常盤平蔵のつぶやき

五つのWと一つのH、Web logの原点を探る。

想像力に責任を持つ?~ 「海辺のカフカ」再読 (3)完結編

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灼熱の季節

海辺のカフカとは全く関係ないが、ここのところ暑すぎる。暑さで全てが過負荷…… こう言えば関係ある? と無理やり言いたくなるぐらい暑い。言うまでもないが気温の話だ。関東周辺でも観測史上最高を更新しまくっているらしいが、本当に殺人的な暑さだ。8月になったばかりだというのに「酷暑」であり「超熱帯夜」がこうも続くと活動が鈍くなる。新聞やニュースでは電力不足と頻りにいっていたが、暑さに耐えきれずエアコンの設定温度をどんどん下げてしまう。

ここ二十年ぐらいかけて、子供の頃と比べて冬の寒さがそれほど辛く感じなくなってきたが、反対に夏の暑さが辛いと思うようになったのはここ数年だと思う。地球温暖化によって引き起こされた環境の変化が、我々にとって致命的な影響を及ぼすまであと僅かなんじゃないかという気がする。バランスがあと少し向こう側に傾けば、最初の頂点まで引き上げられたジェットコースターのように、反対側に下りだしたが最後徐々にスピードを上げて奈落の底までまっしぐら、だ。

 

よりみちのネタも尽きた

海辺のカフカ」も下巻になって引用されているものといえば、星野青年が聴くベートーベンの音楽「大公トリオ」と読む伝記「ベートーベンとその時代」という本、あるいはカフカくんが森の中の家で読んだナポレオンの戦争の本ぐらいだろう。哲学科のおねーさんが引用する哲学書の言葉は多分深い意味があって、この物語の重要な何かに関係するのかもしれないが、今回もスルーする。

先程の話ではないが、上巻で読者を一番高いところまで引き上げておいて、下巻では一気に物語のスピードをあげる……というほど急いでいる感はないが、下巻が始まってしばらくすると、佐伯さんが死に、そのあおりを食って(?)ナカタさんが死ぬ。

そこに至るまでに、前回読んで気が付かなかったが、今回読んで見て気が付いた点として、星野君がレンタカーを借りる場面でのでマツダ・ファミリアに関する記述が結構普通ではない、ということだ。その部分を引用してみるとこんな感じだ。

 

「あのですね、お客様」と相手は言った。「うちはマツダの車を扱うレンタカー会社です。こう言ってはなんですが、目立つセダンなんてひとつもありません。ご安心ください」

「よかった」

「ファミリアでよろしいでしょうか。信頼できる車ですし、目立たないことは神仏にかけて保証します」

海辺のカフカ」下巻P278 5行目から10行目

 

しかもそれらをマツダレンタカーの職員と思しき人に言わせている点が確信犯的でもある。もちろんこんな世界的なヒット作に取り上げられているのだから、マツダの関係者の方がこの下りを読んでいないはずはない。近年のマツダ車のデザインがとても「目立たない」とはいえなくなっているのは、この部分の描写に対する会社を挙げて反発から来ているのではないかと思ってしまいたくなる。

 

大公トリオ

星野青年は名曲喫茶のようなところで、ある曲を聞いてひどく気に入る。その曲はその後この話の中で何度も出てくるが、ベートーベンの「大公トリオ」という曲である。一回目に読んだときもどんな曲なのかが気になったので、iTunesでアルバムを入手して何度も聞いてみた。うーん、残念ながら私には星野青年のようになにか深い感動や気付きを得るというようなことは全然なかった。まるで今回の再読で読んだ「坑夫」に対する劇中のカフカくんの感想のようだ。

 

 

 

4つの視点

一応4つの視点のおさらいをしておく。

①    メカニズム(それはどのようなメカニズムで成り立っているのか?)

②    発達(それはどのような個体の発達過程を経て獲得されるのか?)

③    機能(それはどのような機能を持つのか?)

④    進化(それはどのような進化の過程をへたのか?)

平野啓一郎「小説の読み方」より

①に関して、この小説の面白さ、ストーリーがどのようなメカニズムで成り立っているのか? に関しては、ざっとストーリーを纏めて見る必要がある。いわゆる三行ストーリーで書くと

(1)少年が父にかけられた呪いを解くために旅に出る

(2)母や姉と出会い呪いによる災禍に巻き込まれていく

(3)味方や大いなる意思などの助けにより自らにかけられた呪いを浄化する

この三行を読んで自然に思い浮かんだのは「もののけ姫」だが、母や姉をエボシとサン、大いなる意思をシシ神やその他のヌシとみなせば……呪いは最後には解かれたわけじゃないけど、それを言えばカフカくんの呪いも解けたかどうかはわからない訳で、かなり近い話といっていいのではないだろうか? けれども、別に話型が近いものがわかったからと言って、その話が伝えたいことに近づけるわけではない。

②に関しては、この作品が書かれた時期は著作年表を参照していただくとわかるが、2002年の出版だからその前の数年間だろうという感じだ。しかし、それが著者の作家としてのどのような時期に当たるのかはちょっとコメントしようがないのでスキップさせて頂く。逆にその時代がどんな時期だったか? 今から二十年前といえば私も若かった……ではなくこの2002年の10大ニュースを見ても全然どんな時代だったかピンとこない。本当にコロナ前とあとでは時代の地続き感がない気がする。ただ、この二十年も時間が経っているについては次章に関係があるのでそちらで述べる。③④については全く手上げである。

 

海辺のカフカ」のアポリア(無理)

ここらへんで今回なぜ「海辺のカフカ」を再読しようと思ったか? について回答しておく。それはズバリ「まぼろし博覧会」に行ったからである。あそこで得た感覚がお話の中に出てくる海辺の絵やその曲のもたらす感覚にとても似ていると感じたからである。

 

 

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まぼろし博覧会に行ったあとに書いたブログにも書いたが、あそこにあるものは殆どが一度別の場所で公開されたものである。別にそれだからいいとか悪いという話ではない。大事なのはあそこにあるほぼ全ての展示物は過去の記憶とセットであの場所に存在しているということだ。これは、文字や記憶が重要な意味をもっているこの「海辺のカフカ」という物語ともリンクする点だと思う。ナカタさんは字が読めない。また、カフカくんが行く森の中の町には文字がない。佐伯さんは自分の人生を文字に起こしておきながら全てを焼却するようナカタさんに依頼し、全ては燃やされる。

上巻にでてくる「想像力に責任を持てるか?」が、このお話のアポリアなんじゃないかと当てずっぽうで考えて、下巻まで読み終わってみたが、残念ながらそれ「だけ」がこの物語のアポリアではないようだ。

その上で、この命題「想像力に責任を持てるか?」について考えてみたい。物語の中でこの言葉が出てくるのは、性的な場面である。性的な妄想に対して責任を持つべきだと書いているようにも取れる。そこでやはり「まぼろし博覧会」に収容されている「秘宝館」の遺産を思い出した。あの人形たちはそれを製作した作家たちの想像力で生み出されている。しかし、一旦この世に出たことで、その秘宝館が閉鎖されてもこの世に存在することとなった。まさに実在する「森の中の町」のような場所にである。その辺が私の記憶の中から「海辺のカフカ」の物語を呼び覚ましたのかもしれない。ただ、ほんとに不思議なのは今回再読するまで最後にカフカ少年が森を抜けてどこへ行ったかを失念していたことだ。文字のない場所でありながら、その描写は文字のみでされているのに、である。やはり物語は文字で書かれていても、もっとその下の深い所に存在するものなのではないかと思った。この続きを書くときは三回目に読んだときにしたい。