常盤平蔵のつぶやき

五つのWと一つのH、Web logの原点を探る。

杖道昇段審査について

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2018年3月18日に新宿スポーツセンターで東京都剣道連盟主催の杖道5段以下昇段審査会があった。杖道の昇段審査は一年に2回、春と秋にあるのだが、技能の習熟以前に、前の昇段審査を受けて合格してからの時間が次の昇段審査を受けるための条件となっているため、一定の期間を過ぎなければ昇段審査を受けることが出来ない。今回私は3段から4段になる審査を受けたのだが、それは3段になったのが丁度3年前の3月だったことを意味する。
結果は合格であった。無事に4段になれたのである。今回は正直無事に合格できて本当にほっとしている。その理由を以下に述べたいと思う。

##前回の審査
思い返せば三年前に3段の昇段審査を綾瀬の東京武道館第二武道場で受けたときは、全く落ちるとは思っていなかった。しかし、その頃4段をこれから受けるという先輩と直前に話したとき「(緊張で)ゲロ吐きそう」と言っていたのが印象的だった。私の目から見て十分過ぎるほど技が出来ていると思っていた先輩の発言だっただけに、内心かなりショックではあった。結果その先輩は見事合格したので、やはりあのレベルであれば合格するのだなと胸をなで下ろした記憶がある。

##自分でも納得できない日々
しかし、振り返って今回の審査の前の数ヶ月は、自分でもなんとなく納得できない日々が続き、稽古にもあまり身が入らなかった。本来4段審査の前には道着の袴を、入門したときから使っているテトロンの袴から木綿の袴に替えると言われていた。理由は、本来は袴は木綿であり、4段からは指導者の一部となると言う意味からも正式な装いをする必要があるからである。それも迷っている内に購入をお願いする時期を逸してしまい結局テトロンの袴のままで当日を迎えた。さらに、審査の2週間前には9本目の「雷打(らいうち)」という形をやっている最中に、相手の太刀先が杖尾を握った手の小指の先端に当たり爪が死んで真っ黒になった。当ててしまった相手にもかなり気まずい思いをさせてしまっただろうと思う。

##「もやもや感」の正体
そもそも「自分でも納得できない日々」とは何に納得できなかったのか。まず、審査を受けると言うこと自体にも納得できていなかった。それは前回の3段を受かったときに、単純に2段から一段上がったという喜びはあったが、自分の中で質的に何かが変容したとか、技の切れがグンと良くなったと言うことはなかった事が影響していると思う。
自分の問題であるとは思うが、正直3段になっても何も変わらなかったのである。稽古をしている最中にいろいろと細かい点で注意されることは沢山あるのだが、それが出来るようになっても、それは正しく型どおりの動作が出来るだけで、試合や審査では問題になる部分ではあるとわかっているが、では本来の技、武術としての質的な隔たりのある差なのだろうか?という「もやもや感」がその正体だったのだろう。

##質的な変化
ところが今回の4段への昇段は違った。その理由は「3段までとは質的に異なる領域に入ったと言う実感が持てた」からである。それには「もやもや感」として持ち続けてきたものが一つの形を結ぶことが出来たからである。それは「気合い」だ。

杖道は技をかけるとき「エイッ」あるいは「ホー」という打ち込むのと同時に出すかけ声がある。剣道でも面を打つときは「メン」、小手を打つときは「コテ」などと打つ場所を同時に呼称するという決まりがある。(関係ないが仮面ライダーなどの特撮ドラマで、技を繰り出すときにその技の名前を叫ぶが、これは視聴者にその技の名前を覚えて貰うためにあえてやっているのかと思っていたが、元々剣道でもやられていたことなんだなと思った。)杖道では円の軌道で出す技の時は「エイ」、直線的な軌道出だす技は「ホー」とそれぞれ叫ぶことになっている。(最近は体当たりも「エイ」になり、「ホー」が減ってきているが・・・)
私はこの「気合い」が何回も出していると、出なくなることがあり、声が裏返ってしまうと言う悩みを抱えていた。それを改善するため、先生からもいろいろとアドバイスを貰ってこれまでやってきたが今ひとつ完全にはなおらなかった。3段の審査の時は審査の時やる5本だけなのでなんとか喉が保ったが、昨年の大会などで、2、3回戦を勝ち進むと、最後の方は声が裏返ってしまうと言うことが起こっていた。やはり声が裏返ると自分でも気が抜けるというか、集中力が切れてしまい技全体がダメになるという問題があり、実は深刻な悩みだったのである。

##気合いの出し方
それが昨年秋に先生からの指導で「エ」と「イ」でこれまでと違う口の形、声の出し方をするようになり(詳細な内容はここでは説明できないので省略する)、気合いを出すことで体の中に不思議と力がみなぎる感じを味わうことが出来たのである。これが先生が意図した事かどうかはわからないが、自分なりに身体感覚として正しいと思えたので、少しずつ努力してきた。
最初のうちは、おそらくいままで使っていなかったインナーマッスルを使って声を出しているので、1時間ぐらい出しているとその発声方法が続けられなくなり、従来の声の出し方になって、やはり喉がかすれ声が裏返ってしまうという事が起きていた。これはやはりそのインナーマッスルを鍛えて行くしか無いと思って、稽古中とにかくその声の出し方だけに気をつけて続けてきたつもりである。それにより、昇段審査の前には2時間の稽古時間中その発声方法で「気合い」をかけても声が続くようになったのである。

##新しい世界
自分なりに納得できる「気合い」が出せるようになったことで、それぞれの技で手足、杖、太刀の角度や位置を細かく注意されることも、自分の動作に組み込んでいくことがスムーズに出来るようになったと感じた。私がそう感じているだけで、周りから見ている指導者の方々からはちっとも出来ていないではないかと思われているかも知れないが、それは今後も追求を続ける課題である。しかし、今後も杖道を続けていく上で最も大事な軸となる「気合い」と「身体」が一致している(様に感じられる)ことは一つの新しい領域に入ることが出来たのではないかと考えている。今後も精進を続けていきたい。

 

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映画二本立て「グレイテスト・ショーマン」と「 スリー・ビルボード」を観た

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3/4日曜日は映画を二本見た。吉祥寺オデオンで「スリー・ビルボード」を見るためにそのための時間調整として吉祥寺プラザで「グレイテスト・ショーマン」を観た。

なんとも贅沢な時間調整だが、考えてみれば私の小さい頃は、映画館は系列があり、そのロードショーは新作を二本立てだった。今みたいに完全入れ替えでは無かったので、同じ映画を1日に二回連続で見ることもできた。ただし、その間に挟まってるおめあてでない映画を観ないといけないのだが。

 

そんなわけでSF映画ラブロマンスが二本立てだったりしたので、仕方なく観た映画というのもある。意外にそういうのが記憶に残っているものだ。吉川晃司の「ユー・ガッタ・チャンス」は「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」と同時上映だったので、当時アニメファンだった私は、どうしてももう一回観たくて、吉川晃司がゴジラの様に東京湾を泳いで上陸する場面を見たのだが監督も大森一樹でなかなか爽やかな青春映画だったと思う。

 

You gotta chance吉川晃司・シナリオ写真集

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しかし、今回の2本立てはとりあえず、見たくなくてたまたま見たというわけではなく、一応選んで見に行ったものだ。とは言うものの「グレイテスト・ショーマン」は全然期待していなかったのだが、歌や台詞がとにかく心に響くのだった。やはり作り手が映画のクリエイターとしての悩みと重ねている部分があるのだろう。その部分がこちらにもビシビシと感じられて、涙腺が緩みっぱなしだった。お陰で目に入った花粉も全て洗い流すことができた。

 

 

グレイテスト・ショーマン(サウンドトラック)

グレイテスト・ショーマン(サウンドトラック)

 

 

グレイテスト・ショーマン
実在の人物であるP.T.バーナムをモチーフに、夢を諦めない男の生き様を描いたミュージカル。今風の音楽とキレのあるダンスで、最初から最後まで緩むことなく見せるのはすごいと思う。出てくるサーカス団員も奇妙だが美しく描かれていた。別に歴史修正主義なわけじゃないと思うが、これが史実だと思う子供がいたら問題だとは思う。
シナリオを勉強する人間としては、その構成やメッセージの出し方なんかがすごく参考になった。キャラクターの作り方もそれぞれが王道な造形で、お手本のようだった。

 

スリー・ビルボード
そしてこちらである。昨夜主演女優がアカデミー主演女優賞をとったことからもわかると思うが、主役の女優が素晴らしい演技だった。炭火の様にじわじわと彼女の感情が伝わるのだ。ほとんど表情は変わらないのにである。女優自身が監督に次の映画で役をくれと逆オファーしたぐらいだから、元から気合充分なのは当然としても、並々ならぬ熱量を感じた。

 

※ここからネタバレになります。

 

主人公 復讐→愛
映画が始まる直前に自分の眼の前の席に女が来て座ったので、またしても、画面の端に半円形の欠けができてイラっとしたのだが、朽ちかけた三枚の看板を見るうちにそんな事も全く気にならないぐらいに引き込まれた。画面に現れた主演女優がただならぬ雰囲気を醸し出しているのだ。それもそのはず、また毎度おなじみ町山智浩さんの解説で、この役のテーマソングはコレですというところがあるのだが、そのイメージは西部劇の音楽なのである。

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この三枚のビルボードは、続・荒野の用心棒でジャンゴが引きずってくる棺桶と象徴しているものは同じだろう。そしてチェーホフの言う通り、舞台にライフル銃があれば、それは発砲されなければならないのだ。事実そこに名前を書かれたウィルビー署長は自殺してしまう。主人公は孤軍奮闘しているかに見えて、見知らぬメキシコ人にて助けられたり、ビルボードを貼り付ける仕事をした黒人に助けられたりと、快進撃を続ける。途中友人が窮地に立たされたりといくつかの山谷を超えて、警察署側の人間と直接ではないが、対決を果たしその結果二人の運命は思わぬ方向へと進み出す。

 

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ウィルビー署長→死亡
主人公に直接対決を挑まれるこの警察署長は末期ガンに侵されており、余命いくばくもない。最初はそれを盾に主人公と交渉しようとするが、逆に主人公の強い意志を知ることになる。
普通こう言う話だと、警察署長が悪徳の人で、それを倒す事を目的に話が加速して行くものだが、この映画では実際は物凄くいい人なのである。「田舎の善人」なのだ。

 

「田舎の善人」とは、この映画の中で、最初の方に出てくる広告会社の人が読んでいる本、フラナリーオコナーの短編のタイトルである。町山智浩さんの指摘で、早速図書館で借りてきて読んだのだが、実はウィルビーという名前は、この本のその話の中に出てくる地名だった。
彼の奥さん役は、どこかで見たことがあると思ってパンフレットを見ると、リメイクされたロボコップでも奥さん役をやっていた人だった。ロボコップでは、オリジナルでは奥さんは全く出てこない。しかし、リメイクでは重要な役として出てくる。自分の夫を生き返らせるためにロボコップになることを承諾するという決断を迫られる。
その姿は、夢にも見そうなほどにエロスに溢れており(感想には個人差があります)、彼が肉体を失った悲しみをより引き立たせる役割があったと思う。今回の役も、幸せの絶頂で自ら死を選んだ署長に残された未亡人としての対比を最大限にするために、その容姿は使われていた。

 

ディクスン警部→ただのディクスン
最終的に警察を解雇されてしまうのだが、彼は一貫して署長サイドの人間だ。その理由は彼が署長の事を心から尊敬していたからである。その尊敬は実は報われない恋の側面も持っている。実は彼はゲイだったのだ。それが彼が劇中でヘッドホンできいているアバのチキチータから読み取れるらしいのだが、私にはわからなかった。しかし、署長の遺書で「ゲイと言われたら性差別主義者と言ってやれ」とかはっきり書いてある。そのことの一番の理解者は署長だったのだ。


その署長が死んだ事で彼の怒りは頂点に達した。主人公サイドの人間に理不尽な暴力を振るった事で、さらなる主人公からの報復を受ける。しかし、その際に署長からの手紙を読んで彼は愛に目覚めるのだ。この場合の愛はエロスではなくアガペーの方である。
その結果があのラストシーンへとつながるのだろう。主人公も、怒りと暴力応酬では何も救えないという事を、別れた夫の新しい恋人の言葉によって気付く。そして二人で愛を行うために、未だ見ぬ悪を退治しにいくのである。世界を救うヒーローコンビの誕生だ。
アメリカがこれまで世界の警察官として、他国の争いに介入し続けてきたことの理由は、こういう動機にあったと教えてくれた気がした。そういう意味では、この映画もアンチトランプのメッセージを持っている。

 

善人はなかなかいない
フラナリーオコナーの短編集に善人はなかなかいないというのがあって、その話がこの映画のモチーフとなっていると、パンフレットの町山智浩さんが書いている。
前述の短編集にも載っている話で、早速読んで見たのだが、この中では、最後に登場人物を皆殺しにするはみ出しものという悪人が出てくる。皆殺しの場面で最後の一人になっ老婦人とこのはみ出しものが行うやりとりが、この話の焦点なのだ。
このはみ出しものが、オリジナル版のロボコップに出てくるクラレンスという悪人を思わせる。暴力と恩寵というテーマは、おそらくポールバーホーベン監督の映画にも通じるものがある。

 


フラナリーオコナーは、暴力は一種の恩寵であると考えていたらしい。恩寵という概念には馴染みがないので、それについて詳しく語るのは難しい。キリスト教における神の恵み、愛というところか。
先ほどの短編のラストのはみ出しものと老婦人のやりとりは、殺される直前、その恩寵というものを理解した老婦人とそれを与えられた犯罪者、もしくはそうなるきっかけを与えたのは命を奪うという行為を与えた犯罪者の側、の両側面があるだろう。そういうもののの応酬がこの映画の中にあったと思う。

 

フラナリー・オコナー全短篇〈上〉 (ちくま文庫)

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フラナリー・オコナー全短篇〈下〉 (ちくま文庫)

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「ベストセラーコード」を読んだ

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なんとなくノンフィクション系の本を探すとき「HONZ」という本の書評サイトで探すことが多いのだが、そのサイトでこの「ベストセラーコード」が紹介されていた。そのことを知ったのはシナリオセンターのFacebookだったかもしれない。とにかく、最近はやりの深層学習やデータマイニングの一つであるテキストマイニングを利用して、ベストセラーになった本にはどの様な客観的な特徴があるかを、コンピューターサイエンスを駆使して明らかにすると言う内容だった。一通り読み終えたので感想を書くことにする。

honz.jp

この本を読んで見て改めて思ったが、本に書かれている文章というのは、ひたすら一列に並んでいる文字列というデータだ。一文一文はピリオドで区切られているから、行番号という括りもある。その行のある意味を持った集合が章になり、章の集まりが全体としての作品を形作っている。逆に文の中身を分解すると、名詞や動詞、形容詞、副詞など文法用語でグルーピングされた役割を持つ言葉の集合だ。

普段本を読んでいる我々人間は、そんなことを意識して読んでいない。単語から文、文から章、章から本全体の意味を細かい単位からその集合、さらにその集合という順に意味を抽出していき、本全体のテーマや本から受ける感想などを持つ。コンピューターのプログラムで言えば、実行された後の結果(出力)からそのプログラムの良し悪しを判断している。一冊の本は脳という演算装置の中で実行されて始めて意味を持つプログラムコードだ。

 

ベストセラーコード 「売れる文章」を見きわめる驚異のアルゴリズム

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そこからこの本のタイトル「ベストセラーコード」は来ているのだろう。我々人間が脳の中で喜んで実行したくなるコードがその本の中に含まれていれば、たくさんの人がそれを求めて読む。その結果がベストセラーになる。この本ではアメリカのニューヨークタイムズ紙のベストセラーランキングを元に分析した結果なので、アメリカ人の脳が喜ぶコードの分析ということになる。そのまま日本の読者に当てはまるかどうかはわからないが、それは巻末の解説にも書かれているので割愛する。

#トピックについて
トピックの分析がまさにそれぞれの土地に住む人間の偏りによって一番影響される部分だと思うが、おそらく地球上にどの地域に住む人間にとっても絶対外せない項目として入っているのは「親密な人間関係」というトピックだろう。何気ない日常を描写する部分は作家によって異なるだろうし、その部分が実は読みたくてその作家を読んでいるのかもしれないが、実は本を手に取る段階ではその事を言語化出来ないようだ。それ以外の、その本の属するジャンルを決めているトピック、ミステリやSF、歴史、経済、スポーツなどが、普通は本を語る時の話題になる。しかし、そうではない「日常の描写」というトピック(に見えないトピックだ)が実はベストセラーになるかどうかにとって重要らしい。

#プロットについて
この本のおかげでおそらくベストセラーになった事自体が何かの間違いという評価で終わってしまったかもしれない本についての考察が書かれている。実際にアメリカでそうだったかどうかはわからないが、この本を読む限りその地位向上に大きく貢献しただろう。その本とは「フィフティシェイズオブグレイ(FSG)」である。この本がなぜ売れたのかは、テキストマイニングとパターン分析でなければ絶対に解明できなかっただろう。結論から言うと、先ほどのトピックで出てくる「親密な関係」がほとんどを占めている事とそのプロットラインが完璧だったと言う事らしい。

そのプロットラインに関しても七つのパターンが出てくるが、その部分がシナリオセンターの教えてる折れ線グラフの様な図と同じだと言う事から、やはり創業者の新井一が言ってることは正しかったと言う文脈で紹介されていたと思う。本の中でもクリストファー・ブッカーと言う研究者が数千冊の本を読んで独自に解析したプロットカーブのタイプ七種類と同じだったと言うのは、一人の人間の知能が弾き出した結果が、コンピューターによる解析結果を先取りしていたと言うことだろう。変な話だが信憑性が高いと感じる。

#タイトル、最初の一行について
この部分は、おそらく内部の分析の結果を一番端的に表していることだと思うが、主人公は能動的な動詞を使う人間でなければならないということが、その本の最初の一行から表されていると言うことだと思う。自分が売れる本を書きたいと思ったら、主人公にぐずぐずと迷わせている時間はないと言う事を肝に命じておきたい。

#最も理想的なベストセラーコードを持つ本について
これがデイブ・エガーズの「ザ・サークル」と言う本らしい。エマ・ワトソン主演で映画化も進行中だそうだ。先ずは「フィフティシェイズオブグレイ」を読んでからこの「ザ・サークル」も読んでみたいと思う。正直自分のツボはベストセラーになる本より少しずれているとずっと思ってきた。しかし、読む側から書く側になりたいと思う上では、やはりベストセラーになる方がいいわけで、そのために必要な情報は仕入れておきたいと思っている。決してFSGが「マミーポルノ」と呼ばれDBSMを扱った作品だからと言うことではないのである。

 

フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ (上) (ハヤカワ文庫NV) (ハヤカワ文庫 NV シ 28-1)

フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ (上) (ハヤカワ文庫NV) (ハヤカワ文庫 NV シ 28-1)

 

 

大雪による被害

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今も福井では大雪で車に閉じ込められている人がいるらしい。
実は会社の同僚が福井に出張に行って帰れなくなっている。これはある意味遭難だ。
大雪は災害なのだ。

 

2018年1月22日関東地方にも大雪が降った。私が住んでいる三鷹市牟礼の近所も 大雪が降ってまるで雪国のようになった。大雪が降るとどこかで死人が出る。台風が来ても大雨が降っても実は結構死人が出てる。天候の変化というのは災害なのだと言うことを気付かされた。私に降りかかった災害は、死んだり怪我したりと言うようなものではなかったが結構被害は大きかった。

 

22日の夜、会社の仕事を終えて帰ろうと思ってAirPodsのホルダーケースを開けたらなぜか片方しか入っていなかった。そういえば朝会社に着いた時なんか雪のせいでバタバタしていたことを思い出したが、朝どこへそれをしまったか全然覚えていなかった。iPhoneからAirPodsが探せることを思い出し、音を出してみたがケースに入ってる方が鳴るだけで、もう片方からの音はどこからも聞こえてこなかった。まあ、そのうち出てくるだろうとタカをくくって三日目の朝、会社のすぐそばでペチャンコに潰れた片方を見つけた。早速アップルのホームページで、片方だけ買えるのかを調べると、故障と同じで修理扱いとなると言うことがわかった。修理代金は約八千円。

 

とにかく修理して貰おうと、アップルのHPからジーニアスバーを予約しようとしたのだが、なぜかAirPodsだとリンクがループになって最初に戻ってきてしまう。仕方がないので土曜日のシナリオ学校のついでに表参道のアップルストアに直接行ってみた。


すると案の定その日は予約だけで、なんと次に受け付けられのは一週間後の同じぐらいの時間だと言われた。うーん、さすがアップル。普通修理に行って、一週間後にまた来てねと言われたら、二度と来ないと思うんだが私もLC520からのアップルユーザーなので、体にりんごマークへの忠誠心がしみこんでいるようだ。

おとなしく一週間後に同じようにシナリオ教室の帰りにガラスの階段を降りて予約した時間の少し前に待っていると名前を呼ばれた。テーブルの椅子の一つに座って待つように言われたのでおとなしく待っていると、そのまま10分ぐらい待たされた。うーん、さすがアップル。まあ、周りにいる人間を観察していると結構暇つぶしになるぐらい面白かったのでぜんぜんOKだが。

 

最終的には髭ずらの親しみやすそうな巨漢が対応してくれて、私がぺちゃんこになったイヤホンの片側をみせると、出てきただけよかったですね、と言って申し訳なさそうな顔をしたのがさらに好感度をアップさせた。しかし、ここからなのだ、本当に驚いたのは。いや、別にそんなにすごいことが起きたわけではない。新しいイヤホンの片割れを持ってきて、その髭だるまのような男の人は、ペアリングさせる必要があるんでとりあえずケースにいれて・・・あ、iPhoneをホーム画面にして下さい・・・(AirPodsのケースを閉めて、開けた)はい、これでOKです。えーー、やっぱすごいようアップル。もっと初期化するのにリセット繰り返して、あれ、おかしいですね、とかやりそうな所だと思うのだが、何事もなかったように使えるようになったのである。やっぱりりんごマークは伊達じゃない。

 

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スター・ウォーズ episode 8 「The Last JEDI」を観た

あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。と言うか今年はもう少しPVが増えるといいなあ。

 

 

#年末恒例
2017年の個人的No.1映画は「ブレードランナー2049」で決まりなのは確定したと思うのだが、なんかエピソード7から年末恒例になりつつあるスターウォーズを見てしまったのでそれについて書きたいと思う。

去年は「ローグ・ワン」でした。

 

 


今年は「メッセージ」から始まって「エイリアン:コヴェナント」や「ブレードランナー2049」など個人的にはSF映画の当たり年だった。そんな中で今年のトリを飾る映画は映画史上でももっとも長いシリーズをほこるこのスターウォーズ の最新作Episode8「The Last JEDI」だ。
最初にEpisode4が公開されたときは小学生だったが、今や半世紀を生きた立派なおっさんの私にとっていろいろと意義深いものだったので、本年のブログの最初としてもふさわしいと思う。

 

 

#今回のストーリーの位置づけ
今回の作品は麻雀的にいうと「2(りゃん)「5(うー)8(ぱー)」の筋にあたる。それぞれの順子(しゅんつ)の真ん中である。別に意味もなく麻雀を引き合いに出しているわけではなく、この真ん中というのは前後につながるので大事な数字である。最初の3部作である456がうまくいったのも「帝国の逆襲」で4のすべて丸く収まった感をぐるっとひっくり返して6の「ジェダイの帰還」につなげたからだろう。

その6でまとまった感がある物語をもう一度膨らませて広げなおしたのが7だった。という事は本来つなぎの役目の3部作中の真ん中としては8であるが、三部作の最終章である7・8・9と4・5・6をEpisode7はつなぐ役目も持っていたことになる。7のラストのルークが振り返るところで終わると言う「引き」は完全につなぎのドラマとしてのラストだった。その次の8は7で新たに主人公になったレイやカイロ・レン、フィン、ポーたちの始まった物語を引き継いで膨らませると同時に456の主人公であったレイア、ハンソロ、ルークの物語の後始末を終わらせる話でもあった。

このことが、それぞれの筋を追いたい観客には今回の映画がスッキリしない部分でもあるが、そこを分けて考えるとそれぞれに味わい深いストーリーであり、そしてお互いが密接に関連して進行するため、よく出来た筋書きだったと思う。

 

※ここからネタバレになります。 

 

#カイロ・レンについて

キャラクターの中でも4・5・6と7・8・9をつなぐ位置にいるのがカイロ・レン(ベン・ソロ)だ。レイアとハン・ソロの子供であり、一度はルークについてジェダイの修行をしているが、なぜか悪の道にはいった男だ。なんか自分にとっては祖父のダース・ベイダーにやたら入れ込んで、何が問題なのかよくわからないがハンソロを自分の手で殺した。

よくよく思い出してみるとベイダー(アナキン)は実父を殺してはない。すでに砂漠で暮らしていた時は母と子のみだった。ストーリー上で実父を殺したのはルークである。殺したというと微妙だが、いずれにしても引導を引いたのはルークだ。そういう意味でカイロレンはルークをまねたのだろうか?
7でのハン・ソロに続いて実母であるレイアの乗る反乱軍の旗艦のブリッジを攻撃しようとして、思いとどまるのである。しかし結果として部下が攻撃してしまい、レイアは一度は宇宙空間に放り出される。しかし、初めてフォースを発揮し破壊されたブリッジの窓から戻ってくるのである。ここは今回の8の名シーンとなるだろう。

 

 

#ルーク・スカイウォーカーについて
Episode6「ジェダイの帰還」(この副題も公開時は「ジェダイの復讐」だったと思う)で父であるダースベイダーを倒し、銀河に平和をもたらしたヒーローとしてのルークは7では全く影もなく銀河のどこかに行方不明である。その間にいったい何があったのか?をこんかいの8では明らかにしていた。ベン・ソロ(カイロ・レン)「とそのほか数人の若者を連れてジェダイの修行をさせ、ジェダイナイツを復活させようとしていたのだった。しかし、その潜在能力の大きさに恐れを抱きベンを一瞬殺そうとしたことでベンと決定的に決裂してしまったようだ。この底知れぬ力に恐れを抱きというのは、エピソード1のアナキンに対してクワイ・ガン・ジンが感じたことと同じだ。常にジェダイは同じ轍を踏む。同じパターンを繰り返してしまうことをいい方に考えるしかないが、今回は最後にカイロ・レンと対決して消える。1のガン・ジンや4のオビワンや5のヨーダのように服だけ残して風の中に消える。こうなったら幽体としてアドバイスする存在になるので、恐らく9でも出てくるだろう。

 

 

# レイについて
レイもルークに教えを請うことになるが、ルークはカイロの失敗があるので、最初は断る。しかし、レイはカイロとテレパシーで話す事で少しずつダークサイドにも触れていき、それがまたルークを怯えさせるが、最終的には一定の成長を遂げて仲間の救援に旅立つ。これは5のルークと同じだ。レイが旅立った後でルークはジェダイの教えの書物を燃やそうとして逡巡するが、それを見かねたヨーダが雷を落として燃やしてしまう。しかし書物はなぜかレイがファルコンに積み込んでいるのだ。

 

 

# スノークについて
一番わからないのがこの7から出てきたファーストオーダーの首領であるスノークである。456の皇帝よりもかなり醜悪な容姿で、フォースの暗黒面の力も操るため、コリャー倒すのに骨折るだろうなーと思わせたが、あっさりカイロ・レンに殺される。死んだと見せかけて…と思ったが、まったくその気配もなく切断された骸を晒すだけだった。その後のロイヤルガードとの戦いの方が大変そうだった。倒した後のカイロとの会話が、スノークの立ち位置を表していると思ったが、いわゆる既得権益老害の象徴なのかも知れない。まあ、9でパワーアップして帰ってくるとは思えない。

# フィン、ポーについて
その既得権益老害をカジノ惑星で見せたり、反乱軍としてのジリ貧な状況を描くためのキャラクターになっていたが、フィンはキャプテン・ファズマとの対決、ポーは兵士としての葛藤が描かれていた。

 

 

# ライアン・ジョンソン監督について
今回の監督のライアン・ジョンソンという人の作品は他に何があるのか知らないが、なんとなく長いドラマを撮る人なんじゃないかと思う。エピソード8じゃなくシーズン8ぐらいに長いストーリーの中で見たかった。その意味では、またまたブレードランナー2049の話だが、ドィル・ビルヌーブ監督は3時間の話を撮らせてもやはり映画だったと思う。その差はどこからくるのかというと、余白的なものの多さとしか言えないが、も一つは登場人物の多さから来るドラマ中に複数の視点が存在するかどうかだろう。小説で言えばスターウォーズは三人称で書かれており、メッセージや2049は一人称で書かれた小説のようだと言うことかも知れない。
今回の作品はアメリカでは批評家受けが悪かったようである。そのへんは前述したスノークの位置づけによるものだろう。あの扱いがディズニーに買収されたことによる、物語の単純化から来るものではないと思うが、それをきちんと描いているわけでもないので評価しにくいのも確かだ。

#今後について
次はまたJ・J・エイブラムスが監督をするらしいので「謎の箱」を一杯ちりばめて驚愕のストーリーを展開し、素晴らしい大団円になると思う。ラストでカジノ惑星の馬小屋で馬の世話をしている子供が箒をを手に取るとき、箒の柄が壁から手に飛び込んできた。手の指にはジェダイの書物を収めていた木をデザインしたと思われる反乱軍のマークのついた指輪が光っていた。ルークの言葉「私は最後のジェダイではないし、フォースはジェダイだけものもではない」が9のテーマだと思う。再来年を首を長くして待ちたい。

 

「ソラリス」を読んだ

ソラリス」を読んだ

 

 


Eテレの番組に「100分で名著」と言うものがあって、もう何年も続いていると思うのだが、その番組が今回スタニスワフ・レムの「ソラリス」を取り上げている。もう既に2回目まで放送されているのであと2回しかないが、この番組のためのテキストは本屋さんに行けばまだ平積みになっていると思う。

 

 

私は中学生ぐらいに小説の中にはSFと言うジャンルがあることを知って、本屋に行っては早川文庫や創元文庫のSFの棚をつらつらと眺めていた頃からそこに「ソラリス」はあった。当時のタイトルは「ソラリスの陽のもとに」だったらしい。当時は共産圏のSFであり、なんか観念的な内容らしいと言う噂(誰から聞いたかは覚えていない)を聞いて全く食指が動かなかった。

 

ソラリスの陽のもとに (1977年) (ハヤカワ文庫―SF)

ソラリスの陽のもとに (1977年) (ハヤカワ文庫―SF)

 

 

これまでに二回映画化されており一回目は1974年にアンドレイ・タルコフスキー監督によって、二回目は2002年にスティーブン・ソダーバーグ監督によって制作されている。実はどちらも観たことはない。タルコフスキーは「サクリファイス」を夜中にテレビでやっているのを観たが、途中で眠ってどんなストーリーだったか全く覚えていない。前回の記事に書いた「ブレードランナー2049」はタルコフスキーを意識して画面を作っている部分もあるという話をYouTube町山智浩さんが話しているのを見たが「ブレードランナー2049」は眠くはならなかった。冒頭の一番観る人間が期待しているシーンにそのオマージュを持ってきたので、眠くなる暇が無いのかも知れない。

 

惑星ソラリス Blu-ray 新装版

惑星ソラリス Blu-ray 新装版

 

 

話がそれたが、2度目の映画化の時に職場で少し話題になり、離婚で心を病んだ同僚が別れた奥さんが見えると言うので誰かが「ソラリス」だと言い始めた。話の内容を知らなかった私は、そういうお話なのかと思って聞いていたが映画を観たり、本を読むことはなかった。タルコフスキー版よりはエンタメ性を高めたハリウッド版の映画「ソラリス」になっていたと思うが、世間でもあまり話題にならずに消えていった気がする。(その理由も実は今回のテキストに書いてあるので参考にされたい)
しかし、今回の100分で名著の番組でも紹介されていたが、SーFマガジンの海外部門でオールタイムベストの一位に君臨しているらしい。そこでこの機会にまずは番組で勉強してみようと思ったのである。

 

 

第一回をみて、そのミステリアスな展開と設定に強烈に惹かれたたので、土曜日の表参道でのシナリオ教室の帰りに青山ブックセンターにいって入手した。そして読み始めるとページをめくる手が止まらない。あっという間に読んでしまった。実際は件のテキストで今回の新翻訳をやった沼野充義さんの解説で、難解な部分や報告書、学術書の体裁を持って書かれているページがあるが、そこをちゃんと読むことでよりこの物語の理解が深まると書かれており、逆にその部分はじっくり腰を据えて読むことが出来たのもスムーズに読めた理由かも知れない。実際にその部分は確かに描写が細かく、フルカラーで奇妙な形状を延々描写してあるのでめんどくさくなると飛ばしたくなるのだが、あえて頭の中でその部分をじっくり思い描きながら読んでみた。

この話の骨格は「異星の文明とのファーストコンタクト」である。少し前にみた「メッセージ」とも繋がるが、あの映画は見た目は全く人類と異なるヘプタポッド(昔の火星人のイメージ)ではあったが、少なくとも言語を持ちそれを人類に向かって投げかけてくれていた。それを言語学者が解読することで異星人からのメッセージを理解し、人類が未来を切り開くと言う話だった。

 

 


しかし、この「ソラリス」は刻々と姿を変えるゼリー状の海がそこにあるだけで、人類からの呼びかけにも一切反応がない。物語の上で、人類はもう何十年もソラリスを研究し続けておりソラリス学成る学術分野まで出来ているのである。この全く意思の疎通の出来ない存在である海に新しい試みといしてX 線をつかってメッセージを送ったことでその観測ステーション内で不思議な現象が起き出す。

 

(ここからネタバレになります)
ステーションにいる人間の意識の奥底に眠っている記憶からもっとも際だった「もの」を取り出して実体化するのである。「もの」と書いたがそれは基本的に人間である。しかし、現実に存在した人間出ない場合もあるのだ。その人が持っている秘めたる欲望や、目を背けてきた恐怖などが現実に血や肉をもって現れるのである。これは、正直恐ろしいことだ。普段隠しているがおぞましいことを考えている人間がいれば、そのおぞましいものが現実になって現れるのである。しかも、それはそれを生み出した人間のそばを離れないのだ。そしてあらゆる手段を使っても破壊することが出来ない。

これだけだとエイリアンのような話になってしまうが、主人公のもとへやってくる「もの」は大変悲しくも美しい思い出の産物なのである。これが、この本を海外部門SFの歴代一位たらしめている理由だろう。主人公の「お客さん」(作中では”もの”はお客さんと呼ばれる)は彼の昔の恋人で喧嘩の果てに薬物で自殺したハリーという女性なのである。これがまた細かく描写してあるのだが、なんと自殺した19歳当時のままなのである。殺伐とした観測ステーションに、かつて愛したままの姿の美少女が現れるのだ。まさにこの一点で「レムたん、わかってる〜」と唸ってしまった。

最もおぞましいものが、最も美しく甘美な形で現れるのである。新体操なんかで出てくるルーマニアとかの選手のような、東欧の妖精たちを思い浮かべてみて欲しい。(ちょっと思い入れすぎか)これは十代の頃に読んでも、その設定と発想の素晴らしさはわからなかっただろう。面白い本に出会うと、なぜもっと早く読まなかったのかと悔やむこともあるが、この本に限っては、読むべき年齢に達したので本の方から私の所へやってきたのではないかと思った。(そういう意味で「お客さん」かも)

なぜかというと、前回のブレードランナー2049でもテーマとなっていた「人間とは何か?我々とは何か?」というテーマで繋がっていたのである。そしてさらにこのソラリスは「人間にとって他者とは何か」というその先の話まで扱う。わからない相手をわからないまま見つめ続ける、と言うスタンスが「他者」に対するときは求められるだろう。それは科学の探究においては基本のスタンスだ。これがあるからこそ真摯に現象に向き合わねばならないことになる。小保方さんのように、自分の都合で自然現象という「他者」を解釈して己の価値基準に組み込むことは許されないのだ。

タルコフスキー版もソダーバーグ版もこの点を変えてしまっているため、レムはその映画化に落胆したそうだが、二度も映画化されてそれでも作者の本当に伝えたいことからずれてしまうのはなぜか?それはこの話のテーマが映画のようなエンタテインメントを追求するメディアには向いていないからではないか。「他者」とどう向き合うかと言うような根源的な問いをエンタテインメントに仕立てるのは無理がある。そこでソダーバーグはハリーと主人公の部分だけをとりあげて、ソラリスの「海」の存在はそのための装置にしてしまったようだ。

確かにお客さんとしてやってくるハリーの存在も本当にうまく設定されており、その姿形だけでなく、記憶を本に再構成された存在のはずなのに、主人公への愛ゆえにまた自殺を図るのである。しかし先ほども書いたが、「お客さん」は不死身だ。それは排除できないと言う意味でもあるし、「お客さん」自体が消えたいと思っても消えられない存在でもあるのだ。この辺の設定は本当にすごい。確かにここだけでもドラマはなり立つ。またまた「ブレードランナー2049」の話で恐縮だがKの恋人としてのジョイは、現実には存在しないプログラムとしての存在だが、Kを本当に愛するプログラムとして描かれている。だからポータブルの端末にコピーしてアンテナを折ってくれなど、本来のハードウエアや供給元としては逸脱したようなお願いをKにする。この構図はまさにソラリスでの「お客さん」としてのハリーとそっくりだ。そして戦いのさなかにラブによって端末を壊される直前Kに「愛している」と告げるところなど、そのプログラムを作った人間の意図を超えて「事実」となっていたと思うのだ。

「ブレードランナー2049」を観た

 

  • 2017年11月3日に渋谷のtohoシネマズで観た。

それから既に3週間が経過しているが、未だにじわじわと感動が蘇ってくる。感動なのか、それとも今回の映画が現在の私にとって現実の写し絵のようになっていることからくるでデジャヴなのかはわからないが、生活の中で主人公であるKの哀しみと共振している自分に気がつく。この感情はなんだろう?(新潮文庫のキャッチコピーだが、ミスチルの歌の歌詞でもあるよね)

今回は前日にはブルーレイで前作を復習のため見直して、万全の体制で見に行った。

しかし、本当に長生きはするもんだ。まさかの35年経って続編が作られるなんて、夢にも思わなかった。先日みたコヴェナントはリメイクだし、エイリアンがネオモーフなど新しいものに置き換わっているし、何より出演者に連続性が無い。リプリーことシガニー・ウィーバーが出ていないのだ。

(ここからネタバレになります)
それにひきかえ今回の2049はハリソンフォードが出ているし、それ以外にもガフやレイチェルまでが出て来るのだ。オリジナルのブレードランナーと完全に地続きの世界の30年後なのである。いや本当に長生きはするものだ。
私も初めてオリジナルのブレードランナーを見たのは月曜ロードショーで荻昌弘が解説している回でみた。今はその解説もユーチューブで見られるのである。本当に長生きは・・・もういいか。

現実には35年経っているらしいが、劇中でも30年が経過しているのがひしひしと伝わってくる。埃を被ったポリススピナーがある!と言うのにひどく感動する。本当にそこに30年あった、あの前作のラストでレイチェルとデッカードはこれに乗って逃避行に出たんだという「事実」にジンとくる。

  • 主人公「K」

今回のライアン・ゴスリング演じる主人公、ブレードランナーである捜査官「K」は、物語の冒頭LA郊外の砂漠で農夫をしているサッパーを「解任」に行った際にサッパーに「新型」と呼ばれることで自分もレプリカントと明かされてしまう。サッパーはNexus8でタイレル社が作った最後のレプリカントモデルだ。それに対してKは倒産したタイレル社を買収して新型のレプリカントを製造する会社、ウオレス社のレプリカントなのだ。


これは前作ではデッカードが実はレプリカントなのではないかという観客の疑問を曖昧にしてきたこととは逆の構成だ。実際今回の映画でもデッカードは見かけは歳をとっているが、物語の後半、kとラスベガスの廃墟のホテルでkが冒頭のサッパーとやった戦いと同じようなタフガイぶりを見せる。つまり今作でもデッカードに対する疑惑は継続中なのである。
しかし今作の主人公Kの物語は、ここを出発点にして、でも実は人間なのかも?という謎かけがはじまるのだ。果たして捜査官Kは人間なのか?

個人的に大いにツボだったのは、警察署に戻って来たKが署長に会う前にテストを受けるシーンだ。感情を刺激する文言による質問とそれへの回答(セルズ!とかインターリンク!とか言う)総合的にどう言う状態かを反応速度?から測っているのだろうか?これは前作のVKテストの変奏なのだろう。VKは人間とレプリカントを見分けることのできる唯一のテストという設定だったはずだが、この続編では左目の白眼の部分に製造番号が入っている。そのため話の終盤に出てくるレプリカントレジスタンス?みたいな集団のリーダーは左眼をくり抜いていた。


恐らくKも左目に数字が打ってありそうなので、自分を人間だと思うならまずそこから調べると思うのだが、それはないということなのかな。それともレプリカントの子供はたとえ女性のレプリカントが産んだとしても、ちゃんと目には製造番号が刻印されて生まれてくるというのだろうか?後述するリドリースコットの生物学的理解と物語のセンスオブワンダーの部分は深いところで齟齬があるようなので、それを判断するのはかなり難しいだろう。原作のフィリップ・K・ディック的な悪夢世界であれば、数字の形の模様が目玉に刻まれていてもいいような気がする。

 

  • ジョイ

愛玩プログラムのジョイが現実の女性ではないからこそ、これでもかと見てる方をギュンギュンさせる。演じている女優さんがYouTubeの映像でラブ役の人と一緒にインタビューを受けているが、普段の姿も劇中の姿もほとんど変わらない。物語の後半に惜しげも無くおっぱいを晒してくれるが、割と小さめ。その辺も含めてプログラムとしてその所有者に可愛がられるための要素で固められていると思う。最後に出てくるときに髪が真っ青で目が黒いのは、その髪型からして恐らく前作のプリスのドールメイクを踏襲していると思われる。

 

  • ラブ

いつもどこか辛そう、あるいは怒っているようなウォレスの側近レプリカント。ウォレスの指令は忠実に守る。LAPDに来て検死官を殺してレイチェルの骨を奪って行く。前髪の形が前作のレイチェルと似ているのはわざとだろう。ある意味似た姿で出てくるというのは亡霊と言えなくもない。もしかしたらレイチェルのレプリカとして作られても良かったのではないか。旧タイレル社を案内するときの役割も前作で一番最初にデッカードに応待したのがレイチェルだった。物語の最後でKに殺されるのだが、首を絞められて死ぬというのがちょっと謎。生きている可能性が高いと思う。続編はないと信じているが、もしあったら出てくるかも。前述のインタビュー映像では全く印象が違う。役柄が役柄だけに当たり前だが大変優しげな美人。タガーを振り回して暴れるタイプには見えないが、劇中では見事に殺し屋を演じていた。

インタビュー記事はこちら


世界で最も美しい顔の女優、そば屋のオヤジに困惑/映画『ブレードランナー 2049』アナ・デ・アルマス×シルヴィア・フークス インタビュー

 

 

  • 署長

渋いおばさん。Kのアパートに来て酒を飲み、意味深なことを言う。と言うか、意味深に思ったんだけど、違うのかな?「奇跡の子」の存在を知り人類の脅威と考え抹殺する事をKに命じる。それを察知したウオレスの司令でラブに殺される。なんか、あっさりラブが侵入できてしまってLAPDの警備が甘すぎる気もするがそれもレプリカントならではということにしておこう。

 


音楽家 泉谷しげるが『ブレードランナー 2049』を語り尽くす!

そもそも、泉谷しげるブレードランナーのファンというのもなんか意外な感じがするが、その発言としてレプリカントは機械であり、人間は機械が好きなんだと認めてしまえばいいのにというようなことを言っていて驚いた。

 

  • 関連動画三本ユーチューブについて

それぞれ面白い。
1 サッパーが助けたのはやはり奇跡の子供なんだろうな。

www.youtube.com

2 ブラックアウトを起こしたのはNexus8?サッパーも8か。

www.youtube.com

3 ウォレスが新しいレプリカントの製造を認めさせるシーン。

www.youtube.com

人間の命令に絶対服従なところを見せる。
タイレルが作ったレプリカントの方が優れている?まさに失われた技術の方が優れているという伝説みたいなものか。

 

  • サントラ について

ハンスジマーの楽曲もやはり前作のヴァンゲリスのものを忠実に引き継いでいると思う。その上で現代風に仕上げてあり聞き応え十分。映画を観に行く前日にiTunesで購入して聴き始めたが、観終わってから聴くと感慨もひとしお。

 

これは押井守好きな私の贔屓目かもしれないが、映画版「攻殻機動隊」の続編である「イノセンス」はその前作との関係、画面の作り方などが今回の「ブレードランナー」と「2049」のあり方にかなり影響を与えているのではないだろうか。孤児院施設に行こうとしていたKが墜落してジョイが心配するシーンなんかは、ネットが繋がっていないスタンドアローンのプログラムだから全く役に立たないが、イノセンスでは天の声として草薙素子の声がバトーに聞こえる。キルゾーンに踏み込んでるわよ、と。ラスベガスにたどり着いたKが巨大な足の像の足元を歩いている時、イノセンスのシーンを思い浮かべてしまった。
もともとの「攻殻機動隊」はブレードランナーレプリカントの設定、記憶を移植する事ができるという部分を利用して「模造記憶」をかまされる、でも、偽の記憶を移植された人にとっては現実と変わらないという部分をうまく利用して別のカタルシスを作り上げていた。

 

  • この映画のテーマは?

我々はどこから来たのか?
我々は何者か?
我々はどこへ向かうのか?
という落書きが紀元前からピラミッドにあったらしい。ここに書かれている人間とは何か?我々は何者か?が今回の映画のテーマだろう。ちなみに「エイリアン・コヴェナント」では、我々はどこから来たのか?がテーマだったらしい。同じ監督が作った映画がそれぞれ人類の根源的な問いを共有している。そして、その問いは最終的に我々はどこへ向かうのか?を問うことになる。「2049」ではそれについても触れている。というか、人類は滅び、レプリカント(人間が生み出した存在)に取って代わられるということだ。これはエイリアン・コヴェナントでも同じで、アンドロイドのデビッド(ダビデ、ゴライアスという巨人を倒す人類と同じ名前らしい)が神々の黄昏(つまり人類の黄昏)というワーグナーの曲をバックに宇宙船のエンブリオ庫に入っていくシーンで終わっている。「2049」ではレプリカントが子供を本当に作れるようになれば、人類は取って代わられるということだろう。

 

シミュレーションの結果、ネアンデルタール人は我々人類が駆逐しなくても絶滅したという研究が先日ネットで紹介されていた。このシミュレーションの条件は、我々現生人類が絶えず供給されるということだが、勿論ネアンデルタール人だって再生産(つまり生殖)で増えるという条件は同じだと思うのだが、それでも住処を奪われて全滅するという結果だったらしい。この結果から考えるとおそらくレプリカントが供給され続ければ、我々人類は確実に滅ぶと思われる。
タイレルが作ったNexusシリーズは、生殖し再生産できる能力があったという設定で、物語の最後で出てくる女性が奇跡の子供(キリスト?)なのだが、地上にレプリカントを満ちさせようとしているウオレスは作れない。子供を探して殺させるというモチーフは、聖書のヘロデ王がキリストの誕生を知って2歳以下の子供を全て殺せという話と同じらしいのだが、やはりウオレスのやりたいことが今ひとつ謎。デッカードも別にオフワールド(地球から離れた植民惑星)に連れて行かなくても、本社で解剖でもなんでもすればいいと思う。この辺がエイリアン・コヴェナントを批判してる町山智浩がリドリースコットは生物学のセントラルドグマを理解していないという趣旨のことを言っていたがそうなのかもしれない。
今は生命をデザインすると言えば、遺伝子を操作する事だが、彼の中では前作にもあった通り目玉なら目玉、脳なら脳を設計し、それらを組み上げて人体を作るというイメージなのだろう。だからこそその機械仕掛けの人形が子供を産むというのが大きな飛躍に思えるのだと思う。必ずしも科学的に正しく理解してることが、面白い話を作る元になるとは限らないという例かもしれない。

  • 挿入歌「オルモスト・ヒューマン」

直訳すれば「だいたい人間」だが歌詞を聞いてると、この映画でテーマとなってる「誰かのために生きることが人間の本質」という事を行動で表して、ラストシーンに階段に腰掛けて空を仰ぎ雪を顔に浴びながら目を瞑るKの姿を示しているようだ。この曲はYouTubeのアニメ作品のラストに使われていた気がするが、アニメ的なキャッチーな楽曲になっているが聞いていると、本編のテーマを歌っている気がする。

 

BLADE RUNNER 2049 (SOUNDTRACK) [2CD]

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