常盤平蔵のつぶやき

五つのWと一つのH、Web logの原点を探る。

美女と野獣はおなじもの〜「椿姫」を読んだ

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野生の熊たちとその死

先日NHKスペシャルで知床半島の熊の特集があった。NHK ONEでも見ることができるので興味のあ方はぜひご覧になるとよろしいかと思う。www.nhk.jpこの番組を何となく見ていて、最近人間の生活圏に熊が侵入してきて、ケガをさせたり人間を殺したりする話題がニュースでもたくさん取り上げられていたので、正直熊は駆除されるべきと思っていた。確か昨年だったと思うが、知床で山登りしていた男性が熊に襲われて死んだ事件も記憶にあり、もはや東京でも西の方では熊が出るご時世なので、知床でも同じような状況なのかと思ったのだが、少し違った。夏場は一番食料が乏しく、仕方なく海岸沿いをうろついて、イルカやトドなどの死骸が打ち上げられているのに出会えればラッキーというような状況らしい。その夏を何とか乗り切れば、川には大量のサケが上ってくる……はずなのだが、実は地球温暖化の影響で川の水温が上がりぱったりサケが遡上しなくなったらしいのである。生物はもともとDNAにプログラムされた行動から外れることが難しく、水温や気温、その他の環境要因の変化に大変弱い。そのせいで秋になっても熊の口にサケがはいらない。そうなると人間の生活圏にまで餌を探しに来ないわけにいかず、それによって研究者が10年前から、まだ子熊の時からウオッチし続けてきたハッチという熊がその子熊とともに駆除されたというエピソードは大変胸が痛かった。知床の雄大な自然をバックに空撮で映し出される熊は、町中の防犯カメラで人に襲い掛かってる姿とは全然違う野生動物がもつある種のどうしようもなさというか、ありのままの姿をさらけ出してしまっているように感じた。番組後半、海岸に白骨化した若い雌の熊の遺体が映し出される。この骨の白さをみた時、しばらく前に読んだ本の主人公、椿姫ことマルグリット・ゴーティエの名前が頭に浮かんだ。

 

恋愛小説の古典

この本を読むきっかけは津村記久子さんの「やりなおし世界文学」で取り上げられていたからである。恐らくそこで取り上げらていなかったら、死ぬまで読まなかったと思う。もしそうなっていたら大変もったいないことになっていたので、ここで出会えたことに深く感謝したいと思う。この本で津村さんは、小さいころにレコードセットでそのタイトルをみて「お姫様の話かな」ぐらいに思ってそのままスルーしたというようなことが書いてあったが、正直なところ私はこのタイトルを一度も見たことがない。あるとすればオペラの広告か、演劇の広告で見たのだと思う。当然ながら内容については全く知らなかった。津村さんもそこは同じようで、まさにやり直してみて、作中で椿姫と呼ばれている女性が実は高級娼婦であったことを知って驚いていた。また、この本の作者はデュマ・フェスという人なのだが、デュマといえばアレクサンドル・デュマの名前が浮かぶ……と言いながら実は「三銃士」も読んだことがないのだが、フェスはアレクサンドルの息子なのだ。正確に言えば私生児であったらしい。二世作家という言葉があるかどうかは知らないが、小説家である以上著作で評価されるわけで、二世タレントのように親の七光りだけでは後世まで残る作品はかけないと思うので、才能もあったのだろう。というか、読んでみて、そういう上流階級で生きていくことの大変さのようなものを訴えたいという部分がコアなんじゃないかと思った。その意味で、この時代の貴族の風俗というか生活に対する知識がないと理解が難しい話か?というとそうでもない。恋愛小説の古典という評価は間違っていないと思う。なぜそう思ったかというと、恐らく歳をとったからわかったのだと思うが、登場人物の行動や気持ちの動きが腑に落ちたからである。自分も少ないながら、そういうことを経験してきており、その記憶が物語の信憑性を裏づけてくれるようになったのである。なんにせよ長生きはするものだと思う。

 

物語の中で人が死ぬということ

津村さんは、この話は冒頭で(すでに)死んだ椿姫の遺品が競売にかけられているところから始まると書いており、お金の話から始まることはこの話にとって象徴的で、高級娼婦という「職業」がどのような経済によって成り立っているかについて徹頭徹尾明快に描いているからであると書いていた。私もそれには全く同感で、この経済的な裏付けというか、現在と同じで、何をするにも金がかかるという現実が最終的には椿姫を殺すと言ってもいいのではないかと思う。読んでない人には何を言ってるかわからないと思うが、実際の椿姫の死因は病気(結核?)である。私が、この本を読んで一番衝撃を受けたシーンが以下に述べる部分なのだが、その死んだ椿姫は当然埋葬されて棺桶に入って墓に埋められている。そのあとで、死んだという知らせを受けた元恋人のアルマンは、その死に顔を一目見たさに、墓を移設するという名目で、警察官立ち会いのもと、棺桶を掘り出してその蓋を開け、死後どのぐらい経っていたかわからないが、その死に顔を見るのである。このシーン、作者として一緒に立ち会っているという書き方で、淡々と描写されているのがまたリアルですごい。棺桶の蓋を止めている釘を抜いて、蓋を取り外したときに、周囲に漂う臭いについての描写など鳥肌ものである。
この本は、前回取り上げた「サンキュー、チャック」のように凝った構成になっており、本の冒頭で椿姫は既に死んでいる。作者はその元恋人と出会って、馴れ初めから死別までを再体験するような形で語られていき、最後はまた椿姫が死ぬところで終わる。死んで墓の中で腐っているところを見せてから、生き生きとして恋に落ちる姿を見せるという、スティーブン・キングとはまた違った意味での登場人物の殺し方である。

知床の浜辺で目を閉じた熊は

この本の中で、マルグリットを死へと向かわせるのは、アルマンの父である。この父の人物造詣がとても恐ろしい。マルグリットの人柄や息子アルマンへの愛が誠実であることは認めながらも、世間からみたら、娼婦を嫁にもらった家がどうみられるか、息子が将来的にどうなるかということを論理的に説明し、息子を愛するからこそ身を引いてほしいと「お願いする」のである。我々が、映像の画面越しや、動物園の檻越しに見ている熊は可愛かったり、興味深かったり、美しかったりするが、日々の生活の中で路上で出会うことや、まして自分の家に来られたら困る、今すぐ駆除してほしいと思う論理と全く同じなのではないか。熊とはまごうことなき野獣である。どんなに鍛えた人間も熊の前では同じコンディションで戦ったら絶対に勝てない。だから人間は文明を武器に野獣を我々の生活圏から追い出し、自らの縄張りに入ってきたらそれを全力で駆除する。美女というものも、天から授かった美貌の肉体を持ち、それを見た普通の男はその魅力に逆らうことができないという意味で無力である。「美女と野獣」とは対極にあるもののように見えて実は同じものなんじゃないかと思った。