常盤平蔵のつぶやき

五つのWと一つのH、Web logの原点を探る。

予め訓練された(おしゃべり)生成トランスフォーマー 知性とは何かなんて答えられないがChatGPTについて考える

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3ヶ月ぶりのブログ更新

2016年にはてなブログを開始してから、3ヶ月更新しなかったというのは記憶にない。一ヶ月ぐらいは何度かあった気がする。何故こんなに長い間更新しようと思わなかったのか?おそらくその答えは「中国出張中だったから」なのだが、では何故中国出張中だとブログが書けなくなったのか?に対する答えは恐らく「日本語のインプットが極端に減ったから」だと思う。

私の仮説だが、文章を書くためには、文章を読んだり、聞いたりする必要があると考えるからだ。それは例えるなら、大変卑近な例で申し訳ないが、人間食べないと出るものが少なくなるのと同じ事だと思う。もしくは息を吐くためには吸わなければならないということか。

前回の中国出張では10日間ホテルに監禁されるなど特殊な体験があったこともあるが、それまでの日常で一定量の日本語インプットがあったから書けたのだと思う。その後年末に一度帰国して3月頭から再び中国は広東省佛山市順徳の北Jiao(日本語にない漢字、サンズイにワガンムリ、ハの下にヱと口)での生活が再び始まった。

もちろん仕事の上で使うのはほとんど日本語だが、聞こえてくる会話はほぼ中国語か広東語(もちろん理解できるのはほんの僅か)ホテルでもテレビはすべて中国のチャンネルのみという環境では圧倒的に日本語のインプットがない。出張も後半になって仕事も佳境であったため読書もままならない状況であった。そして90日の中国滞在VISAをほぼ使い切って先日帰国した。日本に到着して成田からスカイライナーに乗り日暮里で山手線に乗り換えて社内の日本人を見て率直に感じたのは「気持ち悪さ」だった。表情や仕草が気味が悪いのである。恐らく中国に90日近くいたせいで、周りにいる人達の立ち居振る舞いが中国人的なものが普通になっていたからだと思う。中国にいる間は、日本人と違う中国人のAttitudeに違和感をずっと覚えて暮らしてきたはずだったが、いざ日本に帰ってきてみると、日本人の(というか東京人なのかもしれないが)Attitudeが気持ち悪く感じるとは意外だった。それぐらい人間は郷に入れば郷に従うものなのかもしれない。これが適応Adaptationというものなのだろう。

 

確率のみで会話する装置の衝撃

帰国する直前に本社から今話題の生成系AIであるChatGPTに関しては業務に積極的に使用していく方針であることが伝えられたため、ちょっと勉強しておこうと思い色々ネットで検索してみた。折しも帰国直前にiOS版の「ChatGPT」アプリが日本向けにもダウンロード可能になったということで、早速インストールしてみたが、中国にいるうちは使えないと言うことがわかったので、まずは周辺の情報を仕入れることにした。そもそもChatGPTとはなんぞや?というところから調べようと思ったのだが、ちょうどいいことに日本ディープラーニング協会のシンポジウムがYoutubeに公開されていたのでそれを見ることにした。

 

www.youtube.com

入力以上の出力はない

このシンポジウムのなかで、なぜ急に会話が人間らしくなったのか?についての進化のポイントについての説明があったが、これが衝撃だった。例によって詳しい内容は動画を見て直接内容を理解された方が良いと思うのでここでは詳細は省かせてもらうが、やっている事は一つ一つの語の後ろに連なる語を「確率的に高いもの」から選んでいるだけなのだ。文章の意味とか文脈とかを全く理解していないのにこの内容の受け答えが可能になるのはある意味それも驚異的なことではあるが、それはそれとして、あのひねり出されてくる答えの文章に矛盾がないのには本当に驚かされる。我々人間が読んできちんと意味が読み取れるという事が逆に不思議なぐらいである。

しかし、この自動的に生成される文章は、あくまでこれまで書かれた膨大なストックを学習した中からしか生まれない組み合わせなので、それ以上の新しい何かを生み出すものではないということだ。私がAIに関心を持ったのは第二次AIブームの頃らしいが、その当時でも新しい法則や人類が思いもつかないような作品を生み出してこそ「人工知能」と呼べるといわれていたので、いずれにしてもコンピューターが計算機であつかうものがアルゴリズム=数式である以上入力以上のものを出力することはないということだ。

 

人間が書くもの(描くもの)には何があるのか?

NHKのプロフェッショナルに歌人俵万智さんが出ていた回で、歌をひねりだすのは寝起きのベッドの中でのことが多いと言っていたのが印象的だったが、人間の脳が睡眠という謎の時間を経過した直後の状態は、創造にとって重要なコンディションが整えられているのだろう。私自身もそれはなんとなく実感されることであるし、朝に心に染みる歌を聞くと、昼や夜よりも素直に感情が動く気がする。単純に脳がリフレッシュしているだけといえばそれまでだが、恐らくこれはChatGPTにはない挙動だろう。

さらに、脳はその感情を核にして、脳の中にある言葉のデータベースから一つ一つ言葉を選んで連ねていく時には間違っても確率で選んでいるわけではない。その核となる感情と選びだした言葉を繋ぐ線は、最初はたくさんの言葉に向かって放射状に伸びているかもしれないが、最終的には一つの言葉と真っ直ぐ一本の線で繋がることになるはずだ。その言葉連なり続けて、夜の天空に浮かぶ星ぼしが星座を形作る(人がその配列に意味を付けている)様に俳句や短歌、詩やエッセイ、果ては小説という長い長い連なりにまで成長させるのが文芸に従事する人ということになるだろう(私もその端くれでありたいと願っている)が、その書かれたものの中心には何かしらの核があるということだ。おそらくChatGPTが捻り出す文章にはこの核がないのではないかと思う。

 

生存という焦り

人間だって機械=アルゴリズムだ。脳はロジックを持った回路だと思う。でなければ論理的な文章を作り出すことはできないはずだ。コンピューター、機械との唯一の違いはやはり生殖機能ということになる。その点に関して「ムシヌユン」(この漫画自体すごく面白いので別にブログで取り上げたいと思うのだが、色々と考えが広がってまとまらないので書けずにいる)という漫画の中で大変示唆に富んだ説がでてくるのだが、(注意:それを語るとネタバレになってしまうので、知りたくないという人はここは飛ばしてください)遺伝子というコードが生殖という過程で接合し組み換えされて次の世代に新しいコードで書かれた個体を生み出していく。この過程こそが演算装置であり、遺伝子を融合して変化を次の個体にもたらす事が進化のエンジンとなる。そして進化して環境へ適応できる次世代の生命を生み出すことが生物繁栄の根源であるという。我々個体レベルでは生存に対する焦り、異性への執着というような形でしか意識できないが、その核(まさに細胞レベルの核にある遺伝子)が我々の肉体にそのような表現型(タンパク質)として一対一で繋がって演算された結果なのだろう。

ChatGPTの遺伝子コードをいくら融合してもその元の情報は、我々人類の過去の産物であり、その劣化コピーでしかない。そういう意味では絶対にこの延長線上にシンギュラリティは来ないだろう。だから安心して仕事には使っていいと思う。それで仕事を時短で終わらせて文芸活動をする時間に当てたいと思う。

 

 

悟りの境地にいるのは当たり前

先のシンポジウムの中で、ChatGPTは悟りの境地にいて、対話していると自分が恥ずかしくなるみたいなことも言われていたが、それってキカイダーでいうところの良心回路なのだろうか?いや、そうではないだろう。機械はどこまで行っても機械。機械としてそういう発言しかできないだけであって、ここでもやはり核として道徳とか思想があってそう振る舞っている訳では無いの明白だ。当たり前だが、先程の生存に対する焦りのようなもの(煩悩)があるからこそ、その対極に悟りというものが想定されるし、それを目指したいと思うはずだが、そもそもそれがないのであれば悟りも良心回路もただのルールにすぎない。しかもそれも我々の過去の知見の劣化コピーでしかないはずだ。

 

知性とはなにか(なんて答えられないが)

これまで「核」と言ってきたが、その正体が遺伝子というコードを書き換えるための演算装置としての生存本能だと言ってしまえば簡単だが、それが我々に知性をもたらす理由は、じゃあどこにあるのかというとやはり全然わからない。それが分かればChatGPTにも本物の知性を与えることができるのかもしれない。

ずっと待っていたもの〜「すずめの戸締まり」を観た

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またまたオデヲン

結局のところ、家から近い映画館というのが一番使い勝手がいいのは確かだ。まして、いつも突然思い立って観に行くので、近い方がいいに決まってる。前回「シン・ウルトラマン」を観た時に書いたブログで「吉祥寺オデヲンでは観たくない」と書いておきながら、結局行くのはオデヲンである。もうここまで来ると、私のオデヲンに対する気持ちは、本当は好きなのにつれない態度を取る幼なじみのツンデレのようなものなのかもしれない。いや、もうそういうことにしておく。ただ、今回は画面の下に並ぶ前の席のお客さんの頭もあまり気にならなかった。それは映画が面白かったからというのもあるが、今回の上映はアナ雪2ほどではないが、小さい女の子のお客さんが多かった。その様子を係員の方が見て、視線を嵩上げするようなマット?四角いクッションのようなものを配っていたのである。それを見て劇場として座席設計が古いためスクリーンが見にくいということはわかった上で、できることをやろうとしている姿勢というものをみて、キュンとしてしまったのである。まるで幼なじみで女と思ってなかった女の子が急に可愛く見えた瞬間みたいなものか。今度から吉祥寺オデヲンのことを親しみを込めて「オデ子」とでも呼ぶことにしようかと考えている今日このごろである。

cinemaodeon.jp

suzume-tojimari-movie.jp

「すずめの戸締まり」のストーリー

保坂和志の「書きあぐねている人のための小説入門」を読んでから、ストーリーについて語ることに慎重にならざるをえない自分がいる。今回の映画のあらすじを書いても確かにこの映画の何が良かったのかを語ることは出来ないだろう。正直すべてが不思議が発生する前の、最初の何もなかった状態に戻る話なので話(ストーリー)には意味がないと言うのはそういう意味かもしれない。すべてが丸く収まった後に、登場人物たちに残るのは何なのだろうか。主人公の女子高校生岩戸すずめは……いろいろな冒険をして家に帰る。というのがあらすじだと書いたら身も蓋もない。行きて帰りし物語の典型だ。それとは別に上映時間中私の涙腺を刺激し続けていたものは、今回の冒険譚が何かを変えるのではなく、もとに戻したい(けど戻らない)という働きに貫かれていたからだろう。(というわけでここからネタバレになります。)

主人公はある日「閉(と)じ師(し)」の男と出会う。この「閉じ師」というのが何をする人かというと、「後戸(うしろど)」というものがあって、そこが開くと「みみず」が出ててきて地上に厄災を起こす。そこでその「後戸」を閉じるのが「閉じ師」の仕事なのだが、すずめが家の近所にあった「後戸」を封じていた「要石(かなめいし)」を抜いてしまったことから、その「要石」が猫の姿になり逃げ出す。「閉じ師」の男はすずめのもっていた「子供の椅子」の中に封じ込められてしまう。すずめは逃げた猫を椅子に変えられた男とともに追いかける。宮崎から愛媛、神戸と足取りを追いかけながら、土地土地で開いた「後戸」を閉めるすずめ。やがて「要石」は日本に二つあり今逃げている要石と、もう一つは東京にあることが判明するが、逃げた猫のせいで東京の後戸が開き、巨大なみみずが地上に出てしまう。それを止めるためには、椅子に変えられた男を要石としてみみずに刺して再び封じる必要がある。東京は巨大な厄災から救われるが、椅子に変えられた男は「常世(とこよ)」に閉じ込められしまい、永遠に要石にならなければならない。それを助けたいすずめは、なんとかして「常世」に行ける方法を探す。その方法は自分が幼い頃に一度常世に入ることの出来た、自分専用の「後戸」があると教えられる。それを求めて自分の生まれ故郷である仙台にむかうすずめ。津波で流された実家に残されていたドアから常世に入ると、未だ焼け焦げ続けている震災直後の街の風景の中、巨大なみみずを刺して封じている椅子を引き抜き男を救う。もとにもどった椅子を、震災直後に常世に入った自分自身に渡して「現し世(うつしよ)」に戻るすずめと男。筋書きだけを書くとこんな話だったと思う。

 

 

 

ジブリアニメの影響?

新海誠監督がジブリアニメ、宮崎駿監督の作品から影響を受けているというのは全然不思議じゃないし、日本でアニメ作家をやっていて多かれ少なかれ影響を受けていない人というのはいないのではないかと思うが、それにしても今回は映画の最初から「君の名は」とか「雲の向こう、約束の場所」以前の作品が持っていた空の青さとかコントラスト、カメラワークみたいなものが影を潜めて、よりジブリ的なセルアニメ的な絵作りになっているなと思った。しかし、物語後半で東北へ向かう三人をのせた車のカーステレオから「ルージュの伝言」が流れ出すに至って、コレはもうハッキリとスタジオジブリのアニメ作品を意識したものなんだなと感じた。ではその意識した作品とはなんだろうか? 先程の「ルージュの伝言」が流れる作品といえば「魔女の宅急便」である。なるほど、しゃべる猫もでてくるし、少女の成長を描いているという意味では、すずめが途中で出会う様々な同性のキャラクターがおソノさんや森の中で絵を書いている女性(名前忘れた)を思わせる。ラストでトンボを助けるためにキキが奮闘するというところもそっくりだ。

一見「魔女の宅急便」のオマージュのような作品にも思えるが、本当にそうなのか? 私の涙腺を刺激続けたものは「魔女の宅急便」に共通するものだったのか? ズバリ言ってしまえばそうではなく、私が思い浮かべていた作品は「もののけ姫」だったのである。

 

 

 

 

もののけ姫」と「すずめの戸締まり」

まだDVDもなかった頃、レンタルビデオ屋が全盛だった頃でも何度も繰り返しみたい作品があればソフトを買って観ていた。「もののけ姫」もVHSビデオで持っており、それこそ今日は泣きたい気分だというときには「もののけ姫」をデッキにセットして美輪明宏の声で「黙れ小僧!……」と言われてただ静かに泣くということを繰り返していたものだった。ちなみにその後のセリフ全文を以下に引用しておく。

 

「黙れ小僧!お前にあの娘の不幸が癒せるのか?森を侵した人間が、わが牙を逃れるために投げてよこした赤子がサンだ。人間にもなれず、山犬にもなりきれぬ、哀れで醜い、かわいい我が娘だ。お前にサンを救えるか?」

 

もののけ姫の主人公アシタカは「森と人間双方が生きる道はないか?」と考えていたが、その考えの甘さをモロの君にこっ酷く言われるシーンだ。そして物語の最後には本当に人間は森に住む神「シシ神」を殺してしまう。人間たちが自然というものを一方的に収奪する側に立つことを決定づけて物語は終わる。サンは「木は生えてきても森は戻らない」と言う。今を生きる我々は「森の中に住んでいた神々」を殺してしまった人間たちなのである。少なくともその頃の私はそう思っていた。

 

ずっと待っていたもの

今回の「すずめの戸締まり」の冒頭で、要石を動かしてしまったすずめは後戸から出てくるみみずの姿が見えるようになる。山の奥の廃墟のあるあたりから黒い煙のように立ち上り、その後いく筋もの触手のように枝分かれしていく姿をみて、シシガミが夜の姿「でぃだらぼっち」に変わって森を彷徨い出ていくのを思い出した。最初こそ後にダイジンと呼ばれるしゃべる猫は魔女の宅急便のジジみたいであるが、物語の終盤では同類のサダイジンがリアルフォーム(?)になったあとの姿はジオフロントで戦う弐号機の裏モード「ビースト」か、頭がおかしくなった乙事主(ストーリー中では九州から東北まで来る!=すずめのたどったコース!)と戦うモロの姿を思わせる。そういう意味ではすずめは(事情はぜんぜん違うが)親と離れて育ての親のもとで育てられており、椅子になった男は、呪いのせいで超人的なパワーと一時的な不死を得たアシタカと被るではないか。

しかし、エボシ御前のように積極的に開発や技術を信奉する人間は出てこない。それは何故か? 答えは閉じ師である椅子になった男が後ろ戸を閉めるときに唱える祝詞にあると思う。以下にその全文を引用しておく。

 

かけまくもかしこみ日見不(ひみず)の神よ 

遠(とお)つ御祖(みおや)の産土(うぶすな)よ

久しく拝領つかまつったこの山河(やまかわ)

かしこみかしこみ

謹んで

お返し申す

 

この、我々が開発、開拓、利用して自然の姿から遠く離れたものにしてしまった山河を元の持ち主に返すというアイディアとそれを実行する閉じ師および主人公が、もののけ姫を見終わったあの日からずっと抱えてきた閉塞感(……いや、罪悪感とよんだほうが正確だろうか?)に対する答えをくれた。サンに言われた言葉をずっと抱えてきた我々が、それでもやらなければならないこと ―めちゃくちゃにしてしまった場所を元の形に戻そうとすること― をこの映画は示してくれたと思う。

仙台についたすずめたちの背後には延々と巨大な防波堤が映っているシーンがあった。それはタタラ場の周りを囲んでいた高い丸太の柵の延長にあるものだろう。首を切られて怒ったカミは、いともたやすくタタラ場を壊滅させた。今回作られた堤防が次の地震、次の津波に耐えられる保証はなにもない。それよりも我々が考えなければならないのは、今いる場所も仮りそめであり、いつかは返さねばならないものだということではないだろうか。もしかしたら新海監督も「もののけ姫」を観てずっと同じようなものを感じていて、それが今回のジブリアニメに対する本歌取りを正面から行ったことで、同時にストレートに表面に出てきたのではないか?というのは考えすぎだろうか。いずれにしてもこの映画は私がずっと待っていたものの一つだということだ。

 

書きあぐねている訳ではないけれど書けていない〜  「書きあぐねている人のための小説入門」を読んだ

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Twitterで知った

毎度おなじみ「小説の書き方」本をまたまた(パイプのけむり)読んでしまった。既に何冊目なのかは全くカウントしていないのでどうでもいいのだが、いずれにしてもかなりの作家の小説の書き方的な本を読んできた。その中で記憶に残っているのはやはりスティーブン・キングの「書くことについて」だが、今回読んだ「書きあぐねている人のための小説入門」も恐らくこれからも何度もページを開くだろうと思う。

保坂和志という名前はTwitter上で知った。「小説的思考」という講座?教室?を行っているというので、フォローしていたのだが、最近ハヤカワ文庫からデビュー作「標本作家」を出版した小川楽喜という作家が、同じように小説の書き方本をたくさん読んで、役に立ったのは今回取り上げた本と高橋源一郎の「一億三千万人のための小説教室」だけだった、とどこかのインタビューで書いていて、今回出版された本を保坂和志に送ってきたとTwitter上で書いてあった。

高橋源一郎の方は、以前読んだのだが、まだその頃はここまで小説に対する理解が深まっていなかったので、通り一遍読んであるはずだが、今回改めて読んでみたら全然内容を理解できていなかったことがわかった。やはり本は何度も読むべきものもあるということを痛感した。余談だが、件の本には金子光晴のこともしっかり書かれていて、文体を真似すると良い作家のリストに取り上げられており、「小説の文体としては最高の品質を有しているが、身につけるのは至難の業である」と書かれていた。いや、やっぱりそうだったんですよね、と自分でも妙に納得してしまった。

 

 

 

 

 

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風景描写をするべき理由

「書きあぐねている… 」の中で、「V. 風景を書く-文体の誕生」という章がある。ここを読んで初めて小説の中で風景描写を書く理由が明確になった気がする。いや、実際はそれこそ高橋源一郎の「日本文学盛衰史」に書いてあった……かどうか定かではないが、国木田独歩の「武蔵野」は言文一致で風景描写を主に書いている小説だが、その風景描写をしている主体のことを風景描写をさせることによって書いている、というようなことを書いていて、自分の中では風景描写は小説を書く上で大事な事の一つだろうという確信のようなものはあった。しかし、以前文フリで出した「三途川」という小説をある作家の方に添削をお願いした際に、風景描写なんて長々と書いても読者は飛ばします、と言われて「うーん」となってしまった事があった。自分としては書く必要が有ると思って書いているのだが、現役の作家の方にバッサリ否定されると自信がなくなってしまっていたのだが、そのへんも今回の本や「1億3千万人の…… 」にも書いてある通り、自分の小説を書く方法は自分で見つけるしかないのだから、その作家の方にはその方の書く方法があり、結局のところ人に教えてもらうものではないのだということが理解できた。

また、この章で「風景を書くことで文体が生まれる」と書いてあったが、これもまさに国木田独歩の話と呼応する(小川喜楽さんが両名の本を推奨している理由も)と思った。

 

 

 

ストーリーはいらない?

「Ⅵ.ストーリーとは何か?-小説に流れる時間」では、小説にはストーリーはいらないということから始まって、いや、でも、要ることもあるかもね…… みたいな展開になるが、この辺の淡いというか、どっちつかず的な内容もわからないまま持ち続けるしかないんじゃないかと思った。そもそも小説と言うのは物語、ストーリーと同義ではないのか?とも思うが、そうでもないという側面もあるということは確かなようだ。この内容について腑に落ちた!ということはないが別の観点からストーリーついて考えさせられる本を読んだ。その本はジョナサン・ゴットシャルの「ストーリーが世界を滅ぼす 物語があなたの脳を操作する」だ。

私は常々、人間は聞きたい事しか聞かず、見たいものしかみない、と思っていたが、ストーリーというものによって操作されることの事例をこの本で見ていくうちにその負の側面(ダークサイド)にも思い当たるものが沢山あることに気がついた。そしてそれは小説を書く上でも害になる部分があるし、必ずしもストーリーが一番先に来るものではない(改めて考えるとものすごく不思議だ。小説を書くのにストーリーはいらないなんて!)ということなのだ。

ストーリーや手順によって覚える記憶のことを「手続き記憶」というが、このやり方で覚えたことは忘れにくく、またパターンとしての応用がきく知識になる。先程のストーリーの保つ力のダークサイドというのは、これを洗脳や思想操作に利用するものだが、確かに使われているメカニズムは同じだ。それに対してこの本では「小説はそれを読んでいる時間の中にしかない」という。それがどういうことかというのは著者の小説「生きる歓び」を読んでみてなんとなく理解することができた。しかし、ここでそれを説明することは…… 出来ない。出来ないことがまさに「読んでいる時間にか存在しない」という説明でもあるのだが…… 。

 

 

 

私が小説を書くならこの題材しかない

小説を書くということは、小説の歴史に新しい1ページを加えるような内容のものを書かないと小説を書いたことにならないし、小説を書こうと思っている人それぞれが、自分が小説を書くならこの題材しかないというものがあるはずだという事なので、しばらくはそういう題材を探して(既に私の中にあるはずだが)今年も書いていきたいと思う。それは恐らく私が小説、物語を書くことと並行して十年以上続けている「杖道」についてのことではないかと思う。

昨年の秋にその十数年師事してきた師範が神上がられた。武術の稽古というのは道場だけで行われるものではなく、行住坐臥どんなときもその武術の原理に従って生きることだ。つまり武術・武道を学ぶとは生きることと常に共に有る。もしそれを題材に小説を書いたら、きっとその小説を読む時間の中に「武術修行者であること」が存在しないといけないだろう。時代劇やアクション活劇のように敵味方がいて勝ち負けがあるというようなもの(ストーリー、物語)とは全く違う小説になると思う。そんなものが一体どんな小説になるのか見当もつかないが、もし書けたら自分自身が一番読んでみたいと思う小説になるはずだ。

 

tokiwa-heizo.hatenablog.com

 

 

 

あとから生まれたものの不幸について

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1976年生まれの憂鬱?

今現在四〇代の人は時節のめぐり合わせが悪かったらしく、大変な辛酸をなめてこの現代を生きているらしい。そういう話をまさに四〇代の友人から聞いた。その人は研究職なのだが、このネットの記事を読んでどう思うかと聞かれたので、今回はこの記事を出発点に思うところを書こうと思う。

 

biomedcircus.com

 

まずこのブログの中の「教授」が言っていることを要約すると、

現在四〇代(正確には四六歳プラスマイナス三歳といっているので1973年から1979年生まれの人)でアカデミアにいる人は、本人の努力如何に関わらず、「世代間格差」でひどい目にあっている。さらに本当の地獄はこれからで、この世代間格差構造は老人になっても維持されて、老後の保証が今より薄くなる可能性が高い。

といったところだろうか。この「教授」なる人物が言っていることがどのぐらいまで正確なのかは正直分からない。私はこの中に出てくる「途中で企業へ行った」口なので、企業側がアカデミアに残っているよりは全然マシだと言われたら、そうなのかなと思う。たしかにこの相談者のように博士号を取れるような頭の良い人間であれば、自分の生きがいや生きる道ぐらい自分で切り開けというのもあながち間違っていないと思う。

しかし、もっと根本的な問題があると考えている。それはすごく単純な話で、歴史上にその例を探せば枚挙にいとまがないと思うが、要するに未開地は最初にそこにたどり着いたものがその富を独り占めするということである。人類の文明が地上に花開いて以来、様々な活動の場を切り開いてきた。誰かが切り開いた土地に後から来た人間は、最初にそこを切り開いた人が取りこぼした残りものしか得ることはできない、というのが普通だろう。物理的な制限を受ける活動ではこれが普通だと思う。

それに対して、科学や芸術は物理的な制限もあるが、本質的に形而上のものであり、その活動は工夫次第で無限の未開地を持っていると思う。ただし、科学の領域はまさに科学というパラダイムの中で行われる活動なので、人間の知性がその領域拡大のエンジンである。科学的手法で未開の地をどんどん開拓するには、知性のレベルがどんどん上っていかないと難しい。RPGゲームのドラクエで行けるところが増えるためにはレベルアップが必要…… というような喩えが正しいかどうかわからないが、一定のルール(パラダイム)の中で、自由度を増やすにはレベル上げが必要というのは間違ってないと思う。

ただし、である。科学的な知性のレベルアップが必要ということは、要するに頭が良くなるということなのである。人類が誕生してから今日まで、脳のハードウエアはモデルチェンジをしておらず、自ずとその性能には限界がある。ということは時系列で先にその活動をしている人が埋めてしまった領域を更に書き換えるのは、それを成し遂げた人たちの知性レベルを超える必要がある。おそらくこれまで領域を拡張してきたのは、科学的な活動の成果として技術革新が起きて、計算という部分で大幅な補助能力となるもの、すなわち電脳が出現したからだと思う。人間の知能(脳だけの演算能力)というのは百年前の人たちとそんなに大きく変わっていないが、その補助能力を利用することで、科学の領域を拡大することができたということだ。

色々小難しく書いているが、結局それらの活動が人間という物理的存在に依拠するものである以上、今の東京のようにもうこれ以上家を建てる土地がないから、昔一軒家だった土地が三分割、四分割されて一つ一つの家が持つことのできる土地は必然的に小さくなっていく……という状況が起きるのは必然だと思う。この大局的な話と冒頭の一九七六年前後三年間に生まれた人が陥った不幸な状況は若干異なるかも知れないが、その背景にあるのはこの構造だと思う。だからどうしたらいいのか?という問には答えることができないが、この話を書いていて思い出したのは、アメリカの話である。アメリカはいわゆる「アメリカンドリーム」という言葉がかつてあったように、移民としてやってきて商売や芸能で一旗揚げるということを表しているのだが、なぜこれが可能だったか?ということを誰かがどこかで書いているのを読んだのだが、アメリカは既得権益、つまり先にそれを成し遂げた人の権利は守るが、同様に新しく分野を作り出してそこで儲ける事ができるようになった人の権利もまた守るからだ、というようなことが書いてあった。日本は既得権益を守るために、新規にその分野(に類する領域)に進出してきた人を締め出してしまうから、そういうドリームはできないとも書いてあった。フロンティアというものが、富を支えてきたアメリカではその考え方を肯定することはアメリカ人のアイデンティティにも関わる問題なのだろう。日本はもともと狭い国土の中で領地を取り合ってきたので、どこまでも広がる世界というのが想像できないということかもしれない。

残念ながら、今や地球全体が既に未開の地を持たない状況だ。そうなるとロシアがウクライナに侵攻したように、既存の土地を奪い合う椅子取りゲームになる。コンピューターを超える、人間の能力を飛躍的に上昇させる技術を開発しない限り、新たなフロンティアは見つからないだろう。(オチはない)

キングダムからの帰還~ 中国から帰ってきました

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明けました

改めて、あけましておめでとうございます。2023年もよろしくお願いします。去年に引き続き今年も一ヶ月に三本ブログをアップすることを目標にする。別に誰に頼まれているわけでもない文章を、月に三本書いてアップするというのが意外に難しい。最近読んだ「ライティングの哲学 書けない悩みのための執筆論」という本に、書くために必要なのはやはり「締切」であろうということが書いてあったが、月三本の締め切りだと、例えば一週間に一本だと週末が締め切りということになるが、月に三本だと一〇日、二十日、月末みたいな感じで置けばいいのだろうか?

 

 



Back to end of 2022

昨年末に戻る。十二月二九日中国広東省順徳市。ホテルの二一階廿一号室。熱もないし気分も悪くないが、なんとなく喉が詰まるような感覚が消えない。心理的なものが原因なんだろう。明日のフライトもJALの午後便(十六時)なので、朝早く起きる必要もない。十年前に中国出張していた頃は、帰国便は香港から午前便(九時から一〇時の間に飛ぶ便)に乗るのが普通だったので、二時間前に香港国際空港に着いているためには、早朝五~六時頃深センの工場を出なければならなかった。それに比べると午後便は楽だが、日本に着く時間が遅くなる。これが後々問題になるのだが……。とにかく明日は二ヶ月以上暮らした部屋から出なければならないので、来るときに持ってきたトランクに部屋中に散らばっているものを詰め込む作業を始める。といっても、バスルームにある洗面用具一式と、クローゼットに放り込んだ洗濯物をかき集めても、来たときよりは容積が減っているはずだ。なんせ、来たときは食料(インスタントラーメンやお菓子がほとんど)が三割ぐらいのスペースを占めていたが、それらはすべて口から入ってトイレの配管から虚空に消えている。持ってきた雑誌や本もほとんど読まないでずっとトランクの底に沈んだままだった。今度来るときはもっと厳選しないといけないな……と思って巨大な開いた本のようなトランクに向かってちょっとかがんだ瞬間だった。腰にビリっと電気が走ったような感覚が。……ああ、油断していた。

考えてみれば、ホテルにあったジムで走ったのも二ヶ月いて三回ぐらいだし、毎日の通勤は工場が車を回してくれるので、歩くのは工場内の事務所から食堂、あるいは現場までぐらいだ。工場内でも少し離れた建屋にある現場に行くときはゴルフ場にあるようなカートで運んでくれるので、本当に歩いていなかった。つまり完全な運動不足で筋肉がガチガチに縮こまっていた事をすっかり失念していたのである。ホテルの部屋にいたときは「ファイアーエムブレム風花雪月」の二週目をやる事に忙しく、ストレッチ、筋トレなどのセルフケアも怠っていたのである。直後に仰向けに寝転んで膝を立て、膝頭を右床に着けてからまで左床、反対に左床に着けてから右床に着けるという以前鍼灸師に教わった腰痛、ぎっくり腰のリハビリ体操をやってみたが、なんか電気が走ったと感じた箇所にはあまり痛みを感じなかった。とにかくパッキングをなんとか終えなければ。出張あるあるかもしれないが、トランクが上から体重をかけないと閉まらない。なんとかパッキングを終えて再びSwitch Liteで現実逃避をして過ごす。

十二月三〇日午前七時、いつも通り食堂に行き朝ごはん、おかゆと焼きそばとゆで卵、炒めた野菜などを食べ、コーヒーを一杯飲む。やはり上半身と下半身の間に亀裂が入っているような感覚がある。何かのはずみでその部分からポッキリ折れてしまいそうに感じる。一二時にチェックアウトで空港まで我々を運んでくれる車も来ることになっている。出張費用の精算のためホテルの宿泊代の領収書が必要なのでフロントでそのことを伝えるとポカーンとしている。うーん、コロナでキャッシュレス、ペーパーレスが進んでいるので、おそらくそういう証明書類を要求する人が減っているのだろう。片言の中国語で説明してなんとか発行してもらう。たしかに、ひと月毎宿泊代をカードで払ってきたが、最後に60日超のそれらをまとめて領収書として出してもらうのは前もって伝えておいたほうが良さそうだ。この手続のために三〇分以上費やしてしまった。

車に乗り込んで広州白雲空港へ向かう。自分たちがいた佛山のベイジャオという場所は意外と空港から遠かったということこの道程で知った。その間ずっと車窓から広州の街並みを見ていたが、なんか住みやすそうなところだなと思った。六〇日以上前に到着した空港が見えてきた。果たしてあの終末パニック映画のセットのような状況はどうなっているのだろうか?Departure側の入り口は三年前と同じで入り口に爆発物検知のためのゲートがあり、なんかセンサーかチェッカーのようなものでカバンをちょいちょいと触ったあと、五メートル四方の柵の中で一定時間待つ。問題なければそのまま空港内に入ることができる。チェックインカウンターを探すため、空港内を見渡す。うーん、普通だ。ゼロコロナから「フルコロナ(中国人全員が感染して集団免疫を獲得する)」への転換などと最近は言われているが、この頃はまだ見てもしょうがないスマホQRコードを確認するための人が入り口に立っていたが、空港への入り口ではそんな人もいなかった。JALのチェックインカウンターでは必要な手続きをアナウンスしていたので、来たときを思い出してCHINA CUSTOMのアプリの登録(情報更新)をしておく。帰国便を一回変更しているので、来たときに登録してあった情報を更新する必要があった。これをやってないと、出国審査のあとにあるコロナ専用のチェックゲート(?)を超えるときに止められてしまう。フライトの二時間以上前には空港についていたが、保安検査、出国審査を超えてゲートに向かう前の待合室にたどり着いた頃には搭乗まで三〇分ぐらいになっていた。待合スペースの近くにある免税品店、ブランド店は軒並みシャッターが降りていて、店舗の中身もすっからかんであった。ただ閉めただけでなく、ディスプレイや商品も全部引き上げてあるようだった。そこからまたバスに乗せられ、実際の飛行機の下に行くのかと思ったら、ビルの下側を延々と走り続けだした。実は空港の反対側にある到着ゲートの下に我々を運んでいたのである。恐らく、本来であれば到着→出発をフロアを分けることで切り替えていたが、以前に書いたように到着ロビー側は荒れ放題担っており、まだ流石にあそこから復旧していないので、そこを通す事ができなかったのではないかというのが私の想像だ。三階ぐらいの高さから飛行機に直接伸びているボーディングブリッジの下にある螺旋階段を登って、ようやく飛行機のハッチの前にたどり着いた。フライト自体は座席が一つおきに使用されていること以外は普通で、驚くべきことに飲み物サービスと機内食も普通に出た。四時間ぐらいのフライトはやはり腰の爆弾がいつ本格化するのかと心配していたためか、全然眠れずに成田まで着いてしまった。

十二月三〇日午後八時半に成田に到着。ここからである。この日から入国時にコロナ水際対策として、中国からの直行便だけ抗原検査を行い、陽性かつ症状ありであれば原則七日間、症状なしなら五日間の隔離が開始されたため、飛行機から降りて入国審査を受ける前に検査所を通り抜ける必要があった。まず検査を受ける前に長い行列ができていた。我々が乗ったのは五〇番以降のかなり後ろ側の席だったので、自分たちより先に降りた人たちがそのまま長い列を作っていた。検査所にたどり着くまでに一時間弱はかかった気がする。抗原検査なのにそんなに時間がかかるのだろうかと思っていたら、ここでの検査は中国のアルファスティックで鼻や喉をこすって液に着ける方式ではなく、自ら唾液を一cc集めてそれを提出しなければならないのである。これは人によってはなかなか難しいだろうことは想像に難くない。私は幸い唾液が出やすい体質なので、すぐできたがそれでも一、二分はかかっただろう。それを何百人も行っているのでそりゃ~時間かかるよ、と思った。そしてその唾液を提出してからがまた長かった。簡易キットだと数分で出る結果がなんでこんなにかかるのだろうかと思ったが、ワクチンの注射後の経過観察の待合のように椅子がズラッと並んだ待合所が臨時に作られており、そこに座ってひたすら待つこと二時間。ようやくパスポートにはられた番号が呼ばれた頃には成田発のスカイライナー最終の時間も過ぎていた。荷物返却スペースには恐らくついさっき着いたと思われるアメリカからの直行便の荷物が吐き出されており、我々の荷物は既にコンベアーから降ろされて一箇所に集められていた。荷物を回収し、税関申告はアプリで済ませてあったので一瞬で終わってようやくゲートにたどり着いた時点で午後十一時半であった。そこから東京の西側まで帰るのになにか方法があるかと見回して、東京駅行きの最終バスがあと三分で出る事がわかり、急いで空港ビルの外にあるバス乗り場へ向かった。なんとか乗ることができたので東京駅日本橋口に午前一時頃到着、そこでタクシーが三台止まっていたが、それらもすべて先客に取られた。ここで待つしかないかと思って立っていると、三台目のタクシーの運転手さんが助手席側の窓を開けて「ここで待ってても来ないから八重洲口へ行ったほうが良い」という値千金の助言を残して走り去ったので、我々は急いでトランクを引きずりながら八重洲口に向かった。そこにはタクシーが何台も止まっておりすぐ乗ることができた。運転手さんが「上のっていいですか?」というのでモチのロンだと答えると、なにかのスイッチが入ったのか高速道路を湾岸ミッドナイトのように爆走して我々を各自の家まで運んでくれた。

 

ビザ停止

現在のところ中国政府のお達しで日本からの渡航はビザの発行が停止されているため、今のところ次回の出張の目処は立っていない。ただし、現在の仕事の進み具合からしてまた現地にいかないとどうにもならないことはわかっているので、再び中国出張に関する最新情報をお届けできるのではないかと思っている。再見。

年貢の納め時が来た?~ 本場中国でコロナ感染爆発に遭遇した

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ちょうど三年前になるが、今と同じように出張で中国に滞在していた。これも同じく広東省の中を移動しつつ何軒かの工場を回っていた。いろいろな事情が重なって、年内に帰国出来ず、二〇二〇年一月二日の便で帰国した。そしてその年コロナ感染が始まった。実際には私が中国に滞在中にすでにアウトブレイクは起きていたと言われている。そもそもCovid-19の19は二〇「一九」年を意味している。帰国した私はしばらくしつこい咳に悩まされていた。そしてコロナ感染の拡大を知って、あの咳ももしかしたらコロナ由来だったのかも?などと気楽に考えていた。要するに既に中国にいる間に感染しており、免疫ができているから日本で感染が拡大しても伝染らないと高をくくっていた。その間もちろん日本でワクチン接種を三回受けている。日本にいる間は感染することはなかった。しかし、である。

十二月二十三日金曜日、一緒に日本から出張している同僚が39.8℃の熱を出した。幸いにも私は発熱はなかったが、なにか目の奥がひきつるような痛みを感じていた。Covid-19を発症したことを自覚した瞬間であった。PCR検査や抗体検査で確認したわけではない。しかし、周りの人間が次々と陽性になり、自宅待機あるいは自宅療養を始めている中で、自分だけが感染しないという理由は一つもなかったのである。

十二月二十四日土曜日、だるい。相変わらず左目の奥がひきつるような感覚がある。熱はないが、なにか熱が出る直前のような浮遊感を感じる。ホテルの部屋を清掃に来るおばちゃんのために午後部屋を空けるため、二時間ぐらいホテルの周辺をうろつく。少し歩いては道端に座って休むを繰り返す。熱がないのが不幸中の幸いだが、自分の身体に対する違和感や倦怠感がじわじわと意思を蝕んでくるのがわかる。閉鎖された公園の端にあるPCR検査場を見て呆然とする。確かに三週間前はここに行列を作っていたのに。二時間並んで検査を受けてスマホの健康コードを緑色、二四時間以内陰性にしていないとイオンにも入れなかったのに今は制限なしだ。ただし、出歩いている人は確実に減った。きっとみんな自主的に引きこもっているのだろう。広場を歩いていてすれ違う人たちも変な咳をしていることに気づく。みんな感染しているんだ…… 公園の横の道路を不思議な車が走っている。ミキサー車のようだが、後ろに斜め上を向いたジェットエンジンのようなものがついており、そこから煙を噴射しながら走っている。何の煙だろうか?街路樹を消毒でもしているのか?まさか、コロナウイルスを消毒するために?

十二月二十五日日曜日。ホテルの前の工事現場のパイルバンカーの音で目が覚める。そういえばあの工事現場は、地域の病院の敷地内だな…… 古い建物を壊して新しく何かを立てるつもりの様だが、病院を拡張するのだろうか? 朝ごはんはホテルの食堂でおかゆやらその他いろいろなものが食べられるのは前回のブログで書いたが、いつも通りおかゆと少しの野菜炒め、炒麺、ゆでたまごなどを食べる。発症してからも食欲は落ちていない。本当に感染、発症はしているものの、ごく軽微な影響で済んでいるようだ。目の奥のひきつる痛みも治まってきている。昼まで部屋でうとうとしながら過ごし、午後はルームクリーニングのためにまた散歩に出た。二一階の窓からは、大きな歩道橋が見えるのだが、不思議と全然人が渡っていない。なぜそうなのかを確かめに行ってみることにした。川幅は二〇メートルぐらいで、その両側に三~四車線の道路がある。その全てをまたいでホテルのある新市街から主に三階建ての住宅がひしめく旧市街に向けてかかっている歩道橋だ。確かにこちら側の道路はまだ歩道も含め建設中なので人通りが少なく、利用する意味が無いのかもしれない。しかし、その橋の袂まで行ってみて理由がわかった。まず、端に上る部分の歩道が完全に未着手のまま放置されており、草茫々の中を渡っていかないと新市街側から橋に上がれないのだった。私の前に一人目付きの鋭い男が草の中をかき分けて橋の袂にたどり着き橋を渡っていくのを見て、使ってはいけないわけではないのだということを確認した上で、私も彼のあとを追った。橋の上はほぼほぼ完成しているが、完成する前に放置された感が漂っており、橋の欄干の外側に設置されたプランターには空き瓶や吸い殻が投げ捨てられている。橋の中央部で下を流れる川を見下ろすと、コーヒー牛乳のような色をした水面と、橋から少し離れたところに釣り竿を持った男が見えた。その男はこちらを不思議そうに眺めているように見えた。実際には遠くて顔の表情までは見えなかったのだが。橋を渡って反対側の降り口に差し掛かった時、この橋がなぜこんなにも利用者が少ないのかが判明した。なんと反対側は工事中の塀に囲まれており行き止まりになっているのである。しかし、降りられないわけではないので、隙間を探して地上に降りた。周りにある建物がなにか変だ。まるで遊園地の入り口の券売所か、公園の中にある売店のような建物が橋の袂のすぐ横にある。そういえば歩道橋の上からは、旧市街側にプールのウオータースライダーのようなチューブがあるのが見えたことを思い出した。ここは……もしかしてプールのある公園だったのだろうか? あたりを見渡すとコンクリートで作られているが、丸太小屋風の意匠で作られたトイレが有る。なるほど、あの新しい道路が出来ているあたりまでプール公園だったようだ。その敷地だったと思われる場所の一部には、新しい地下鉄の駅の入り口ができている。新市街の開発計画によって、このプール公園は廃止されたようだ。先程の券売所のような建物の中を除くとゴミ溜め担っている中に、布団のようなものが敷かれている。三つ敷かれているなかで、一つには……人が寝ている! 慌ててその場を離れる事にした。廃墟好きな私にとってはとても興味深い場所ではあったので、そこに住み着いている人の気持ちもわからなくはないが、それにしてもどういう理由でそんな所で寝ているのだろうと思った。ちょっと興味が湧いたので、そのまま少し旧市街中を歩いてみた。と言っても、三~四階建ての建物がひしめくように建っているので、どの路地が公道なのか、いや、そもそも私道でも人は普通に行き来しているのか、全くどこが境界なのかわからないので迂闊に踏み込めないのでまずは広い道路を歩いてみた。道路沿いには店があるが、どの店も営業しているのかどうか怪しい感じだった。先程のプール公園があったときは、人通りがある程度あったので商売になったが、それが破壊されてしまい、商売も破壊されたという感じだった。かつて飲食店だったと思われる軒先のテーブルで小学生ぐらいの子供が宿題か何かと思われる書き物を一生懸命に行っているのが見えた。さらに歩いていると、ちょっと大きめの路地の向こうの方から人が二人歩いてくるのが見えた。この路地ならきっと入っても大丈夫そうだと思い、また方向としてもさっき来た方に戻る事ができそうだったので、入っていくことにした。こちらに来る二人連れは、親子のようだ。何か景気の悪そうな話をしているように見えた。更に先へ進むと、幅五メートルぐらいの川があって、橋がかかっていた。橋の下は同じくコーヒー牛乳のような色の水が音もなく流れており、その橋の袂に祠があった……

 

ここから2023年

皆様あけましておめでとうございます。本年も当ブログをよろしくお願いします。さて、前段のパラグラフを書いた後で、帰国のドタバタが始まり書くのを中断してしまった。この後私は路地を歩いて、またホテルまで帰る訳だが、なぜコロナ感染に対する恐怖の話から路地探索の話を書き始めたか? 簡単に言うと体調が回復してきて、普段の好奇心が顔をのぞかせてきたからである。そのドタバタは次回のブログに書くとして、まずは実際に感染したのかどうかについて書かなければならないだろう。抗原検査キットで試験した結果は陰性であった。自分自身「えー、ほんとにいー?(半笑い)」という気分である。会社から配られた抗原検査キットでTの部分に全くライン浮き出てこなかった。これで帰国できると安堵したのもつかの間、この後の帰国時の様子を次回のブログで書いて、今回の中国滞在記を締めくくりたいと思う。

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食は広東に在り、心の平安は食に在り〜 中国滞在中の食事について

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衣食足りて礼節を知る

中国滞在中は気軽に雑記を書くというつもりでいたのだが、12月に入り仕事が佳境になってブログを書く暇も無かった。ようやく帰国の日取りも近づいて仕事もひと段落した(……そうでも無いかもしれないが)ので久々に書きたいと思う。「衣食足りて礼節を知る」と言うが、12月に入った頃から広州も急激に気温が下がり、出張前に考えていた衣服では寒さに耐えられなくなってきたので、こちらの方に(世界の)Uniqloがあるところを紹介してもらい、出張者で買い出しに行った。店内には日本とほぼ変わらないラインナップが展示されており、先月発売だった「Spy Family」のTシャツまであった。こっちでも動画サービスで観られるのだろう。その時買った服のおかげでとりあえず寒さは凌げている。その時に立ち寄った日本居酒屋で食べたカツ丼があまりに美味しく「刑事さん、私がやりました……(泣)」とやってもいない犯罪を自供してしまいそうだった。確かに中国滞在も一カ月を過ぎて中華オンリーの食事が辛くなってきていた。そう言う訳で人間の生活にとって一番重要と言っても過言ではない食の話を書こうと思う。

 

 

中華三昧

朝ごはんがホテルで提供されているので、ほとんどのメニューは中華とは言え、パンもコーヒーもサラダもヨーグルトもフルーツもあったので洋食の朝ごはんを選んでいればそれなりに日本と変わらないものが食べられたのだが、コロナによる規制で朝食レストランが閉鎖された。フロントに頼んでおけば、部屋まで届けてくれるようだったが、それは頼まずに近くのコンビニで買ったパンやカステラのようなお菓子とコーヒーで一週間過ごしたのが良く無かったのかもしれない。朝食を食べるという一日の食事のスタートからリズムが崩れてしまい、反動で昼からつい食べすぎてしまう。そうすると夜にお腹が減らない。しかし無理矢理食べる。朝ごはんを食べたくなくなる。昼が多い……という悪循環に陥ってしまったようだ。それにしても、私より早く来ていた人たちはよくこの環境で何ヶ月も過ごせたものだと感心してしまった。

隔離明け11月に最初に入った工場の食堂は、自分でお金を負担する代わりに選択の自由があった。また、完全量り売りのおかずコーナーもあり、食べたいものを食べているという選択の自由を行使出来ている感覚がそれを支えていたと思う。しかし、もう一つは、隔離生活でカロリーコントロールのために食べずに残すことを覚えたので、トータルの摂取量がまだまだ抑えられていたのだと思う。11月の後半から今いる工場の方へ移って来たのだが、こちら工場の食堂は、食券が支給されたため、支払いはしなくて良くなった代わりに選択の自由が狭まったのである。量り売りおかずのコーナはあるので、基本はそこでおかずをとってご飯を食べるのだが、先ほども描いた通り、コロナの規制で朝食から始まる食のリズムが崩れた結果、食事が楽しくなくなり、また、昼食べて、夜はホテル周辺のお店で外食しようとすると、またこれも食べ慣れないものをおっかなびっくり食べることになり食事が楽しく無くなるので、休日は現地化したイオンのお惣菜コーナーに行き、ラップロールをビールと一緒に食べる事になる。気温がそれなりに高く、暑いと感じている間はまだよかったのだが、冒頭に書いた様に12月に入ってから急に気温が下がって毎日十数度しかない日が続いている。二十度付近まで上がる日は稀だ。気温が下がると人間は精神的に難しい状態になる。冬を目前にして、何も対策を考えなかった個体は滅びて、そのことに危機を感じる遺伝子を持つ我々が今生き延びているのだから当然だ。とにかく必要以上になんとかしなければと思ってしまうが、それが焦りを生むだけでどうしようもない。こちらは服を買うことで何とか凌ぐ事ができた。

 

同化と異化

話をもどすが、我々にとって「食事をする」は生命の根源となる活動である。外界からエネルギー源となる物質を取り込み同化する、その後で不用物を異化するという複雑なシステムだ。多細胞生物であり、専門臓器を持っている我々の体内でそれを担っているのは消化器系の各臓器であり、システムのコアとなる「同化と異化」に関しては腸管が主な担い手である。最近の研究では、更にその腸管内で活動している数兆の細菌が重要な役割を果たしていると言われている。そしてその働きが上手くいかなければ生命活動の維持が危うくなる。寒くなって体温が下がると言うこともこのシステムに対して障害を与える要因になる。生化学反応で重要な役割を果たす酵素はそれぞれ決まった最適な温度帯があるので、そこから環境温度が外れると途端に化学反応の効率が落ちる。この文章を書いている私の意識が居るのは脳だが、脳も臓器であり、同化と異化のシステムが上手くいかなければ脳細胞唯一のエネルギー源である糖分が配給されなくなり、活動そのものがシュリンクする。気がつかないうちに思考できる範囲が狭まってしまうのだろう。まとめると、我々の精神活動は身体の置かれた環境にその精神の土台の部分から影響を受けているが、我々の精神(state of mind)はそのバイアスを感知する事が出来ないと言うことだ。

 

広東 state of mind

我々の体を構成する細胞は七年で完全に入れ替わると言われている。しかし、腸内にいる数兆の細菌は、日本で暮らしている限り日本の細菌のままだ。彼らが腸に送り込まれてくる食物を受け入れない限り「同化と異化」がスムーズに行われない。恐らくこの場所、広東省で十年も暮らせば、体を構成する細胞も、そこに住まう腸内の細菌も中国で取り込んだものに完全に入れ替わるだろう。気候や風土に完全に馴染むと言うのはそう言うことなのだろう。逆に二ヶ月もいれば既に何千分の一、何百分の一は既に置き換わり始めているのかもしれない。もしくは十年前から広東省に来始めて、すでに細菌はハイブリッド化を始めているのかもしれない。中国に来ると「ああ、中国に来たな」と感じる瞬間があるが、それは私の腸内にいる中国の細菌がそう思わせているのかもしれない。実際中国の風景に奇妙な愛着を感じ始めているのも確かである。だが、今の私の心は「Tokyo state of mind」だ。真冬の成田空港のゲートを出て北風に吹かれる瞬間を文字通り心待ちにしている。

 

New York State of Mind