常盤平蔵のつぶやき

五つのWと一つのH、Web logの原点を探る。

「夏の情婦」を読んだ

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〇初期短編集
「永遠の1/2」を読んだ勢いで、せっかくだから佐藤正午の本を更に読んでみようと思い、一番手軽に読めそうな短編集「夏の情婦」を選んだ。この本には五編の短編が収められており、全てが男と女の関係を扱った話だ。いわゆる恋愛小説というのかもしれない。

私は基本的に人の恋愛話を聞くのが好きではなかった。だから恋愛小説もほとんど読んだことがない。その理由は単にモテない自分の僻みから来るのだろうと思っていた。大抵の小説には色恋沙汰がメインの物語ではなくても多かれ少なかれ描かれているのは普通だ。しかし、それら小説に描かれている恋愛が基本的に他人事な感じがしていたからである。例えるなら公園でたまたま座ったベンチの、反対側のベンチでいちゃついている恋人の様子を覗き見ている様な感覚だったからだと思う。同じような感覚で子供の頃は野球もやるから楽しいであって、プロ野球であっても観ているだけなんて退屈だと思っていた。(しかしそれもある年齢になったら観ているだけの楽しさを理解したのだが)

それが、今回この本を読んでみて多少考えが変わった。考えが変わった理由は、恋愛を眺める楽しみを理解したのではなく、もう知命を過ぎて色恋沙汰からは遠く離れたからと言うのももちろんあると思うが、今回読んだこの短編集に対する自分の感想にある。そもそも世の中の全ての歌は愛に関するものである、と昔何かで読んだ気がするが、歌はなぜ他人事感がないのか?その理由も今回なんとなくわかった気がするのだが、この本の話はどれも「自分」の経験というか、「自分」に起きた事を小説にしているような感じがしたのである。もちろん、それは錯覚だろう。村上春樹が何かに書いていたが、よい小説はまるで読者個人への手紙のように、その人に届くものであるらしい。

先ほど私は”自分”をカギ括弧を着けて書いたが、これは正にその意味を込めたつもりである。作家「自身」でもあるし、読者「自身」でもあるという意味だ。更に私が買った文庫本の帯には中江有里さんが描かれていて、そこに佐藤正午の小説が好きで、その理由は「自分の記憶の扉を開いてくれるから」と言うようなことが書いてある。正に中江さんも同じように感じたと言うことだろう。私の経験と中江有里さんの経験は全く違うものだと思うが、同じ本を読んだ人間が同じように感じると言うことが不思議だ。しかしそんな風に思わせる小説を佐藤正午は二十代で書いているのである。やはり才能のある人は違う。

 

夏の情婦

夏の情婦

 

 

〇「小説の読み書き」
続けてこちらも佐藤正午の「小説の読み書き」という岩波新書から出ている本を読んでいる。この本は、小説家が小説の書き方を述べている本かと思い、喜んで手に取ったのだがちょっと違っていた。タイトルにも「読み書き」とあるように、佐藤正午がこれまで読んだ本を、その本の作家がどのように考えて書いたかと言うことを考察する本であった。
では小説の書き方としては役に立たないかと言うと、そんなことは全くなくて、むしろ得るところ多大であった。佐藤正午が作家としてこだわるところもよくわかったし、取り上げられている過去の大作家がその本を書く際に何をこだわったか、追求したかと言うことがわかる。これが今の私には大変有意義であった。
紹介されている作家の中に幸田文があったが、私個人的にも初めて「木」を読んだときの感動は忘れがたい。その本は木にまつわるエッセイ集だが、一つ一つのエピソードが胸にしみる本当に素晴らしい文章だったと思う。佐藤正午が紹介しているのは「流れる」で、その中に出てくるキントンの価値判断について、明治生まれの人たちには、自分の経験と技術に基づく明確な判断基準があったという形で紹介されていた。面白かったのはその過程で出てきた一つの単語の理解を巡って祖語があり、それを同じような(明治生まれの人かどうかまではわからないが)老婦人から多数指摘が来たと言う部分である。最後まで誠実にこの原稿が連載されていた当時とその後本への収録時にも真摯に向き合う姿勢に大変好感を持った。

 

小説の読み書き (岩波新書)

小説の読み書き (岩波新書)

  • 作者:佐藤 正午
  • 発売日: 2006/06/20
  • メディア: 新書
 

 

認知科学の話
佐藤正午の本と同時に、先日読んだ「英語独習法」から認知科学への興味が自分の中で高まっている。そこで、さらに今井むつみの本を読んでみようと思い、先日「学びとは何か-<探求人>になるために」を西荻窪古書店「猫の手書房」で入手することが出来た。なぜか半額のコーナーにあったので大変得した気分である。
先述したように、文章の意味を理解するだけではなく、使っている単語や語順、句読点の位置まで考慮して作者の意図を「味わう」ことは、認知科学的にはかなり多重の認知を行った上で、それぞれの認知を統合出来ないと難しいと思う。なので、私個人的には認知科学的側面からのアプローチも意識的に文章の創造を行う上で重要だと考える。

 

 

 


少し話がずれるが、ちょっと前にケーキを切れない非行少年を扱った新書が話題になったが、これもいわゆる認知のゆがみから起きているという。私はこの話を聞いて連想したのが、東京の住宅の再開発である。今、自分が住んでいる当たりでは昔の区割りで一軒の家だったところを、新たに区分けして3軒、4軒が建つケースが非常に多い。そのまま一軒建っていたところに一軒が建つと言うのはほとんど見たことがない。しかもその区割りが道路からそれぞれの区割りまで駐車場と細い通路でつながっているが、かなりいびつである。まるで非行少年が切った(と言われる)ケーキのようだ。個人レベルではなく社会レベルでの認知のゆがみが起きているのではないかと言うのは、見当外れかもしれないが、歴史上でみれば、土地開発の認知のゆがみという風に理解されてもいいのではと思った。

 

 

ケーキの切れない非行少年たち(新潮新書)
 

 


また、かなり前のブログで紹介した「一万円札理論」というものも、認知のゆがみで説明が出来る気がする。ただの紙が破れないという事態は、その人間にとって紙と言う素材に対する認知を歪ませている(破れないもの)としか思えない。つまりこの理論で説明出来ること自体が認知科学的問題と言うことだろう。

 

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