常盤平蔵のつぶやき

五つのWと一つのH、Web logの原点を探る。

ジョードー、アウェイクンズ  ~ひさびさに杖道について書く~

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アフター・ディケイド

私が杖道の修行のため現在の団体の門戸を叩いて既に10年以上が経過した。さすがに「十年一昔」というだけのことはあって、その間に色々なことがあった。その中でも最大の変化は、私が入門した団体の師範がちょうど一年前ぐらいに他界されたことだろう。本当に文字通り現世から居なく成られたわけだが、おそらく別の次元、別の世界できっと武術の探求を続けておられると思う。いや、決してふざけているわけではなく、本気でそう思っている。それができる方だったと思う。

私の杖道稽古もコロナによる稽古できない期間もあり、道場での稽古が再開してからも漠然とした歩みを続けていた。それが夏頃にちょっとした変化があり、そして今月のはじめにあった昇段審査では壁に突き当たった。初めて審査不合格になったのである。いや、もちろん審査に落ちるというのは自身の不徳の致すところ、稽古不足が理由なのは明白である。しかし実は夏頃にあった変化というのはある大会で準優勝したというものであった。これまで大会に何度も出てはいたが、賞と名のつくものにはとんと縁がなかった私が、ここへ来て結構大きい賞をもらえたのは何故だったのか? 一緒に組んだ人が上手かったからというのももちろんあるだろう。その部分は大目に見て、自分の技の研鑽も多少は積み上がっているとみなした上で、その一方で舞い上がるような喜びともう一方で谷底に落ちるような悲しみ(というと少し言い過ぎか)が同時にやって来たことを機会として自分にとっての杖道の「今」について書いてみようと思う。

 

アフターコロナ

2022年のコロナ禍にみまわれて、道場での稽古が一年以上休止していた時期には自宅での一人稽古が推奨されていたが、その間に折悪しく師匠の逝去ということが重なり、今年の春ぐらいから道場での稽古は再開されたが、道場に戻ってきた人はもともと所属していた人の半数ぐらいに減っている。それでも逆にコロナ後から何か運動や趣味を始めようということで新たに道場へ来られた方々もいるが、全体としてはおそらく減り続けている気がする。

全日本剣道連盟は剣道、居合道、そして杖道の三道を管轄しているが、その中でも杖道が恐らく一番知名度が低いのではないかと思う。その理由はいろいろあると思うが、はっきりこれだ! というものはない。強いて上げると名前からして、それが何の為のものなのかが判然としないという点ではないかと思う。剣道は言わずと知れた、防具を着けて竹刀で戦うものだし、居合道は居合刀を使って型を行うものだと漠然と知れ渡っている。では、杖道は?そもそも杖って何? というところから説明が必要になる。

あらためて「杖道」とは?

過去のブログを見返してみて、7年前(!)にも杖道について書いている記事があった。しかし、その時の内容はお世辞にも説明しているとは言えないので、今回は「もし予備知識のない人に『杖道ってなんですか?』と聞かれたら何と答えるか?」を改めて考えてみる。

まず使用する道具は木刀と杖である。木刀に関してはおそらく殆どの日本人ならどこかで見たことがあると思うので説明不要だと思う。しかしもう片方の杖に関しては説明が必要だろう。この場合の杖というのは高齢者や足の不自由な人が道を歩く時に使用する7〜80cmぐらいの長さの杖、ステッキとは違って、長さが124cm、太さが3cmぐらいの白樫の丸棒である。

馴染みがないものの様に思えるが、実はこれは大抵の日本人であれば街中で目にする機会がある。市町村の警察署の前に立っている警備の警察官が持っている棒がそれである。何故警察官が持っているのかには歴史的な経緯があるのだが、時代劇などで城や屋敷に入ろうとすると棒を交差させて侵入を阻まれるシーンを見たことがある方も多いだろう。(ああいう時に持っている棒はもっと長い(6尺=180cmぐらい)ものかもしれない)

そこで例えば侵入を拒まれた人が、刀を抜いて力づくで押し通ろうとしたらどうなるだろうか? 棒を持った人はそれでもその人を阻まなければならないとしたら? そのような状況で戦うことを主眼においた術技を学ぶことが杖道である。

 

tokiwa-heizo.hatenablog.com

 

人を殺さず傷つけず

ここで一つ疑問が湧いてこないだろうか。何故自分も刀を抜いて応戦しないのか?自分も武士であれば刀を二本差しているはずだし、仮に武士でなくても一本差す(刃物を一つ帯びる)ことは許されていたはずである。何故日本刀という世界でも類を見ない強力な刀剣を持つ相手に対して、武器とはおよそかけ離れた、何の変哲もない丸い木の棒で応戦しなければならないのか?これも歴史的経緯を説明しないと理解が難しいと思う。杖道のもとになった武術の一つに「神道夢想流杖術」がある。これは黒田藩の御留流(藩外に出さない)として代々下級武士に伝わった流派である。

ここからは私の想像になるが、この下級武士というところが重要で、先程も書いた通り武士であれば本来は刀で戦うことが普通である。しかし、平時の下級武士は治安維持のような任務も担っており、今で言う警察官のような働きをしていたのである。そのような役目の人たちが学ぶ術として捕手(とりて)術というものも伝承されているが、その中の棒を使って制圧する術に特化したものが杖術と言えるかもしれない。これが先述した今でも警察官が門衛に立つときにこの棒を持っている理由だと考えている。

神道夢想流杖術の伝書には「刀槍は人を傷つけ殺すゆえに望むに足らず、杖は人を殺さず傷つけず、しかも己の身を全うすることができる。それ故に武の大本である」という趣旨の言葉が書かれているらしい(全日本剣道連盟杖道」写真解説書 改定杖道入門 より)犯罪者を捕まえる際もある程度の暴力は正当防衛であるとしても、正義のためには傷つけたりましてや殺したりせずに対象を捕縛する必要がある。

12の基本技と12の型

ここまで書いてきて、杖道というものがかなり限定されたシチュエーションのための技術であると気付かされた。居合道にしても、お互いが室内で座って向き合っており、刀を鞘に納めた状態から、というような限定されたシチュエーションが設定されている中での技術だと考えれば多少の類似性は感じられるが、杖道は武器も異なるというさらに特殊性が加わっている。なぜ一方は木刀でもう一方は杖(丸棒)なのかという事を理解するだけでもこれだけの説明が必要になる。これらの道具を使って、12本の基本技と12本の(全日本剣道連盟の)制定型を稽古していく。12本の基本技は、それぞれ12本の型の中に出てくる技であると同時に、杖を使った打突の基本になっている。杖を使った打突とは元になった神道夢想流杖術の道歌「突けば槍 払えば薙刀 持てば太刀 杖はかくにもはずれざりけり」とあるように、多彩な使い分けをすることで同じ棒(杖)を槍のようにも、薙刀のようにも、はたまた太刀のようにも遣うということである。これらがどんな技なのかを文章で表すのは大変難しい。しかし、すでにそのような難事を先達の方が成し遂げておられるので、それを参考にしていただきたい。実はこれも無料で公開されている。全日本剣道連盟のホームページにある「剣道・居合道杖道を知る」というページの中にある「全剣連書庫」のなかにある。(以下がそのリンクである)それぞの基本技と制定型についてはまた別の機会に書きたいと思う。

jodo_manual.pdf (kendo.or.jp)

 

 

 

 

今再びのジョードー・アウェイクンズ

先程の伝書にあると言われる言葉の最後にあった「己の身を全うする」について最後に思うところを書きたいと思う。様々な事情があって敵対した相手であっても、相手を傷つけることなく、自分も負傷することなくその場を収めるということは争いの大小にかかわらず難しい。今もウクライナイスラエルで行われているような戦争ではお互いに数千、数万人規模の死傷者が出ている。こうなっては武という漢字の元々の意味「矛を収める」ということが大変困難だろう。このような大きな争いになってしまう前に、一人ひとりが「武=矛を収める」という意味での武道に携わることが出来たら、世の平和に寄与するに違いない。そのような意味において、この世の中に少しでも杖道が知られ、普及すると良いと切に願っている。

全世界が待望していたスターウオーズの最後の三部作は第7部「Force Awakens」から始まった。正直内容は今にして思えば第4部「New Hope」の焼き直し(繰り返し)だったが、逆に考えると、そうやって正義と悪の戦いは幾度も幾度も繰り返されてきたのだろう。400年前の同じく日本人が創始したこの武術、武道を令和の今やる意味はきっとそのような繰り返されてきた人類の歴史の中にあると思っている。