常盤平蔵のつぶやき

五つのWと一つのH、Web logの原点を探る。

忍者による長崎観光案内〜「外道忍法帖」を読んだ

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○あんたも忍者、わたしも忍者
今、世の中は忍者だらけだ。老若男女、全ての人が目だけを出して往来を行き交っている。お互い間合いを計って必要以上近づかない、非情で無駄口も叩かない。電車の中ではつり革も持たず、足腰の鍛錬に余念が無い。そして夕闇と共にどこかへ去って行く……
それらがCOVID-19対策によるもので、マスクをして、必要以上に手を触れず、他人とソーシャルディスタンシングをしているだけなのだが、それにしても未だかつて街を行き交う人たちが全て素顔を隠しているという事態は記憶に無い。
電車の中で周りの乗客を見渡すと見事に全員がマスクをしている。まさに「あんたも忍者、わたしも忍者、目潰し投げてドロンドロン」である。

 

そんなわけで、忍者ものでも読んでみようと思った……と言うのは半分冗談だが、あまり小難しい事を考えずにスカッと出来る話を読みたかった。
そこで手に取ったのがこの「外道忍法帖」である。たまたま吉祥寺のブックスルーエで平積みになっていたので出会うことが出来た。
しかし、ほかにも山田風太郎の「忍法帖」シリーズがあることは知っていたがこれまで手に取ったことが無いのになぜ今回この本を手に取ったのか? 
白状してしまえば何のことは無いのだがずばり「表紙買い」である。
少し前に読んだ「夜にその名を呼べば」は「タイトル買い」だったが、今回は表紙の絵に惹かれたのである。黄色い大きな文字で「外道忍法帖」と書かれており、その横に物憂げな半裸の美女が寝そべったような姿勢でこちらを眺めている。

恥ずかしながら山田風太郎の本を読むのは初めてだ。恐らくのその名前を初めて知ったのは、KADOKAWA映画「魔界転生」の原作者としてだったと思う。
映画はまだブラウン管のテレビで何度か放送されたときに見たような気がするが、正直天草四郎時貞役の沢田研二はその当時で既にかなりのおじさんであった。
確か史実では島原の乱を指揮した時十四歳だったと言う先入観があったので、あの金ぴかの衣装を着た沢田研二天草四郎にはかなりの違和感があった。

 

 

○長崎は今日も(血の)雨だった
話がそれたが、今回読んだ「外道忍法帖」は表紙で買ったものの、読んでみて嬉しい誤算があった。この話の舞台のほとんどは長崎なのである。
長崎と言えば大学時代プラスアルファの十数年を過ごした思い出深い土地であり、地理も頭に入っている。実際読み進めていく内に長崎の観光案内としても大変秀逸なのではないかと思った。
風頭山、稲佐山、雲仙の仁田峠やハタあげ、おくんち祭りなど長崎の主要な観光地やイベントがバンバン出てくる。それぞれの場所で天草党の忍者十五人と、由井正雪配下の伊賀忍者十五人が、天正遣欧使節の持ち帰った財宝を護っている十五人の童貞女を狙って争うのである。言い換えれば、総勢三〇人の男が十五人の女(美女で処女)に対して襲いかかるという、エロスとバイオレンスのハイパーインフレが発生するのだ。

解説にも、著者の山田風太郎はこの作品で、「忍法帖」というフォーマットの中でどれだけの忍者を出すことができるのか?その限界に挑戦しようという意図があったのではないかと書いてあった。
確かに出てきた数行後には死んでしまう忍者もいる。だが、逆に一瞬の出番しか無くても奇想天外な忍術を駆使した戦いによって強烈な印象を残していく。読者としても読みやすい文章なので、テンポが良くむしろスピード感が半端ない。
更に中心となる人物がメインのストーリーをきっちり引っ張っていってくれるため、読むほうも、それにさえついていければ、美女が笑い、血の雨が降る長崎の各地を観光気分で財宝を巡る争いの旅を続けることが出来る。

それらの物語を読み進めながら、幻想の中の江戸時代、天正における長崎を観光しているような気分でもあり、更にその上に自分が実際に過ごした1990年代の長崎の記憶とが重なって個人的には大変面白く不思議な体験をさせてもらった。

 

○この過剰さはどこから来るのか?
劇中に出てくるそれぞれの忍者同士の対決シーンは、文字で作られた空想のワンダーランドだ。忍法は本当になんでもありで、中には?と思うものもあるが、何しろテンポとスピードがよいのでごちゃごちゃ言う暇が無い。さらに、出てくる忍者はみんな超人だ。アベンジャーズ真っ青である。それぞれの力を使えば天下を取ることも出来そうだが、なぜか忍者は忍者同士戦うことを宿命と考えていて、そのような野望は無いようだ。
くノ一の描写も素晴らしい。こちらは過剰ではなく、簡潔な描写で女たちの美しさとその醸し出すエロスを表現していて大変勉強になった。個人的には各自が死を覚悟したときに言う決めゼリフにしびれた。

今は冒頭にも書いたように「コロナ忍者」こそ過剰にあふれているが、その立ち居振る舞いには停滞とか絶望しか感じられない。(女性のマスク姿にはエロスも若干立ち上ってくる気はするが……)
この本に出てくる山田風太郎の描く忍者たちの過剰さはどこから来ているのだろうか?その当時の社会背景として戦後の急激な物質過剰、経済、金(かね)中心の社会が到来したことももちろんあるかも知れない。
だがやはりそれだけでは無く、物語の基盤になっている「地層の分厚さ」が豊穣な大地となりその上に生い茂る過剰さを可能にしているのでは無いだろうか。基盤とは著者が若い頃から親しんできた時代劇、チャンバラ映画、講談本などはもちろん、古今東西の名著名作で、それらの物語世界で活躍していた沢山の忍者たちの姿があるから、一冊の中に四五人の忍者を出すような、離れ業ができたのではないだろうか。

その辺が私には全然足りないというか、そもそも無いので文フリで出すために初めて書いてみた小説を自分で振り返ってみて「外道忍法帖」にあるような過剰さ、豊かさが感じられないと反省した。
それ以外にも山田風太郎の文章には学ぶべき所が沢山ある気がする。今後も他の作品を楽しんで読んでいきたい。