常盤平蔵のつぶやき

五つのWと一つのH、Web logの原点を探る。

「永遠の1/2」を読んだ

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〇小説巧者の不朽のデビュー作
遂に三十数年来の宿題を片付けることが出来た。この年になると自分の人生における宿題の中で、もう「絶対に片付けることが出来ないもの(宿題)」が増えて絶望的な気分になることが多い。(余談だが、そういうものを「墓場まで持っていく」と言うが、そもそも墓場にはそういうものは一切持ち込めないと思うのでその時点で帳消しになるのかも知れない)そんな中で「一冊の本を読む」と言う、比較的クリアするのに障害のないものであるとはいえ、一つ減らせたことは感慨深い。しかしながら、私が博多の予備校で講師から聞いた本のタイトルとそれを引き合いに出して諭された話の記憶とは全然異なる内容の話だった。そして、本としての面白さは早くも今年のマイベストとあげた「ホテルローヤル」を抜いて暫定一位になってしまった。

 

永遠の1/2 (小学館文庫)

永遠の1/2 (小学館文庫)

 

 

 

〇あらすじ
主人公は27歳で無職の青年である。無収入だが、なぜか競輪で稼ぐことで当座の生活費には困らなくなり、年上の彼女も出来て万事がうまく行ってる……と思ったら自分の住んでいる街に、自分に瓜二つな男がいることが段々明らかになり、さらにはそのそっくりな男の行動が、主人公の人生に影響を与え出す。最終的には主人公はその自分にそっくりな男に会って、その男になぜそのような行動を取るのかを問う……というのがかなりざっくりしたあらすじである。
このあらすじを読んでも、この本の何が面白いのかは全く解らないと思う。「月の満ち欠け」のブログの時にも書いたが、小説の面白さとはあらすじには書けない部分にあるのだと確信した。

 

〇タイトルについて
読み終わって一番びっくりしたのは「アキレスと亀」の話は全く引用されていなかったことである。人間の記憶の曖昧なことは私も十分承知しているつもりだが、恐らく私の頭が勝手に作り出した妄想だったようだ。
この本は「モラトリアムについての話」だという今となっては確かめようのない”ソース”の情報がミックスされて、若者が永遠に決断を保留し続ける様を、亀にアキレスが追いつけないパラドックス(アキレスから亀は永遠に1/2だけ前に進み続け、故にアキレスは絶対に亀に追いつくことが出来ない)を用いてモラトリアムをなぞらえたものだと思っていた。だからこの本のタイトルは「永遠の1/2」なのだと勝手に思い込んでいたようである。(もしかしたら、どこかの書評でそんなことが書いてあったのかも知れない。とにかく本自体はこれまで読んだことがなかったのは確かだ)
では、この本のタイトルはなぜ「永遠の1/2」なのだろうか?(余談だが、カミさんに今読んでる本のタイトルは?と聞かれて答えると、ああ、零戦の話ね……みたいな反応が返ってきていた)実は本のかなり初めの方にこの言葉が出てくる。たしか、凄く長く(感じる)時間の比喩として使われていたと思う。考えてみれば永遠という時間は無限なのだから半分にしても変わらず永劫の時間を持つ。しかし、この小説の実時間は一年と少ししかないのである。会話で少し出てきただけの言葉がタイトルになる理由が見つからない。
もちろんタイトルとして非常にそそるというか、いろいろな想像をかき立てられるし、私の記憶にもしっかりと刻み込まれ、30年過ぎても手に取らせるだけの力があるよいタイトルであるとは思う。今回読んでみて、受け取った内容を元にこのタイトルに込められたものを勝手に想像すると、地球からは絶対見えない月の裏側のように、人間が自分にとって永遠に解らない「半分」(ダークサイド)があり、普段はそれに対して向き合うことは出来ないが、この話のように自分にそっくりな人間が現れて、自分に似たような行動(しかし理解不能)を取っているとき、その人間に対して、なぜそのような行動を取るのか?と質問することが出来て初めて、その質問自体が無意味である事を知る……というような部分を込めて「永遠(にわからない自分の)1/2」というタイトルにしたのではないかと思った。

 

 

〇この本の中の「一年間+」
私が買った文庫本は恐らく「月の満ち欠け」で直木賞受賞されたときに一連の作品全て(かどうかわからないけど)が刊行され、この作品も三十三年ぶりに復刻されたもののようである。巻末の作者の「三十三年目のあとがき」も大変面白かった。(あの女性とはその後連絡がとれたのだろうか?)
本の中に出てくるお札には一万円札と五千円札に聖徳太子が描かれていたことや、主人公たちが見に行く映画も「スターウオーズ」「クレイマー・クレイマー」だったり、ジャイアンツには江川がいたり、それを日々ナイターとしてテレビ(ブラウン管だ)で観ていたりしている姿の描写を読んで、それらをリアルタイムで知っている世代としては非常に面白かった。そして今思うに、恐らくこの本が発表された当時はこれらの小道具や出来事は誰でも知っていることであり、違和感なく受け入れられると同時に描写の同時代性が優れていたと思う。

 

 

長崎県西海市
私の個人的な事情として、(時代は平成だったが)大学時代を長崎で過ごしたこともあり、この本の舞台である西海市は競輪がある事も知っているし、佐世保の女子高生はなぜか長崎市のそれより大人びて見えたりしたし、休日はバイクで大村湾を一周したりして西海橋のたもとで一休みしたりもした。

なので、この本の登場人物がいわゆる長崎弁を話していないことは途中まで非常に違和感を感じていた。しかし、これはあくまで小説であるので、小説の中の「西海市」なのだから人々は標準語のような言葉を喋っているのだろうと解釈した。さらに読み進めていくうちに、これは根っからの長崎人ではないからわかることでは無いかと思うが、登場人物が方言は使っていなくても長崎人らしいやり取りをしているように感じられて、途中から方言でなくても気にならなくなった。

30年前に過ごした長崎の日々を思い出すことが出来たと言う点からも、本当に読んでよかった、面白い小説であった。

 

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