2017年10月8日の新宿は人でいっぱいだった。当たり前か。
見る前に昼飯を食べようと東口から映画館まで歩くあいだに何かないかと探したら、なんと沖縄ソーキそばなどを食べさせる店があったので立ち寄った。
ゴーヤチャーハンと沖縄そば(ハーフ)みたいなセットで九百円だった。
味は、大変満足いくものだった。
ちょっと食べ過ぎ気味で、食べ終わったのが13時ちょっと前だったので、急いで映画館に向かった。歌舞伎町に向かう横断歩道でゴジラさんこんにちは。新宿TOHOシネマズで13:10の回であったが、結構人が入っていた。ネットで予約したチケットを機械でプリントアウトしてもらい、指定の席に座る。
始まる前に別に耳をダンボにしていたわけではないが、横に座っていた20代と思しき二人づれの女性の会話が面白かった。
最近読書会でSFの話になり、そう言えばSF映画観ていないなということで、もう一人がしばらく前に「オデッセイ」を見たので同じリドリー・スコットつながりでこの映画を選んだというような話だった。果たして「プロメテウス」は見ているのかどうかは会話からは窺い知れなかった。それを聞いたも一人の連れは、「僕はSFファンです」みたいなゴリゴリの外見の人が嫌いという話をして大いに笑っていた。まあ、いまどきそんな人あまり見かけない気がするが・・・。私の反対側に座っていた若い男性はでかい紙カップでジュースを飲みながらずーっとポップコーンを食べていた。もしかしたらゴリゴリのSFファンだったのかもしれない。
私が今回の映画を見ることにした理由は、前作「プロメテウス」が、割と面白かったからだ。(そう感じたのは少なくとも間違ってはいなかったと思う)それなならばやはり続きが見たくなるのが人情というものだろう。
前作で宇宙に飛び立ったデビッド(アンドロイド)とショウ博士はどうなったのか?それが解れば、この映画を見た甲斐があったと思うのではないか。その考えは間違っていなかったが、それ以上にお釣りをもらってしまった。
##ここからネタバレになります。
エイリアン自体は今のところ4まで作られている。そう言えば5を作ろうとして色々もめた見たいだが、これはなんせ本家が作り直しているわけだから、リドリー・スコットとして、こういうものが正統エイリアンなんだと見る方は考えるだろう。このことは結構重いと私は思う。映画はやはり徹頭徹尾監督のものだからだ。
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エイリアンというのはH・R・ギーガーの絵が元になってできたお話だが、その絵に込められた思いをリドリー・スコットがこういう風に受け止めたというものを形したものなんだろう。それはズバリ「科学技術の時代に生きる人間の狂気の具現化」ということになるのではないかと思う。
それをまさに具現化したのは、実はマイケル・ファスベンダー演じるアンドロイドなのだが、その人間そっくりの存在、アンドロイドを作り出すということが孕んでいる歪んだ欲望に姿形を与えたのがあのビッグチャップなのではないだろうか。そう考えるとちょっと話が複雑になるが、そういう構造になっていると思う。
作中でデイビッドはプロメテウスで出てきた「切れたリング」のような形の巨大な宇宙船を、もともとの惑星に向けて飛ばすことに成功したようだ。そこで、プロメテウスで出てきたあの「壺」を空中からばらまく。あの泥というか黒い霧のようなものの作用で、瞬く間に滅びる宇宙人。しかも、それはデビッドが意図してやったものだった。
そして自分を直してくれたショウ博士にも歪んだ探求を続けていたようだ。その過程を記録したと思われるスケッチはそのままギーガーの絵である。
空中から撒いた「壺」由来の霧は、動物に寄生することで宿主の遺伝子と融合し、新たな生命として繁殖することができる。だから急速にその星の動物は殺しあって破壊されたのだろう。それ以外の植物などの生態系はなぜ残っているのかは謎ということなってしまうが、微生物はその範疇にないのかもしれない。その辺はそもそもプロメテウスの時からちょっと甘いというか、あの泥を飲まされただけで死んでしまうというのは、生物学的に真面目に考察するとおかしい気がするが、この作品世界はそういうものだと考えるしかない。(この辺最後に紹介している町山智浩の解説によると私の推測はほぼ合っていたようだ)
そう考えると、あのプロメテウスで最初に訪れた「遺跡」みたいな場所はなんのための場所だったのか?まあどこかにネタバレサイトみたいなものがあるのかもしれないが、もう今日続編を見た後だとなんかどうでもいいと思える。
途中で新旧のアンドロイド同士の深いんだか深くないんだかよくわからない話もあった。「バイロンではなくシェリー」とか元ネタを探るといろいろ面白いのかもしれないが、デビッドが研究を続けている場所がいかにもアフリカとか東南アジアの住居を思わせる。大航海時代から西欧の帝国主義の時代のコロニーの雰囲気である。そこに来た自分の同型のアンドロイド、ウォルターに対して深い親愛の情(機械にそんな物があるのか?)を示すシーンで、デビッドが要するに「狂ってる」と言うことがわかる。
そして後半、エイリアンを撃退、あるいはエイリアンからの逃走の段階になると、もうすでにこれまでのシリーズで描かれてきたシークエンスのオンパレードだ。
見た目からなんとなく弱々しいイメージのダニエルスが空飛ぶ着陸船の上で体にワイヤーを付けて大暴れするシーンは、映画配給会社(20世紀フォックスか)からの要請で追加されたんじゃ無いかと思う。クレーン(というか巨大なマジックハンド)の中で粉々になり、体液で溶けかかっているクレーンの爪を観ても、このシリーズを最初からずーっと見ている我々の世代には、全く終わった気がしない。
案の定、宇宙船内にエイリアンが再び現れる。この時点でなぜ?と考えると疑いは確実にアンドロイドが入れ替わってるというトリックに思い至るはずなんだが。
とにかく、これまでのシリーズを全く見たことが無くて、前作「プロメテウス」は観ました、と言う人たちにはあっと驚く展開なのかもしれない。
見終わって、隣の女性のうち一人が
「最近の小難しいSF的な話になってるかと思ったけど、オリジナルと全く変わってなかった」
と言ったが、私の感想も全く同じである。しかもアレが現れると必ずぐちゃぐちゃ、ドロドロになることがわかってる分たちが悪かった。
しかも今回は、オリジナルと違い最後に生き残ったダニエルスとテネシーは確実にバッドエンドへ向かう。その分後味も悪くどうしてもその後を観ないと気が済まない感じだ。既に次回作は制作決定しているらしいが、20世紀フォックスが考えを変えないことを祈るばかりだ。
最後に、町山智浩さんのWOWOW映画塾「プロメテウス」(予習編・復習編)のリンクを張っておきます。
町山智浩の映画塾!「プロメテウス」<予習編> 【WOWOW】#93
町山智浩の映画塾!「プロメテウス」<復習編> 【WOWOW】#93
この解説を観てからもう一回観ると本当によくわかりました。
あと、コヴェナントに関しても解説しているのがあったのでこれも貼っておきます。
土曜日、自転車で転んだ。
角を曲がろうとしたら、曲がった先にピザの宅配ボックスのようなものを荷台に備えた3輪バイクが佇んでおり、ちょいと前ブレーキをかけたらあっけなく前輪が滑った。
そこから先は後からの想像だが、まず、左手を地面についた。
(左手の掌底のあたりがしばらくジンジンと痛かった。)
その後さらに腕から肘が地面について
( 腕時計のガラスが割れていた。)
最後に頬骨がアスファルトと触れ合った。
(地面に頬ずりしたのは久しぶり、というか初めてかも)
そんなに強くではなかったが顔が地面に着くまで首や胴体が支えきれなかった。
痛みというものはかなり気分を悪化させ、イライラさせるものだということを久しぶりに実感した。家に帰ってから2時間ほど左手の掌底を冷やしていてようやく、じんじんが治った。
その翌日の日曜日、表題の映画を観に行った。
場所は立川のシネマ2である。最近ここで「君の名は。」とか「シン・ゴジラ」とか立て続けに観に来ているが、なかなかいい映画館だと思う。
建物がモダンな感じで一見美術館のような感じである。シネコン風の作りだが、画一化したショッピングモールなんかにあるTOHOシネ○ズなんかとはちょっと違って殺伐としているのがなんかいい感じだ。
なぜこの映画を見に行くことにしたのか?実は全く直前まで公開されることを知らなかった。
金曜日の鶴瓶の番組で長澤まさみがゲストで出ていて、番組で宣伝していたのだが、タイトルからしてまさに私好みの内容の映画だったのでこれは是非観なければと思い、その直後に予約しておいた。
前置きがずいぶん長くなったが、この映画を観た感想を書く。恐らくネタバレになるので観ていない人は、観てから読んだ方がいいかもしれない。上にリンクを張ったように小説もあります。
あらすじは、地球を侵略に来た宇宙人がなぜか攻撃力もあるのに、まずは人類のことを理解しようと3人の斥候を送り込んでくる。そいつらは人間から概念を奪うので、奪われた人間はその概念が消失しわからなくなってしまう。しかし、その「概念」から解放されることで幸せになったり、不幸になったりもする。
最終的に宇宙人は侵略を始めるが、ある概念を奪って、それを知ったことで侵略を中止するというオチだ。ある概念というのがまさに「○は地球を救う」のアレなのだが、それ自体は全然間違っていないと思う。
もともとこの映画の原作は小説だが、そのさらに元は演劇なのだ。そう考えてみると劇中で扱われる「概念」は、演劇を観ている観客に考えさせる仕掛けとして選ばれていることがわかる。そこがちょっとこの映画を説教臭くしていると思う。
でも、それを差し引いても、私はこの映画を観て長年のモヤモヤが少し晴れた気がした。そのモヤモヤとはズバリ「狙われた街」だ。
ウルトラセブン第8話「狙われた街」は実相寺昭雄監督が撮った同シリーズの中でも傑作と言われているものだ。その中で地球を侵略しに来たメトロン星人はモロボシダンに向かって「我々が手を下さなくても地球人はお互いに殺しあって滅亡するだろう」と捨て台詞を吐いてからウルトラセブンに倒されるのだ。
(余談だが、メトロン星人って魚を上から見た姿に似ていると思う。だからどうということはないが。)
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観る前にこのタイトルを聞いただけで、この話の、言わばアンサーになりうる映画だと感じたのだ。果たして、どうだったか。
松田龍平演じる宇宙人は、なぜか散歩ばかりして地球人への理解を深めて(?)いる。同じ勢いで犬に話しかけ、噛まれてひどい目にあったりもする。
その妻の役の長澤まさみは、宇宙人に乗っ取られる前に夫が浮気していたことに怒っているため、基本姿勢が常に攻撃的だ。
この二人の掛け合いが、ちゃぶ台を挟んで話し合っていたモロボシダンとメトロン星人の雰囲気を引き継いでいると感じた。そして、ウルトラセブンにはなれない長澤まさみだからこそ、男と女としてあのラストの展開へともっていくことが出来たわけで、数十年を経て一つの答えをもらえた気がしてちょっとうれしかった。(あくまで個人の感想です)
またまた余談だがこの長澤まさみの演技が素晴らしかった。金曜日の鶴瓶の番組でも鶴瓶が絶賛していたが、演技に安定感がある。安心して見ていられる。やっぱり若い宇宙人役の2人なんかは、決して下手ではないし、難しい役どころを堂々とやっているのは確かだ。だが、長澤まさみの安定感というのはまさに映画を背負う屋台骨として物語の中心に居ることだ。女優として脂が乗ってるということはこういうことなんだなーと思った。
(全然関係ない写真集ですが・・・)
そういえば、この長澤まさみは「君の名は。」にも先輩の役で出てたのを思い出した。あの時の役と比べても、今回の役柄そのものが彼女の演技に合っているのかもしれない。「あー、やんなっちゃう」と言うセリフにはしびれた。
それを言ったら長谷川博己は「シン・ゴジラ」で堂々の主役をはっていたが、今回はちょっとヤクザなジャーナリスト役だった。監督からは「 カート・ラッセル」風で、と言う注文だったらしいが。
この長谷川博己のコメントで、ラストの方の演技で「痛みという概念」がないのであのような動きになった、というものがあった。やっと冒頭の話に繋がるのだが、痛みって概念として知らないと、痛くないもの・・・では無いと思った。
宇宙人の方は実体を持たない「精神寄生体」のような存在なので、生物としての基本的な原則が通じない・・・と言うことは無いはずだ。生物は生存本能、それは痛みや恐怖を有益な情報として関知できるからこそ、生命たり得ると思う。それは我々と違う組成の存在であっても同じはずだ。
地面に掌底を食らわして、逆に頬骨を殴られたわけだが、そこから来た鮮烈な痛みは、概念では無く実感だ。それが無い生命体は進化出来ない。と私は思う。
久々に総毛立つようなニュースを読んだ。ネットの記事を読んでここまで不快な感情を持つのは久しぶりなきがする。
この「青い鯨」を「ゲーム」と呼んでいいのかどうかはさておき、これを考え出してロシアで実行していた犯人はすでに逮捕されている。しかし、この男がネットに公開しているやり方、もしくはゲームのルールは既にネット上に拡散し、中国やインドでも模倣されている。被害者も出始めているようだ。
このロシア人の男の主張では、人間には二種類いて、生きていて意味のある人間と、意味のない人間だそうだ。このシステムは後者の人間を峻別して自ら「別の世界」に行ってもらうためのものだそうだ。
さあ、困った。現在のところ、これはゲームマスター(つまり人間)が、クエストをこなしたプレイヤーに自然文で回答をし続けなければ成立しない。
これは映画「羊たちの沈黙」クラリス訓練生が初めてレクターのところにインタビューに来た時に、隣りの牢にいた男に「あるもの」をかけられる。それに怒ったハンニバルレクターは、牢屋の隣から24時間その男にありとあらゆる罵声を浴びせ続けて、その男が自ら舌を噛んで死ぬまで追い込む。この構図と基本的には同じで人間の人間に対する悪意と行動がなければ出来ないことである。
ところが、この「ゲーム」青い鯨は、ネットワーク上からスマホやコンピューターと行った端末を通して、プレイヤーに働きかけるものだ。
現在のところAIが一番苦手なものは自然言語処理ということだが、そこさえ計算機の演算能力がこの先も増大していけば、いつか必ず可能になるだろう。
映画「ターミネーター」で未来はスカイネットという人工知能が支配するネットワークによって人類は抹殺される。そのためスカイネットは若き日のカリフォルニア州知事、アーノルド・シュワルツェネッガーを模したロボットを使って、直接人類をターミネートしようとする。
ところが、もしこの「ゲーム」をスカイネットが実行可能になれば、あんな作るのに手間のかかる「鋼鉄の僕(しもべ)」を作る必要はない。自然言語処理能力を磨き上げ、参加して来たプレイヤーがこの世に見切りをつけて「青い鯨」の世界へ行きたいと考えるように出来れば、勝手に高いところに登ってどんどん消えていってくれる様になるはずだ。
この様な「悪意のミーム」はこれからも続々と模倣品やさらに進化したものが出てくるだろう。それはコンピューターウイルスと同じだ。ネット、つまりデジタル情報としてそれを演算して通信する環境がある限り、そして我々がそれを利用し続ける限り増え続けるに違いない。それに対抗できるのは・・・人間の知性だけなのだが。
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TEDでJJエイブラムス監督の話を見た。大変感銘を受けた。
「E.T」は離婚の話、「ダイ・ハード」も離婚の話、というくだりはある意味アメリカ映画はすべて家族の話というとらえ方からすると、家族にとっての危機=離婚なので当たり前なのかもしれない。
そのあとで「ジョーズ」は何の話なのでしょう?というくだりがあって、男が新しい街でやっていけるのか?試練と再生の話なのだというのも、まだ家族の大黒柱=男、父親だった時の話なのでやはり家族の話なのだろう。
やはり人間というのは一人ではなくまず一番近くで家族とつながっている。物語の基本は人間だが、人間は家族を持っているものなのだ。たとえ一人であっても、その背後には必ず家族、親、兄弟がいるのである。
タイトルにも書かれているが「謎の箱」というたとえがとても良い。それが何かはこの動画を見ていただければすぐにわかることだが、これって「旅人のカバン」の話と同じだと思う。ただ「謎の箱」のほうがいろいろと応用が利くんじゃないだろうか。
汎用性がありすぎて特定の作用をもたらすことがなくなる危険もあるが、より高度な概念運用としてはありだと思う。
何のための概念運用か。もちろん物語を作るためである。
動画の中でエイブラムス監督はスターウォーズエピソード4の冒頭を説明しながらいう。女性が何かをロボットに託している、これも謎の箱。その女性は何者なのか?実は反乱軍のリーダーでありお姫様である。これも謎の箱。ルークはベン・ケノービに会う。実はベンはオビ=ワンだった。これも謎の箱。
「謎の箱」とはその人のキャラクターのことであり、箱の外側からは中に何が入っているか見えません。そこから少しずつ中身が見えてくる。人物の行動によって中身(キャラクター)が明らかになっていく。
これは最近読んだシド・フィールドの「映画を書くためにあなたがしなくてはならないこと」に書いてあったことと全く同じで、それをわかりやすく言い換えたものだと解釈できる。
映画を書くためにあなたがしなくてはならないこと シド・フィールドの脚本術
もう一つ、テクノロジーも謎の箱、イマジネーションをわきおこすと同時に、そのイマジネーションを実現する道具として我々の前に存在するし、それは今スマホのカメラですら昔の大きなビデオカメラよりも画質もよいし、それらを編集するソフトも一般の人が手に入れることが出来る時代になったと言っていた。
だが、最後で「トムの手」の話である。このトムはもちろんトムクルーズのことなのだが、ミッション:インポッシブル3の中で鼻の中に爆弾を入れられるシーンが出てくる。この時、もちろん爆弾を入れるのは悪役の俳優なのだが、その人にやらせると加減がわからない。そこで画面外に肘が見切れるように撮ることで、トム自身にその動作をやらせると言うアイディアを思いついたのだ。
そこで最後に「大事なことなので三回言いました!」と言わんばかりに「トムの手!x3」というのだが、やはり面白い映画を作るのはアイディアなんだなと痛感させられた。
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前回観た「ゴースト・イン・ザ・シェル」が久々の空振りだったのでその欠損を埋めるべく公開直後の「メッセージ」を新宿のTOHOシネマズで観てきた。
公開前に「謎の物体」がばかうけと言うスナック菓子に見えるという評判が日本で広がりそれに反応した映画の広報が監督にそう言わせるという記事が載っていたが、映画の方は難解な部類に入るもので、とても「ばかうけ」するとは思えない映画だった。
主役の言語学者を演じたエイミー・アダムスは映画「マン・オブ・スティール」でスーパーマンの恋人役のロイス・レインを演じていた人だが、あの時の初々しい感じはなくちょっと疲れた中年女性(大学の先生なのでそれなりの貫禄がないとおかしいからだろう)に見える。実はこれが既にこの映画の仕掛けだったのだが、それは後ほど。
あらすじは、ある日、地球上十二カ所にほぼ同時に謎の飛行物体が出現する。それぞれの出現場所の国々は、なんとかしてその物体の中にいる「宇宙人」とコンタクトしようと試みる。アメリカでは言語学者と物理学者がコンビで飛行物体の中に入り宇宙人とどうにかしてコミュニケーションを取ろうと奮闘する・・・というはなしである。
二人の学者を派遣したのは軍であり、その目的は「Youはなにしに地球へ?」と聞くためだが、もちろん言葉が全く通じないため、まずは宇宙人が話している言語を解読するために言語学者が呼ばれると言う設定がリアルだ。
だいたい今までの宇宙人はE.Tにしてもすぐ英語を覚えてしまう。もしかして全宇宙でも英語が共通語なのかと思ってしまうぐらい簡単にだ。
言語を操る能力は人類には普遍的に持っているものである。なので同じように言語を使うエイリアンであっても原理的には習得可能であり、翻訳も可能である。
もう一つ、母国語では無い言語を後から習得すると思考様式に変化が生じるという説が紹介される。まずこれがこの物語の一番大きな仕掛けである。
さらにもう一つ、映画の冒頭で主人公のモノローグが入る。「記憶とは不思議である」と言った内容のものなのだが、これもこの物語の大きな仕掛けを表している。
***この後ネタバレ注意!!***
いいですかー、ネタバレをしますよー。
主人公である言語学者は、エイリアンの言葉を習得する事で、エイリアン独自の時間の解釈を習得する。そのことで主人公は自分の人生の情報を脳があらかじめ全部記憶(?)しており、それにアクセスできるようになる事で、危機を乗り切るのである。
映画も小説も始めがあって終わりがある。時間の流れは基本的にそう進むものであると観ている人間は考える。それを逆手に取った仕掛けなのである。
映画の冒頭、主人公の「娘」の映像がフラッシュ的に流れる。生まれてからおそらくティーンエイジの時に死んだと思われる映像だ。ここでこれを観た観客は、すでに娘を産んで、さらに失ったのだなと解釈する。実はそれはまだ「これから起きる事」なのだ。
何だかちょっと騙された気分になるのである。シックスセンスも、主人公がすでに死んでいたという最大の仕掛けがあるが、確かに幽霊が主人公というのは前代未聞であるが、そのことが映画のラストで観客にわかったとき、全ての謎が解けるという意味では気持ちよくだまされることが出来た。
今回のSF的な仕掛け(解釈)によって時間を操れるようになる?と言うオチはなんとなくもやもやする。
今回出てきたエイリアンの姿も劇中で「ヘプタポッド」(七本足)という名前で呼ばれる、タコ型である。昔の火星人のイメージを現代風にした様な形で、高度な知性と文明を持った宇宙人であるが、なんだか霧のような、液体のような所に住んでいて、墨で書いたような文字を吐き出す。どう見てもタコである。リドリー・スコットの「プロメテウス」にでてきたイカ星人に負けない不気味さである。
考えてみれば「プロメテウス」もファーストコンタクトを扱っていたが、今回の宇宙人はあれよりは穏やかで友好的だ。なんせその時間を見る能力を地球人に授けてくれるのである。
映画を観た帰り、コンビニで早速ばかうけを買って食べてみた。左右非対称なその不思議な形を観ながらビールを飲んだ。その”どこかで食べたような”薄い塩味は、とてもよくビールに合った。