常盤平蔵のつぶやき

五つのWと一つのH、Web logの原点を探る。

ピノッキオの冒険(オリジナル)を読んで考えたこと

先日、故有って「ピノッキオの冒険」を読んだ。ディズニーの映画で改変されたものではなく、100年ぐらい前に書かれた方の完訳本を探したのだが、例によってアマゾンKindleで探したらなんと200円だったの早速買って読んでみた。

 

ピノッキオの冒険 (望林堂完訳文庫)

ピノッキオの冒険 (望林堂完訳文庫)

 

 なぜ今読もうと思ったのかというと、いろいろ複雑な思考の道筋があったのだが、それについては今回は触れない。結論から言うと「鯨に呑まれたピノッキオはどうやって外へ出たのか?」と言うことが気になったからだったのだが、そもそもピノッキオが飲み込まれたのは鯨ではなく本文によると「高さが5階建ての建物のような大きさで長さは2マイル」のサメだった。

子供の頃に読んだ話は大人になってから読むと、実は記憶と全然違っていたという事が沢山ある。この話は特にオリジナルから少し離れたディズニー版とかが世の中に出回っているので、途中から出てくる女神の不思議な役回りとか、最初に出てきた所で死んでしまうコオロギとか、大人視点で見るとかなり興味深い点が多い。

最近は、マレフィセントとか、スノーホワイトヘンゼルとグレーテルなんかがリメイクされている上に、内容が別の視点からおとぎ話を見ている物があるが、ピノッキオにもそういう映画、このオリジナルに忠実に作られた映画がある。中身は見てないので触れないが、物語のテーマに普遍性があれば時代とともにリメイクされる意味もあると思う。

でも、である。この話本当になにを言いたいのかよくわからない。赤塚不二夫の漫画みたいだ。ナンセンスと言われる赤塚不二夫の漫画のようにストーリーの外側にあるメタメッセージのようなものがテーマなのだと思う。