常盤平蔵のつぶやき

五つのWと一つのH、Web logの原点を探る。

二足の草鞋を履くこと〜 本業と副業

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○ 足は二本、草鞋は四つ
二つの仕事を掛け持つことを「二足の草鞋を履く」という。
人間の足はニ本である。同時に四つの草鞋を履くことは可能だろうか?
人間には足の他に手が二本ある。しかし、それを草鞋に突っ込めば、四つん這いにならざるを得ない。その姿はもはや人とは言えず、畜生に堕す事になる。
従って二足を履くためには、交番で履くより他はない。
二足の草鞋を履くとは、本来は不可能な事である。……言葉を字面通りに考えれば。


最初にも書いたが、この言葉は、二つの仕事、もしくは仕事に準じる事を同時にこなす事の比喩である。しかし、そこでも一人の人間が一度に二つの事柄を進める事はできないので、輪番で進める事になる。

一日は二十四時間しか無いので、それらのうち何時間は一つのこと、何時間はもう一つのことをやるという具合に遂行していくことになるはずだ。つまりタイムシェアリングである。

 

○副業は二足の草鞋?
むかし読んだ新聞の記事で、日本航空のCA、当時はスチュワーデスと書かれていたと思うが、その人が本業とは別に何かの事業を行なっており、記事の締めくくりで、二足の草鞋を履くという事は、人の二倍働かなければならないので大変だと語っていた。
この二倍というのは文字通り働く時間を倍にするという意味で書いていたと思う。本来であれば仕事以外の時間、食事や睡眠の時間を減らして働かなければいけないという事だ。
子供心に、二足の草鞋を履くという事は、並々ならぬ努力と根性がいる事だと私の心に深く刻まれた。

 

今、企業に勤めるサラリーマンにも普通に副業が認められて、私が勤める会社でも、届けを出せば副業を持つことが可能になっている。
聞いた話では、社内でもかなりの人が副業届けを出しているらしい。


中でもある人は、家庭の事情でお金が要るため、最初は副業でUber eatsをやっていたが、それだと実入りが不安定なため、ついにはドカタのバイトを始めたそうである。……それってもはや副業と呼べるのだだろうか? 
ドカタと言えば確かに収入はいいかもしれない。もしかしたら頑張れば本業の収入を超えることも可能かもしれない。

いや、それがそもそも間違っていて、曲がりなりにもホワイトカラーの仕事に就いているのに、収入の足しにするためにブルーカラーの仕事をする?
こうなると、最初に考えたように両手にも草鞋を履いてることになり、四本足、牛馬のように働くことになるだろう。やがては体力や健康の問題で本業、副業を問わず支障を来たすことは目に見えている。

 

○正しい二足の履き方とは
かくいう私も、このブログや文フリで売る同人誌などの原稿を書く文筆業と会社員の二足の草鞋を履いていきたいと思っている。正しい二足の履き方、あるいは履き分け方というものがあるのだろうか?


ことわざをもってことわざを制す。別のことわざに「二兎を追う者は一兎をも得ず」というものがある。本業と副業の二つを同時に成功させようとすることは、結局どちらも満足にこなすことが出来ないことになるという、先ほどの本業会社員、副業ドカタでは早晩立ち行かなくなるという裏付けのような言葉だ。


更に別のことわざで「一石二鳥」というものもある。二足の草鞋で曲がりなりにも成功するためには、これを目指さなければならないだろう。
では、一つの石で二羽の鳥を撃ち落とすことが出来る状況とはどういうものだろうか?庭には二羽ニワトリがいると言うような状況で、石を一つ投げて同時に二羽を屠ることが出来るのは、中島敦の「名人伝」に出てくる師匠と弟子のような達人だけであろう。しかし、鳥がうじゃうじゃいる状況に向かって石を投げたらどうだろうか?当たらなくてもいい鳥まで当たって二羽どころか三、四羽まとめて死んでくれるかも知れない。


20年前長崎にいた頃、岸壁からサビキで小アジを釣った事がある。カゴにオキアミを入れて、海にボチャンと沈めるだけで一度に二、三匹がかかったものだ。小一時間もやっていればトロ箱一杯になった。その日の晩ご飯のおかずはもちろん小アジの南蛮漬けオンリーであることは言うまでも無い。


要するに、二足の草鞋を履いて成功するためには一石二鳥的(濡れ手に粟的か?)な状況を目指すべきであり、そのためには情熱を傾ける対象ができるだけ集中している方がいいと言うことが言えると思う。

 

 

○まとめると
本業と副業が割とオーバーラップしているもの、例えばプロレスラー(本業)と用心棒(副業)とか、漫才師(本業)と作家(副業)とか、どちらの仕事にも必要な訓練や準備が共通しているものが良いと言うことだと思う。間違っても会社員(本業)とガテン系のバイト(副業)という組み合わせはやってはいけない事だと言うことになる。プロレスラー(肉体労働)と新聞記者(頭脳労働)というのは虎の穴で鍛え抜かれた伊達直人にしか出来ない芸当なのである。


では、会社員と作家というのは組み合わせとしてどうなのだろうか?

「スーダラ節」のような昭和のサラリーマンであれば、まさに「ちょっくらちょいとパーにはなりゃしねえ!」ということで「ドンと行け」たかも知れない。
実際、そうやって兼業で作家を目指してコツコツ原稿を書き、やがて賞などを取って作家一本で食っていけるようになったという話も割とよく聞いた気がする。


しかし、令和のサラリーマンは……リモートワークやテレワークなど、更に自由になっているので、コツコツ書く、賞に応募してデビューを目指すと言うのは、同じく可能だろう。しかし、である。

近年出版不況が叫ばれて久しいが、その理由はそもそも本を読む人が減っていることにあるのだ。
昭和の時代は、読書、文字のエンターテインメントはテレビや映画と並んで王道の娯楽だったが、今はスマホというプラットフォームにゲームや動画が幅をきかせている。ただ、一応電子書籍と言う形でスマホの中にも居場所を確保しているので、まだしばらくは娯楽の一つとして生き残っていくだろう。(もっと可能性があると松岡圭祐は下記の本で書いていたが)
だから、とにかく後はこうやって文章を書き続けるしか無いと思っている。