常盤平蔵のつぶやき

五つのWと一つのH、Web logの原点を探る。

極限状況でのモラルとは?〜「野火」を読んだ

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ライダーの都市伝説

冒頭からネタバレかつ訂正で申し訳ないが、「野火」は劇中の事実だけで言うと人間を食べた話だった。ただし、「姫君を喰う話」のように積極的に(?)食べる話ではなく、ウミガメのスープ的にわかるような展開である。ではなぜ裏表紙に「なぜ人肉嗜食に踏み切れなかったか」と書いてあるのかを考えてみたい。
私が若い頃移動手段はもっぱらバイクであった。長崎は坂が多くまた道が狭いため、バイクでの移動に利があった。カワサキのZXー4という今考えると何故それを選んだのか自分でもわからないのだが、事実乗り始めて二年と経たないうちに悲劇的な別れを迎えるのだがそれは別の機会に書くことにしたい。その頃ライダー仲間で囁かれていた都市伝説があった。今回はその話をする。
バイクというのは不安定な乗り物である。止まっている時には操縦者が足で支えないと倒れる。意外に多いのが立ちごけである。単にバイクに跨った状態で、ふとしたはずみにバランスを崩して倒れるのである。むしろ走っている方が安定しているとも言えるが、操縦者たる人間はほぼ普段着の防御力しかない「そんな装備で大丈夫か?」という状態で時速100キロ近いスピードを出す。その状態から放り出されたら、どうなるかは考えればわかる話であるが、ここでライダーの都市伝説である。曰く、ある条件を満たす人間は、事故っても死なないというのである。その条件とはズバリ30歳までその状態だと魔法使いになれるというアレである。
まあ、そうはいっても15の夜に盗んだバイクで走り出したような人は、その条件に当てはまらない人も沢山いたかもしれない。
また、話がそれてしまった。要するにバイクに乗っていると、死ぬような事故に会う可能性が高い。ただし、そういうときに死なない人間は神に愛される理由があるというのがこの都市伝説の趣旨だ。

あらすじ(もちろんネタバレです)

「野火」は作家大岡昇平が、太平洋戦争時のフィリピンで体験したと思われる、大変厳しい状況をもとに小説として描いた作品だ。第二次世界大戦中の日本軍はそもそも兵站のネットワークを全く構築せずに戦線を拡大していった。それは電撃戦を繰り返してロシアまで戦線を展開したドイツ軍も同じだったようだが、日本軍は食料ですら十分に運ぶことができず、当初から食料は現地調達という方針で進撃していったようだ。そもそも補給網などない上に、戦況が悪くなってからは友軍との連携もできず散り散りになっていったようである。
作中にも出てくるがニューギニア戦線ではすでに同僚の遺体を食べたと言う話がフィリピン戦線にも伝わっていた。そんななか主人公は結核にかかり、自分の所属していた部隊からも放り出されてしまい、野戦病院に行っても治療の見込みがないため入院させてもらえないということから戦地にいながら戦力としてはカウントされない人間になる。支給されている手榴弾の意味を考えろ、と部隊を放逐されるときに隊長から言われるのだ。究極にネガティブな状況である。
主人公と同じような立場の人間は一定数いて、野戦病院近くの茂みにたむろしているのである。ある日その辺り一帯に沖からの艦砲射撃があり、野戦病院とその近くにいた人間は三々五々森の中などに逃げる。主人公も1人で逃げていくのだが、その途中でフィリピン人が放棄した農家にたどり着く。そこには芋が植えられており、それらを食べていればしばらくは空腹をしのげそうということになる。
その農家で暮らすうちに主人公は丘の上から十字架を見つける。日本でも協会に行っていた経験を持つ主人公は、この地獄のような状況の中でキリスト教に救いを感じるのである。しばらく迷った後主人公はその教会へ行ってみることを決意する。しかし、その教会のある村は完全に無人で、友軍の死体が教会の入り口の前にうずたかく積まれている様を目撃する。
そのまま夜までその教会に潜んでいた主人公だが、そこへ海からフィリピン人の若いカップルがやってくる。その2人にスペイン語で「マッチをくれ」と話しかけるが、出現に驚いて狂ったように叫ぶ女を三八銃で撃ってしまう。男の方は逃げていったが、主人公はなぜそこに2人が来たのかを考えて、室内を捜索した結果塩を手に入れる。
農家に戻ると、友軍3人がそこにいて、塩を分け与えることで仲間になる。その3人からの情報で、島の北部にある場所に集結してフィリピンを脱出するという指令が出ていると聞き、3+1人でそこへ向かう。しかし、途中の湿原で待ち伏せていた米軍の戦車に行く手を阻まれてまたしても散り散りになって1人になってしまう。
再び空腹を抱えたままさまよう主人公は、野戦病院の前でたむろっていた同じ境遇の二人組と再会する。彼らは「猿」を狩って食べているという。主人公もその「猿」の肉を食べさせてもらう。実はその「猿」というのは人間のことであるというのをあるきっかけから知ることになり、最終的には・・・と言うような話である。
 

ゼロカロリーを食べる?

十字架=キリスト教が出てきた時点から、ただの極限のサバイバルの話ではなく、道徳や倫理という観念的な話になっていくので、裏表紙に書いてある「なぜ食人を拒否したか」に関しても最終的にはそういう話になっていく。いや、その過程は小説として十分に面白いし、生命の維持における塩の重要性みたいな部分も、我々のように日々「塩分の取り過ぎ」とか「油と糖分を控えましょう」などという食生活をしているものからすると、箸を持つ手が止まるショックを感じる。そこは確かにその通りなのだが、その一方でこの話の結末にはなぜか歯がゆさも感じてしまうのである。
冒頭で書いた、ライダーの間でまことしやかに語られている都市伝説や、30歳まで童貞だと魔法が使えると言う話(ネタ?)は言ってみれば「汝姦淫するなかれ」というような倫理を守ったことに対する(神の)ご褒美的な文脈で理解されるものだと思うが、この話の中でフィリピン人カップルの女を撃ち殺したときに「無辜の人間を屠った罪」を自分は背負ってしまったと自覚するのにもかかわらず、かつての仲間が人狩りをしてその肉を食べて命をつないでいる姿に怒りを覚えたことに対して疑問を感じないというのが不思議な気がするのだが、私は何かを読み落としているのだろうか?
 

再び人を喰った話と比べて

この「野火」を読もうと思って偶然からついでに買ってよんだ宇能鴻一郎の「姫君を喰う話」を思い起こしてみると、「姫君」の方はあまりに好きすぎるために食べてしまったと言う話で、言ってみれば欲望の果ての姿を肯定しているように受け取れる。話の前半ホルモンのおいしい食べ方から、そのホルモンがおいしく作られるためには家畜の内臓がどのように処理されなければならないかまで詳細に語ったあげく、それより「おいしかったもの」としての「姫君」なのだと思う。
いや、そもそも大岡昇平が実際に「猿」を食べたかどうかはわからないが、そんなに「おいしくない」のかもしれい。そんなことを知りたいとか、本を読んで考えていられるのは、先ほども書いたように、飽食の時代にどっぷりつかっているからなのかもしれない。