常盤平蔵のつぶやき

五つのWと一つのH、Web logの原点を探る。

「スターウォーズ Episode 9 スカイウオーカーの夜明け」を観た

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○令和二年の幕開け
皆さま、あけましておめでとうございます。本年も当ブログをよろしくお願いします。

○最終回だよ、全員集合!
2019年、令和元年の師走、22日の日曜日にTOHOシネマズ日比谷の4番スクリーン(IMAX、3D)でスターウオーズ、ナンバーシリーズの9作目「スカイウォーカーの夜明け」を観てきた。ご存知のようにスターウオーズは原作者であるジョージ・ルーカスが監督したEpisode 4 ”New Hope” から始まってEpisode 5 ”Empire strikes Back” Episode 6 ”Return of the JEDI”で一応の完結を観た後、ファンからの強い要望でEpisode1 ”Phantom of Menasu" Episode 2 ” ” Episode 3 ” ” の三部作を作った後、今度はファンの強い反発に心が折れたジョージ・ルーカスは7から9の三部作は作らないと宣言。それをディズニーがルーカスフィルム毎買い取って今回のEpisode 7 ”Force Awaiking” Episode 8 ”The last JEDI” が作られた。そして今回そのすべての最終作となるEpisode9 ”Rise of the Skywalker”だ。

ジョージ・ルーカスの手を離れて
Episode1から3に対してファンが強く反発した理由は「フォースの源は”ミディクロリアン”にある」という設定だった。この用語が劇中に初めて出てきたときには私もかなりの違和感を覚えた。修行とか努力はその才能を開花させる為には必要だが、結局はそういう素質(ミディクロリアン)を持ったものだけがフォースを持っていて、普通の人間にはそんな力はないという設定は、ある意味フォースという神秘的な力を「生まれ=遺伝的なもの」に由来するものとして、選ばれたものの特権にしてしまった。物語の中に出てくるある種の超能力に対してなんらかの設定を用意するということ自体は、アニメやSFの世界ではよくある事だ。
ところで前回神話の力という本を読もうと思って出張に持っていったのだが、読めなかったという話をしたが、改めてその内容を読んでみると、なんとルーカスはこの本の著者が語った内容に強く影響を受けているらしい。その結果、この本の対談はルーカスフィルムのあるパークでおこなわれることになったという。

 

 

スターウォーズは現代の神話
そもそもスターウォーズは4から6の後から作られた1から3を観ると明確だが、神話的な話である。「神話的な話」と言うのは何かというのは「神話の力」を読んで欲しいと思うのだが、私の解釈を簡単に言うと「世界の見方に関する話」ということだ。さらに、その本によると、現代は既に神話を失った世界である。神話を失うとは、世界の見方に関する物差しがない事を意味する。スターウォーズの様な映画は、神話の持つ力を現代に蘇らせんとする試みなのだ。
この世界は、以前「ゴーストストーリー」で触れた生の世界ではなく、人類がそのときその時に集合的に作り上げた<世界>である。つまりその<世界>に影響を及ぼすためにはアートの世界から語るしかない。映画も立派なアートだ。

 

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○レイの素性(ここからネタバレになります)
ルーカス的には英雄は、生まれながらに素質を持ち、その力が発揮された時に奇跡が起こり、その他大勢を救うという位置付けのものだ。4から6のルークは正にこの役目を果たして、悪の枢軸であるダース・シディアスを倒して銀河に平和をもたらす。
ルーカスの関わらない7から9で、新たに主人公となったレイは、1のアナキンの様に砂漠で最下層の人間として生きていた。その素性は謎で、幼い頃に両親に捨てられてその星に一人残された事になっていた。しかしアナキンは、父がいない事が示唆されており、つまりキリストと同じく処女受胎で生まれた事を匂わせている時点でもうメサイヤの素質十分だ。
それに対してレイは7の時は誰かの子ではなく、孤児としての存在だった。それは、レイと並行して動き出すフィンが子供の時に拐われて兵士にさせられている姿と同じに見えた。しかし今回の9での結末により、その後の二人の着地地点は大きく分かれた。
今作でフィンは同じく、洗脳が解けてファーストオーダーから逃れて自由に暮らしている人間が自分以外にもいた事を知る。それに対してレイの方は、その出自が、強力なフォースを持ちながらそのダークサイドに堕ちた親玉、パルパティーンの孫娘だということが明らかになった。しかも、そのパルパティーン自身が、クローン技術で蘇ってかつての帝国を蘇らせるべく裏で全てを操っていたのである。

 

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○神々の戦いと民衆の戦い
クローン技術で蘇らせたのは他ならぬ大衆の中にある邪悪さということになる。帝国が支配する世界、軍事力で権力を守り維持していくことの方から利益を得る人たちがそれを呼び戻したと言うことになる。
ジェダイ同士の争いは、神々の闘いで、その結果として生まれた世界の戦いに巻き込まれた人間たちの戦いがあるというのがスターウォーズの世界観のようである。
そう考えると、やはりフォースとは金、それをたくさん持っている人間、権力者同士の争いで世界は左右されているという現代の世界情勢を7から9の世界観は鏡像としていると見るのが一番しっくり来る。ラストで、レイがスカイウォーカーと名乗る事は、権力者に正しくあって欲しいと言う大衆からの願望であり、それがあまりカタルシスを呼ばないことは、現実との剥離の大きさからなのかもしれない。

 

 

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○スカイウォーカーの系譜
ベン・ソロ=カイロ・レンの方は、また複雑だ。叔父がルーク、祖父がベイダー、そして父がハン・ソロである。彼は、7で登場した時からヘンテコなマスクをかぶっており、ベイダーのマスクの残骸を大切に保管している。つまり、勝手にベイダーの意思を継ぐものとして振る舞っている。そうなったきっかけは、ルークのもとでジェダイの修業をしていた時に、ルークに殺されそうになって逆にルークの他の弟子を皆殺しにして出奔したのである。
善と悪、神と悪魔の戦いがベースにあるため、力を持つものは善悪どちらかに分かれて戦うものというのがこの世界のルールのようだ。それにより、自分はベイダーの孫だし、悪の側なのだという考えに取り憑かれたのがカイロ・レンなのだろう。そしてかつてベイダーがルークを悪の道に誘ったようにレイにも、一緒に世界を支配しようと誘う。しかし、レイの力は徐々にカイロ・レンの力を上回り、ついにはレンをライトセーバーで刺し殺す。しかし、その直後、フォースによってレンを助けるのである。もはや、次元の違う力を目の当たりにしたレンは、自分が間違っていた事を悟る。そこからは、ベンソロとしてレイのサポートに周り、最後は自らのフォースを全て与えて役目を終える。

 

 

○物語の終わり、終わりは始まり
ラストシーンでレイが名前を聞かれて、更にファミリーネームを聞かれると言うシーンがある。名前を聞かれて名乗る、と言うことで真っ先に思い出すのは「ロボコップ」のラストシーンである。オムニ社の備品として人間の時の記憶を消されたはずのロボコップが、オムニ社の社長に「名前は?」と聞かれて「マーフィーだ」と名乗る。あの瞬間機械の身体と人間の心をもった存在として生きていくという事を受け入れたのだと思う。
4の始まりの地、ルークの育ての親の家に来て、ルークとレイアのライトセーバーを地面に埋めるレイは、何を考えてここに来たのだろうか。その答えとして、その際に地元の老婆に名前を聞かれたときにどう答えるか?があったと考えると「レイ・スカイウォーカー」と答えたことがロボコップのラストで「マーフィー」と答えたこと比べて、ストンと腹落ちしたとは言いがたい。しかし、時間が経って今考えてみると「マーフィー」のファーストネーム(ギブンネーム)だけでなく「スカイウォーカー」というファミリーネームを名乗ったことに深い意味があることに気がついた。
まあ、サブタイトルが「スカイウォーカーの夜明け(Rise of the Skywalker)」なのだから当たり前かもしれない。レイが「スカイウォーカー」を名乗ることは日本的に言えばお家再興の決意表明なのだろう。スカイウォーカーの系譜がすべて滅びた後でスカイウォーカーを名乗ることの意味はそれしかあるまい。また、宇宙の平和を願うものは、よいJEDIとして「スカイウォーカー」を名乗れば良いと言うメッセージかもしれない。
8のラストで名も無き少年が箒をふっと手に引き寄せる姿があった。それは8でルークが言った「私が最後のジェダイではない」と言うことがと呼応していたと思うが、そのような少年もいつか「スカイウォーカー」を名乗るかもしれないと夢想を膨らませてみた。