常盤平蔵のつぶやき

五つのWと一つのH、Web logの原点を探る。

「心理的安全性」について

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心理的安全性とは?

honz.jp


HONZで紹介されていた本に「恐れのない組織」というタイトルのものがあった。まだ、HONZの記事を読んだだけで、本そのものは読んでいないことをお断りしておく。しかし、その本のサブタイトル<「心理的安全性」が学習・イノベーション・成長をもたらす>という文の「心理的安全性」とは何だろうと思い、そのHONZの記事から更にリンクされていた所も読んでみた。

eijionline.com


この記事を読むと解るが「心理的安全性」というのは組織の中で生きるものにとって大変重要な要素で、簡単に言うと「その組織内の誰もが正直に行動して、なおかつその事で不利な扱いを受けない事が保証されていること」といえるのではないかと思った。これを考えてみて、私の頭に一番に浮かんだのはポール・バーホーベン監督の映画「スターシップ・トルーパーズ」の最後の方に出てきたラズチャック小隊だった。
映画の中でラズチャックは言う「Everyone fight, No one quites.」と。そしてその言葉通りに自ら先頭になって”虫の大軍”と戦い、死んでいく。隊長が死んだらその次に偉い人間が隊長になる。「リコ小隊!リコ小隊!」と周りの歓声を受けながら新たに隊長になりやはり同じスローガンを挙げる。「Everyone fight, No one quites.」とーーー。


everyone fights no one quits


ちょっとずれてる気もするが、心理的安全性がもたらすものは「誰でも発言できる風通しのよい企業文化」とはいうものの、その根底にはその組織にいる人間全員が企業活動にフルコミットする(全員が戦う。誰も止めない)という前提があっての話ではないだろうか。だからその発言にも自然と重みが生まれるし、お互いの意見を尊重できるようになるのではないだろうか。恐らくこれは鶏が先か卵が先かだと思うが、少なくとも両方がないと高い理想を持って任務を遂行できる強い組織は成り立たないのではないか。

##子供の頃思っていたこと
自分が子供の頃だから昭和40年代の後半から、昭和50年代の前半ぐらいの話になるが、その頃漠然と世の大人たちの振る舞いに対して、その中に潜む不機嫌や不安のようなものが有るように感じていた。それは世の中の大人と言っても基本的には自分の親や親戚、あるいは友人の親、先生などに限られるので、そんなに広い世界を視野に入れての話ではないが、そのような心理の原因はやはり第二次世界大戦における日本の敗戦があるのではないかと思っていた。
今回紹介された概念である「心理的安全性」は、恐らく戦時中にほぼ完全に日本社会の中から破壊されたのではないだろうか。国全体が戦争状態にある事や、その国民総動員で戦争に向かう中で、それに反対するものや非協力的なものは憲兵などが取り締まったり、隣人同士が監視し合ったりと、極度の心理的不安の中で生活することを余儀なくされたと想像されたからである。

これは先ほどの「スターシップトルーパーズ」の一場面を想起したことと矛盾しているかもしれないが、バーホーベン監督の意図はもちろん逆だと思う。私の感覚はあえてそれを一周回って「是」としたと解釈して欲しいと思う。


第二次世界大戦とその後に続く世界を二分した米ソの冷戦を経て、ようやく世界は安定を得たように見えるが、一方で地球温暖化や化学物質による汚染のような環境問題が深刻さを増して、今度はそちらが「心理的安全性」を社会から奪いつつある気がする。本当はそのような深刻な問題に立ち向かうときこそ、クリエイティブな発想が最も大事であり、そのためにはあらゆる局面で「心理的安全性」が確保された上での議論や計画、実行が欠かせないはずなのだが。