常盤平蔵のつぶやき

五つのWと一つのH、Web logの原点を探る。

ずっと待っていたもの〜「すずめの戸締まり」を観た

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またまたオデヲン

結局のところ、家から近い映画館というのが一番使い勝手がいいのは確かだ。まして、いつも突然思い立って観に行くので、近い方がいいに決まってる。前回「シン・ウルトラマン」を観た時に書いたブログで「吉祥寺オデヲンでは観たくない」と書いておきながら、結局行くのはオデヲンである。もうここまで来ると、私のオデヲンに対する気持ちは、本当は好きなのにつれない態度を取る幼なじみのツンデレのようなものなのかもしれない。いや、もうそういうことにしておく。ただ、今回は画面の下に並ぶ前の席のお客さんの頭もあまり気にならなかった。それは映画が面白かったからというのもあるが、今回の上映はアナ雪2ほどではないが、小さい女の子のお客さんが多かった。その様子を係員の方が見て、視線を嵩上げするようなマット?四角いクッションのようなものを配っていたのである。それを見て劇場として座席設計が古いためスクリーンが見にくいということはわかった上で、できることをやろうとしている姿勢というものをみて、キュンとしてしまったのである。まるで幼なじみで女と思ってなかった女の子が急に可愛く見えた瞬間みたいなものか。今度から吉祥寺オデヲンのことを親しみを込めて「オデ子」とでも呼ぶことにしようかと考えている今日このごろである。

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「すずめの戸締まり」のストーリー

保坂和志の「書きあぐねている人のための小説入門」を読んでから、ストーリーについて語ることに慎重にならざるをえない自分がいる。今回の映画のあらすじを書いても確かにこの映画の何が良かったのかを語ることは出来ないだろう。正直すべてが不思議が発生する前の、最初の何もなかった状態に戻る話なので話(ストーリー)には意味がないと言うのはそういう意味かもしれない。すべてが丸く収まった後に、登場人物たちに残るのは何なのだろうか。主人公の女子高校生岩戸すずめは……いろいろな冒険をして家に帰る。というのがあらすじだと書いたら身も蓋もない。行きて帰りし物語の典型だ。それとは別に上映時間中私の涙腺を刺激し続けていたものは、今回の冒険譚が何かを変えるのではなく、もとに戻したい(けど戻らない)という働きに貫かれていたからだろう。(というわけでここからネタバレになります。)

主人公はある日「閉(と)じ師(し)」の男と出会う。この「閉じ師」というのが何をする人かというと、「後戸(うしろど)」というものがあって、そこが開くと「みみず」が出ててきて地上に厄災を起こす。そこでその「後戸」を閉じるのが「閉じ師」の仕事なのだが、すずめが家の近所にあった「後戸」を封じていた「要石(かなめいし)」を抜いてしまったことから、その「要石」が猫の姿になり逃げ出す。「閉じ師」の男はすずめのもっていた「子供の椅子」の中に封じ込められてしまう。すずめは逃げた猫を椅子に変えられた男とともに追いかける。宮崎から愛媛、神戸と足取りを追いかけながら、土地土地で開いた「後戸」を閉めるすずめ。やがて「要石」は日本に二つあり今逃げている要石と、もう一つは東京にあることが判明するが、逃げた猫のせいで東京の後戸が開き、巨大なみみずが地上に出てしまう。それを止めるためには、椅子に変えられた男を要石としてみみずに刺して再び封じる必要がある。東京は巨大な厄災から救われるが、椅子に変えられた男は「常世(とこよ)」に閉じ込められしまい、永遠に要石にならなければならない。それを助けたいすずめは、なんとかして「常世」に行ける方法を探す。その方法は自分が幼い頃に一度常世に入ることの出来た、自分専用の「後戸」があると教えられる。それを求めて自分の生まれ故郷である仙台にむかうすずめ。津波で流された実家に残されていたドアから常世に入ると、未だ焼け焦げ続けている震災直後の街の風景の中、巨大なみみずを刺して封じている椅子を引き抜き男を救う。もとにもどった椅子を、震災直後に常世に入った自分自身に渡して「現し世(うつしよ)」に戻るすずめと男。筋書きだけを書くとこんな話だったと思う。

 

 

 

ジブリアニメの影響?

新海誠監督がジブリアニメ、宮崎駿監督の作品から影響を受けているというのは全然不思議じゃないし、日本でアニメ作家をやっていて多かれ少なかれ影響を受けていない人というのはいないのではないかと思うが、それにしても今回は映画の最初から「君の名は」とか「雲の向こう、約束の場所」以前の作品が持っていた空の青さとかコントラスト、カメラワークみたいなものが影を潜めて、よりジブリ的なセルアニメ的な絵作りになっているなと思った。しかし、物語後半で東北へ向かう三人をのせた車のカーステレオから「ルージュの伝言」が流れ出すに至って、コレはもうハッキリとスタジオジブリのアニメ作品を意識したものなんだなと感じた。ではその意識した作品とはなんだろうか? 先程の「ルージュの伝言」が流れる作品といえば「魔女の宅急便」である。なるほど、しゃべる猫もでてくるし、少女の成長を描いているという意味では、すずめが途中で出会う様々な同性のキャラクターがおソノさんや森の中で絵を書いている女性(名前忘れた)を思わせる。ラストでトンボを助けるためにキキが奮闘するというところもそっくりだ。

一見「魔女の宅急便」のオマージュのような作品にも思えるが、本当にそうなのか? 私の涙腺を刺激続けたものは「魔女の宅急便」に共通するものだったのか? ズバリ言ってしまえばそうではなく、私が思い浮かべていた作品は「もののけ姫」だったのである。

 

 

 

 

もののけ姫」と「すずめの戸締まり」

まだDVDもなかった頃、レンタルビデオ屋が全盛だった頃でも何度も繰り返しみたい作品があればソフトを買って観ていた。「もののけ姫」もVHSビデオで持っており、それこそ今日は泣きたい気分だというときには「もののけ姫」をデッキにセットして美輪明宏の声で「黙れ小僧!……」と言われてただ静かに泣くということを繰り返していたものだった。ちなみにその後のセリフ全文を以下に引用しておく。

 

「黙れ小僧!お前にあの娘の不幸が癒せるのか?森を侵した人間が、わが牙を逃れるために投げてよこした赤子がサンだ。人間にもなれず、山犬にもなりきれぬ、哀れで醜い、かわいい我が娘だ。お前にサンを救えるか?」

 

もののけ姫の主人公アシタカは「森と人間双方が生きる道はないか?」と考えていたが、その考えの甘さをモロの君にこっ酷く言われるシーンだ。そして物語の最後には本当に人間は森に住む神「シシ神」を殺してしまう。人間たちが自然というものを一方的に収奪する側に立つことを決定づけて物語は終わる。サンは「木は生えてきても森は戻らない」と言う。今を生きる我々は「森の中に住んでいた神々」を殺してしまった人間たちなのである。少なくともその頃の私はそう思っていた。

 

ずっと待っていたもの

今回の「すずめの戸締まり」の冒頭で、要石を動かしてしまったすずめは後戸から出てくるみみずの姿が見えるようになる。山の奥の廃墟のあるあたりから黒い煙のように立ち上り、その後いく筋もの触手のように枝分かれしていく姿をみて、シシガミが夜の姿「でぃだらぼっち」に変わって森を彷徨い出ていくのを思い出した。最初こそ後にダイジンと呼ばれるしゃべる猫は魔女の宅急便のジジみたいであるが、物語の終盤では同類のサダイジンがリアルフォーム(?)になったあとの姿はジオフロントで戦う弐号機の裏モード「ビースト」か、頭がおかしくなった乙事主(ストーリー中では九州から東北まで来る!=すずめのたどったコース!)と戦うモロの姿を思わせる。そういう意味ではすずめは(事情はぜんぜん違うが)親と離れて育ての親のもとで育てられており、椅子になった男は、呪いのせいで超人的なパワーと一時的な不死を得たアシタカと被るではないか。

しかし、エボシ御前のように積極的に開発や技術を信奉する人間は出てこない。それは何故か? 答えは閉じ師である椅子になった男が後ろ戸を閉めるときに唱える祝詞にあると思う。以下にその全文を引用しておく。

 

かけまくもかしこみ日見不(ひみず)の神よ 

遠(とお)つ御祖(みおや)の産土(うぶすな)よ

久しく拝領つかまつったこの山河(やまかわ)

かしこみかしこみ

謹んで

お返し申す

 

この、我々が開発、開拓、利用して自然の姿から遠く離れたものにしてしまった山河を元の持ち主に返すというアイディアとそれを実行する閉じ師および主人公が、もののけ姫を見終わったあの日からずっと抱えてきた閉塞感(……いや、罪悪感とよんだほうが正確だろうか?)に対する答えをくれた。サンに言われた言葉をずっと抱えてきた我々が、それでもやらなければならないこと ―めちゃくちゃにしてしまった場所を元の形に戻そうとすること― をこの映画は示してくれたと思う。

仙台についたすずめたちの背後には延々と巨大な防波堤が映っているシーンがあった。それはタタラ場の周りを囲んでいた高い丸太の柵の延長にあるものだろう。首を切られて怒ったカミは、いともたやすくタタラ場を壊滅させた。今回作られた堤防が次の地震、次の津波に耐えられる保証はなにもない。それよりも我々が考えなければならないのは、今いる場所も仮りそめであり、いつかは返さねばならないものだということではないだろうか。もしかしたら新海監督も「もののけ姫」を観てずっと同じようなものを感じていて、それが今回のジブリアニメに対する本歌取りを正面から行ったことで、同時にストレートに表面に出てきたのではないか?というのは考えすぎだろうか。いずれにしてもこの映画は私がずっと待っていたものの一つだということだ。