常盤平蔵のつぶやき

五つのWと一つのH、Web logの原点を探る。

「ソラリス」を読んだ

ソラリス」を読んだ

 

 


Eテレの番組に「100分で名著」と言うものがあって、もう何年も続いていると思うのだが、その番組が今回スタニスワフ・レムの「ソラリス」を取り上げている。もう既に2回目まで放送されているのであと2回しかないが、この番組のためのテキストは本屋さんに行けばまだ平積みになっていると思う。

 

 

私は中学生ぐらいに小説の中にはSFと言うジャンルがあることを知って、本屋に行っては早川文庫や創元文庫のSFの棚をつらつらと眺めていた頃からそこに「ソラリス」はあった。当時のタイトルは「ソラリスの陽のもとに」だったらしい。当時は共産圏のSFであり、なんか観念的な内容らしいと言う噂(誰から聞いたかは覚えていない)を聞いて全く食指が動かなかった。

 

ソラリスの陽のもとに (1977年) (ハヤカワ文庫―SF)

ソラリスの陽のもとに (1977年) (ハヤカワ文庫―SF)

 

 

これまでに二回映画化されており一回目は1974年にアンドレイ・タルコフスキー監督によって、二回目は2002年にスティーブン・ソダーバーグ監督によって制作されている。実はどちらも観たことはない。タルコフスキーは「サクリファイス」を夜中にテレビでやっているのを観たが、途中で眠ってどんなストーリーだったか全く覚えていない。前回の記事に書いた「ブレードランナー2049」はタルコフスキーを意識して画面を作っている部分もあるという話をYouTube町山智浩さんが話しているのを見たが「ブレードランナー2049」は眠くはならなかった。冒頭の一番観る人間が期待しているシーンにそのオマージュを持ってきたので、眠くなる暇が無いのかも知れない。

 

惑星ソラリス Blu-ray 新装版

惑星ソラリス Blu-ray 新装版

 

 

話がそれたが、2度目の映画化の時に職場で少し話題になり、離婚で心を病んだ同僚が別れた奥さんが見えると言うので誰かが「ソラリス」だと言い始めた。話の内容を知らなかった私は、そういうお話なのかと思って聞いていたが映画を観たり、本を読むことはなかった。タルコフスキー版よりはエンタメ性を高めたハリウッド版の映画「ソラリス」になっていたと思うが、世間でもあまり話題にならずに消えていった気がする。(その理由も実は今回のテキストに書いてあるので参考にされたい)
しかし、今回の100分で名著の番組でも紹介されていたが、SーFマガジンの海外部門でオールタイムベストの一位に君臨しているらしい。そこでこの機会にまずは番組で勉強してみようと思ったのである。

 

 

第一回をみて、そのミステリアスな展開と設定に強烈に惹かれたたので、土曜日の表参道でのシナリオ教室の帰りに青山ブックセンターにいって入手した。そして読み始めるとページをめくる手が止まらない。あっという間に読んでしまった。実際は件のテキストで今回の新翻訳をやった沼野充義さんの解説で、難解な部分や報告書、学術書の体裁を持って書かれているページがあるが、そこをちゃんと読むことでよりこの物語の理解が深まると書かれており、逆にその部分はじっくり腰を据えて読むことが出来たのもスムーズに読めた理由かも知れない。実際にその部分は確かに描写が細かく、フルカラーで奇妙な形状を延々描写してあるのでめんどくさくなると飛ばしたくなるのだが、あえて頭の中でその部分をじっくり思い描きながら読んでみた。

この話の骨格は「異星の文明とのファーストコンタクト」である。少し前にみた「メッセージ」とも繋がるが、あの映画は見た目は全く人類と異なるヘプタポッド(昔の火星人のイメージ)ではあったが、少なくとも言語を持ちそれを人類に向かって投げかけてくれていた。それを言語学者が解読することで異星人からのメッセージを理解し、人類が未来を切り開くと言う話だった。

 

 


しかし、この「ソラリス」は刻々と姿を変えるゼリー状の海がそこにあるだけで、人類からの呼びかけにも一切反応がない。物語の上で、人類はもう何十年もソラリスを研究し続けておりソラリス学成る学術分野まで出来ているのである。この全く意思の疎通の出来ない存在である海に新しい試みといしてX 線をつかってメッセージを送ったことでその観測ステーション内で不思議な現象が起き出す。

 

(ここからネタバレになります)
ステーションにいる人間の意識の奥底に眠っている記憶からもっとも際だった「もの」を取り出して実体化するのである。「もの」と書いたがそれは基本的に人間である。しかし、現実に存在した人間出ない場合もあるのだ。その人が持っている秘めたる欲望や、目を背けてきた恐怖などが現実に血や肉をもって現れるのである。これは、正直恐ろしいことだ。普段隠しているがおぞましいことを考えている人間がいれば、そのおぞましいものが現実になって現れるのである。しかも、それはそれを生み出した人間のそばを離れないのだ。そしてあらゆる手段を使っても破壊することが出来ない。

これだけだとエイリアンのような話になってしまうが、主人公のもとへやってくる「もの」は大変悲しくも美しい思い出の産物なのである。これが、この本を海外部門SFの歴代一位たらしめている理由だろう。主人公の「お客さん」(作中では”もの”はお客さんと呼ばれる)は彼の昔の恋人で喧嘩の果てに薬物で自殺したハリーという女性なのである。これがまた細かく描写してあるのだが、なんと自殺した19歳当時のままなのである。殺伐とした観測ステーションに、かつて愛したままの姿の美少女が現れるのだ。まさにこの一点で「レムたん、わかってる〜」と唸ってしまった。

最もおぞましいものが、最も美しく甘美な形で現れるのである。新体操なんかで出てくるルーマニアとかの選手のような、東欧の妖精たちを思い浮かべてみて欲しい。(ちょっと思い入れすぎか)これは十代の頃に読んでも、その設定と発想の素晴らしさはわからなかっただろう。面白い本に出会うと、なぜもっと早く読まなかったのかと悔やむこともあるが、この本に限っては、読むべき年齢に達したので本の方から私の所へやってきたのではないかと思った。(そういう意味で「お客さん」かも)

なぜかというと、前回のブレードランナー2049でもテーマとなっていた「人間とは何か?我々とは何か?」というテーマで繋がっていたのである。そしてさらにこのソラリスは「人間にとって他者とは何か」というその先の話まで扱う。わからない相手をわからないまま見つめ続ける、と言うスタンスが「他者」に対するときは求められるだろう。それは科学の探究においては基本のスタンスだ。これがあるからこそ真摯に現象に向き合わねばならないことになる。小保方さんのように、自分の都合で自然現象という「他者」を解釈して己の価値基準に組み込むことは許されないのだ。

タルコフスキー版もソダーバーグ版もこの点を変えてしまっているため、レムはその映画化に落胆したそうだが、二度も映画化されてそれでも作者の本当に伝えたいことからずれてしまうのはなぜか?それはこの話のテーマが映画のようなエンタテインメントを追求するメディアには向いていないからではないか。「他者」とどう向き合うかと言うような根源的な問いをエンタテインメントに仕立てるのは無理がある。そこでソダーバーグはハリーと主人公の部分だけをとりあげて、ソラリスの「海」の存在はそのための装置にしてしまったようだ。

確かにお客さんとしてやってくるハリーの存在も本当にうまく設定されており、その姿形だけでなく、記憶を本に再構成された存在のはずなのに、主人公への愛ゆえにまた自殺を図るのである。しかし先ほども書いたが、「お客さん」は不死身だ。それは排除できないと言う意味でもあるし、「お客さん」自体が消えたいと思っても消えられない存在でもあるのだ。この辺の設定は本当にすごい。確かにここだけでもドラマはなり立つ。またまた「ブレードランナー2049」の話で恐縮だがKの恋人としてのジョイは、現実には存在しないプログラムとしての存在だが、Kを本当に愛するプログラムとして描かれている。だからポータブルの端末にコピーしてアンテナを折ってくれなど、本来のハードウエアや供給元としては逸脱したようなお願いをKにする。この構図はまさにソラリスでの「お客さん」としてのハリーとそっくりだ。そして戦いのさなかにラブによって端末を壊される直前Kに「愛している」と告げるところなど、そのプログラムを作った人間の意図を超えて「事実」となっていたと思うのだ。

「ブレードランナー2049」を観た

 

  • 2017年11月3日に渋谷のtohoシネマズで観た。

それから既に3週間が経過しているが、未だにじわじわと感動が蘇ってくる。感動なのか、それとも今回の映画が現在の私にとって現実の写し絵のようになっていることからくるでデジャヴなのかはわからないが、生活の中で主人公であるKの哀しみと共振している自分に気がつく。この感情はなんだろう?(新潮文庫のキャッチコピーだが、ミスチルの歌の歌詞でもあるよね)

今回は前日にはブルーレイで前作を復習のため見直して、万全の体制で見に行った。

しかし、本当に長生きはするもんだ。まさかの35年経って続編が作られるなんて、夢にも思わなかった。先日みたコヴェナントはリメイクだし、エイリアンがネオモーフなど新しいものに置き換わっているし、何より出演者に連続性が無い。リプリーことシガニー・ウィーバーが出ていないのだ。

(ここからネタバレになります)
それにひきかえ今回の2049はハリソンフォードが出ているし、それ以外にもガフやレイチェルまでが出て来るのだ。オリジナルのブレードランナーと完全に地続きの世界の30年後なのである。いや本当に長生きはするものだ。
私も初めてオリジナルのブレードランナーを見たのは月曜ロードショーで荻昌弘が解説している回でみた。今はその解説もユーチューブで見られるのである。本当に長生きは・・・もういいか。

現実には35年経っているらしいが、劇中でも30年が経過しているのがひしひしと伝わってくる。埃を被ったポリススピナーがある!と言うのにひどく感動する。本当にそこに30年あった、あの前作のラストでレイチェルとデッカードはこれに乗って逃避行に出たんだという「事実」にジンとくる。

  • 主人公「K」

今回のライアン・ゴスリング演じる主人公、ブレードランナーである捜査官「K」は、物語の冒頭LA郊外の砂漠で農夫をしているサッパーを「解任」に行った際にサッパーに「新型」と呼ばれることで自分もレプリカントと明かされてしまう。サッパーはNexus8でタイレル社が作った最後のレプリカントモデルだ。それに対してKは倒産したタイレル社を買収して新型のレプリカントを製造する会社、ウオレス社のレプリカントなのだ。


これは前作ではデッカードが実はレプリカントなのではないかという観客の疑問を曖昧にしてきたこととは逆の構成だ。実際今回の映画でもデッカードは見かけは歳をとっているが、物語の後半、kとラスベガスの廃墟のホテルでkが冒頭のサッパーとやった戦いと同じようなタフガイぶりを見せる。つまり今作でもデッカードに対する疑惑は継続中なのである。
しかし今作の主人公Kの物語は、ここを出発点にして、でも実は人間なのかも?という謎かけがはじまるのだ。果たして捜査官Kは人間なのか?

個人的に大いにツボだったのは、警察署に戻って来たKが署長に会う前にテストを受けるシーンだ。感情を刺激する文言による質問とそれへの回答(セルズ!とかインターリンク!とか言う)総合的にどう言う状態かを反応速度?から測っているのだろうか?これは前作のVKテストの変奏なのだろう。VKは人間とレプリカントを見分けることのできる唯一のテストという設定だったはずだが、この続編では左目の白眼の部分に製造番号が入っている。そのため話の終盤に出てくるレプリカントレジスタンス?みたいな集団のリーダーは左眼をくり抜いていた。


恐らくKも左目に数字が打ってありそうなので、自分を人間だと思うならまずそこから調べると思うのだが、それはないということなのかな。それともレプリカントの子供はたとえ女性のレプリカントが産んだとしても、ちゃんと目には製造番号が刻印されて生まれてくるというのだろうか?後述するリドリースコットの生物学的理解と物語のセンスオブワンダーの部分は深いところで齟齬があるようなので、それを判断するのはかなり難しいだろう。原作のフィリップ・K・ディック的な悪夢世界であれば、数字の形の模様が目玉に刻まれていてもいいような気がする。

 

  • ジョイ

愛玩プログラムのジョイが現実の女性ではないからこそ、これでもかと見てる方をギュンギュンさせる。演じている女優さんがYouTubeの映像でラブ役の人と一緒にインタビューを受けているが、普段の姿も劇中の姿もほとんど変わらない。物語の後半に惜しげも無くおっぱいを晒してくれるが、割と小さめ。その辺も含めてプログラムとしてその所有者に可愛がられるための要素で固められていると思う。最後に出てくるときに髪が真っ青で目が黒いのは、その髪型からして恐らく前作のプリスのドールメイクを踏襲していると思われる。

 

  • ラブ

いつもどこか辛そう、あるいは怒っているようなウォレスの側近レプリカント。ウォレスの指令は忠実に守る。LAPDに来て検死官を殺してレイチェルの骨を奪って行く。前髪の形が前作のレイチェルと似ているのはわざとだろう。ある意味似た姿で出てくるというのは亡霊と言えなくもない。もしかしたらレイチェルのレプリカとして作られても良かったのではないか。旧タイレル社を案内するときの役割も前作で一番最初にデッカードに応待したのがレイチェルだった。物語の最後でKに殺されるのだが、首を絞められて死ぬというのがちょっと謎。生きている可能性が高いと思う。続編はないと信じているが、もしあったら出てくるかも。前述のインタビュー映像では全く印象が違う。役柄が役柄だけに当たり前だが大変優しげな美人。タガーを振り回して暴れるタイプには見えないが、劇中では見事に殺し屋を演じていた。

インタビュー記事はこちら


世界で最も美しい顔の女優、そば屋のオヤジに困惑/映画『ブレードランナー 2049』アナ・デ・アルマス×シルヴィア・フークス インタビュー

 

 

  • 署長

渋いおばさん。Kのアパートに来て酒を飲み、意味深なことを言う。と言うか、意味深に思ったんだけど、違うのかな?「奇跡の子」の存在を知り人類の脅威と考え抹殺する事をKに命じる。それを察知したウオレスの司令でラブに殺される。なんか、あっさりラブが侵入できてしまってLAPDの警備が甘すぎる気もするがそれもレプリカントならではということにしておこう。

 


音楽家 泉谷しげるが『ブレードランナー 2049』を語り尽くす!

そもそも、泉谷しげるブレードランナーのファンというのもなんか意外な感じがするが、その発言としてレプリカントは機械であり、人間は機械が好きなんだと認めてしまえばいいのにというようなことを言っていて驚いた。

 

  • 関連動画三本ユーチューブについて

それぞれ面白い。
1 サッパーが助けたのはやはり奇跡の子供なんだろうな。

www.youtube.com

2 ブラックアウトを起こしたのはNexus8?サッパーも8か。

www.youtube.com

3 ウォレスが新しいレプリカントの製造を認めさせるシーン。

www.youtube.com

人間の命令に絶対服従なところを見せる。
タイレルが作ったレプリカントの方が優れている?まさに失われた技術の方が優れているという伝説みたいなものか。

 

  • サントラ について

ハンスジマーの楽曲もやはり前作のヴァンゲリスのものを忠実に引き継いでいると思う。その上で現代風に仕上げてあり聞き応え十分。映画を観に行く前日にiTunesで購入して聴き始めたが、観終わってから聴くと感慨もひとしお。

 

これは押井守好きな私の贔屓目かもしれないが、映画版「攻殻機動隊」の続編である「イノセンス」はその前作との関係、画面の作り方などが今回の「ブレードランナー」と「2049」のあり方にかなり影響を与えているのではないだろうか。孤児院施設に行こうとしていたKが墜落してジョイが心配するシーンなんかは、ネットが繋がっていないスタンドアローンのプログラムだから全く役に立たないが、イノセンスでは天の声として草薙素子の声がバトーに聞こえる。キルゾーンに踏み込んでるわよ、と。ラスベガスにたどり着いたKが巨大な足の像の足元を歩いている時、イノセンスのシーンを思い浮かべてしまった。
もともとの「攻殻機動隊」はブレードランナーレプリカントの設定、記憶を移植する事ができるという部分を利用して「模造記憶」をかまされる、でも、偽の記憶を移植された人にとっては現実と変わらないという部分をうまく利用して別のカタルシスを作り上げていた。

 

  • この映画のテーマは?

我々はどこから来たのか?
我々は何者か?
我々はどこへ向かうのか?
という落書きが紀元前からピラミッドにあったらしい。ここに書かれている人間とは何か?我々は何者か?が今回の映画のテーマだろう。ちなみに「エイリアン・コヴェナント」では、我々はどこから来たのか?がテーマだったらしい。同じ監督が作った映画がそれぞれ人類の根源的な問いを共有している。そして、その問いは最終的に我々はどこへ向かうのか?を問うことになる。「2049」ではそれについても触れている。というか、人類は滅び、レプリカント(人間が生み出した存在)に取って代わられるということだ。これはエイリアン・コヴェナントでも同じで、アンドロイドのデビッド(ダビデ、ゴライアスという巨人を倒す人類と同じ名前らしい)が神々の黄昏(つまり人類の黄昏)というワーグナーの曲をバックに宇宙船のエンブリオ庫に入っていくシーンで終わっている。「2049」ではレプリカントが子供を本当に作れるようになれば、人類は取って代わられるということだろう。

 

シミュレーションの結果、ネアンデルタール人は我々人類が駆逐しなくても絶滅したという研究が先日ネットで紹介されていた。このシミュレーションの条件は、我々現生人類が絶えず供給されるということだが、勿論ネアンデルタール人だって再生産(つまり生殖)で増えるという条件は同じだと思うのだが、それでも住処を奪われて全滅するという結果だったらしい。この結果から考えるとおそらくレプリカントが供給され続ければ、我々人類は確実に滅ぶと思われる。
タイレルが作ったNexusシリーズは、生殖し再生産できる能力があったという設定で、物語の最後で出てくる女性が奇跡の子供(キリスト?)なのだが、地上にレプリカントを満ちさせようとしているウオレスは作れない。子供を探して殺させるというモチーフは、聖書のヘロデ王がキリストの誕生を知って2歳以下の子供を全て殺せという話と同じらしいのだが、やはりウオレスのやりたいことが今ひとつ謎。デッカードも別にオフワールド(地球から離れた植民惑星)に連れて行かなくても、本社で解剖でもなんでもすればいいと思う。この辺がエイリアン・コヴェナントを批判してる町山智浩がリドリースコットは生物学のセントラルドグマを理解していないという趣旨のことを言っていたがそうなのかもしれない。
今は生命をデザインすると言えば、遺伝子を操作する事だが、彼の中では前作にもあった通り目玉なら目玉、脳なら脳を設計し、それらを組み上げて人体を作るというイメージなのだろう。だからこそその機械仕掛けの人形が子供を産むというのが大きな飛躍に思えるのだと思う。必ずしも科学的に正しく理解してることが、面白い話を作る元になるとは限らないという例かもしれない。

  • 挿入歌「オルモスト・ヒューマン」

直訳すれば「だいたい人間」だが歌詞を聞いてると、この映画でテーマとなってる「誰かのために生きることが人間の本質」という事を行動で表して、ラストシーンに階段に腰掛けて空を仰ぎ雪を顔に浴びながら目を瞑るKの姿を示しているようだ。この曲はYouTubeのアニメ作品のラストに使われていた気がするが、アニメ的なキャッチーな楽曲になっているが聞いていると、本編のテーマを歌っている気がする。

 

BLADE RUNNER 2049 (SOUNDTRACK) [2CD]

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「重版出来!」を読んだ(ドラマも見た)

 最近は、シナリオの勉強のためという名目で漫画も久々に買ってきて読んでいる。昔は一定の作者の新作を楽しみにして新刊の発売日が書かれた予定表を定期的にチェックしていたものだが、結婚してからは全くと言っていいぐらい漫画を買うことはなくなった。
杖道をやっていることから、ちょっと興味があった薙刀が題材になっている漫画があると京王線の電車のドアに乃木坂46のメンバーを起用した映画の宣伝として、原作のマンガ作品も宣伝されていたので全24巻を買ってきて読んでみたが、その感想はまたの機会にする。
しかし、この「あさひなぐ」を読んだことで、漫画を読みたい欲求が膨らんできたので何かないかと探していたところ、件の作品を思い出したのである。
(「あさひなぐ」に関しては別のところで書くかもしれない)
 

 

あさひなぐ(1) (ビッグコミックス)
 

 

1 .先にドラマを見た
 
重版出来!」のTVドラマは昨年ぐらいにやっていたのを後半だけちょっと観たが、その会が安井さんがキレる回だったと思う。感情を爆発させるシーンは過去のカットバックだが、大変印象に残った。
 
そこでまず、ドラマの方を観ようと思い、Amazonプライムビデオで観られることがわかったので、1話から最終10話まで観た。余談だが、日本のテレビシリーズは短すぎて海外に売り込めないという話を、シナリオセンターの講習の後のランチで教えてもらった。海外のシリーズはシーズンがたくさんあり、全部で50話とか100話とかそういう規模だが、日本のはよくて一年(子供向けの戦隊モノや仮面ライダーだ)普通の大人向けのドラマはせいぜい1クールぐらいだろう。これでは短すぎて売れないのだそうだ。おそらく、もっと長いスパンで番組枠を売り買いされているのだろう。
 

 

重版出来!  DVD-BOX

重版出来! DVD-BOX

 

 

2.ドラマの主役は黒木華
漫画を読んだ人は知っているかもしれないが、主人公の黒沢心は子熊という印象を持たれるような、元柔道のオリンピック候補選手だ。耳が稽古のためにギョウザ担っているという設定である。結構あれば実際に見るとグロいので流石にドラマでその設定は省かれていたが、それにしても黒木華は華奢なほうで、とても柔道家には見えない。しかし、これが大変素晴らしい演技をしていて、ドラマ上でよく絡む荒川良々とも絶妙な掛け合いを演じており、まずはこの主人公の演技だけで見ることができると思わせるものだった。
安井役の安田顕や五百旗頭役のオダギリジョーも原作イメージにぴったりのキャスト、編集長和田と営業部の生瀬勝彦は原作の絵面とは少し異なるが、役柄としては大変上手くこなしていたと思う。しかし、ドラマ版の一番はやはり中田伯だろう。彼の演技は漫画の中田伯そのものという感じで本当に恐れ入った。役者の名前は知らないが、あの難しい感じをよく表現していたと思う。ムロツヨシとの絡みの回も最高だった。
 
3. 次にマンガを読んだ
漫画原作の方は今すでに10巻まででていて、とりあえずそれは全部読んだ。ドラマの脚本は、7巻ぐらいまでしか出ていなかったのかもしれないが、ピークを御蔵山龍の芸術文化賞受賞をピークに持ってくる演出で、それ以外の作家のエピソードもうまく拾っていて、やっぱりプロの仕事はすごいなと改めて感心した。漫画の方は実はドラマ以外にも漫画雑誌、漫画単行本に関わる人たちがたくさん出てきて、主人公である黒沢心が全く絡まないところで展開しているエピソードもたくさんある。そういうものは勿論綺麗にカットしてドラマの脚本はできている。逆に漫画はその広がりを楽しむ展開になってきているが、そもそも主人公が既に、出版業会に関わる人々全員が幸せになれる言葉「重版出来」を中田伯の単行本第1巻で、発売前から重版を達成している時点で、その先のゴールはもうない。主人公のドラマが無い以上、周辺のドラマに広げて行くしか無いのはわかるが、どうやって落とし所を作るのかが今後作者の腕の見せ所となってくるだろう。
 
4.元ネタが何かを考える
作中の大御所マンガ家、御蔵山龍の絵は実はゆうきまさみが描いていたというのは単行本を買って初めて知ったが、その御蔵山がずっとシリーズで書いている「ドラゴンなんとか」はやっぱりDRAGON BALLなのだろうか。なんかそれだけではなく、いろいろな漫画作品の合成って感じだが。
ドラマの中と原作漫画の中で御蔵山の台詞として「作品を作るってことは自分の心を見つめ続けること」というシーンがあるが、あれを言えるのは大御所だけだとは思うが、果たしてそれを言えるような漫画家はどれぐらいいるのだろうか。
 
5.このドラマのキモはなにか?
ドラマ、漫画ともに「裏方さんのドラマ」という事に尽きる。
バクマン。」とか「G戦場のヘブンズドア」みたいなマンガを主人公にしたドラマでは無く、裏方の編集者の視点から、マンガ雑誌、マンガ業界を描いた物語だ。

 

バクマン。

バクマン。

 

 

 

 

このコミックスのカバーの紙がつるつるしている。積み上げてもちょっとずれると崩れる。本棚に立てかけてても滑っていき倒れている。漫画の中でも紙にこだわる人が出てきて、なめてみて味で紙が何かを当てられるという特技の人が出てくるが、この特殊な紙もそういう風にして選ばれたんだろうなと思わせてくれる。
 
基本シリアスな絵とギャグたっちな絵が交互に現れるが、感情が高まるクライマックスはシリアスでリアルになる。「軽井沢シンドローム」の頃のたがみよしひさっぽい。正直たがみよしひさのように、完成された線ではないので、その振幅についていくのが難しいところもあるが、それも先達がそのような様式を確立していることで読者の方にリテラシーが準備されているからであり、やはり先達は偉大なのだなあと思った。
 
もう一つの肝は中田伯のキャラクターだろう。
この漫画のかなり重要な部分を占める「ピーブ遷移」の作者「中田伯」のキャラクター造形が面白い。家庭環境による複雑な過去を持ち、明らかに発達障害である。父親、母親それぞれとの関わりが徐々に明らかになる。父は介護施設、母は再婚相手とうまくやっている。
ピーブのテーマは劇中で黒沢心がはっきりと言っている「恐怖と支配」。あのトゲの生えた触手とたくさんの目は、エゴや欲望に姿形を与えたものなのだろう。己の欲望を全うするために他者を支配する。生存のための競争の中にある生命なら、常にその力の行使を問われるはずである。
中田伯が子供の頃「犬の首輪でつながれていた」の真相を描くことで全く別の映像を見せるところはうまい。鎖は実は足首に巻かれており、首輪という時点で首に巻かれていたと想像する裏をかく描写だ。
 
6.おまけ(ドラマの主題歌「エコー」)
この曲が素晴らしい。曲中の歌詞には漫画の話は一切出てこないが、漫画のセリフ、各週のアオリ、そして主人公が机に貼る言葉等がそれぞれ「エコーを持った言葉」と考えると、非常にこの内容にマッチしている選曲だと思った。

 

ゅ 13-14

ゅ 13-14

 

 

「エイリアン コヴェナント」を観た

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2017年10月8日の新宿は人でいっぱいだった。当たり前か。
見る前に昼飯を食べようと東口から映画館まで歩くあいだに何かないかと探したら、なんと沖縄ソーキそばなどを食べさせる店があったので立ち寄った。
ゴーヤチャーハンと沖縄そば(ハーフ)みたいなセットで九百円だった。
味は、大変満足いくものだった。

retty.me


ちょっと食べ過ぎ気味で、食べ終わったのが13時ちょっと前だったので、急いで映画館に向かった。歌舞伎町に向かう横断歩道でゴジラさんこんにちは。新宿TOHOシネマズで13:10の回であったが、結構人が入っていた。ネットで予約したチケットを機械でプリントアウトしてもらい、指定の席に座る。

始まる前に別に耳をダンボにしていたわけではないが、横に座っていた20代と思しき二人づれの女性の会話が面白かった。

最近読書会でSFの話になり、そう言えばSF映画観ていないなということで、もう一人がしばらく前に「オデッセイ」を見たので同じリドリー・スコットつながりでこの映画を選んだというような話だった。果たして「プロメテウス」は見ているのかどうかは会話からは窺い知れなかった。それを聞いたも一人の連れは、「僕はSFファンです」みたいなゴリゴリの外見の人が嫌いという話をして大いに笑っていた。まあ、いまどきそんな人あまり見かけない気がするが・・・。私の反対側に座っていた若い男性はでかい紙カップでジュースを飲みながらずーっとポップコーンを食べていた。もしかしたらゴリゴリのSFファンだったのかもしれない。

 

 

私が今回の映画を見ることにした理由は、前作「プロメテウス」が、割と面白かったからだ。(そう感じたのは少なくとも間違ってはいなかったと思う)それなならばやはり続きが見たくなるのが人情というものだろう。
前作で宇宙に飛び立ったデビッド(アンドロイド)とショウ博士はどうなったのか?それが解れば、この映画を見た甲斐があったと思うのではないか。その考えは間違っていなかったが、それ以上にお釣りをもらってしまった。

 

 

##ここからネタバレになります。

 

エイリアン自体は今のところ4まで作られている。そう言えば5を作ろうとして色々もめた見たいだが、これはなんせ本家が作り直しているわけだから、リドリー・スコットとして、こういうものが正統エイリアンなんだと見る方は考えるだろう。このことは結構重いと私は思う。映画はやはり徹頭徹尾監督のものだからだ。

 

 

エイリアンというのはH・R・ギーガーの絵が元になってできたお話だが、その絵に込められた思いをリドリー・スコットがこういう風に受け止めたというものを形したものなんだろう。それはズバリ「科学技術の時代に生きる人間の狂気の具現化」ということになるのではないかと思う。

 

ネクロノミコン 1 (パン・エキゾチカ)

ネクロノミコン 1 (パン・エキゾチカ)

 

 

それをまさに具現化したのは、実はマイケル・ファスベンダー演じるアンドロイドなのだが、その人間そっくりの存在、アンドロイドを作り出すということが孕んでいる歪んだ欲望に姿形を与えたのがあのビッグチャップなのではないだろうか。そう考えるとちょっと話が複雑になるが、そういう構造になっていると思う。

 

作中でデイビッドはプロメテウスで出てきた「切れたリング」のような形の巨大な宇宙船を、もともとの惑星に向けて飛ばすことに成功したようだ。そこで、プロメテウスで出てきたあの「壺」を空中からばらまく。あの泥というか黒い霧のようなものの作用で、瞬く間に滅びる宇宙人。しかも、それはデビッドが意図してやったものだった。
そして自分を直してくれたショウ博士にも歪んだ探求を続けていたようだ。その過程を記録したと思われるスケッチはそのままギーガーの絵である。

空中から撒いた「壺」由来の霧は、動物に寄生することで宿主の遺伝子と融合し、新たな生命として繁殖することができる。だから急速にその星の動物は殺しあって破壊されたのだろう。それ以外の植物などの生態系はなぜ残っているのかは謎ということなってしまうが、微生物はその範疇にないのかもしれない。その辺はそもそもプロメテウスの時からちょっと甘いというか、あの泥を飲まされただけで死んでしまうというのは、生物学的に真面目に考察するとおかしい気がするが、この作品世界はそういうものだと考えるしかない。(この辺最後に紹介している町山智浩の解説によると私の推測はほぼ合っていたようだ)

 

そう考えると、あのプロメテウスで最初に訪れた「遺跡」みたいな場所はなんのための場所だったのか?まあどこかにネタバレサイトみたいなものがあるのかもしれないが、もう今日続編を見た後だとなんかどうでもいいと思える。

 

途中で新旧のアンドロイド同士の深いんだか深くないんだかよくわからない話もあった。「バイロンではなくシェリー」とか元ネタを探るといろいろ面白いのかもしれないが、デビッドが研究を続けている場所がいかにもアフリカとか東南アジアの住居を思わせる。大航海時代から西欧の帝国主義の時代のコロニーの雰囲気である。そこに来た自分の同型のアンドロイド、ウォルターに対して深い親愛の情(機械にそんな物があるのか?)を示すシーンで、デビッドが要するに「狂ってる」と言うことがわかる。

 

そして後半、エイリアンを撃退、あるいはエイリアンからの逃走の段階になると、もうすでにこれまでのシリーズで描かれてきたシークエンスのオンパレードだ。
見た目からなんとなく弱々しいイメージのダニエルスが空飛ぶ着陸船の上で体にワイヤーを付けて大暴れするシーンは、映画配給会社(20世紀フォックスか)からの要請で追加されたんじゃ無いかと思う。クレーン(というか巨大なマジックハンド)の中で粉々になり、体液で溶けかかっているクレーンの爪を観ても、このシリーズを最初からずーっと見ている我々の世代には、全く終わった気がしない。
案の定、宇宙船内にエイリアンが再び現れる。この時点でなぜ?と考えると疑いは確実にアンドロイドが入れ替わってるというトリックに思い至るはずなんだが。
とにかく、これまでのシリーズを全く見たことが無くて、前作「プロメテウス」は観ました、と言う人たちにはあっと驚く展開なのかもしれない。

 

見終わって、隣の女性のうち一人が
「最近の小難しいSF的な話になってるかと思ったけど、オリジナルと全く変わってなかった」
と言ったが、私の感想も全く同じである。しかもアレが現れると必ずぐちゃぐちゃ、ドロドロになることがわかってる分たちが悪かった。
しかも今回は、オリジナルと違い最後に生き残ったダニエルスとテネシーは確実にバッドエンドへ向かう。その分後味も悪くどうしてもその後を観ないと気が済まない感じだ。既に次回作は制作決定しているらしいが、20世紀フォックスが考えを変えないことを祈るばかりだ。

 

最後に、町山智浩さんのWOWOW映画塾「プロメテウス」(予習編・復習編)のリンクを張っておきます。


町山智浩の映画塾!「プロメテウス」<予習編> 【WOWOW】#93


町山智浩の映画塾!「プロメテウス」<復習編> 【WOWOW】#93

この解説を観てからもう一回観ると本当によくわかりました。

あと、コヴェナントに関しても解説しているのがあったのでこれも貼っておきます。


【町山智浩の映画時評】~エイリアン:コヴェナント~

「散歩する侵略者」を観た

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土曜日、自転車で転んだ。

 

角を曲がろうとしたら、曲がった先にピザの宅配ボックスのようなものを荷台に備えた3輪バイクが佇んでおり、ちょいと前ブレーキをかけたらあっけなく前輪が滑った。

そこから先は後からの想像だが、まず、左手を地面についた。

(左手の掌底のあたりがしばらくジンジンと痛かった。)
その後さらに腕から肘が地面について

( 腕時計のガラスが割れていた。)
最後に頬骨がアスファルトと触れ合った。

(地面に頬ずりしたのは久しぶり、というか初めてかも)

そんなに強くではなかったが顔が地面に着くまで首や胴体が支えきれなかった。
痛みというものはかなり気分を悪化させ、イライラさせるものだということを久しぶりに実感した。家に帰ってから2時間ほど左手の掌底を冷やしていてようやく、じんじんが治った。

 

その翌日の日曜日、表題の映画を観に行った。

場所は立川のシネマ2である。最近ここで「君の名は。」とか「シン・ゴジラ」とか立て続けに観に来ているが、なかなかいい映画館だと思う。

 

君の名は。

君の名は。

 

 

シン・ゴジラ Blu-ray2枚組

シン・ゴジラ Blu-ray2枚組

 

 

 

建物がモダンな感じで一見美術館のような感じである。シネコン風の作りだが、画一化したショッピングモールなんかにあるTOHOシネ○ズなんかとはちょっと違って殺伐としているのがなんかいい感じだ。

 

なぜこの映画を見に行くことにしたのか?実は全く直前まで公開されることを知らなかった。

金曜日の鶴瓶の番組で長澤まさみがゲストで出ていて、番組で宣伝していたのだが、タイトルからしてまさに私好みの内容の映画だったのでこれは是非観なければと思い、その直後に予約しておいた。

 

散歩する侵略者 (角川文庫)

散歩する侵略者 (角川文庫)

 

 

前置きがずいぶん長くなったが、この映画を観た感想を書く。恐らくネタバレになるので観ていない人は、観てから読んだ方がいいかもしれない。上にリンクを張ったように小説もあります。

 

あらすじは、地球を侵略に来た宇宙人がなぜか攻撃力もあるのに、まずは人類のことを理解しようと3人の斥候を送り込んでくる。そいつらは人間から概念を奪うので、奪われた人間はその概念が消失しわからなくなってしまう。しかし、その「概念」から解放されることで幸せになったり、不幸になったりもする。


最終的に宇宙人は侵略を始めるが、ある概念を奪って、それを知ったことで侵略を中止するというオチだ。ある概念というのがまさに「○は地球を救う」のアレなのだが、それ自体は全然間違っていないと思う。

 

もともとこの映画の原作は小説だが、そのさらに元は演劇なのだ。そう考えてみると劇中で扱われる「概念」は、演劇を観ている観客に考えさせる仕掛けとして選ばれていることがわかる。そこがちょっとこの映画を説教臭くしていると思う。

www.ikiume.jp

でも、それを差し引いても、私はこの映画を観て長年のモヤモヤが少し晴れた気がした。そのモヤモヤとはズバリ「狙われた街」だ。


ウルトラセブン第8話「狙われた街」は実相寺昭雄監督が撮った同シリーズの中でも傑作と言われているものだ。その中で地球を侵略しに来たメトロン星人はモロボシダンに向かって「我々が手を下さなくても地球人はお互いに殺しあって滅亡するだろう」と捨て台詞を吐いてからウルトラセブンに倒されるのだ。
(余談だが、メトロン星人って魚を上から見た姿に似ていると思う。だからどうということはないが。)

 

 

観る前にこのタイトルを聞いただけで、この話の、言わばアンサーになりうる映画だと感じたのだ。果たして、どうだったか。

松田龍平演じる宇宙人は、なぜか散歩ばかりして地球人への理解を深めて(?)いる。同じ勢いで犬に話しかけ、噛まれてひどい目にあったりもする。

その妻の役の長澤まさみは、宇宙人に乗っ取られる前に夫が浮気していたことに怒っているため、基本姿勢が常に攻撃的だ。

この二人の掛け合いが、ちゃぶ台を挟んで話し合っていたモロボシダンとメトロン星人の雰囲気を引き継いでいると感じた。そして、ウルトラセブンにはなれない長澤まさみだからこそ、男と女としてあのラストの展開へともっていくことが出来たわけで、数十年を経て一つの答えをもらえた気がしてちょっとうれしかった。(あくまで個人の感想です)

 

またまた余談だがこの長澤まさみの演技が素晴らしかった。金曜日の鶴瓶の番組でも鶴瓶が絶賛していたが、演技に安定感がある。安心して見ていられる。やっぱり若い宇宙人役の2人なんかは、決して下手ではないし、難しい役どころを堂々とやっているのは確かだ。だが、長澤まさみの安定感というのはまさに映画を背負う屋台骨として物語の中心に居ることだ。女優として脂が乗ってるということはこういうことなんだなーと思った。

 (全然関係ない写真集ですが・・・)

Summertime Blue―長澤まさみ写真集

Summertime Blue―長澤まさみ写真集

 

 そういえば、この長澤まさみは「君の名は。」にも先輩の役で出てたのを思い出した。あの時の役と比べても、今回の役柄そのものが彼女の演技に合っているのかもしれない。「あー、やんなっちゃう」と言うセリフにはしびれた。

それを言ったら長谷川博己は「シン・ゴジラ」で堂々の主役をはっていたが、今回はちょっとヤクザなジャーナリスト役だった。監督からは「 カート・ラッセル」風で、と言う注文だったらしいが。

 

ニューヨーク1997 [Blu-ray]

ニューヨーク1997 [Blu-ray]

 

 この長谷川博己のコメントで、ラストの方の演技で「痛みという概念」がないのであのような動きになった、というものがあった。やっと冒頭の話に繋がるのだが、痛みって概念として知らないと、痛くないもの・・・では無いと思った。

宇宙人の方は実体を持たない「精神寄生体」のような存在なので、生物としての基本的な原則が通じない・・・と言うことは無いはずだ。生物は生存本能、それは痛みや恐怖を有益な情報として関知できるからこそ、生命たり得ると思う。それは我々と違う組成の存在であっても同じはずだ。

地面に掌底を食らわして、逆に頬骨を殴られたわけだが、そこから来た鮮烈な痛みは、概念では無く実感だ。それが無い生命体は進化出来ない。と私は思う。

青い鯨

久々に総毛立つようなニュースを読んだ。ネットの記事を読んでここまで不快な感情を持つのは久しぶりなきがする。

gigazine.net


この「青い鯨」を「ゲーム」と呼んでいいのかどうかはさておき、これを考え出してロシアで実行していた犯人はすでに逮捕されている。しかし、この男がネットに公開しているやり方、もしくはゲームのルールは既にネット上に拡散し、中国やインドでも模倣されている。被害者も出始めているようだ。

このロシア人の男の主張では、人間には二種類いて、生きていて意味のある人間と、意味のない人間だそうだ。このシステムは後者の人間を峻別して自ら「別の世界」に行ってもらうためのものだそうだ。

さあ、困った。現在のところ、これはゲームマスター(つまり人間)が、クエストをこなしたプレイヤーに自然文で回答をし続けなければ成立しない。

これは映画「羊たちの沈黙クラリス訓練生が初めてレクターのところにインタビューに来た時に、隣りの牢にいた男に「あるもの」をかけられる。それに怒ったハンニバルレクターは、牢屋の隣から24時間その男にありとあらゆる罵声を浴びせ続けて、その男が自ら舌を噛んで死ぬまで追い込む。この構図と基本的には同じで人間の人間に対する悪意と行動がなければ出来ないことである。

 

 

ところが、この「ゲーム」青い鯨は、ネットワーク上からスマホやコンピューターと行った端末を通して、プレイヤーに働きかけるものだ。
現在のところAIが一番苦手なものは自然言語処理ということだが、そこさえ計算機の演算能力がこの先も増大していけば、いつか必ず可能になるだろう。

 

映画「ターミネーター」で未来はスカイネットという人工知能が支配するネットワークによって人類は抹殺される。そのためスカイネットは若き日のカリフォルニア州知事、アーノルド・シュワルツェネッガーを模したロボットを使って、直接人類をターミネートしようとする。

 

 

ところが、もしこの「ゲーム」をスカイネットが実行可能になれば、あんな作るのに手間のかかる「鋼鉄の僕(しもべ)」を作る必要はない。自然言語処理能力を磨き上げ、参加して来たプレイヤーがこの世に見切りをつけて「青い鯨」の世界へ行きたいと考えるように出来れば、勝手に高いところに登ってどんどん消えていってくれる様になるはずだ。

 

この様な「悪意のミーム」はこれからも続々と模倣品やさらに進化したものが出てくるだろう。それはコンピューターウイルスと同じだ。ネット、つまりデジタル情報としてそれを演算して通信する環境がある限り、そして我々がそれを利用し続ける限り増え続けるに違いない。それに対抗できるのは・・・人間の知性だけなのだが。

PUBG

プレイヤー・アンノウンズ・バトルグラウンド
こんな名前のゲームがある。
FPSファーストパーソンシューティング)、つまり一人称視点の撃ち合いゲームだ。これまでにも色々なシチュエーションのFPSはあるが、ほとんどが戦争だとかエイリアンが攻めてきたとかそういう状況の中で敵を撃ち倒して勝利を獲得するのが目的になる。しかし、このゲームは一風変わっている。プレイヤーはそのタイトルの通りアンノウン、どこの誰とも知れない人達である。それがある島に放り込まれる。文字通りパラシュートで落っことされるのである。
 
この方式は映画「プレデターズ」で冒頭に登場人物がジャングルに放り込まれる方法と全く同じだ。多分、このゲームをデザインした人間もあの映画から着想を得たに違いない。あの映画の中でもそうだが、どうやって彼らが集められたかは全く描写されない。このゲームもプレイヤーは参加した途端にパラシュート降下している。そして地面についた途端からサバイバルの始まりだ。目の前には外国の農村地帯のような風景が広がっている。そこにあるものを利用して最後の1人になるまで生き残れたら勝ちという単純なルールである。
ここの所、漫画や映画などでいわゆる「デスゲーム」系の話が多いが、実際にこのゲームを始めてみると、もちろんゲームだから実際に死ぬわけではないという前提があるが、奇妙な高揚感を覚える。実際に敵となる他のプレイヤーに会うまでは、かなり静かである。先に述べたような戦争系のFPSと違って、雲霞の如く敵が押し寄せるというような状況はない。むしろのどかと言えるような景色の中に放りだされた自分自身と向き合うことになる。
 
向こうの方に家が見える。そこに向かって慎重に進む。あたりに人影はない。しかし、どこから狙われているかわからないというような緊張感はある。ドラマ「ウオーキングデッド」のアメリカのような感じだ。家の中に入る。誰もいないようだ。部屋から部屋を見回して歩いていく。武器が落ちていたりする。それを拾う。静かだ。とりあえず外に出てみるか。バンバン!といきなり変な女に撃たれてゲームオーバーだ。
こんな感じで淡々と展開する。なんとなく感じは伝わっただろうか。とにかく、これまでの戦争系のFPSとは一線を画すゲームだ。最近はNintendo Switchで「Splatoon2」をやる事の方が多いが、これはチームを組んで撃ち合いもするが、勝利のキモは「陣取り」すなわちどれだけたくさんフィールドを塗ったかで勝敗を競うゲームをする。これはこれで楽しい。それ以外にも任天堂のゲームらしく楽しめる仕掛けが満載だ。
 
「プレイヤーズ・アンノウン・バトルグラウンド」をやりたくなる気分はあまりいいものではないかも知れないが、勝っても負けてもなんとなくバトルグラウンドに身を置きたくなる時があることも確かである。