常盤平蔵のつぶやき

五つのWと一つのH、Web logの原点を探る。

言葉のメタファーとしての刃物

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切れない刃物で切ると

昔、裏面に糊の付いた紙をハサミで切っていて、刃に糊がついてしまったので、その糊を指で剥がそうとしたことがある。ちょっと考えれば分かりそうなものだが、刃のエッジに着いたものをその刃に沿って指で擦ったらどうなるか?糊が取れた所で刃と指が振れる。刃が指を切り裂く。血がどばーという具合である。

ハサミの刃というのは包丁のように鋭くないが、2つの刃がお互いを削り合うようにして交差し、その間にあるものを切断する。ミクロで見たらお互いの刃が相互に間の物体を支えると同時に潰すようにして切り裂くのだろう。そのために鋭利ではないが硬い刃で指の皮膚を咲かれものすごく痛い思いをした。カッターナイフの刃のような鋭いもので切ってももちろん痛い。だが、切れない刃で切るとその痛みは十割り増しである。痛さマシマシである。

 

辞書は砥石

「言葉は現実を切り取る刃物」であるというのは、昔何かの辞書に詩人の谷川俊太郎さんが帯のキャッチコピーに書いていたのを読んだ記憶がある。そしてその後こう続く。「言葉が刃物ならば、辞書はその砥石」この時に読んだこの文言で、言葉=刃物というメタファーで語ることを覚えた。

そこで先ほどの「切れない刃物で斬られると(とても)痛い」ということにつなげようという話である。正直自分の選んでいる言葉が十分に「鋭くて」その概念を的確に表せているとは思えない。だからと言って「文章が下手だから」ということにされてしまうと、ちょっと違うのではないかと自分では思う。

ミケランジェロが彫刻をする時に大理石の中に既に「その姿」が見えていて、自分は「それ」を掘り出しているだけだ、というような話をどこかで読んだ気がするが、しかしいくらその姿が見えていても、ノミやタガネが鋭くないと余計な力が入ったりして的確にそれを掘り出すことはできなくなってしまうのではないか。

言葉もそれと同じで、いくら表現したい「それ」があっても、それを形にするために用いる言葉が十分研ぎ澄まされていないと、歪なもの、痛いものとしてしか読み手に伝わらないのではないか。

 

リアリストは現実(リアル)を斬る

私が勝手に師と仰いでいる内田樹先生が「リアリストとは現実を追認する人のことではない。現実を直視して、その中であるべき姿を創り出す努力をする人のことである」ということをブログで書かれていた。この考え方を一読すると「あれ?」と思う。あるべき姿を創るのであればそれはリアリストではなく理想主義者なのではないのか?と。

しかしよくよく考えてみると、ただの理想主義者であれば、現実とはいくらかけ離れていようとも理想だけを追い求める人だ。しかし、リアリストであってもただ目の前にあることを現実だからと認めるだけではなく、目の前にあることのなかから選びうるもっともよいものを目指すのが、リアリストであるということだと解釈した。つまりこれは目の前にある現実という大理石の塊の中から「その(あるべき)姿」を見出し、世の中に提示することのできる人のことだろう。そのために必要なものは混沌とした情報の塊から、あるべき姿を切り出せる切れ味のよい言葉だ。その切れ味の良さは切るという動作そのものの鍛錬と、切るための道具である言葉=語彙を常に磨いておくことの両面から行う必要がある。

 

blog.tatsuru.com

 

変わりゆく現実を斬れ

コロナ禍が2年を経過してようやく収束に向かう最中に、今度はロシアがウクライナに侵攻した。スマホや衛星ネットワークなどの情報テクノロジーが、リアルな戦場の姿を日々伝えてくる。実際に破壊されたロシア軍の戦車のねじ曲がった車体や砲塔がニュース映像に映し出されている。

戦争というのは、それを準備している段階では「先の戦争」を想定しているが、新しい戦争が始まった時には全く異なる手段が主流になっていくものらしい。戦車というのは第一次世界大戦で開発され、第二次世界大戦で大きく発展したが、今回のウクライナ侵攻では「ジャベリン」に代表されるような安価なロボット兵器で簡単にスクラップにされてしまっている。

我々にウクライナの現状を鮮明に伝えてくれる民間用のドローンが、戦場では偵察用途として有効であることも今回の戦闘で証明されているようである。数年前にRaspberry-Piを頭脳にした戦闘機とベテランパイロットが模擬戦をして、ラズパイが圧勝したというような記事もあったが、コンピューターが戦闘に本格的に利用されるようになれば人間には勝ち目はない。

 

www.itmedia.co.jp

 

ようやく人類が、地球環境の事を考えて経済活動を行おうとした矢先に、むしろ誰も望んでいないテクノロジーが日々進歩し続けている。現実を追認するだけでなく、あるべき姿をその中に見出して提示するためには、選び尽くされ、磨き抜かれた言葉をもって目の前にある「現状」からあるべき「現実」を切り出さなければならないと強く思う。