常盤平蔵のつぶやき

五つのWと一つのH、Web logの原点を探る。

集団が持つ暴力の恐ろしさ。その根源は?〜「D.★P.—脱走兵捜査官ー」を観た

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武蔵境駅


朝の駅の階段で

 毎日中央線の西荻窪から武蔵境まで電車通勤をしている。コロナで昨年の春頃は少しだけ自宅でリモートワークもしたが、基本的に職場に行かないといろんな意味で仕事が出来ないので、第三波の時も、第四波の時も変わらず通勤していた。電車内の人が減ったり、少しもどったりして今のところコロナ前から8割ぐらいになっているというような実感だ。朝夕とも混雑する方向とは逆方向の電車に乗るのでもともとすし詰めと言うほどではなかったが、それが8割ぐらいに減ったのでとても過ごしやすくはなった。
 先日、勤め先のある武蔵境駅で降車し階段を降りていたときのことだ。プラットフォームは高架になっているので、地上にある改札へ降りるためには普通のビルなら三階から一階へ降りるぐらいの高低差がある。人が少し少なくなっているとはいえ、人々が殺気だった様子で我先へと階段へ向かうのは変わらない。階段を降りるときも皆早足だ。私もその中を行く以上あまりのろのろとしてはいられない。自分だって、その中に老人が混ざっていて、前でもたつかれるとイラッとするのはどうしようも無い。
 そんな中、私の横を制服を着た小学生の男の子が更に駆け足で追い抜いていった。その前方を見ると同じぐらいの背格好の私服の男の子が駆け上ってくるのが見えた。お互いが壁際の隙間を一方は上から、もう一方はしたから小走りですすんでいる。あー、これは完全に「コリジョンコースに乗ってる」と思って見ていると、案の定二人はクロスポイントに到達した。その時である。上から駆け下りてきた制服の男のは少しも躊躇せず、下から上がってきた男の子を両手で突き飛ばしたのである。
 二人の子供は同じような体格だったが、上から下への方が、重力によるボーナスがあり強かったのだろう。突き飛ばされた方の私服の野球帽をかぶった男の子は、制服の男の子の両手に押されて階段の中央の方へ押し出されつつ倒れた。私の二、三人前の人が目の前に突然倒れ込んできた男の子に進路を塞がれて止まった。突き飛ばした方の子供は、そのまま階段を駆け下りて改札の方へ走り去った。その間一度も振り返らなかった。倒れた子供は、周りで呆然と見守る大人を尻目に立ち上がると、また階段を上りだした。

 

 

 

お隣の国の徴兵制のリアル
 枕にしては少々長すぎる話を書いてしまったが、今回Netflixで観た「D.★P.」と言うドラマは、韓国の徴兵制におけるタブーとされてきた面を大胆にドラマ化して話題になったそうだ。さすがに韓国国内ではこの内容でスポンサーを見つけることは難しいだろうと思う。なのでNetflixによるドラマ化なのだろう。全六話だが、シーズン化の話もあるらしい。ちなみに私がこのドラマに興味を持った理由は実はそこではなく、日本のスーパーでも見かける「辛ラーメン」の軍隊式食べ方を紹介しつつ、このドラマも面白いよと勧めているネットニュースを見て、とりあえず袋から直接食べる方はキャンプにでも行ったときに試そうと思っているが、まずはドラマの方を観ることにしたのである。

超人気韓国ドラマ「D.P.」に登場する「辛ラーメン」の“袋食べ”は本当に美味しいのか試してみた!(2021年10月2日)|BIGLOBEニュース

上のニュースページでも引用されているが、このラーメンを主人公とその相棒が夜食として食べるシーンで、相棒が言う台詞が深い。
「熱湯に溶け出した油分が袋を溶かし、環境ホルモンが出る。人体に有害だ。でも旨くて食べずにはいられない。環境ホルモンって旨いのかな? どう思う?」
 ドラマの冒頭で10人ぐらいの男が寝起きしている兵舎の中で、陰湿なイジメが先輩と後輩の間で行われている描写がある。壁に五寸釘が刺さっている。ちょうど頭の高さである。その前に後輩を立たせて小突くのである。よろけて倒れると後頭部にくぎの頭が当たる。髪の毛で隠れている上に背面なので上官がそれを見つけることも難しいだろう。もし日本でも同じような制度があったら……と想像するだけで恐ろしい。昔の日本軍でも「新兵イジメ」は酷かったと言う話はその手の本を読めばいくらでも出てくる。死と隣り合わせのストレスマックスな環境下にホットな若者たちを押し込めば「環境ホルモンのようなもの」が否応なく溶け出してくる。そしてその「味」はやめられないほど「旨い」ものなのだ。

 

D.P.とはDeserter Pursuit(軍隊離脱者追跡)の略語
 このドラマの主人公は、身長が高かったと言う理由で憲兵隊(MP)に抜擢され、さらに先輩のイジメに負けない強さを上官から見いだされてD.P.に配属される。しかし、初仕事で失敗し……
 ドラマとしてはこのあと、様々な事情で逃亡する人間の方にスポットを当ててちょっと毛色の違う刑事物のようにする方法もあったかもしれない。しかし、全六話でブレずに「集団の中で行われている暴力」の実体に焦点を当て続けてラストまで引っ張る脚本が素晴らしかった。物語の終盤にいじめられていた人間がいじめた人間に問いかけるシーンがある。「なぜ、俺をいじめたのか?」問われた側の答えは是非ドラマを見て確かめて欲しい。
 その上で、いじめるものといじめられるものが別れる最初の切っ掛けは何だろうかと考えたときに、冒頭の光景が浮かび上がってきたのである。上から降りて来た子供と、下から登ってきた子供の体験はまるで異なるだろう。それが暴力をふるうものと、ふるわれるものへの分かれ道なのかも知れないと思ったからだ。

 

「愛と青春の旅立ち」のように
 私の好きな映画「愛と青春の旅立ち」では士官学校ということもあるが、徹底的にしごく(イジメではなく)のは軍曹であり、そこで鍛えられた人間は士官としてふさわしい人間になれるよう教育されていく。もちろん実際には訓練生同士のイジメもあるのかもしれない。しかし、今回のドラマは徴兵期間におけるそのような人間教育的な活動は全く描かれていなかった。韓国と北朝鮮は停戦中であり、いつ戦争が再開されてもよい状態ということだが、かといってもう今後血みどろの地上戦を再開する事は考えにくいだろう。その停滞した状況が「全ての20歳以上の男は徴兵義務がある」という法律とその実施されている現状とが合わなくなっているのだろう。
 ドラマの中で主人公たちは、脱走した兵隊を捕まえるとき「助けに来たんだ」と言う。ただ怠惰だから逃げ出したわけではなく、自分を守るためにやむを得ず逃げ出したと言う事情を知っているからだ。(そうでない根っからの悪党もいるとはおもうけど)弱きを助け強きを挫くという(ちょっとかっこよすぎる気もするが)勧善懲悪のヒーローとして描かれていることがこのドラマの救いであった。

 

 

非合理なことが気になる、という態度〜 「エゾテリズム思想ー西洋隠秘学の系譜」を読んだ

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○まず初めにおことわり
今回の題材に関しては、正直私も何か意味のある内容が書けたかどうかわからない。これまでブログ書いている内容に関しても、たいしたことは書いていないではないか、と言われればそれまでだ。それは十分承知した上で、今回の題材は別次元に大変難しいので、書き終えてみても全く見当違いなことを書いているのではないかという気がしてならない。
せっかくここまで読みかけていただいたが、そんなおまえの戯れ言は読みたくないが「エゾテリズム思想」については知りたい、と言うような方がおられたら迷わず以下のリンクにあるサイトの松岡正剛氏の解説を読まれた方が良いと思う。
さらにもう一つダメ押しておくと、私も、この本を知る切っ掛けになったのは松岡氏のサイトの解説である。正直サイトに書かれていること以上に私が本から読み取れはしないというのは読む前からわかりきったことだろう。
私が今回ブログで書いておきたいのは別のことで、この世にそういう思想があるということを知ったことで、自分自身の世界の見方が変わったと言う話である。

1780 – 松岡正剛の千夜千冊

○名前が大事
概念やアイディアは形而上のものであり目に見える姿形はない。この世の中にはいろいろな概念があるが、それらに対して適した言葉(名前?)がなければ、それを思いついた人以外には誰にもそれが存在することがわからないので、必ず何か漠然としたアイディアや概念を考え出したら、それを○○○と呼ぼう!と言うことになると思う。
自然科学の世界では、例えば物質の最小単位のようなものが存在するだろう(原子)とか、真空でも波が伝わるのはなにかの物質で宇宙が満たされている(エーテル)からだろうと言うように先ず概念やアイディがが存在して、それを元に研究や実験をして、その実態を見いだすと言うことはよくある。
最初は一人の人間の妄想のようなものであっても、長い年月をかけてそれが人口に膾炙することで漠然としたアイディアであったものが、大系を持つ思想と呼べるものにまで成長するのだろう。その移ろいというのは生物の進化や科学文明の進歩の歴史のように初めは小さな変化でも、時を重ねることで大きく育っていくのだと思う。今回この本のおかげで知ることが出来た「エゾテリスム思想」という言葉(名前)も、そのように世の中に広まった概念に対してその存在に気がついた人が名付けたからこそ存在する。

www.hakusuisha.co.jp

○オカルトは過去の遺物?
ずいぶん前にカール・セーガンの書いた「人はなぜエセ科学に欺されるのか」という本を読みかけたことがあった。その本を読むことで何を知りたかったかというと、この世の中にはいわゆるオカルトとか、トンデモ科学みたいなものが沢山はびこっているが、なぜ科学という開かれた知性の営みの有効性がここまで周知されていても、そのような考え方をする人間がはびこっているのかというのが疑問だったからだ。結論だけ言うと、その本を読んでもその理由は明確にはわからなかった。
私が嗜んでいる武術(古武道)の伝承には「奥義」とか「秘伝」というものがあり、初学者から始まって徐々に高度な技を教わっていく過程で、その技を使うために必要な肉体を動かす技術だけでなく、精神のありかたや、「気」と呼ばれるような目に見えないパワーを制御する事を求められる。だが、なぜそうなのか?どうしてそうなるのか?を問うことは出来ない構造になっているのが常々疑問だった。追求していくと最終的には同語反復(ex.このやり方がなぜ正しいかは、このやり方が正しいからである)になってしまうため、論理的に永久循環を始めてしまうのだ。
肉体の訓練によって高度な技を培うと言う意味ではスポーツも同じだろう。だが「気」のような目に見えないパワーを制御せよというようなことはない。最近ではスポーツサイエンスも科学の一つの分野で、主に医学に基づく科学的なアプローチによって、ゲームで勝利する為のあらゆる方法が検討・研究されている。
私自身が高等学校までに学んだ内容に物事の道理を説明する上で「気」のような概念は出てこなかったし、ましてやそれを使いこなすための技術などを教わったことはない。
大学の教養で「パラダイム」という概念を教わった時に、現代は科学を基礎とする「パラダイム」シフトが起きた後の世界なので、それまで信じられていた占星術や霊魂、気などのオカルト的なものは過去の遺物、パラダイムシフトが起きる前のものの考え方なのだと知った。
そう考えると「武術」というのはパラダイムシフトが起きる前の思想で作られているのだから、オカルト的である事は当然なのかも知れないと思っていた。

 

 

 

◯エゾテリズム思想の6つの特徴
今回知った「エゾテリズム」という言葉には対義語があって「エクゾテリズム」という。「エゾテリズム」が「内側に秘めた」と言うような意味なので「エクゾテリズム」は「外側に開かれた」という意味と考えて大きく間違ってはいないと思う。そしてその系譜は思想史の最初に「エゾテリズム思想」があったが、それに対して「エクゾテリズム思想」——つまり現在の科学を基盤とした思想につながる、オープンに物事を考える態度というのも時をほぼ同じくして存在したのである。つまりパラダイムシフトが起きたから、人はオープンに物事を考えることを是とした訳ではないということだ。
では、具体的にエゾテリズム思想と言うものにはどのような特徴があるかというと、この本には以下の6つがあるとしている。
①コレスポンダンス(照応)の実感
②生きている自然との共振性
③想像力と結びつく媒体性
④忘れがたい変成体験
コンコルダンス(和協)を実践すること
⑥伝授の方法があること
それぞれの解説はやはり先述した松岡氏のサイトにある解説を読まれた方がいいと思う。
私がこの6つの特徴を読んですぐに思ったのは、全て古武道の修行過程に当てはまると言うことだ。先ほどの「理由を求めると同語反復になる」というのはエゾテリズム思想においては間違ってないのである。全ての理由は内側に隠されており、それを追及する思想だからだろう。

○「非合理なことが気になる」という態度とは
そもそも松岡氏が言い切っておられる「非合理なことが気になる」というのはどういうことだろうか? 虫の知らせ、占星術など非合理的な道筋をへて何らかの行動の指針になる情報をもたらすものや、あるいはよぼよぼの老人が、筋骨隆々な若者に戦いを挑まれても圧倒的な技量の差で勝つなどと言う理屈に合わない結果をもたらすことが「実際に起こる」と思っている態度のことだと思う。それが本当にあったかどうかについては論理的に証明されない(エクゾテリズム的には無意味)であることにたいして可能性を感じる人間が作り出すものがエゾテリズム思想なのだと思う。
ここまで書いてきて、自分が何を得たのかがやはり霧の向こうに霞んでいくような気がしてならない。
それでも、エグゾテリズムとエゾテリズムと言う思想があるという概念を知ったことは人間の思考のあり方に新しい見方を与えてくれたし、それによって世界の見方にも新たな角度が増えた気がしている。

大作の陰に隠れたけど隠れ切れない程の大作〜「Horizon Zero Dawn」をプレイした

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ゼルダの伝説BOWと同時期の発売
任天堂の現行ゲーム機であるスイッチの発売と同時に発売されたゼルダの伝説B.O.W(Breath of the wild)は、私も発売とほぼ同時に入手して、エンディングまでほぼ毎日プレイし続けた記憶がある。
古代の超文明の遺産の残る原始的な世界の中で、復活した魔王を打ち倒す為に各地を旅する冒険者が主人公のゲームだ。
……あれ?このストーリーは実はほぼそのまま今回の「Horizon Zero Dawn」に当てはまる気がするな。ゼルダの伝説も、古代の超文明には何となく今の物質・科学文明の行き過ぎだ未来を彷彿とさせる面影がある。どの作品かは忘れたが、純粋なファンタジー要素だけの世界では無く、コンピューターのメタファーのようなものもあった気がする。
今回プレイした「Horizon Zero Dawn」は、ゼルダの伝説B.O.Wと同時期にPS4で発売されたゲームだったらしい。私もSwitchとゼルダを手に入れた時は、ゲームに使える予算の関係上まったく眼中になかったので情報すら収集していなかった。
今回PS5で八月のPSプラスの無料ゲームとして提供されていたので、プレイを始めたのだが、そのボリュームと内容の面白さに圧倒された。

 

 

 

○あらすじ(ネタバレ注意)
先ほども述べたように、この「Horizon Zero Dawn」は「ゼルダの伝説B.O.W」の持つ世界観を下絵にしてそれを非常にリアルな我々の世界の延長線上にあるものとして描いている。それも架空の世界では無くアメリカ合衆国のあった場所の未来として設定されている。
現在の世界のテクノロジーが発展していき、その延長線上で高度な自律稼働のAIが実現された未来で、我々人類はもちろん環境破壊の問題に悩まされている。それを解決するためのAIを搭載した動物型ロボットを作って水陸空の環境をそれぞれクリーンにしようとしていた。しかし、そのAIが兵器にも使われ最終的には人類に反旗を翻し、人類の抹殺を企てる。もはや勝利する事は絶対に不可能で、敵となったAIに全世界を管理しているシステムを掌握されると、その時点でゲームオーバーなので、人類はなんとかそれを遅らせつつ一旦人類をリセットしてふたたび数百年後に復活させるという「ゼロ・ドーン」計画を実行する。
それによって、1000年後に復活した人類のサバイバルを体験するのがこのゲームの基本的なストーリーである。
だからプレイヤーは、奇妙な機械獣が跋扈する大地で、過去の遺産や機械獣を狩って得た資源を利用してその世界を生き抜いていくことになる。最初はなぜそんな世界なのかは全くわからないが、ゲームを進めていく中で徐々に先ほど述べた「ゼロ・ドーン」計画の全貌を知ることになる……と言うのがこのゲームのあらすじだ。

このシナリオで一番しびれたのが、AIロボットを開発して、それが暴走して人類を滅亡に追い込んだ人間が、1000年後の人間に今の世の中の知恵を引き継がせる事を拒否して人類の知恵のアーカイブを全て消去する所だ。
個人的には、引き継いでこそさらなる知恵の高みに到達できると思うが、一方で自分の失敗を省みたときに、全てをゼロから(正にゼロ・ドーン)やり直して、よりよい世界を作って欲しいと願うのもわかる。
最終的には人類を滅亡させたスカイネットみたいな人工知能が1000年後にも生き延びていて、それと主人公は戦うことになるのだが、主人公自身が「1000年前の勇者の末裔」という所までゼルダの伝説にそっくりなのだ。

 

 

○DEATH STRANDINGにもコラボ
9月24日に「DEATH STRANDING Director’s Cut」が発売されたので、私も早速購入した。PS4からのアップグレード価格なので1100円という大変お得な値段であった。
ゲーム内で久々に前回ブログで書いた「アナザーラウンド」に出ているマッツ・ミケルセンを観たが、やはりこちらの印象の方が強烈に残っている。それこそ余談だが、映画の最後でマッツは踊りを披露するが、なんとかつてはダンサーだったらしいので、あの踊りは上手いと言うことだろう。
話がそれたが、その「DEATH STRANDING」のなかでホログラフィックがこの「Horizon Zero Dawn」とコラボをしていたので、突然巨大なキリンのような機械獣(頭が円盤になっている)が浮かび上がって驚いた記憶がある。
なぜ、コラボをしているかというと、実は「DEATH STRANDING」は「Horizon Zero Dawn」の地形生成エンジンを使用していたのである。両者の地形は見た目はそれぞれ味付けが異なっていて、「DEATH STRANDING」の方は、本当にリアルな風景に見えるので、歩いているだけでも緊張感があるし、(時雨という老化を促進する)特殊な雨が降ったり、BTが出るときの暗くなる感じなどがホラー映画的な演出でも、違和感がなく移行していく。
それに対して本家とも言える「Horizon Zero Dawn」の方では、これがスタンダードというか、元のこの地形生成エンジンの作り出す風景なんだろうなと思えて面白かった。一方で、全く見た目は異なるのだが、斜面を歩いたりするときの挙動にどことなく似た部分を感じた。

 

 

 

○続編「Horizon Forbidden West」が出る
本編と「凍った大地」というDLCを一応クリアした。実は来年二月には続編である「Horizon Forbidden West」が出るらしい。PSプラスでこの時期に提供したのは、そのためのプロモーションでもあったと思うが、ゼルダの伝説BOWの陰に隠れてしまうには惜しい大作であり傑作だった。もちろん続編もしっかり予約させていただきました。
先ほどの「DEATH STRANDING Director’s Cut」をPS5と4Kモニターでプレイすると本当に映像が美しいのがわかる。Forbidden WestもPS5で出るようなので、きっとZero Dawnよりも美しい1000年後の地球で冒険が出来るだろう。
現実では緊急事態宣言がやっと解除されたが、まだまだ現実の世界で冒険どころか旅行もままならない。せめてゲームの世界では美しく刺激的な空間で遊びたい。

 

 

酒は飲んでも呑まれるな、という言葉に尽きる〜「アナザーラウンド」を観た

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○ポスターに写っている人々?
マッツ・ミケルセン主演である。私としてはPS4のゲーム「DEATH STRANDING」に出てきた俳優さんという認識なのだが、この映画の公式サイトを見ても小島監督が絶賛していた。
しかし、観に行くきっかけとなったのはこの映画の公式サイトではなく日経の映画評欄である。星五つという評価だったのでこれは観なければと思ったのだ。吉祥寺パルコの玄関横のモニターに映るポスターには、マッツがシャンパンの瓶からラッパ飲みしており、周りに白い学生帽のようなものをかぶった若者たちが写っている。
タイトルの「アナザーラウンド」とは英語のニュアンスとしては「もう一杯!」ないし「もう一軒(いこか)!」的なものがあると聞いたが、もともとのタイトルは「DRUK」で、デンマーク語では「暴飲」的な意味のようだ。
繰り返しになるが、これを観に行く事にした切っ掛けは、日経の金曜日の夕刊文化欄に映画評のページで五つ星だったからである。この評価は「必見!」レベルのものなので、是非とも映画館で観ておきたいと思ったのである。
映画館は先述の通り吉祥寺のUPLINKで観た。以前にサウナの映画(タイトル忘れてしまいました)や「ゴーストストーリー」などを観た場所なので、若干の不安はあったが本作に関しては杞憂であった。胸をはって万人に薦められる映画だと思う。

 

anotherround-movie.com

 

○あらすじ(ネタバレ注意)
さえない高校の歴史教師であるマッツ・ミケルセンは、ある日同僚の心理学の先生から、有名な心理学者が提唱している「血中アルコール濃度が0.05%だと精神に良い」というような事をきく。家庭や学校であまりにも切羽詰まっていたのでそれを試してみる事を思い立ち実際にトイレでウオッカの瓶を煽ってから授業に臨む。その結果がとても良いように感じたため、仲の良い同僚にその事を話すと、同僚の仲良しの二人(哲学と体育の教師)も参加すると言い出す。最初にそれを伝えた心理学の先生は、ただの思いつきではつまらないので、キチンと研究論文にしようと提案する。四人は決められたルール(血中アルコール濃度は0.05%以下にする。呼気でアルコール濃度を計測する機械でキチンと測定してその濃度を守る。飲酒するのは仕事中、夜八時以降は逆に呑まない、など)に基づいて飲酒してその効果を報告することにする。第一段階はとりあえずうまく行った。さあ、その次は? 血中アルコール濃度の最適値は個人差がある。じゃあ、それぞれが一番ちょうどいいと思う量まで呑んで見よう……

全然関係ないが、物語の冒頭で三人の同僚教師とテーブルを囲んで食事をするシーンで、最初は一人だけ酒を飲まないと言っていたマッツ・ミケルセンが、一杯ワインを飲んで溜まっていた鬱屈を吐き出すシーンは、DEATH STRANDINGの演出を見慣れた私にとっては、どれだけ大変なことがこれから起きるのか? と思わされたが、ごく普通の中年高校教師の悩みなので拍子抜けしてしまった。

 

 

 

 

○酒飲みならみんな知っていること
海援隊の「母に捧げるバラード」という歌の中には武田鉄矢の語りのパートがある。その中に「あの日父ちゃんが酒ば飲んで帰ってこんやったら、あんた生まれとらんとよ」という母が語っていると思われる台詞がある。
恐らく地球上の全ての酒飲みは、人生の諸問題の解決を酒に頼るとどうなるか? を知っていると思う。酒を飲んで、何か物事がうまく行くと言うことは無く、むしろトラブルを増やすものであると。
私も、飲酒したことで様々なトラブルを引き起こしてきたと、ここで正直に告白しておく。学生時代には酒が元で救急車に乗るハメになったこともある。そのときまでは救急車というものは119番に電話すると、タダで来てくれるものだと思っていたが、実は後から料金を徴収されるものだと言うことも知った。翌朝病院からはタクシーで帰宅したが、その代金の10倍の請求が来たことを思い出す。その時ほど、酒飲みなら皆知っているあの名言「酒は飲んでも呑まれるな」を噛みしめたことは無かった。

 

 

 

 

○苦労の後で(ネタバレ注意)
映画の中ではその後いろいろあって、冒頭のポスターに描かれている場面のハッピーエンドへと向かう訳だが、まさに酒というのはいろいろな苦難を乗り越えたあとで、その歓びを分かち合うために皆で酌み交わすものであろう。
ポスターではラッパ飲みしているだけだったが、実際のラストシーンでは酔っ払ったマッツは軽やかなステップで踊るのである。酒を飲んだ時の高揚した気分を体現するかのような、上手いのか下手なのかよくわからないステップで学生たちの間をすり抜ける。
困難を乗り越えた後の美酒に酔いしれたその後は、再び日常の様々なよしなし事に翻弄される日々がやってくるに違いない。それは映画を観ている我々も同じだ。だからこそ、一時の幸福に酔える瞬間が限りなく大切だ。
我々が、現在のパンデミックから抜け出して、そのような瞬間を味わえる時が来るだろうか。東京の新規感染者数もようやく収まって来たが、第五波の次には第六波が来るだろう。待ちきれず暴飲してしまいそうで怖い。

読書と執筆は形稽古である〜 「本を書く」を読んだ

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◯本を書くという本

アニー・ディラードの「本を書く」という本を読んだ。とてもスタイリッシュというか、香り高い文章というか、翻訳なので原文がどうなのかは全然わからないが、翻訳者の方がこのような文章に訳したということは、元の文章もそうであると信じるしかない。
そんな中で「コーヒーの入った(おそらく魔法瓶の名前)ターモス」という文章が出てくる。現在我々はThermosを「サーモス」と読んでいると思う。なぜこの翻訳をされた方が「ターモス」にしたのか?この本が発行されたのは奥付によると1996年だった。確かにそのころ魔法瓶のThermosが日本でそこまで有名だったかどうかは明確にはわからない。だが、英語の読み方を習った人間は「th」は「さ行」(Thank You!の「サ」)と発音する方が自然に感じる。
試しにWikipediaでこの会社のことを調べてみると、元々のこのメーカーの商標になっている「Thermos」はギリシャ語の熱を表すTherme(テルメ)から来てきているらしい。むむ? そしてその会社は1904年にドイツで創業されたと書いてある。むむむ。そしてこの本を翻訳された方はスェーデンで勉強された方のようだ。
以上のことから想像するに、日本人的には「サーモス」と読まれる事が自然であることは承知した上で、あえて原音に近い表記を選んで翻訳されていると思われる。
このことから考えると、やはり冒頭で立てた仮説は信じるに値するものだと思われる。

 

 

◯この本に出会ったきっかけ
この本に出会ったきっかけは先日も紹介した「あらすじだけで人生の意味がわかる世界の古典13」の中に出てくるプーシキンの「大尉の娘」(この本も読んだのでいずれブログでとりあげます)の紹介の章に引用されていたのである。ただ、この引用されている部分(例え話)を近藤氏は別のことの例えとして利用するという変則技を繰り出していたので、元々の例え(文章論)についてはなんと書いているのかを読むのがそもそもこの本を読む目的だった。
その例え話というのはこうである。
あるレスラーがワニと勝負した。観客を集め、木戸銭を取り沼地でワニと文字通り腹と腹を突き合わせてくんずほぐれつの戦いをした。やがて二人が激しい水飛沫をあげて水中に没する。1分たち、2分たち、水面は静かなままだ。やがて水面に血が浮かんでくる。観ている観客たちに気まずい空気が流れ出す。10分たち、20分経つ。水面は相変わらず動かない。観客は一人、二人とその場を立ち去り、やがてその沼の周りから人がいなくなった。
というような話である。(あえて原文そのままでなく記憶で書いてみました)
先述の「あらすじで・・・」の中で近藤氏は、この後で著者のアニー・ディラードは素晴らしい文章論を展開すると書いてあった。
実際にその部分を探し出して読んでみた。正直読んだときは、なぜこれが素晴らしい文章論なのかわからなかった。しかし、今自分でワニとレスラーの話を記憶で書いてみてわかった気がする。
自分が何とか捻り出して書いている文章というのは、やっている当の本人にはワニと素手で格闘しているような大変さを伴っていても、それを読んだ人間がどう思うかとは全く関係ない(むしろ、ダメな文章を読まされたら気まずい空気が読後に残る)のだという意味ではないだろうか。

 

 

◯執筆・読書と型稽古の共通点
この本にはワニとレスラーの例え話による文章論の部分だけでなく、他にも含蓄のある話がたくさん出てくるのだが、それら全体を読んで漠然と思った事がある。それは「読み書きと形稽古の仕太刀(しだち)、打太刀(うちだち)は同じ構造を持っている」というものだ。
形稽古というのは、私が嗜んでいる杖道の稽古のやり方もそうであるが、居合や古武道では一般的で、そもそも剣術の稽古というのは形稽古のほうが普通だったのである。竹刀による打ち合いの稽古を始めたのは有名な北辰一刀流の千葉道場ぐらいからというのが定説である。その形稽古では、仕太刀と打太刀は決まった手順で打ち込む側とそれを捌く側に分かれる。一方は技を仕掛けていき、もう一方は技を受けてそれを捌く。そして稽古としてはその両方を同じようにできるようにするのが目的である。この場合技を仕掛けていくのが書くことで、技を捌いていくのが読むことに当たると考えたのである。
杖道にも試合があり、仕杖と打太刀をそれぞれ同じ数だけ何百回、何千回いや、何万回も稽古してから試合に臨む。それでいて、その形の実行が決め事に見えない、実際に戦っているように行うことが求められる。それをみている人々に気まずい空気が流れるようではダメなのである。
この本のタイトルにあるように「本を書く」ということは、(私がこのブログでやっているように)ただ文章を書くということではなく、書いて、読んでのそれぞれの立場から見たそれが高い完成度を持っていなければならないことだと教えられた。

 

 

お墓は近所にあった 〜「山椒大夫・高瀬舟」を読んだ

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○まずは墓を見る
なぜ今森鴎外を読んだのか?それは太宰治三島由紀夫が尊敬する作家として森鴎外を上げていたからである。わけても太宰治は、森鴎外の墓のそばに自分の墓を建てたいと、墓のある寺に懇願し、檀家は猛反対したらしいが当時の住職の計らいによって墓を建てることを許されたというエピソードをWikipediaで読んだ。そのお寺が実は三鷹市にあって、自分の通勤路を少し寄り道すると行ける場所にあると言うことまでわかった。そこで先ずその両名の墓を見に行くことにした。
普通は墓参りに行くと言うところだが、何分にも会社の帰りに寄り道するだけなので線香なども持っていくわけでも無いので「見る」だけにしておく。

http://www.mitakanavi.com/spot/historical/zenrinji.html

何処にあるかとか、細かい内容は上のリンクを見ていただいた方が良いと思う。私が墓を観に行った日は七月の上旬だった。禅林寺の山門から中に入ると、太宰治森鴎外の墓と言う標識が出ている。それに従って墓地の方へ入ろうとすると、墓地の入り口には「墓地に入れるのは日没まで。日没後は施錠します」と書かれていた。西の方を見たがまだ日は出ていると思われたので急いで墓地へ向かう。全く人の気配が無い。こんな時間の墓地だから当たり前か。それぞれの墓の場所も丁寧に入り口看板があったので、その記憶を頼りにずんずん進む。一つの通路の両側、一つか二つずれた位置真正面は避けたのだろうか?に太宰と鴎外の墓はあった。どちらもお菓子のようなものが供えてあった。私はそれだけ確認すると、墓地に閉じ込められても困るので足早に寺を後にした。森鴎外の墓は遺言(これもお寺の境内にある石碑に刻まれていた)によってただ「森林太郎墓」とのみ刻むように言い残されていたそうだが、墓碑にはその通りに書かれている。

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○全部で十二編の短編が収められている
墓を見たのでなんだかにわかに親近感を持って今回の著作も読むことが出来た。タイトルにある「高瀬舟」は読んだことがあったし、自分としても好きな作品である。なぜ好きなのかはよくわからない。しかし、一つ好きな作品があると言うことは、他の作品も気に入る可能性が高いだろう。そこで今回購入した本には全部で十二編の短編が収められていた。正直に言って「高瀬舟」以外は読んだことが無かった。一応タイトルを上げると


普請中
カズイイチカ
妄想
百物語
興津弥五右衛門(おきつやごえもん)の遺書
護持院原(ごじいんがはら)の敵討
山椒大夫
二人の友
最後の一句
高瀬舟

の十二編である。一つ一つの話は今の小説からするとかなり短い部類に入ると思う。ショートショートに近い分量だ。この本の素晴らしいのは、本編の後に注釈のページがあり、その分量が素晴らしく多いのである。明治の人が書いた文章は、例え旧仮名遣いを直したとしても、現在はほとんど誰も使わないし、知らない単語が多数使用されている。それをいちいち全部拾って注釈を付けてあるので、辞書を引かなくてもそのページと代わる代わるに読み進めていけば、ほぼ意味をとることが出来る。そのおかげでとりあえず全ての話を読み切ることは出来た。次はそれぞれの話について感想をごく簡単に書いてみたいと思う。

 

・杯
これ、最初に読んだときはそれこそ文フリで買ってきた同人誌に載っていてもおかしくないような話に思えた。読み終わっても何のことなのかさっぱりわからないのである。しょうがないのでネットで解説を読んでやっと理解した。漫画「アキラ」で美耶子様が「人はそれぞれ自分の器を持って生まれてくる」という話に近い話で、それをポジティブに捉えたらこうなるという話だと思った。

 

・普請中
この話が多分この本の中で一番よくわからない。それこそ文フリで買ってきた同人誌か、どこかの女子高の文芸部雑誌に載っていてもわからないような話に思える。しかし、この普請中、つまりリフォーム中のレストランに外国人の女性と待ち合わせて食事をする官僚というのはこの後どうなるのかわからないが、大河ドラマの一場面のようでもあり面白かった。

 

カズイスチカ
タイトルが何のことかわからない。注釈にも説明が無かったと思う。ストーリーにわからないところは無いが、だからといってこの作品も何が言いたいために書いたのかはよくわからない。

 

・妄想
これは……面白かった。これからも何回も読み返すような気がする。この話に出てくる夷隅川が太平洋に注いでいる河口は、私にとっても思い出深い千葉県夷隅郡大原の地である。今はいすみ市になったと思う。仕事の関係で二年間住んでいた。まさかここに森鴎外も別荘を持っていたとは知らなかった。

 

・百物語
これも個人的には大変面白い読後感だった。タイトルの百物語というのは、ろうそくを百本立てて、怪談話を行い、一話語り終える毎に一本ずつ消していく。百本全部消えたとき本物の幽霊が現れるというものだが、なんと!この話では一つの怪談も語られれずに終わる。怪談話が始まる前に主人公はその家を後にしてしまうのだ!では何がこの話の焦点なのか?この怪談話を主催したお金持ち(成金)がそろそろその蓄えを全部使い切るのではないかと言う時期に差し掛かっており、その全ての贅沢に飽きたかのような虚無的な態度に主人公は注目するのである。確かにストーリー的には何が言いたいのかよくわからないが、なぜか面白い。これが文学というものだろうか。

 

・興津弥五右衛門(おきつやごえもん)の遺書
ごめんなさい、この話だけは読めませんでした。完全に文語調というか候文で書かれており、さすがに読み切る根性が無かった。

 

・護持院原(ごじいんがはら)の敵討
これも個人的に非常に壺だったのは、敵討ちの主役である長男が、物語の中盤「ぷい」といなくなってしまうところである。本当にその後全く出てこない。物語の舞台から消える登場人物、しかもほぼセンターの配役の人間が、である。でも、その空白がこの敵討ちに何とも言えない味を与えている気がする。

 

山椒大夫
この話でも、山椒大夫の長男は、下人にあまりにもむごい仕打ちをするのを見てまた「ぷい」といなくなってしまう。この人物は物語の筋にはほとんど関係が無いが、やはり消える登場人物という意味で一つ前の話のように空白が不思議な感じをお話全体に響かせている気がする。

 

・二人の友
ほぼ実録二人の友達の話なんじゃないでしょうか。でも小倉での日々の情景が浮かび上がる何とも言えない味のある話でした。

 

最後の一句
タイトルがオチなので、それがどんな台詞かはここには書きません。まあ、もう既にネタバレがどうこうという次元では無いと思うけど。ただ、私はあまり好きなタイプのはなしでは無かった。

 

高瀬舟
今回読み直してみて、ちょっと喜助という人の印象が変わった。やっぱり弟を失ったのにあまりにも晴れ晴れしすぎているような感じがしたのだが……昔読んだときはそうは思わなかったんだけど、自分の中の何が変わってしまったのだろうか?

 

○いくつもの時代を超えて
明治の人が書いた話が、ちゃんと理解できるようになるほど私も年をとったと言うことなのかも知れない。お墓を見たからではないが、森林太郎という人が少し身近に感じることが出来た。私の書いた文章も時代を超えて読まれるようにこれからも努力していきたい。

世界の終わりに怪物になったら 「Sweet Home ー俺と世界の絶望ー」を観た

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○終末+モンスター=?
全人類が実際にコロナウイルスの厄災に見舞われている現在、いわゆるゾンビもの、終末ものを観ると画面の向こうでも切羽詰まった人達が右往左往しており、なんとなく親近感と共に、もっと酷い状況を見て、まだこちら側はマシかなと思う。
しかし、こちら側の世界も四度目の緊急事態宣言発出中であり、発出される度に、その緊急度はだだ下がり、日経新聞の見出しにも「変わらぬ朝」と書かれる始末だが、国家(的な)規模の大イベントが近づいており否が応でも期待が高まる(なんの?)

 

 

 

 

○なぜこのドラマを観る気になったか?
実は、そういう世紀末の気分を共有したいからこのドラマを観ようと思ったわけでは無い。
その理由を説明する前に、これまでも自分が選んだ本やゲーム、映画について、何故これを選んだか?について必ず書いていると思う。
なぜそのことを書くかというと、それが自分自身を映す鏡だと思うからだ。人間一番理解できないのが自分自身についてであると思う。自分が、自分を理解するための手掛かりになると思い、このブログではそのことについては必ず書くことにしている。
そこで、このドラマを選んだ理由だが、ある方のツイートである。その内容は私自身もうまく説明できるかどうか自信がないが、簡単に言うとこういう意味だと思う。すなわち、出てくる男のキャラクターにBL的な要素を見つけたから見ろと勧めていたのである。
その部分を知りたいと思い見たのだが、なるほどなんとなくではあるが、すこしわかった気がする。
話の内容にはLGBT的な部分は無いと言いきっていいと思う。その上でどのキャラとどのキャラをスラッシュで繋ぐかという力学がどのような要素によって生まれるのかというのに興味を持ったのである。
なんでそこに興味を持ったのか?と聞かれても……実は困る。自分の中にLGBT的なものがあるかどうかを知りたいわけでは無い。
まさにこのような点描の積み重ねが、鬼太郎が人間に取り憑いている妖怪を確定するのにその人間に質問してその答えに応じる点を紙に打っていき、最後に妖怪の姿を確定させるように、自分自身の姿を映し出す集合になるはずだと考えているからに他ならない。
余談だが、この妖怪似顔絵システムは昔あった満点パパという番組で司会の南紳助がタレントの子供に質問して似顔絵を描いていく様子から思いついたのでは無いかと思うが真相はわからない。

◯眼鏡+眼鏡=?
注目するキャラクターは「神父」と「医学生」である。その眼鏡の奥の目に注目と言うことだったのだが、観終わってみていろいろと思うところがあった。
韓国ドラマと言えば、一時期凄いブームがあって、世の中の特に高齢のご婦人たちが熱心に見ていたこともあったが、今や若い人にも普通に楽しまれておりK-POPも世界中で大人気である。
今回観たNetflixオリジナルドラマも、CGや特撮を駆使して見たことのない映像を見せてくれている。しかし、やはり一番ドラマを面白くしているのはキャラクターである。みんな本当に「癖がすごい」。
主人公が一番無味無臭な感じだが、実は理不尽な暴力を受けており最も闇が深い。しかし、それ以外に出てくるキャラもそれぞれが闇を抱えている。それもそのはず、このモンスター化する切っ掛けとなるのはウイルスとか改造という「科学的なもの」ではなくその人の持つ「欲望」なのである。
この設定を面白いと思えるかどうかが、このドラマを楽しめるかどうかの分かれ目になると思う。その人の持つ「欲望」が肉体を変貌させ、最終的には理性の無い欲望の塊、権化となる。そうなったらもう無敵なのだ。欲望というのは不死なのである。
考えてみれば当たり前で、本当に走り出した欲望というのは肉体の死など眼中にない。肉体は滅んでも欲望は死なず、である。例えば酒を飲みたいとか、ヤバい薬が欲しいと言う欲望は本気で走り出したら肉体が死に向かっていても求めることを止めない。我々の世界のルールでは肉体が死ねば、残念ながらその肉体に寄生している状態の欲望も消え去る。しかし、このドラマの欲望は肉体を滅ぼしてもなお、純粋な欲望の化身として地上に残り続ける。
一応ドラマ上のルールとして、ゴールデンタイムというものがあり、モンスターになる兆候が現れてから、完全に理性を失いモンスターになるまでの間であれば殺すことが出来るという事になっている。
しかし一方で、モンスターとしての力を上手くコントロール出来る存在も現れる。その辺までは、これまでの漫画やアニメ、映画でも描かれているので、その要素が、それぞれのキャラクターの状況と絡み合うだけでも面白くなりそうなのはある程度想像が付くと思う。
しかし、最初の注目キャラである眼鏡二人は、両方ともモンスター化しない。しかし、その二人の持つ欲望はモンスター化する素質十分だと私には見えた。日本的な真面目さで観てしまうと「ええ!?」とか「なんで?!」とか思ってしまうことが多々出てくるが、キャラの濃さとそのキャラだから起きる化学反応を楽しむことがこのドラマを見る為には必要だ。
最初から眼鏡二人に注目してみていたので、そういう方向に視点が行ったのがよかったのかも知れないが、それ以外にもヤクザや消防士(女)、雑貨店の夫婦、幼稚園の園長、足の不自由な退役軍人、余命宣告された病人と介護士(女)、子供を交通事故で亡くした母親など、様々な欲望を抱えたキャラクターが生存を懸けてぶつかり合う。

○Sweet Home?
一つだけしっくりこなかった点は、タイトルがなぜ「Sweet Home」なのかだ。日本向けにローカライズする際に、多分それだけだと伝わりにくいと考えて、サブタイトルとして「俺と世界の絶望」みたいなのが付いているのだと思う。
舞台になっているのはマンションであるが、韓国では日本みたいに地震も無いので、それなりの高層建築だ。しかし、内部の廊下や部屋の様子などの画面に映っている絵を見ると日本の「団地」のそれである。
そこから推測するに、日本人にとっても高度経済成長と「団地」というのは一つのノスタルジーである。韓国の人たちにとってもSweet Home=愛しの我が家としての「団地」なのではないかと言うのが私の解釈だ。