常盤平蔵のつぶやき

五つのWと一つのH、Web logの原点を探る。

東京人の関西弁コンプレックス?~  やみ・あがりシアター「Show me Shoot me」を観た

f:id:tokiwa-heizo:20220916003255j:image

久々の観劇

2022年9月8日、久しぶりに劇場で演劇を観た。ちょうど一ヶ月前に三鷹に引っ越してきたが、三鷹芸術文化センターが歩いていける距離にあるため、これからは興味の湧いた公演があったらできるだけ見ようと考えていた。早速その機会がやってきた。今回観たのは劇団やみ・あがりシアターの「Show me Shoot me」である。

http://yamiagaritheater.jp/next.html

場所は先程も書いた通り三鷹芸術文化センター、その「星のホール」である。以前(……え?2017年か……そんな前だったのか)ここで観たのは城山羊の会の「相談者たち」という芝居だった。まだコロナのコの字もない頃で、椅子は両隣がくっついており、割と狭い星のホールの観客席も満席だった。今回の公演は、感染症対策のため、椅子と椅子の間隔も一つ分ぐらい空いており、全員が席についていてもあまり観客が入ってないな感が残っていた。私が今回買ったチケットは夜公演で19時30分開演だったが、20分ぐらい前には劇場内に入って席についていた。館内アナウンスで「ゆっくりボイス」を利用した主催者の作者兼演出家と主演女優の観劇前の注意のような内容が5分おきぐらいに流れていた。実はこの「ゆっくりボイス」でのアナウンスは劇中で使用されるために前もって観客の耳を慣らしておこうということだったのだろう。

 

あらすじ(ネタばれはしません)

三鷹の社宅に住む夫婦は、世間的には陰キャ同士だが、家の中での会話は漫才コンビのように夫がツッコミ、妻がボケとして面白いキャラを演じている。そこへ隣の部屋に関西人の夫婦が引っ越してくる。普通に喋ることが漫才並みに面白いことに衝撃を受ける二人。自分たちのアイデンティティ・クライシスをどのように乗り切るのか……? と、このぐらいしかストーリーについては書けない。これ以上書くとこれから見る人に取って害になると思うのでやめておく。

タイトルの「Show me, Shoot me」ってそのまま直訳すると「私に見せて、私を撃ってor撮って」みたいになって、なんかピンとこないなーと思ってネットで調べると、Shootはスラングで「ちょっと言ってみる」みたいな意味で使われるとのことだった。その意味で行くと「(面白いことを)見せてみて、言ってみて」というセリフだと考えるのが正しいのではないかと思う。劇中でもそういう局面は何度も訪れる。

上演時間は2時間で休憩は無し。場面転換も極力舞台上から見るものが無くならない様に役者自らが黒子となって、小道具を出し入れしつつ、衣装を変えていくので退屈しない良い演出だったと思う。しかし、実際に舞台上で演じている役者さんは、走ったり運んだりで体力消耗が激しいのでマチネーとソワレーのある日は疲労困憊だと思う。

また、そういう場面転換のさいにボーカロイド初音ミクの歌うオリジナルソング「しょうみーしゅーみー」が流れて、初音ミク好きとしても楽しかった。(物販グッズを買うと音源がもらえたらしい……)

このストーリーはおそらく「COVID-19パンデミック」の起きていない世界線の話だ。これは、いま脚本書いたり小説書いたりしている人は、本当にどちらの世界線を選ぶか悩むところだと思う。時代劇だったらその問題は回避できるかもしれないが、現代劇をやる際にはかなり難しい決断になると思う。震災前と震災後でも物語の「前提」みたいなものが変わってしまったと言われる。それを言えば「核兵器」とか「戦争」とか、時代を分断するような大事件はこれまでも起きているし、そういうことに左右されない古典みたいなものもあるが、いずれにしても現代劇をやる以上は観客席と舞台が同じ世界線にないと、基本的な共感替えにくいのではないかと思う。しかし、そのハンデをあえて引き受けてでも語りたい物がある場合もあると思うので、やはりそれは作者の決断だろう。

 

全ての関西人が面白い訳じゃない

私は愛知県出身である。今回のやみ・あがりシアターの主演女優の方もチラシに出身地が愛知県と書かれていたので、方言に関する感覚が筆者と近いのではないかと思うが(結構な年齢差もあるので違う部分もあるかもしれない) 愛知県というのは関西圏ではない。西日本でもないと思う。だからといって東日本でもない気がする。まさに中部地方という呼び方をするが、そのような中間地帯にあると思う。木曽三川がその境目だと思うのでそこから、天竜川ぐらいまでが、関東でもない中間部と呼ぶような場所だと思う。つまり関東でも関西でもないので、どちらも他者の視点で見られるのが利点だと考えている。

以前読んだネットの記事では、東京に出てきた関西人が職場でボケてもツッコむ人がいないのでたいへん寂しいというようなことを嘆いていたが、まさに関西弁での会話は日常的にボケとツッコミが発生する。それは認識違いやミスなどをバランス調整する機能があると思う。その点標準語では、相手の発言に間違いや思い込みみたいなものを察知しても、スルーするか、真面目に訂正するかになってしまう。ところが関西弁では、過剰にそれを解釈して考え方、情報のずれた部分を自然に認識させたり、逆にそれをきっかけに話題を弾ませたりすることが出来るのではないだろうか。

だたし、これはかなり知的に高度な能力を必要とする。お笑い芸人が役者になったり作家になったり、その他異分野でもその後活躍するのは、この能力の基礎がしっかりしているからだと思う。当たり前だが、全ての関西人が面白いことを言うわけではない。やはり知能が高くてコミュニケーション能力も高い人というのはそんなに沢山いるわけではないのだが、そのような思考法に常に会話の中で触れているうちにトレーニングされていくことはあると思う。大学時代の同級生にも関西から来た友人が数人いたが、彼らは大学に入るぐらいなので、もともと知能が高い。その上で関西弁による「ボケとツッコミ」会話のトレーニングを受けて育っているので、本当に喋っていて面白かった。

 

4つの視点とアポリア

4つの視点+アポリアでこのお話をみてみる。

①    メカニズム

幸せに暮らしていた二人のところへライバルがやってきてその平和を脅かす……正直に他話が思い浮かばない。東京の三鷹にとって関西人は異邦人で、それによってアイデンティティの危機に陥る二人は、近所の住人や会社の同僚たちにその解決の糸口を求めていままでしてこなかったコミュニケーションを試みる。しかし、周りの人々も自己中心的に生きていて、なおかつその欲望が満たされない状況を生きていることを知る。その中で関西人だけがお互いの気持のすれ違いなどはあるものの、関西を離れて関東に来てしまったこと以外には格別の不満もなく日々を生きていると描かれている……あれ? これってある意味関西人は人間ではなく本当に宇宙人的な存在として描かれている? ということはつまり本質的には関西人嫌悪のお話なんだろうか?

 

②    発達

前述の通り、今風のスピード感溢れる舞台進行で、むしろ空白や沈黙をできるだけ入れないようにして、主役の二人の間のみ、沈黙や気まずい空気感が際立つように設計されているのだろう。

 

③    機能

今回はパス。

 

④    進化(それはどのような進化の過程をへたのか?)

演劇の進化を論じられるほどの見識はないのでこちらもパス。

 

⑤ アポリア

主人公たちはラストで次なる試練へ向かうわけなのだが……ネタバレになるので詳しく書けないが、向かった先があちらということは、関東人(つまり自分たち)のアイデンティティはその先も満たされることはないという意味なんだろうか。

 

おわりに

「Show me Shoot me」は全体として群像劇で、それぞれのキャラクターにもドラマが有り、そこに共通するのは「いかにして生きるか?」という普遍的な問だった。

個人的にも、久々に生で役者さんたちが演じる姿を見ることが出来て大変楽しかった。今回の演劇台本も最初はPCか原稿用紙の上でコツコツと書かれたものだろう。それがそれぞれの役者さんたちによって演じられて発声されることで、舞台の上にドラマが出現する。私が書いたシナリオもいつか役者さんが演じてくれるといいなと思った。

 

老婆の怒りは庵を焼き払う~ 「隠蔽捜査3 疑心」を読んだ

f:id:tokiwa-heizo:20220907232348j:image

ちびちび読書再開

新しい家に来て引っ越しの荷ほどきも終わり、なんとか毎晩落ち着いて寝床に入ることが出来るようになった。眠りに入る前の「ちびちび読書」もやっと再開すること出来るようになった。引っ越したらぜひ読もうと思って取っておいたのが、今回読んだ今野敏の「隠蔽捜査」シリーズである。

最初のズバリ「隠蔽捜査」に関しては以前ブログで感想を書いた。2巻は既に読んだが、感想はブログに書いていない。だからといって面白くなかった訳では無い。むしろその逆で、1巻で色々あった結果として降格人事をくらい、大森署の所長になった竜崎が、立てこもり犯を相手にまたまた予想外の活躍を見せる痛快な話だった。そして今回読んだ3巻目である。

 

 

tokiwa-heizo.hatenablog.com

 

 

 

あらすじ(もちろんネタバレです)

アメリカ大統領来日が迫ったある日、大森署の所長である竜崎に第二方面警備本部本部長に任命するという通達が来る。第二方面というエリアには羽田空港も含まれるため、大統領が到着する羽田空港の警備もあるため大変である。警察の内部事情を知らないとわからないが、これはかなり異例なことであるらしい。やがてアメリカからシークレットサービスの先遣隊がやってきて、日本人が関与する大統領暗殺計画が進行中だという情報がもたらされる。さらにシークレットサービスの一人が防犯カメラの映像から羽田空港に怪しい人物が写っているので空港を閉鎖しろと迫る。

大統領暗殺計画に関与する日本人テロ組織に関しては、全然手がかりがつかめないまま来日の日だけが刻々と近づいてくる。しかし、あろうことか竜崎は、本部長拝命と同時に臨時で補佐する秘書官として配属されてきた女性キャリア畠山美奈子に恋心を抱いてしまう。

一方で首都高速で起きた交通事故で、事故を起こしたトラックからドライバーが行方不明になるという事件が起きる。その行方を単独で追っていた捜査官がその正体に迫るなかで、最終的に羽田空港の防犯カメラの映像に写っていた男と同一人物であることが判明する。その筋から犯人及びその犯罪組織の暗殺計画を未然に防ぐことに成功する。めでたしめでたし。……この活躍の裏で竜崎は畠山への恋心をどのように決着したのか? 実はそちらがこの話の最も面白い点だ。

 

婆子焼庵

竜崎はテロ計画の手がかりも、羽田空港の謎の人物の素性も全然わからず途方に暮れていながら、一方で畠山美奈子への激しい恋心に焼かれ丸焦げである。1巻でも2巻でも仕事で心労になるという姿は見せなかった竜崎が今度ばかりは憔悴し、夕食時に一缶だけと決めているビールもニ本飲んでしまう、夜もよく眠れないというような体たらくである。

その相談を幼なじみで同期の伊丹にした所「先人の知恵に学んでみてはどうか?」という助言を受け本屋で禅宗の本を三冊買うのである。その中に公案として「婆子焼庵」というものがあった。それを考えることで、なにかヒントになるという直感を得た竜崎は、その公案を真剣に考える。そしてその答えを見出すことで、竜崎はその窮地を脱するのである。

婆子焼庵とはどのような話かというと、こんな話である。(記憶から書いています。正確な内容が知りたい方は例によって……こちらを参照ください)

0927夜 『狂雲集』 一休宗純 − 松岡正剛の千夜千冊

ある所に老婆と若い娘が住んでいた。老婆は20年前から一人の僧の面倒を見ていた。三度の食事を与え、あまつさえ小さな庵を建てて住まわせてやった。ある日食事を運ばせた娘にその僧に抱きついて誘惑するように指令を出す。娘は言われたとおりに実行するが、その僧は、私はそのようなことをされても岩山に立つ枯れ木に雪がふるようなもので何も感じません、と言った。そのことを老婆のもとに戻って伝えると、老婆は烈火のごとく怒って「私はこのような俗物を20年間も養ってきたのか!」と嘆き、その僧を追い出して、庵に火を放ち焼いてしまったという。さて、老婆はなぜこんなにも怒ったのか? というのが公案のストーリーと問である。

禅の公案というのは、ありきたりな答えが出ない、言ってみればアポリアである。まあ、この話自体、そもそも老婆が僧を20年も養ってきたということは、僧の年齢は少なくとも30歳前後だろう。また、若い娘というのであれば二十歳前後と考えられる。つまり、僧を養い始めた頃は赤ん坊だったはずだ。そしてずっとその三人で暮らしてきたのであれば、僧にとっても家族同然であるというのが自然だ。そんな娘がしなだれかかってきても、何も感じませんな、と言うのは普通といえば普通なんじゃないか?……とか私なら考えてしまう。

竜崎は違う。きちんとある意味お手本のような答えを見出して、恋心の業火に焼かれるだけの地獄から脱するのである。それがどんな結論だったかはここには書かない。

 

ノット・スーパー・ヒーロー

4つの問とアポリアによる考察は、この作品についてはやる気がしない。いや、娯楽作品なんだからアポリアはないのではないかという人もいるかもしれないが、以前に引き合いに出した「深夜プラス1」のように、この「婆子焼庵」と竜崎が見出したその答えは、十分考察するに値するアポリアだと思う。人は誰しもこんな風に恋の悩み、男女関係のもつれ、愛欲の罠を解決することは出来ないと思う。そういう意味で竜崎真也はヒーローだ。しかし、だからといって、その解決に至る道筋は、決して人間離れしたものではない、共感の持てるものである。

補足だが、この次の巻は「隠蔽捜査3.5」という不思議な巻数である。まるでハリーポッターホグワーツ行きのプラットフォームみたいだが、実際にある意味時空を同じくしながら別のストーリーが語られるというパラレルワールド(?)のストーリーになっているようだ。続きを読むのが楽しみである。

 

 

 

(蛇足)ヒロイン像について

更に蛇足だが、今回出てきた女性キャリアの「畠山美奈子」は、北海道出身でアイヌの血が入っているという設定だ。しかし物語中にどのような容姿なのかは一切書かれていない。物語の冒頭にアイドルが一日署長をやるというエピソードがあって、その時に来たアイドルはAKBとか乃木坂とかにいる小柄で可愛らしい感じではなく、大変背が高かったとだけ描写されている。そう言われて、この本が出版された頃(2009年)でそのような大柄なアイドル(と言うか女性タレント)というと……誰になるのだろうか? 特定のモデルはないのかもしれないが、とにかく、このようなエピソードと人物背景のモンタージュから勝手に読者が自分の畠山美奈子像を作ることになると思う。しかし、アイヌ語が劇中に引用されていたおかげで、最近完結した「ゴールデンカムイ」を思い出してしまい、野田サトルの絵柄でイメージが浮かんでしまった。まあ、ゴールデンカムイのなかには普通に長身の美人と言うのは出て来ないが、きっと大陸系のロシア人の血が入ったような美人・・・というような想像をしながら読んだ。

 

 

毎夜、歴史を作る~ ついに家を手に入れた

f:id:tokiwa-heizo:20220829000352j:image

サヨナラは八月のララバイ

令和四年八月八日。八と八が重なる末広がりの縁起の良い日(もちろん大安だった)ついに念願のマイホームを手に入れた。アメリカではトランプ元大統領の自宅にFBIがガサ入れをした日だが、8月8日と言うのはニクソンが捕まった日でもあるようだ。まあ、私には全然関係ないが。これまでブログの中で3回にわたって「理想の暮らし」をイメージしてきたが、やはり現実というものの着地点は、自分の想像を超えた所にあるものだと思った。

アパートから新居に住み替えるためには、引っ越しをしなければならない。この歴史上でも最も暑い(かもしれない)夏の真っ盛りに引っ越しをしなければならなくなるとは、これまた思っていなかった。もちろん引っ越し業者に荷物運びはお願いした。自分たちは一ヶ月ぐらい前から地道に箱詰めを進めていった。そして予定通り前日までにすべての荷物の梱包をきれいに完了した。こんなことは初めてだったかもしれない。引越し業者によると、最近では7割の顧客が引越し当日に荷造りを完了していないそうである。臆病者のワタシには考えられないが、これも時流というやつだろう。

当日の暑さは最近の酷暑であり、引越し業者の方々には飲み物代なども適宜渡しつつ、作業を見守った。今回依頼した引越し業者は、すでに過去2回の引っ越しで利用してきた会社であり、その御蔭で料金を3割引にしていただけるということになったので、大変ありがたいと思っていた。しかし、一方で最近の労働環境や人手不足などから「作業の質」については若干の懸念はしていた。しかし、それは残念ながら当たってしまった。

 

端子が抜けないので電源線を切断します?

今回の引っ越しではアパートにあとから付けたエアコンも一緒に持ってかなければならなかった。そのため引っ越しのサービスの中にエアコンの取り外し・取付を依頼してあったのだが、見積もり段階では、引っ越しの前日に依頼を受けた専門業者が取り外しを行って、会社に持ち帰り熱交換器のクリーニングなどをメンテナンスを行った上で、引越しの翌日に取り付けに来るという話だった。そうなると、旧居と新居でそれぞれ一日はエアコンが使えないことになるが、この機会にメンテナンスまでやってくれるということで、そのサービスを申し込むことにした。

しかし、引っ越しの一週間ぐらい前になって、その依頼を受けた専門業者の会社からエアコンの取り外し及び取付は引っ越し当日に同時に行いますという連絡があった。あれ?この時点で「一日メンテナンスした上で」というのがどこかへ消えている?…… しかし、そのときは引越し準備でドタバタしていたので、まあ、ダウンタイムがなくてその方がいい部分もあるか……ぐらいでスルーしていた。

当日エアコンを取り外しに着た業者は、まず、作業開始時に求めるべきサインをこちらに要求せずに勝手に作業を始めていた。そして突然「このエアコン最後に使ったのいつですか?」と聞いてきたので、今朝まで使っていたと答えると、中に水が溜まっていてそれが出ると水浸しになるからごみ袋と雑布はないか?と聞いてきたのである。あれれ? 専門業者なんだし、そういう事態は想定済みで、そのための資材も持ってきているのでは?……と思ったが、なんとかごみ袋(小さいやつ)を探して渡すと、え、こんな小さいの?みたいな反応である。うーん、なんかおかしいぞ…… 

悪い予感しかしないと思っていると、今度はしばらくしてから、室外機から電源線の端子が抜けないので電源線を切断してもいいかと言ってきたのである。いや、切るのはまずいんじゃないの……? と思ったが重ねて言った言葉に耳を疑った。彼は「某P社の製品でよくあるんですよ」と言ったのである。いやいや、仮にも専門業者なら、どこのメーカーでも出来るようにしておくのが普通なんじゃないの? まして「某P社でよくある」とわかっているなら、その対処方法も事前に準備しておくのがプロじゃないのか? と思ったが、切らないと無理の一点張りである。その場は渋々同意するしかなかった。

そして今度は新居についてみると、さっき電源線をぶった切って無理やり作業を進めたのとは別の人間が待っており、こう言ったのである。電源線を切ってしまったので今日は取り付けできません。端子盤から端子が抜けないので端子盤を交換しますが、ちょうど今お盆休みなので、部品がいつ入るかわかりません。わかったら連絡します。と言って、帰っていったのである。その後一週間(お盆休みが明けるまで)全く連絡がなかった。お盆休みが開けたころに仕方なくこちらからその専門業者の会社に連絡してみると、応対に出た女性は、まだP社が休みなので納期がわかりません。値段もわかりませんとのことだった。ことここに至って、もはやこの業者に任せていてもメンテナンスはおろか、取付さえも怪しいということが明白になったため、仕方なく引越し業者を通じて、取付作業はキャンセルしたい、取付の料金は返金してもらいたいという旨を伝えることにした。幸いなことに、引越し業者のお客様相談窓口は、事情を話すと「できるだけ早く返金出来るようにします」という回答だった。

 

暗黒面を甘く見るな(呼吸音付き)

以上が、今回の引っ越しの暗黒面のあらましである。それ以外にも作業の終了が予定していた時間をかなり超過していたことや、家具や家の中に新たな傷が増えたこと、リビングのドアから冷蔵庫が入らなかったため、ドアを一時的にヒンジのネジを外して取ったことで、取り付け後に傾いてしまったことなどがあるが、このエアコン業者の暗黒面に比べたら正直些細な事に思える。

エアコンの取付・取り外しも資格がないとやってはいけない仕事だと思っていたのだが、後で調べてみたところ、特別資格はなくても行っても良いようである。それにしても、いくら資格がなくても出来る仕事であっても、後先考えずに電源線をぶった切って、その後の対応のお粗末さは、おそらく当日現場で対応した人間の問題ではなく、組織が持っている暗黒面が出たのだろうと思う。結局エアコンの取付工事に関しては、知り合いの方を通じて某P社のお店の方を紹介していただき、その方にお願いすることにした。その方に、今回の顛末をお話した所、このような答えが帰ってきた。曰く、最近は仕事をなめてる人(若者)が多い。見習い中にやめてしまう。まともに仕事を覚えようとしない。若者は楽することばかり考えている…… と、かなり手厳しい感じであった。

少子高齢化が進み、コロナのせいで外国人労働者も新たに入ってこない。これは現代社会の暗黒面でもあるだろう。加えて、ロシアのウクライナ侵攻による資源高、物価高も良いサービスをどんどん庶民から遠いものにしていると思う。たしかに、日本の場合は今までが安すぎたのかもしれない。質の高いサービスを安価に提供するためには、結局労働者の賃金が低く抑えられている必要がある。収入がなければ、子供に高度な教育を受けさせることも難しくなり、知識や技術を学ばずに社会に出る人間増え、仕事の質がますます低下するという悪循環になるだろう。

 

(セルフ)フォースを使え

というわけで、今回のことから得た教訓として実は一つ目標を立てた。それは「電気工事士」の免許を取ることである。人にやらせるのが心配だから自分で出来るようにしようということだが、それだけではなく、今回家を持ったことで、家庭内の電気工事ぐらい自分で出来るようになりたいと考えたのである。以前のアパートではトイレにウオシュレットがなかったので、ホームセンターで買ってきて自分で取り付けてみた。前回の引っ越しでも、自分で旧居で外して新居で取付もした。やはり自分でできるとそれだけで純粋に楽しいということがまず1つ。もう一つはちょっとこじつけかも知れないが、仕事でやっている家電を使うのは家であり、家の電気というのがどうなっているのかを知っておくことは、仕事にとってもプラスになるのではないか、と思ったのが2つ目だ。とりあえず来年の合格を目指して「第二種電気工事士」の勉強を始めようと思う。

 

 

 

 

想像力に責任を持つ?~ 「海辺のカフカ」再読 (3)完結編

f:id:tokiwa-heizo:20220815164853j:image

tokiwa-heizo.hatenablog.com

 

tokiwa-heizo.hatenablog.com

 

灼熱の季節

海辺のカフカとは全く関係ないが、ここのところ暑すぎる。暑さで全てが過負荷…… こう言えば関係ある? と無理やり言いたくなるぐらい暑い。言うまでもないが気温の話だ。関東周辺でも観測史上最高を更新しまくっているらしいが、本当に殺人的な暑さだ。8月になったばかりだというのに「酷暑」であり「超熱帯夜」がこうも続くと活動が鈍くなる。新聞やニュースでは電力不足と頻りにいっていたが、暑さに耐えきれずエアコンの設定温度をどんどん下げてしまう。

ここ二十年ぐらいかけて、子供の頃と比べて冬の寒さがそれほど辛く感じなくなってきたが、反対に夏の暑さが辛いと思うようになったのはここ数年だと思う。地球温暖化によって引き起こされた環境の変化が、我々にとって致命的な影響を及ぼすまであと僅かなんじゃないかという気がする。バランスがあと少し向こう側に傾けば、最初の頂点まで引き上げられたジェットコースターのように、反対側に下りだしたが最後徐々にスピードを上げて奈落の底までまっしぐら、だ。

 

よりみちのネタも尽きた

海辺のカフカ」も下巻になって引用されているものといえば、星野青年が聴くベートーベンの音楽「大公トリオ」と読む伝記「ベートーベンとその時代」という本、あるいはカフカくんが森の中の家で読んだナポレオンの戦争の本ぐらいだろう。哲学科のおねーさんが引用する哲学書の言葉は多分深い意味があって、この物語の重要な何かに関係するのかもしれないが、今回もスルーする。

先程の話ではないが、上巻で読者を一番高いところまで引き上げておいて、下巻では一気に物語のスピードをあげる……というほど急いでいる感はないが、下巻が始まってしばらくすると、佐伯さんが死に、そのあおりを食って(?)ナカタさんが死ぬ。

そこに至るまでに、前回読んで気が付かなかったが、今回読んで見て気が付いた点として、星野君がレンタカーを借りる場面でのでマツダ・ファミリアに関する記述が結構普通ではない、ということだ。その部分を引用してみるとこんな感じだ。

 

「あのですね、お客様」と相手は言った。「うちはマツダの車を扱うレンタカー会社です。こう言ってはなんですが、目立つセダンなんてひとつもありません。ご安心ください」

「よかった」

「ファミリアでよろしいでしょうか。信頼できる車ですし、目立たないことは神仏にかけて保証します」

海辺のカフカ」下巻P278 5行目から10行目

 

しかもそれらをマツダレンタカーの職員と思しき人に言わせている点が確信犯的でもある。もちろんこんな世界的なヒット作に取り上げられているのだから、マツダの関係者の方がこの下りを読んでいないはずはない。近年のマツダ車のデザインがとても「目立たない」とはいえなくなっているのは、この部分の描写に対する会社を挙げて反発から来ているのではないかと思ってしまいたくなる。

 

大公トリオ

星野青年は名曲喫茶のようなところで、ある曲を聞いてひどく気に入る。その曲はその後この話の中で何度も出てくるが、ベートーベンの「大公トリオ」という曲である。一回目に読んだときもどんな曲なのかが気になったので、iTunesでアルバムを入手して何度も聞いてみた。うーん、残念ながら私には星野青年のようになにか深い感動や気付きを得るというようなことは全然なかった。まるで今回の再読で読んだ「坑夫」に対する劇中のカフカくんの感想のようだ。

 

 

 

4つの視点

一応4つの視点のおさらいをしておく。

①    メカニズム(それはどのようなメカニズムで成り立っているのか?)

②    発達(それはどのような個体の発達過程を経て獲得されるのか?)

③    機能(それはどのような機能を持つのか?)

④    進化(それはどのような進化の過程をへたのか?)

平野啓一郎「小説の読み方」より

①に関して、この小説の面白さ、ストーリーがどのようなメカニズムで成り立っているのか? に関しては、ざっとストーリーを纏めて見る必要がある。いわゆる三行ストーリーで書くと

(1)少年が父にかけられた呪いを解くために旅に出る

(2)母や姉と出会い呪いによる災禍に巻き込まれていく

(3)味方や大いなる意思などの助けにより自らにかけられた呪いを浄化する

この三行を読んで自然に思い浮かんだのは「もののけ姫」だが、母や姉をエボシとサン、大いなる意思をシシ神やその他のヌシとみなせば……呪いは最後には解かれたわけじゃないけど、それを言えばカフカくんの呪いも解けたかどうかはわからない訳で、かなり近い話といっていいのではないだろうか? けれども、別に話型が近いものがわかったからと言って、その話が伝えたいことに近づけるわけではない。

②に関しては、この作品が書かれた時期は著作年表を参照していただくとわかるが、2002年の出版だからその前の数年間だろうという感じだ。しかし、それが著者の作家としてのどのような時期に当たるのかはちょっとコメントしようがないのでスキップさせて頂く。逆にその時代がどんな時期だったか? 今から二十年前といえば私も若かった……ではなくこの2002年の10大ニュースを見ても全然どんな時代だったかピンとこない。本当にコロナ前とあとでは時代の地続き感がない気がする。ただ、この二十年も時間が経っているについては次章に関係があるのでそちらで述べる。③④については全く手上げである。

 

海辺のカフカ」のアポリア(無理)

ここらへんで今回なぜ「海辺のカフカ」を再読しようと思ったか? について回答しておく。それはズバリ「まぼろし博覧会」に行ったからである。あそこで得た感覚がお話の中に出てくる海辺の絵やその曲のもたらす感覚にとても似ていると感じたからである。

 

 

tokiwa-heizo.hatenablog.com

 

 

まぼろし博覧会に行ったあとに書いたブログにも書いたが、あそこにあるものは殆どが一度別の場所で公開されたものである。別にそれだからいいとか悪いという話ではない。大事なのはあそこにあるほぼ全ての展示物は過去の記憶とセットであの場所に存在しているということだ。これは、文字や記憶が重要な意味をもっているこの「海辺のカフカ」という物語ともリンクする点だと思う。ナカタさんは字が読めない。また、カフカくんが行く森の中の町には文字がない。佐伯さんは自分の人生を文字に起こしておきながら全てを焼却するようナカタさんに依頼し、全ては燃やされる。

上巻にでてくる「想像力に責任を持てるか?」が、このお話のアポリアなんじゃないかと当てずっぽうで考えて、下巻まで読み終わってみたが、残念ながらそれ「だけ」がこの物語のアポリアではないようだ。

その上で、この命題「想像力に責任を持てるか?」について考えてみたい。物語の中でこの言葉が出てくるのは、性的な場面である。性的な妄想に対して責任を持つべきだと書いているようにも取れる。そこでやはり「まぼろし博覧会」に収容されている「秘宝館」の遺産を思い出した。あの人形たちはそれを製作した作家たちの想像力で生み出されている。しかし、一旦この世に出たことで、その秘宝館が閉鎖されてもこの世に存在することとなった。まさに実在する「森の中の町」のような場所にである。その辺が私の記憶の中から「海辺のカフカ」の物語を呼び覚ましたのかもしれない。ただ、ほんとに不思議なのは今回再読するまで最後にカフカ少年が森を抜けてどこへ行ったかを失念していたことだ。文字のない場所でありながら、その描写は文字のみでされているのに、である。やはり物語は文字で書かれていても、もっとその下の深い所に存在するものなのではないかと思った。この続きを書くのはこの本を三回目に読んだときにしたい。

 

 

 

夜明けまで考える日~ 「坑夫」を読んだ  「海辺のカフカ」再読(2)

f:id:tokiwa-heizo:20220710173547j:image

 

「坑夫」の概略

日本で最も長い在任期間を持つ元首相が暗殺された日に「坑夫」を読み終えた。別にその事自体になにか意味があるわけではない。小説としての「坑夫」は私にとって大変面白かった。話の筋は単純である。ある青年が銅の鉱山で五ヶ月間働いた。ただそれだけの経験を語るお話である。今で言えば『お仕事小説』というジャンルに入れてもいいのではないかと思う。

ただし、この話は漱石が全く一から創作したわけではなく、ある青年が自分の経験を買ってほしいといって持ち込んだ「企画」なのだそうだ。Wikipediaによると、漱石は最初「あなた自身が書けばいい」といって断ろうとしたが、本来島崎藤村が書くはずだった新聞小説が書けないということになり、急遽漱石にお鉢が回ってきたため、手っ取り早くこの「企画」を採用することで「坑夫」という作品が始まったようである。

ということはおそらくだが、この青年の経験の顛末は、いわば「往きて帰りし物語」という最低限の物語の構造は持っていたと思われる。従って漱石としてはそこにディティールを載せて、毎日新聞に一定の字数が載ることに対してそれなりの物語的緩急をつけつつ全九十六回の連載を引っ張ったのだと思われる。

 

 

 

 

 

 

カフカくんと大島さんの意見

私が買った岩波文庫版の解説を書いている紅野謙介さんも引用しているが、「海辺のカフカ」の中でカフカ少年が「坑夫」読んだ感想を大島さんに聞かれて、それを言う場面がある。大島さんに感想を聞かれたカフカ少年は

「なにか教訓を得たとか、そこで生き方が変わったとか、人生について深く考えたとか、社会のあり方について疑問を持ったとか、そういうことは特に書かれていない」

と答え、それに対して大島さんが

「(「坑夫」は不完全であるものの)不完全であるがゆえに人間の心を強く引き付ける- 少なくともある種の人間の心を強く引き付ける」

と答えるのである。

この「坑夫」は不完全ということに関しては、この小説の最後に漱石自身が「小説になっていないんでも分かる」と締めくくっているように、作者自身も不完全だと考えていると読める。読めるのだが、それこそ前回の平野啓一郎「小説の読み方」に出てくる四つの視点から、この最後の一文にこめられた意味を解釈をする必要があると思う。四つの視点をおさらいしておくと、

①    カニズム(それはどのようなメカニズムで成り立っているのか?)

②    発達(それはどのような個体の発達過程を経て獲得されるのか?)

③    機能(それはどのような機能を持つのか?)

④    進化(それはどのような進化の過程をへたのか?)

であるが、①と②に関しては、最初の段に書いた通り、漱石は青年の経験談というネタ元を脚色する形でこの物語を構築したというところまでは分かるが、どの部分が元ネタどおりでどの部分が漱石の創作なのか?はそのネタ元にあたってみないと正確なところはわからない。ただし、解説の紅野さんも書いているが、書き出しはリアルタイムのように松原を歩いても歩いてもなお松原が続く、というような今現在歩いているという描写で始まるのに対して、話の途中でこれは鉱山に五ヶ月間いて、その後に回想しているという話になっており、今だったら編集者に猛烈に直されるようなミス(?)があるが、本になった段階でもそこは直していない(その辺の事情も謎ではある。直したかったが死んでしまったのかもしれないし、そもそも直す気がなかったのかもしれない)ことから、これで良いとも受け取れるし、まさにその様に時制を間違えたことが「小説になっていない」と書いた理由かもしれない。

③に関しては、冒頭にも書いたが今では「お仕事小説」と呼ぶべきものであり、もっとリアル寄りに書かれたものなら「ノンフィクション」、「ルポルタージュ」ものと言うことになると思う。こちらを重視して書いたから「小説になってない」と書いているのかもしれない。文中にも出てくるが澄江さんという女性を描写する際に「新聞小説には出て来ない」と書いている。当時の新聞小説は巻末の解説によると、新聞はお茶の間に置かれるものであり、家庭の誰でもが読める内容、すなわち家族や恋愛に社会問題などを程よく混ぜたものが書かれたとある。ちょっと前に読んだ林真理子の「癒楽にて」とか最近連載されているものは、そういう制限はなくかなりキワドイ内容で、逆に新聞が子供には読まれていないことを痛切に感じるが、この当時は誰にでも馴染みのある家庭や都会の職場を舞台にするのが普通なところをあえてそういう舞台を全て外してアウトローな世界を舞台にしていることが「小説になってない」と書いた理由だろうか。

④に関しては、明治時代(!)に書かれた作品であり、日本文学盛衰史で学んだ文学の

進化過程によるところだと、口語文で書かれた今の小説の始祖に当たる作品群の一つといえるだろう。

 

小説になってない?

海辺のカフカの中で大島さんがいう「坑夫は不完全である」ということについては前段で見たようにそれぞれの面で不完全な部分があるため現代における小説という「フォーマット」には未達なところがあるという意味かもしれない。それとは別に私が今回この「坑夫」という作品を読んで面白いと思った部分を書いてみる。

まず、この話を通して主人公の「十九歳の青年」の考えていることは、これだけ時代を経ていながら大変リアルに感じられた。私の個人的な経験に照らしてみても奇しくも十九歳で実家を出るため夜行列車に乗って名古屋から博多まで向かった。事実その後は一度も実家には戻っていない。この小説の主人公は十九歳で二人の女性との関係に懊悩し、死にたくなって家を出たわけだが、その辺の事情は私とはずいぶん違うとしても、そうやって生まれてからずっといた馴染みのある世界から外に飛び出したときの感情というのはずいぶん似たものがあるなと感じた。「海辺のカフカ」のカフカ少年も十五歳で止むに止まれぬ事情で家を出ているので、この小説が引き合いに出されているのは合点がいく。

実際この小説内で流れる時間はせいぜい数日間である。その後鉱山で五ヶ月働いた後そこを去るが、その部分の描写は皆無である。したがって小説内を流れる時間の密度が濃い。ポン引きと出会って鉱山まで連れられていく間も時間は流れるし、汽車に乗って東京から足尾銅山まで行くのも結構な長旅だが、その間にどの様に景色を見て感じたかが書かれている。それらの描写が心細いながらも自暴自棄になっている青年が見る景色として大変真に迫って感じられる。何しろ知らない土地へ引っ張られていくので、会う人会う人が新しくそれを十九歳なりの感性で見定めていく描写が本当に面白い。ここらへんは絶対に漱石が小説として面白くしようとしていると感じられるため、最後の一文はなんとなく照れ隠しと言うか被虐的に言っているように感じる。

鉱山についてからの描写も凄い。南京米を食べ、南京虫に刺されたり鉱山での葬式を見たりする。そして翌日ついに鉱山の中へ入る際の文章は、読んでいるこっちが息苦しくなるような身体感覚に訴えかけてくる。そしてその穴の底で案内人に置き去りにされたときにもう本当にここで終わるのだと考えたときに「嬉しくなった」と感じる。そこからのこの主人公の怒涛の心理の変化が本当に面白い。

 

歴史は夜作られる

この世の仕事の中で坑夫は最下層の人間の仕事であるのは、何も過酷な環境であるだけでなく、この主人公が「獰猛」と表現する教養もモラルもない鉱山労働者たちがその職場を構成しているからだ。しかし、そこで主人公は「安さん」という自分と同じように元は東京で普通の知識階級で生きていた人が働いているのに出会う。地獄で仏に遭うような状況だが、その安さんにここにいちゃだめだ、東京へ帰れと言われてむしろそこで働こうと決心する。ところが健康診断を受けて「気管支炎」と診断され坑夫としては働けないということが判明する。そこで主人公はゲシュタルト崩壊をおこして、返って十九歳までの自分の一本道のストーリーが分解する。火の消えた囲炉裏端で朝まで考え続けるが、そこに浮かんでくる想念はすべて「干枯らびている」。

この小説のアポリアはじつは表紙のカバーに見返しにはっきり書いてある「本当の人間は妙に纏めにくいものだ」という一文だろう。その纏めにくさが「嬉しくなった」当たりから「干枯らびている」と感じるところまでの主人公の思考の変遷に表されている。

 

そろそろ海辺のカフカに戻る

この、穴の中に降りていくというエピソードは、村上春樹の作品にもよく出てくる。そのメタファーがどの様に創作の技法と結びついているかは「職業としての小説家」に詳しく書かれているのでそちらをお読みいただきたいが、巻末の解説によると夏目漱石自身が、この鉱山の坑道に潜っていくことを描写することが、創作のメタファーとして意識していたというようなことが書いてあるのは意外だった。

流刑地にて」と「坑夫」でがっつり寄り道をしたのでそろそろ本編「海辺のカフカ」に戻ろうと思う。と言ってもまたすぐ寄り道するネタが出てきそうな気はするが。

 

 

 

 

 

 

 

 

四つの視点と一つの命題~ 「小説の読み方」を読んだ

f:id:tokiwa-heizo:20220708003830j:image

 

海辺のカフカを再読しているが・・・

海辺のカフカ」再読中にカフカの「流刑地にて」を読んで、その後夏目漱石の「坑夫」を読むつもりなのだが、脱線ついでに本屋でたまたま見つけた平野啓一郎の「小説の読み方」を読んだ。その前作である「本の読み方」は、随分前に文庫版になる前のPHP新書の方で読んだと思う。その時は「スローリーディングのすすめ」というような副題がついていたと思うのだが、前回読んだ方も内容はほぼ忘れてしまっていたので、こちらもPHP文庫に再録されていたので「青と黄色の看板の店」にネット注文して再読してみた。

 

 

 

 

 

 

 

 

4つの視点

今回読んだ「小説の読み方」では最初に読んだ本を四つの視点から見ることを勧めていた。その四つとは

    カニズム(それはどのようなメカニズムで成り立っているのか?)

    発達(それはどのような個体の発達過程を経て獲得されるのか?)

    機能(それはどのような機能を持つのか?)

    進化(それはどのような進化の過程をへたのか?)

 

である。この視点はノーベル医学生理学賞受賞者のニコラス・ティンバーゲンが動物行動学の基本としてあげている「四つの質問」が出典らしい。私も自分の半生の中で少なくない時間を生物学に充ててきた人間なので、この四つの問題意識はそれぞれ非常に馴染み深いものだ。しかし、それを読書に活かすことができるとは全く思っていなかった。

しかし、この4つの分析的な視点で一つの小説を解析するためには、それこそゆっくりじっくり何度も読まないとできないと思う。今回「海辺のカフカ」を再読しているが、まさに一度読んだだけでは見えてこなかったことが多少は見えてきた気がする。とは言え、①から④についてきちんと答えるためには、その小説だけを読んでいてもだめで、例えば②のためには同じ作家の別の小説を読んで比較したり、③のためには同時代の別の作家の小説で同じようなテーマを追求している作品を読んだりしなければならないだろう。また④の進化的な側面からその作品の位置づけをしようと思えば、文学史の知識も必要だと思う。その意味ではこの本でも取り上げられている高橋源一郎の「日本文学盛衰史」を読んだのは大変勉強になった。森鷗外夏目漱石がこんな会話をすることはなかったと思うが、日本文学がどのように進化してきたのかを知る事ができた。

一つの命題

そしてさらに、文学作品であれば必ず持っている中心命題「アポリア」というものがあるとのことだった。アポリアとはギリシャ語で「途方に暮れた」という意味だそうだが、この本では一般的には「解決できない難問」のことだと書いてある。このアポリアがないと文学ではないというのが平野啓一郎の考えだが、なるほどエンタメ小説などではむしろ最後に問題が解決しないと読んだ方は騙され気分になるだろう。ミステリーで犯人が最後まで読んでも明かされなかったり、正義が悪を滅ぼさなかったりしたら(“つづく“がある場合は別として)読者は金返せ!という気分になるだろう。

しかし、エンタメ小説でも「アポリア」を持っているものはあるのではないだろうか?昔読んだギャビン・ライアルの「ミッドナイトプラスワン」という小説のあとがきで内藤陳が「プラスワン」とは何かという考察をしている文章を読んだが、まさにこの「プラスワン」は「アポリア」のことだったのではないだろうか?

 

 

 

 

 

夏目漱石の「坑夫」を読んでいる

今回読んだ「小説の読み方」によってこの「四つの質問と一つの視点」というツールを得た。それを携えた上で現在「坑夫」を読んでいる。すでに明治の言葉が我々にはわからないので、巻末の注をいちいち見ながら読み勧めている。まるで坑道を掘り進めるように文章を読んでいる。今丁度「坑夫」の「アポリア」を掘り当てた。次回はそれについて書く。

 

 

 

 

 

処刑機械をリアルに想像する~ 「流刑地にて」を読んだ 「海辺のカフカ」再読(1)

f:id:tokiwa-heizo:20220605144205j:image

 

海辺のカフカ」再読

村上春樹の「海辺のカフカ」を再読している。なぜ今「海辺のカフカ」なのか? は全部読み終わったときに書くことにしたい。再読と言っても二回目だが、一度は読んだはずなのに、全然覚えていないエピソードがたくさん出てくるのは自分でもどうなのかと思う。映画も一度見ただけでは気が付かない箇所が二回目、三回目と観ることで気がつくことがすくなからずある。小説でももちろん二度目の読書で何故か新発見し、それに新鮮な驚きがある事自体は珍しくない。だがしかし、村上春樹の小説に限って言えば、ほぼどの本にも言えるとおもうのだが、通り一遍読んだだけでは「あー、おもしろかった」で終わってしまうが、しばらく経ってから改めて読んでみると「こんな話だったっけ?」と首を傾げることが多い。気づかなかった箇所というレベルではなく、エピソードそのものがすっぽり抜け落ちていたり、記憶の中で違う話に置き換わっていたりするのである。

今回も読み返してみて、早速そのような箇所に遭遇した。上巻の最初の方にフランツ・カフカの「流刑地にて」という短編を主人公であるカフカ君が大島さんとその内容について話す場面がある。前回読んだときはスルーしてしまったが、今回はこの「流刑地にて」という短編がどんな話なのかを知ってから続きを読もうと思い、図書館で借りてきた。

このお話には、本好きにとっての理想のような場所である「甲村記念図書館」という私設の図書館が物語の舞台として出てくるが、私が今回読んだ「流刑地にて」を含む「カフカ短編集」を借りた「武蔵野プレイス」も本好きにはかなり理想に近い場所だと思う。先頭に写真を貼ったが、建物のデザインからして謎っぽい感じを醸し出しているのがわかると思う。中に入ると、いきなりカフェがあったりして本好きのパラダイス感があふれていると思う。

 

 

 

あらすじ(もちろんネタバレです)

この話には固有名詞は出て来ない。登場人物はすべて職業(「囚人」が職業かどうかはこの際おいておくが、シナリオ学校で「泥棒」も職業と習った気がする)あるいは役職で呼ばれる。主人公は「旅行家」だ。旅人と言ってもいいかもしれない。その旅行家が辺境の流刑地にやってくる。そこで現地の「将校」からその地にある奇妙な処刑機械の説明を受ける。場面としてはその処刑機械のある荒れ地の谷底のような場所一場面のみで物語は進行する。

その処刑機械は言葉だけで説明するには少々複雑な構造をしている。「製図屋」と呼ばれるコントローラー部分と「ベッド」と呼ばれる、囚人をそこにうつ伏せに固定しておく部分に分かれている。「製図屋」の中には精密な歯車やモーターで構成された機械で、その下側に「馬鍬(まぐわ)」と呼ばれる部分がついている。この馬鍬が説明するのが困難なのだが、この部分が囚人の体の表面に切り傷を刻んでいくことで文章を書くのである。

今であればコンピューターとセンサーで、サーボモータを動かして人体表面を切り刻む機械を作るのは簡単だろう。事実「DaVinci」のような外科手術支援ロボットも開発されている。そういう機械のスチームパンク・バージョンを想像すれば良いのだと思う。そういう意味では動力は蒸気機関である方がよりしっくり来る気がする。製図屋からぶら下がっている馬鍬が、XYZの三軸を持っていて、ベッドの側もヨーとピッチの二軸を持っているのだろう。五軸のNC工作機械と同じだ。短い文章を書き込むのに今だったらものの数十分で終わると思う。それだと拷問にはならないが、この小説に出てくる機械はなんと十二時間もかけてわずか数語の短文を刻み込むのである。実は肝心の判決文を一行書いたら終わりではない。耳なし芳一のように、背中の真ん中に書いた判決文の周り一面にびっしり細かい飾り文字で彫り込むようだ。腕や足にもその飾り文字が刻み込まれると書いてある。

この「処刑機械」の説明をできるだけ細かくしておくことが、実はこの短編には重要である。それを誰が作り、誰が維持しているかや、その機械がいかに精巧作られていて称賛に値するものであるかなどを「将校」から説明される。しかし、その機械の存在意義や機械が行うことに「旅行家」は同意できない。その立場の違いが鮮明になり、最後には平行線だということがわかると「将校」は「囚人」を放免して自分がその「ベッド」に横たわるのである。そして処刑機械を作動させる。しかし、長年の整備不良や部品不足等によってだましだまし動かしてきた機械は、動作中に本格的に壊れはじめ「製図屋」から歯車が飛び出す。結局将校は機械の間違った動作によって殺される。

 

 

 

カフカ君にとっての「処刑機械」

この短編のオチは一体どう解釈すればいいのか?このあと旅行家は、この処刑機械を一人で設計製造した元司令官の墓が街なかの喫茶店の奥に隠してあるということを聞いて、それを観に行く。そしてその街を離れるのである。再び「海辺のカフカ」のカフカ少年の話に戻ると

その複雑で目的の知れない処刑機械は、現実の僕のまわりに実際に存在したのだ。

(「海辺のカフカ」上巻 P119 13行目)

流石に私もこの奇妙な機械が実際に存在したといわれても、それはなにかの比喩として考えざるを得ない。 ・・・いや、それが間違いで、本当に存在する?彼に何がしかの烙印を体に刻み込んで、挙げ句死に至らしめるような機械が?それは一体何のことなのか? 何某かの烙印は、物語の中で父がカフカくんに言ったとされる予言のことだろうか? その予言を機械のように彼に刻み込んでいくのは周りの人間? 環境? いずれにしてもそれは主体的な意図を持たない=機械的にそれを行うものということなのだろう。機械そのものが存在しなくても、結果として皮膚を切り刻むことによって描かれる烙印さえも存在しなくても、それが実際に自分に起こっていると思うならそれは現実ということなのだろう。

 

流刑地にて」、私の好きな話です

カフカくんと話している大島さんは「流刑地にて」について「僕の好きな話だ。」という。それは大島さんもその複雑な立ち位置から「機械に烙印を押される」という経験をしてきていて、カフカくんが感じているものと近いものをこの話から感じ取っているからかもしれない。

余談だが、この「僕の好きな話だ」というセリフを読んで、先日観た「シン・ウルトラマン」に出てくるメフィラス星人の格言好きを思い出してしまった。

更に余談だが、この「カフカ短編集」の「流刑地にて」のあとに掲載されている話は「父の気がかり」というのだが、そのなかに「オドラデク」という単語を発見して驚愕した。「DEATH STRANDING」の中に出てくる幽霊を探知するセンサーの名前がそれだったのだが、その元ネタはこれだったのか! と解ったという話である。(オチはない)

では、「海辺のカフカ」の続きを読みます。(つづく)