常盤平蔵のつぶやき

五つのWと一つのH、Web logの原点を探る。

人を喰わない話と喰った話〜「姫君を喰う話」を読んだ

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人を喰わなかった話

ある理由から大岡昇平の「野火」(こちらも後日感想を書く予定で現在読書中)を読もうと思い、吉祥寺に行った。最初はBOOK OFFで買おうと思っていたのだが、そもそも100円コーナーにあったら買おうと思って本棚を見たがなかった。レギュラー棚(?)の方にはあったが、かなり古い本で活字が小さく読みづらいのが気になったので、ブックスルーエに行って新品を買うことにした。

新潮文庫のコーナーのあいうえお順に並んでいる著者の「お」の辺りを探して見ると、ちゃんと「野火」は売っていた。数年前に映画化もされているので増刷があったのかも知れない。棚から引っ張り出してレジにもって行こうとしてふと平積みになった本の表紙が気になった。

それが今回読んだ本、宇能鴻一郎の「姫君を喰う話」だ。山田風太郎外道忍法帖」に続いて「表紙買い」である。つくづくブックスルーエの戦略にハマっている気がする。いや、そういう本を出す出版社の思惑か。

 

 

人を喰ったはなし

野火は最終的に人を喰わない話であるそうだ。しかし、そのついでにと買った本は文字通り人を食べた話もあるが、それ以外の短編も全て「人を喰ったような」という表現が相応しい内容であった。

確かにこの宇能鴻一郎という名前は本屋でも、良い子は手に取ることの出来ない棚に収まっていた記憶があり、タイトルと表紙のみでレジに持っていったあとでそういえばと思ったので著者名で検索してみたらそういう類の本をたくさん書いている方であった。

しかし、この本の著者紹介には「芥川賞受賞」と書いてある。うーむ、かなり変節のあった作家のようである。きっと私好みに違いないと思い読み始めたら本当にどれも面白くあっという間に読んでしまった。表題作の「姫君を喰う話」について巻末で解説を書いている篠田節子氏は、何とこの話を中学の頃図書館で読んだと書いてあった。物語の前半に作者とおぼしき人がモツ焼き屋のカウンターで延々と臓物喰いに関するうんちくを語るシーンは食欲が減退したと書いているが、五〇を過ぎた私からすると、今すぐモツ焼き屋に飛んでいきたくなるような内容であった。モツ焼きの油を流す為には焼酎を飲まねばならない、などと書かれたら一〇〇%同意以外無いと思う。そんな話から一転して平安の昔のある意味ファンタジーな世界に一気に持っていく筆力は素晴らしい。そのあと「姫君を喰う話」が語られるわけだが、それについてはここには書かない。

卑猥・汚穢・グロテスク

それ以外の話も表面上は卑猥・汚穢・グロテスクな面がかなりある。しかし、その表面上の出来事の底の方に沈んで見えるものは何か神秘的な魅力を放っている。芥川賞受賞作である「神鯨」はそもそも神話的なお話だが、しかし一方で科学文明を持たなかった頃の人類がどのように自然に相対してきたかというような点からみると、その頃のリアルを描いているとも読める気がする。それは我々が今生きているリアルからはかなりかけ離れてしまっている故に神話的に思えるわけだが、一方でその物語世界の中ではリアルそのもの(いやそんなでかいクジラおらんやろ、とは言うかも知れないが)と言っていいと思う。同様に「ズロース挽歌」(ズロースの意味がわからない人はおじいちゃん、おばあちゃんに聞こう!)に出てくる「金泥にまみれた偉丈夫」もかつてはリアルに存在……したかもしれない。「西洋祈りの女」の西洋イノリも、「花魁小桜の足」の小桜も「リソペディオンの呪い」にでてくる釜足も私には非常にその存在が確かなものに思えてならない。それは単純に私がこの作家の物語世界に対して親和性が高いからなのかも知れないが……

読み終えた後で

この本を読み終えて、大岡昇平の「野火」を読み始めた時に改めて、宇能鴻一郎の文章の上手さに思い至った。大岡の文章は大変ゴツゴツして飲み込みにくい(言いたいことがわからないわけでは無い)のに比べて、宇能の文章は滑らかに頭に入ってくるのだ。この辺りも人を喰った話を書く作家と喰わなかった話を書いた作家の違いなのかもしれない。