常盤平蔵のつぶやき

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書きあぐねている訳ではないけれど書けていない〜  「書きあぐねている人のための小説入門」を読んだ

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Twitterで知った

毎度おなじみ「小説の書き方」本をまたまた(パイプのけむり)読んでしまった。既に何冊目なのかは全くカウントしていないのでどうでもいいのだが、いずれにしてもかなりの作家の小説の書き方的な本を読んできた。その中で記憶に残っているのはやはりスティーブン・キングの「書くことについて」だが、今回読んだ「書きあぐねている人のための小説入門」も恐らくこれからも何度もページを開くだろうと思う。

保坂和志という名前はTwitter上で知った。「小説的思考」という講座?教室?を行っているというので、フォローしていたのだが、最近ハヤカワ文庫からデビュー作「標本作家」を出版した小川楽喜という作家が、同じように小説の書き方本をたくさん読んで、役に立ったのは今回取り上げた本と高橋源一郎の「一億三千万人のための小説教室」だけだった、とどこかのインタビューで書いていて、今回出版された本を保坂和志に送ってきたとTwitter上で書いてあった。

高橋源一郎の方は、以前読んだのだが、まだその頃はここまで小説に対する理解が深まっていなかったので、通り一遍読んであるはずだが、今回改めて読んでみたら全然内容を理解できていなかったことがわかった。やはり本は何度も読むべきものもあるということを痛感した。余談だが、件の本には金子光晴のこともしっかり書かれていて、文体を真似すると良い作家のリストに取り上げられており、「小説の文体としては最高の品質を有しているが、身につけるのは至難の業である」と書かれていた。いや、やっぱりそうだったんですよね、と自分でも妙に納得してしまった。

 

 

 

 

 

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風景描写をするべき理由

「書きあぐねている… 」の中で、「V. 風景を書く-文体の誕生」という章がある。ここを読んで初めて小説の中で風景描写を書く理由が明確になった気がする。いや、実際はそれこそ高橋源一郎の「日本文学盛衰史」に書いてあった……かどうか定かではないが、国木田独歩の「武蔵野」は言文一致で風景描写を主に書いている小説だが、その風景描写をしている主体のことを風景描写をさせることによって書いている、というようなことを書いていて、自分の中では風景描写は小説を書く上で大事な事の一つだろうという確信のようなものはあった。しかし、以前文フリで出した「三途川」という小説をある作家の方に添削をお願いした際に、風景描写なんて長々と書いても読者は飛ばします、と言われて「うーん」となってしまった事があった。自分としては書く必要が有ると思って書いているのだが、現役の作家の方にバッサリ否定されると自信がなくなってしまっていたのだが、そのへんも今回の本や「1億3千万人の…… 」にも書いてある通り、自分の小説を書く方法は自分で見つけるしかないのだから、その作家の方にはその方の書く方法があり、結局のところ人に教えてもらうものではないのだということが理解できた。

また、この章で「風景を書くことで文体が生まれる」と書いてあったが、これもまさに国木田独歩の話と呼応する(小川喜楽さんが両名の本を推奨している理由も)と思った。

 

 

 

ストーリーはいらない?

「Ⅵ.ストーリーとは何か?-小説に流れる時間」では、小説にはストーリーはいらないということから始まって、いや、でも、要ることもあるかもね…… みたいな展開になるが、この辺の淡いというか、どっちつかず的な内容もわからないまま持ち続けるしかないんじゃないかと思った。そもそも小説と言うのは物語、ストーリーと同義ではないのか?とも思うが、そうでもないという側面もあるということは確かなようだ。この内容について腑に落ちた!ということはないが別の観点からストーリーついて考えさせられる本を読んだ。その本はジョナサン・ゴットシャルの「ストーリーが世界を滅ぼす 物語があなたの脳を操作する」だ。

私は常々、人間は聞きたい事しか聞かず、見たいものしかみない、と思っていたが、ストーリーというものによって操作されることの事例をこの本で見ていくうちにその負の側面(ダークサイド)にも思い当たるものが沢山あることに気がついた。そしてそれは小説を書く上でも害になる部分があるし、必ずしもストーリーが一番先に来るものではない(改めて考えるとものすごく不思議だ。小説を書くのにストーリーはいらないなんて!)ということなのだ。

ストーリーや手順によって覚える記憶のことを「手続き記憶」というが、このやり方で覚えたことは忘れにくく、またパターンとしての応用がきく知識になる。先程のストーリーの保つ力のダークサイドというのは、これを洗脳や思想操作に利用するものだが、確かに使われているメカニズムは同じだ。それに対してこの本では「小説はそれを読んでいる時間の中にしかない」という。それがどういうことかというのは著者の小説「生きる歓び」を読んでみてなんとなく理解することができた。しかし、ここでそれを説明することは…… 出来ない。出来ないことがまさに「読んでいる時間にか存在しない」という説明でもあるのだが…… 。

 

 

 

私が小説を書くならこの題材しかない

小説を書くということは、小説の歴史に新しい1ページを加えるような内容のものを書かないと小説を書いたことにならないし、小説を書こうと思っている人それぞれが、自分が小説を書くならこの題材しかないというものがあるはずだという事なので、しばらくはそういう題材を探して(既に私の中にあるはずだが)今年も書いていきたいと思う。それは恐らく私が小説、物語を書くことと並行して十年以上続けている「杖道」についてのことではないかと思う。

昨年の秋にその十数年師事してきた師範が神上がられた。武術の稽古というのは道場だけで行われるものではなく、行住坐臥どんなときもその武術の原理に従って生きることだ。つまり武術・武道を学ぶとは生きることと常に共に有る。もしそれを題材に小説を書いたら、きっとその小説を読む時間の中に「武術修行者であること」が存在しないといけないだろう。時代劇やアクション活劇のように敵味方がいて勝ち負けがあるというようなもの(ストーリー、物語)とは全く違う小説になると思う。そんなものが一体どんな小説になるのか見当もつかないが、もし書けたら自分自身が一番読んでみたいと思う小説になるはずだ。

 

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