常盤平蔵のつぶやき

五つのWと一つのH、Web logの原点を探る。

「お砂糖とスパイスと爆発的な何か」を読んだ

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フェミニスト批評入門
この本の副題は「不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門」である。昔からフェミニストとかフェミニズムと言う言葉が今ひとつ頭に馴染まないと感じている。かといってさらにその言葉の意味を辞書で詳しく調べても、そこに書いてある概念がやっぱりすんなりと頭に入ってこないのはなぜなのか?その謎が少しでも解けないかと思いこの本を読んでみた。読んでみてわかったのだが「フェミニスト批評」というのはフェミニストを批評するのではなく、フェミニストの視点から批評するということだった。

 

お砂糖とスパイスと爆発的な何か?不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門

お砂糖とスパイスと爆発的な何か?不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門

 

 


この本の著者の専門は英文学、なかでもシェークスピアで、その作品をフェミニストの視点から批評することである。その傍ら、年間に映画と演劇をそれぞれ百本ずつ見る上に本を年間260冊も読むそうである。大学で研究して学生に講義しながら、それらの批評をブログにアップしている。ご本人も書かれているがいくら何でも多すぎる、なぜこんなことが続けられるのかと。その理由は「楽しいから」と書いてあるのだがなぜ楽しく批評し続けられるのかというとフェミニスト批評をするからだそうである。批評とはどうやってするのかについてはまえがきに詳しく書いてあるのでそこを読んでいただくのが早いが、これが私にとって本当に為になった。私もこのブログで本や映画、ドラマなどを紹介するような文章を書いてきたが、自分が書いたものが「批評」であるとはとても言えない。しかし、ここに書かれている内容を会得して少しでも「批評」出来るようになりたいと思った。

 

※この本の内容は以下のサイトで読めるものも多いです。

https://wezz-y.com/archives/authors/kitamurasae

※実ははてなでブログもやってたんですね。

https://saebou.hatenablog.com/

 

フェミニスト批評とは
前述のように批評のやり方はこの本の冒頭に書いてあるのだが、その方法のひとつとしてフェミニスト批評というのがある。で、肝心のそのフェミニスト批評だが、まずフェミニストとはなにかというと「今の世界はデフォルトで女性差別が組み込まれているということを主張する人」と言うのがこの本を読んだ段階での私の理解である。つまりフェミニスト批評というのは作品の中に女性差別が入り込んでいるかどうかを見つけ出すことだと理解した。

 

〇「ベイビー・ドライバー」をフェミニスト批評する
去年話題になったときに結局観なかった「ベイビー・ドライバー」という映画をつい最近有線放送の録画で観ることができた。とりあえず観た感想としては面白かった。今までのブログだったらどの辺が面白かったとか、書く所だが、正直それだと独立したブログとして書くほどのこともないと思った。しかし、フェミニスト批評だと、いろいろと面白いだけでない点があると思った。

 

あらすじは公式サイトで

 https://bd-dvd.sonypictures.jp/babydriver/

 

〇登場人物の中の女性キャラクター
・デボラ
ヒロインであるデボラはちょっと笑顔が(いい意味で)アホっぽいブロンド美人で、ダイナーのウエイトレスだ。このキャラクターはかなりステレオタイプな感じで、主人公が王子様として迎えに来るというプリンセス的な立ち位置にいると思う。恐らくフェミニスト的にはオールドファッションでつまらない、男性支配の視点からのヒロイン像ということになるだろう。それの笑顔がアホっぽくて可愛く見えると言う私自身のなかに女性差別があるということになるのだろうか。関係ないが、この女優の名前「リリー・ジェームズ」というのだが、ハリー・ポッターの両親「リリー・ポッター」と「ジェームズ・ポッター」を足して二で割った?様な名前だと思った。

・ダーリング
バディと組んでいるダーリングはラテン系の顔立ちで、劇中で仕事以外の時間はバディとずーっといちゃついている。しかし、いざ仕事(銀行強盗とか銃の密売人と交渉するとか)になると自ら銃をぶっ放して活躍する。女性差別からはほど遠く、解放された女性と言える……のだろうか。そうならざるを得なかった背景にはきっと普通の社会で抑圧されて来たからこそ、アウトローの世界に解放を求めているとすれば、やはり女性差別の被害者と言うことになるだろう。劇中で、ダーリングをいやらしい目で見た男をバディが殺したという会話が出てくるが、それも、男に頼っていると言う意味では、自分の力で自由に生きているわけではないということだろう。そもそもアウトローの世界こそ男性中心(暴力中心)なのだから当たり前という気もする。

・主人公の母親
既に故人となっているので主人公の中でしか出てこないが、どうも歌手だったようだ。主人公が子供の頃に、自動車の助手席で運転席の父親?と口論している最中に交通事故を起こして亡くなったようだ。主人公のカセットテープの中に「MOM」という一本がありその中に母親の歌声が入っているのである。死んでいて声だけが残っていると言うのが象徴的だが、どうも主人公にとっての理想的な女性のようで、そういう意味では主人公はマザコンなのかもしれない。マザコンフェミニストがどうつながるのかは今ひとつわからないが、恐らく女性に母親的な役割を求めることも、一定の役割を押しつけるという意味でフェミニスト的には差別なのかも知れない。

〇自動車の運転=男性優位の象徴?
RCサクセションの「雨上がりの夜空に」という歌があるが、この歌の歌詞で暗示されているのは車の運転=セックスである。この映画の主人公ベイビーは運転が上手い=セックスが上手いと言うことを暗示しているのだろうか?片岡義男の短編小説で、女性が運転するでかいアメ車のオープンカーが、上手く駐車場から出せずに困っている所に、ソフトクリームを食べながら男性が通りかかる。そして、女性の代わりに巧みなドライビングで車を運転し、リバースのまま駐車場出口まで車を運転してやるという話があったが、この小説もそういう観点で見ると、まさに「そういう話」なのかもしれない。
そういえば、この映画のラスト近くで、主人公はデボラの運転で逃げるのだが、国境(州境?)付近の橋で非常線がはられていて、追い詰められたとき、主人公は車から降りてなおかつその時車の鍵を端から投げ捨てる。つまりデボラから車を運転することを取り上げるのである。車を運転するというのは男の仕事だという事を意味しているのだろうか。ベイビーが刑務所に5年服役して出てきたときは、デボラが迎えに来ているのだが、もちろん運転席はベイビーに明け渡している。セックスを主催するのは男性であると言うことを暗示してるのだろう。

 

〇個人的に気になった点
ケヴィン・スペイシー扮するドクが、逃げようとするベイビーとデボラのために自らを犠牲にして追っ手と撃ち合って死ぬ(?)辺りがどうにも違和感があった。これまでケヴィン・スペイシーのやってきた役(ラスベガスをぶっ潰せの教授役など)がイメージとしてあるため、どうしてもそういう行動を取るキャラクターに見えないためである。恐らくこの違和感はフェミニストとは何の関係もない、と思う。