が何度も変わる時間勝負の押せ押せ業務である。一方で近くにもう一つ同じ様な経緯で出来た椚神社が有り、そこでも結婚式が行われている。そちらの神社で働いている人々は、いわば「神道ガチ勢」とも言うべき人達で、結婚式自体も1日1組しか行わない。主人公曰く、椚神社で働いている人たちは、森の妖精のような雰囲気で、職業としての効率や意識からは程遠いらしい。主人公が属する結婚式場で働く人員は、派遣会社が下請けしており、主人公含めてあくまで仕事として行なっている。ホテルで行われる披露宴(神前式の結婚式の場合は「披露宴」ではなく「直会(なおらい)」と呼ばれる)と同じで、各人にプロフェッショナリズムが根底にあり、効率的に業務を遂行することが求められる。しかし、なぜか(伝統的に?)椚神社から応援の人員を受け入れている。その人たちは宮司以下全ての職員が神に仕える仕事と考えており、主人公たち派遣社員の業務とは全くかけ離れた仕事ぶりである。その違いが生み出す軋轢がこの話のもう一つの駆動力である。ちなみにこの話の舞台となる「明治神宮の近くにある二つの神社」は架空のものだそうである。

最終的には主人公たちの結婚式場は商業性を優先するあまり同性婚のお客さんでも引き受けるのか?という神道の立場からは対処の難しい問題に直面しつつ、ラストに来たお客さんは…… というストーリーである。これ以上書くとネタバレになるので詳しく書けないのだが、実は最後のお客さんは最初からフルネームで呼称される。この対照を際立たせるためにあえて登場人物は苗字だけで描写されたのではないか、というのが二つ目の理由だ。

 

神と遊ぶな?

作者の古谷田奈月さんの文章にはなんだか不思議な勢いがあり、読んでいる側を先へ先へと引っ張る引力みたいなものを感じる。それが強すぎて置いていかれたようになってしまうこともあるほどだった。また、主人公の神社に対する感覚は、現代人というか若い世代でもこんなふうに神様のことを考える人がいるのかと新鮮な感動を覚えた。「日本の神様は酒とお金が大好き」なんて、なかなか言えないと思う(それ以前に今の若い人には神社に関心がないからというのもあるのかも知れないが)さらに、神域にいるときに神様からの視線というか、気配というか存在を意識するというのも、私の周りの若い人にはない感覚だと思う。

もっとも、私がやっている杖道は、そもそも「神道夢想流杖術」をベースにしている。この神道が神社のそれと全くイコールではないかもしれないが、流祖の夢想権之助は福岡にある竈門神社のなかに夢想権之助神社があり、我々杖道を修めるものたちの神様になっているのである。

3月下旬からNetflixで「三体」のシーズン1が始まった。映像化作品を見る前に原作を読んでおく派といいながら、実は三体は一巻の冒頭で中断している。しかし、ネットの評によると、今回のNetflix版は未読のほうが楽しめると書いてあったので、まずは観ることにした。全八話を見終わって、七話のなかで葉博士が「アインシュタインのジョーク」を語るシーンがある。


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このジョークのオチの「神と遊ぶな」をどう解釈するかが、今後のシーズン2以降に関わってきそうだが、今回の小説では神前で酔狂な宴を繰り広げている日本人としては、もちろん神様と遊んでいるつもりはないが、なんといっても酒とお金が大好きなので、それらさえ持っていけばどんな酔狂にも付き合ってくれそうに思える。