MicrosoftとIntelの都合とはわかっているが・・・ Windows11をインストールした(後編)
前編はこちら↑
2022年1月10日 10時25分 自宅
2022年1月10日 15時45分 自宅
2022年1月10日 17時25分 自宅
MicrosoftとIntelの都合とわかってはいるが~ Windows11をインストールした(前編)
2022年1月9日 15時15分 秋葉原駅
十年に一度のその時が来た。秋葉原駅の中にあるそば一でかき揚げ天たま蕎麦を食べ終わると、すでに時計は3時半を指していた。Windowsアップデートを見るたびにあなたのPCはWindows11へのアップデートに適合していませんという表示を見続けるのにうんざりし、約十年使ったIntelのCPUを最新のものに取り替えてこの忌々しい表示が永遠に消えさることを願った。
2022年1月9日 15時45分 ツクモex本店
極限状況でのモラルとは?〜「野火」を読んだ
ライダーの都市伝説
あらすじ(もちろんネタバレです)
ゼロカロリーを食べる?
再び人を喰った話と比べて
日々の暮らしにアートを感じること〜「ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力」を読んだ
今年もあとわずか
先日取り上げたNetflixの韓国発ドラマ「D.★ P. ー脱走兵捜査官ー」がニューヨークタイムスの外国ドラマベスト10に入ったそうである。それを受けてのことだと思うが、シーズン2の制作が決定したと発表があった。このテーマで更に掘り下げるのであればよりセンセーショナルな内容にならざるを得ないと思うので、きっとシーズン2も見応えのあるドラマになると思う。
そのつながりでもう一つ述べておくと、日本でもお笑い番組などでネタにされている、同じくNetflixの韓国発ドラマである「イカゲーム」を観終わった。Netflixで一番観られたドラマシリーズになっただけのことはある、こちらも大変見応えのある内容であった。詳しい感想は別の機会に譲るが、一つだけ述べておくと、これまでの一連のデスゲームものと異なる点として「日常と地続きのデスゲーム」という設定が秀逸であるとどこかの批評に書いてあったが、私もそこがこのドラマのもっとも優れた点だったと思う。
両方のドラマの主人公は、それぞれ「軍内部のイジメ」や「デスゲーム参加」などの極めてストレスフルな状況下で次々と選択を迫られる。人生において二大メジャーストレッサーは「環境の変化」と「重大な決断」だそうだが、まさにその連続だ。そのような立場の人にとって重要な能力が今回読んだ本「ネガティブ・ケイパビリティー 答えの出ない事態に耐える力」の内容である。
ネガティブ・ケイパビリティー
タイトルにもなっているこの本のテーマである「ネガティブ・ケイパビリティー」とは簡単に言うと「自分にとって負(ネガティブ)なことを考え続ける能力(ケイパビリティー)」のことである。この本は最近のブログのネタ元になっている「松岡正剛の千夜千冊」に紹介されていたのがきっかけで手に取ったのだが、私にとって重要なのはその能力は作家として死活的に重要な能力だと紹介されていたからである。
どういうことかというと、物語の登場人物は基本的に様々な問題を抱えている。その問題と向き合い、時に翻弄され、時に勝利したりする。しかしその一連の全てを支えているのは作者の精神である。とんでもなく辛い場面や困難な状況に対して作者は主人公と一体になってその問題に向き合い続ける。
シェイクスピアはその能力が優れていたため、沢山の傑作を書くことが出来たとか、紫式部が「源氏物語」をかけたのもその能力が高かったからということが丁寧に論述されている。それよりも私が個人的に腹落ちしたのはアメリカの作家にアルコール依存症が大変多いと言うデータだった。なるほど、人間ストレスを様々な方法で解消しようとするが、精神科医のアルフレッド・アドラーが言っているように「全ての問題は人間関係にある」ということが示しているように、他人にストレスを解消してもらうことは出来ない。結局の所アルコールの力で強制的に思考を鈍らせることしか、その種のストレスから逃れる方法ないのだろう。
もともと自分の頭の中で考え出した登場人物でありストーリーなのだから、それらを頭から追い出すわけにはいかない。PCであれば電源を切ってしまい、何かについての思考をそれ以上処理しないことも出来るかも知れないが、小説家の頭脳はそもそもそれを考えなければ小説は書けず、小説が書けなければ収入が入ってこずという悪循環に陥ってしまう。
アルコールに逃げることなく、絶望のどん底に落ちた登場人物と同化してその局面を支え続けることが出来る能力こそが、読者に強く訴える名作を書くために必須な能力なのだ。
アン・ジュノやソン・ギフンと走れるか?
「D.★ P. ー脱走兵捜査官ー」や「イカゲーム」を観ていると、もう観ている方が辛くなってみるのを止めたくなるシーンが連続する。単に観ているだけの我々は、あまりにも辛かったら目をつぶって観ないか、早送りしてしまえばよい。しかし、このドラマの制作現場でその役を演じた役者、撮影を指揮した監督はその全てを体験しなければならない。しかし、既にその時にはすくなくとも脚本は完成していて(制作途中で書き換えられることはあるかも知れないが)役者も監督もその先を知った上で演技、監督することが出来る、だが、そのシナリオを書いた脚本家は一人でこのストーリーと向き合ったはずである。
この本の作者も小説家なので、同じようなエピソードを池波正太郎のインタビュー記事から引用して書いていたが、ストーリーを創作している最中は、漠然とゴールが見えているだけで、そこまでどうやってたどり着くかは書きながら作り出していくんだと思う。つまり、書いている最中は立場としては登場人物と同じように先輩兵士に暴力を受けたり、他のプレイヤーから夜中に襲撃されないか心配したりしているのだと思う。その状態に耐えられる能力=ネガティブ・ケイパビリティーが本当に高い人があの話を作っているのだろう。
どうやってそれを鍛えるか?
ここまで来ると当然のように、作家を志す人間にとって必要なそのネガティブ・ケイパビリティーと言う能力をどうやって高めるか?と言うことが知りたくなった。もちろん、それに対してこうやれば高まりますよ!と言うようなことが書いてあるわけがない。
ただ、そのヒントというかそもそも逆の発想だと思うのだが、この本の中で紹介されているのは対立する概念としてポジティブ・ケイパビリティーという言い方がなされており、それはいわば「明確な答えに耐える能力=わかる能力」とでもいえるだろうか。普通は何か問題があったら必死にその解決方法を考える。そして解決方法が出たらそれに向かって邁進する。何しろ解決方法がわかっているのだから後はそれを実行するだけである。そういうPDCAで回していけるような問題とその解決に関して高い能力を発揮する人は社会や組織で成功する人だろう。
しかしながら、人生においてぶつかる問題はそんなに簡単に解決方法や答えが出るものばかりではない。そんなときに参考になるのが芸術なのだそうである。絵画や音楽を鑑賞することは「わかる」ことではなく感じる事が全てだ。その芸術への接し方(もちろん文学も芸術なので当たり前だが)がネガティブ・ケイパビリティーを鍛える手助けになるということである。「わかる」に対して「わからない」ことに向き合い続ける。日々の生活でアートを感じたら、それを持ち続けることがこの能力を鍛えることにつながるのではないかと思った。
人を喰わない話と喰った話〜「姫君を喰う話」を読んだ
人を喰わなかった話
ある理由から大岡昇平の「野火」(こちらも後日感想を書く予定で現在読書中)を読もうと思い、吉祥寺に行った。最初はBOOK OFFで買おうと思っていたのだが、そもそも100円コーナーにあったら買おうと思って本棚を見たがなかった。レギュラー棚(?)の方にはあったが、かなり古い本で活字が小さく読みづらいのが気になったので、ブックスルーエに行って新品を買うことにした。
新潮文庫のコーナーのあいうえお順に並んでいる著者の「お」の辺りを探して見ると、ちゃんと「野火」は売っていた。数年前に映画化もされているので増刷があったのかも知れない。棚から引っ張り出してレジにもって行こうとしてふと平積みになった本の表紙が気になった。
それが今回読んだ本、宇能鴻一郎の「姫君を喰う話」だ。山田風太郎「外道忍法帖」に続いて「表紙買い」である。つくづくブックスルーエの戦略にハマっている気がする。いや、そういう本を出す出版社の思惑か。
人を喰ったはなし
野火は最終的に人を喰わない話であるそうだ。しかし、そのついでにと買った本は文字通り人を食べた話もあるが、それ以外の短編も全て「人を喰ったような」という表現が相応しい内容であった。
確かにこの宇能鴻一郎という名前は本屋でも、良い子は手に取ることの出来ない棚に収まっていた記憶があり、タイトルと表紙のみでレジに持っていったあとでそういえばと思ったので著者名で検索してみたらそういう類の本をたくさん書いている方であった。
しかし、この本の著者紹介には「芥川賞受賞」と書いてある。うーむ、かなり変節のあった作家のようである。きっと私好みに違いないと思い読み始めたら本当にどれも面白くあっという間に読んでしまった。表題作の「姫君を喰う話」について巻末で解説を書いている篠田節子氏は、何とこの話を中学の頃図書館で読んだと書いてあった。物語の前半に作者とおぼしき人がモツ焼き屋のカウンターで延々と臓物喰いに関するうんちくを語るシーンは食欲が減退したと書いているが、五〇を過ぎた私からすると、今すぐモツ焼き屋に飛んでいきたくなるような内容であった。モツ焼きの油を流す為には焼酎を飲まねばならない、などと書かれたら一〇〇%同意以外無いと思う。そんな話から一転して平安の昔のある意味ファンタジーな世界に一気に持っていく筆力は素晴らしい。そのあと「姫君を喰う話」が語られるわけだが、それについてはここには書かない。
卑猥・汚穢・グロテスク
それ以外の話も表面上は卑猥・汚穢・グロテスクな面がかなりある。しかし、その表面上の出来事の底の方に沈んで見えるものは何か神秘的な魅力を放っている。芥川賞受賞作である「神鯨」はそもそも神話的なお話だが、しかし一方で科学文明を持たなかった頃の人類がどのように自然に相対してきたかというような点からみると、その頃のリアルを描いているとも読める気がする。それは我々が今生きているリアルからはかなりかけ離れてしまっている故に神話的に思えるわけだが、一方でその物語世界の中ではリアルそのもの(いやそんなでかいクジラおらんやろ、とは言うかも知れないが)と言っていいと思う。同様に「ズロース挽歌」(ズロースの意味がわからない人はおじいちゃん、おばあちゃんに聞こう!)に出てくる「金泥にまみれた偉丈夫」もかつてはリアルに存在……したかもしれない。「西洋祈りの女」の西洋イノリも、「花魁小桜の足」の小桜も「リソペディオンの呪い」にでてくる釜足も私には非常にその存在が確かなものに思えてならない。それは単純に私がこの作家の物語世界に対して親和性が高いからなのかも知れないが……
読み終えた後で
この本を読み終えて、大岡昇平の「野火」を読み始めた時に改めて、宇能鴻一郎の文章の上手さに思い至った。大岡の文章は大変ゴツゴツして飲み込みにくい(言いたいことがわからないわけでは無い)のに比べて、宇能の文章は滑らかに頭に入ってくるのだ。この辺りも人を喰った話を書く作家と喰わなかった話を書いた作家の違いなのかもしれない。
文章に吸いこまれる魅力〜 金子光晴「どくろ杯」を読んだ
大純情くん
小さい頃になんとなく覚えてしまった言葉の原典がなんなのかを知りたいと思うことはないだろうか? 私は先日中学生の時に友人からもらった松本零士の「大純情くん」という漫画に出てくる格言の出典がふと気になって調べてみた。昔と違って今はインターネットの検索を使うと大抵のことは調べられる。おかげで何十年もわからなかったことが、ほんの一瞬のうちにネットに蓄積された情報の中から拾い出され霧が晴れたように克明な姿を見ることが可能になる。
その結果は正に驚愕だった。この漫画に出てくる格言は全て松本零士の創作だったのである。(By Wikipedia)私が憶えていた一節は以下の文である。
「悔しさが男を作る。惨めさが男を作る。復讐心が真にお前を強靭(偉大な?)な男に作り上げる。」
主人公がストーリー上で大変悔しい思いを抱いたときに、世界名言集のような本を開くと、その時にふさわしい格言が出てくるのだ。今になって思えば、ストーリーに沿いすぎているし、作者が偽の格言を作って物語の補完をしていたのだとわかる。それがいかにも格言らしい言葉で、何十年も記憶に残っているのだから、やはり松本零士は優れたクリエーターだと思う。
金子光晴の自伝的小説
今回読んだ「どくろ杯」は詩人金子光晴の自伝的小説である。自身の三〇代(昭和三年頃)の話を七〇代(昭和40年代後半)になってから書いた話だ。先程の漫画の内容のようにネットで気軽に検索できるような時代ではないし、そもそも個人の体験の内容なので、記憶を便りに書くしかないとは思うが、著者本人も当時の友人に詳細を尋ねると逆に自分の記憶力の良さを褒められる始末だったと後書きに書いてある。
事実読んでみると、その当時の情景が脳裏に浮かぶのだが、その表現の言葉の解像度の高さに驚く。詩人としての言葉の選び方が素晴らしいからだと思うが、何度も読み返して味わいたいと思わせる魅力がある文章だ。
実は金子光晴は詩人だそうである。若い時に詩集「こがね蟲」を出して、詩才を認められてからこの五年間の放浪に出ている。もともと、今回金子光晴について知ったのは、以下の本を店頭で見かけたからである。
今回読んだ「どくろ杯」の最初の方に「満州は妻子を連れて松杉を植えに行く所だが、上海は日本でひとりものが何年かいてほとぼりを冷ます所だ」(原文ではありません。記憶で書いています)という下りがある。金子とその妻は上海に行くわけだが、満州の方の「松杉を植えに行く所」というのはどういう意味かわからなかった。しかしぼんやりと、木を植える→根を生やす→永住する、みたいな意味だろうという事はわかった。そこで早速ネットで検索してみるとやはり昔はそういう言い回しがあった様だ。家を建て、庭を持ち、そこに松や杉を植えると言うようなことから来ているようである。
今は使われなくなった言い回しだが、死語というのとは違う。今でも読めばそのニュアンスがぼんやりとわかるし「その土地で生きていくために必死で頑張る」というような内容を「松杉を植える」とサラッと書けるような語彙というか言語感覚が素晴らしいと思った。
どくろ杯とは?(ネタバレ注意)
タイトルの「どくろ杯」とは何か?について書いておきたい。それをネタバレととる人がいるかも知れないが、あしからずご了承いただきたい。
「どくろ杯」とは、この本の中の記述をそのまま記せば「蒙古人の処女の頭蓋骨を加工して内側に銀を貼って杯にしたもの」のことである。実物がどういうものなのかは、写真も絵も無いので何とも言えないが、昔ビレッジバンガードかどこかの雑貨屋かお土産物屋で見た「頭蓋骨の上の鉢の部分がスパッと切り落とされたような形状の灰皿」を見た記憶が蘇った。恐らくそのような形の杯なのでは無いかと思う。
そのような盃が、どのような形で出てくるのかは本文を読んでいただきたいが、我々が今生きている現代においてはそんじょそこらにあるものでは無い。しかし、三〇年前を振り返ってこの「上海からパリを巡る放浪の旅」の一冊目のタイトルにこの「どくろ杯」を選んだ理由は全体を読むとなんとなくわかる気がする。(もしかしたら「こがね蟲」とおなじバランスの文字だからそうつけたのかもしれない)
一番の魅力は文章全体に漂うユーモアか
かなり時間がたってから書いたことによって、自分の事なのに他人事のように思い入れ無く書くことが出来たのがメリットだったと言うようなことを書いてあったが、それが本当にキャラクターとしての自分というような突き放した感じがあり、その距離感が悲惨な状況にもかかわらずユーモラスな情景にしていると思う。正直明日の食べ物にも困るような状況が何度も出てくるし、他の登場人物も切羽詰まった状況である事が多いのに、読んでいてもあまり悲壮感を感じない(どころか笑える)のが、この本の最大の魅力だと思う。是非続刊「ねむれ巴里」「西ひがし」を読んでみようと思う。