常盤平蔵のつぶやき

五つのWと一つのH、Web logの原点を探る。

非合理なことが気になる、という態度〜 「エゾテリズム思想ー西洋隠秘学の系譜」を読んだ

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○まず初めにおことわり
今回の題材に関しては、正直私も何か意味のある内容が書けたかどうかわからない。これまでブログ書いている内容に関しても、たいしたことは書いていないではないか、と言われればそれまでだ。それは十分承知した上で、今回の題材は別次元に大変難しいので、書き終えてみても全く見当違いなことを書いているのではないかという気がしてならない。
せっかくここまで読みかけていただいたが、そんなおまえの戯れ言は読みたくないが「エゾテリズム思想」については知りたい、と言うような方がおられたら迷わず以下のリンクにあるサイトの松岡正剛氏の解説を読まれた方が良いと思う。
さらにもう一つダメ押しておくと、私も、この本を知る切っ掛けになったのは松岡氏のサイトの解説である。正直サイトに書かれていること以上に私が本から読み取れはしないというのは読む前からわかりきったことだろう。
私が今回ブログで書いておきたいのは別のことで、この世にそういう思想があるということを知ったことで、自分自身の世界の見方が変わったと言う話である。

1780 – 松岡正剛の千夜千冊

○名前が大事
概念やアイディアは形而上のものであり目に見える姿形はない。この世の中にはいろいろな概念があるが、それらに対して適した言葉(名前?)がなければ、それを思いついた人以外には誰にもそれが存在することがわからないので、必ず何か漠然としたアイディアや概念を考え出したら、それを○○○と呼ぼう!と言うことになると思う。
自然科学の世界では、例えば物質の最小単位のようなものが存在するだろう(原子)とか、真空でも波が伝わるのはなにかの物質で宇宙が満たされている(エーテル)からだろうと言うように先ず概念やアイディがが存在して、それを元に研究や実験をして、その実態を見いだすと言うことはよくある。
最初は一人の人間の妄想のようなものであっても、長い年月をかけてそれが人口に膾炙することで漠然としたアイディアであったものが、大系を持つ思想と呼べるものにまで成長するのだろう。その移ろいというのは生物の進化や科学文明の進歩の歴史のように初めは小さな変化でも、時を重ねることで大きく育っていくのだと思う。今回この本のおかげで知ることが出来た「エゾテリスム思想」という言葉(名前)も、そのように世の中に広まった概念に対してその存在に気がついた人が名付けたからこそ存在する。

www.hakusuisha.co.jp

○オカルトは過去の遺物?
ずいぶん前にカール・セーガンの書いた「人はなぜエセ科学に欺されるのか」という本を読みかけたことがあった。その本を読むことで何を知りたかったかというと、この世の中にはいわゆるオカルトとか、トンデモ科学みたいなものが沢山はびこっているが、なぜ科学という開かれた知性の営みの有効性がここまで周知されていても、そのような考え方をする人間がはびこっているのかというのが疑問だったからだ。結論だけ言うと、その本を読んでもその理由は明確にはわからなかった。
私が嗜んでいる武術(古武道)の伝承には「奥義」とか「秘伝」というものがあり、初学者から始まって徐々に高度な技を教わっていく過程で、その技を使うために必要な肉体を動かす技術だけでなく、精神のありかたや、「気」と呼ばれるような目に見えないパワーを制御する事を求められる。だが、なぜそうなのか?どうしてそうなるのか?を問うことは出来ない構造になっているのが常々疑問だった。追求していくと最終的には同語反復(ex.このやり方がなぜ正しいかは、このやり方が正しいからである)になってしまうため、論理的に永久循環を始めてしまうのだ。
肉体の訓練によって高度な技を培うと言う意味ではスポーツも同じだろう。だが「気」のような目に見えないパワーを制御せよというようなことはない。最近ではスポーツサイエンスも科学の一つの分野で、主に医学に基づく科学的なアプローチによって、ゲームで勝利する為のあらゆる方法が検討・研究されている。
私自身が高等学校までに学んだ内容に物事の道理を説明する上で「気」のような概念は出てこなかったし、ましてやそれを使いこなすための技術などを教わったことはない。
大学の教養で「パラダイム」という概念を教わった時に、現代は科学を基礎とする「パラダイム」シフトが起きた後の世界なので、それまで信じられていた占星術や霊魂、気などのオカルト的なものは過去の遺物、パラダイムシフトが起きる前のものの考え方なのだと知った。
そう考えると「武術」というのはパラダイムシフトが起きる前の思想で作られているのだから、オカルト的である事は当然なのかも知れないと思っていた。

 

 

 

◯エゾテリズム思想の6つの特徴
今回知った「エゾテリズム」という言葉には対義語があって「エクゾテリズム」という。「エゾテリズム」が「内側に秘めた」と言うような意味なので「エクゾテリズム」は「外側に開かれた」という意味と考えて大きく間違ってはいないと思う。そしてその系譜は思想史の最初に「エゾテリズム思想」があったが、それに対して「エクゾテリズム思想」——つまり現在の科学を基盤とした思想につながる、オープンに物事を考える態度というのも時をほぼ同じくして存在したのである。つまりパラダイムシフトが起きたから、人はオープンに物事を考えることを是とした訳ではないということだ。
では、具体的にエゾテリズム思想と言うものにはどのような特徴があるかというと、この本には以下の6つがあるとしている。
①コレスポンダンス(照応)の実感
②生きている自然との共振性
③想像力と結びつく媒体性
④忘れがたい変成体験
コンコルダンス(和協)を実践すること
⑥伝授の方法があること
それぞれの解説はやはり先述した松岡氏のサイトにある解説を読まれた方がいいと思う。
私がこの6つの特徴を読んですぐに思ったのは、全て古武道の修行過程に当てはまると言うことだ。先ほどの「理由を求めると同語反復になる」というのはエゾテリズム思想においては間違ってないのである。全ての理由は内側に隠されており、それを追及する思想だからだろう。

○「非合理なことが気になる」という態度とは
そもそも松岡氏が言い切っておられる「非合理なことが気になる」というのはどういうことだろうか? 虫の知らせ、占星術など非合理的な道筋をへて何らかの行動の指針になる情報をもたらすものや、あるいはよぼよぼの老人が、筋骨隆々な若者に戦いを挑まれても圧倒的な技量の差で勝つなどと言う理屈に合わない結果をもたらすことが「実際に起こる」と思っている態度のことだと思う。それが本当にあったかどうかについては論理的に証明されない(エクゾテリズム的には無意味)であることにたいして可能性を感じる人間が作り出すものがエゾテリズム思想なのだと思う。
ここまで書いてきて、自分が何を得たのかがやはり霧の向こうに霞んでいくような気がしてならない。
それでも、エグゾテリズムとエゾテリズムと言う思想があるという概念を知ったことは人間の思考のあり方に新しい見方を与えてくれたし、それによって世界の見方にも新たな角度が増えた気がしている。