常盤平蔵のつぶやき

五つのWと一つのH、Web logの原点を探る。

「ソラリス」を読んだ

ソラリス」を読んだ

 

 


Eテレの番組に「100分で名著」と言うものがあって、もう何年も続いていると思うのだが、その番組が今回スタニスワフ・レムの「ソラリス」を取り上げている。もう既に2回目まで放送されているのであと2回しかないが、この番組のためのテキストは本屋さんに行けばまだ平積みになっていると思う。

 

 

私は中学生ぐらいに小説の中にはSFと言うジャンルがあることを知って、本屋に行っては早川文庫や創元文庫のSFの棚をつらつらと眺めていた頃からそこに「ソラリス」はあった。当時のタイトルは「ソラリスの陽のもとに」だったらしい。当時は共産圏のSFであり、なんか観念的な内容らしいと言う噂(誰から聞いたかは覚えていない)を聞いて全く食指が動かなかった。

 

ソラリスの陽のもとに (1977年) (ハヤカワ文庫―SF)

ソラリスの陽のもとに (1977年) (ハヤカワ文庫―SF)

 

 

これまでに二回映画化されており一回目は1974年にアンドレイ・タルコフスキー監督によって、二回目は2002年にスティーブン・ソダーバーグ監督によって制作されている。実はどちらも観たことはない。タルコフスキーは「サクリファイス」を夜中にテレビでやっているのを観たが、途中で眠ってどんなストーリーだったか全く覚えていない。前回の記事に書いた「ブレードランナー2049」はタルコフスキーを意識して画面を作っている部分もあるという話をYouTube町山智浩さんが話しているのを見たが「ブレードランナー2049」は眠くはならなかった。冒頭の一番観る人間が期待しているシーンにそのオマージュを持ってきたので、眠くなる暇が無いのかも知れない。

 

惑星ソラリス Blu-ray 新装版

惑星ソラリス Blu-ray 新装版

 

 

話がそれたが、2度目の映画化の時に職場で少し話題になり、離婚で心を病んだ同僚が別れた奥さんが見えると言うので誰かが「ソラリス」だと言い始めた。話の内容を知らなかった私は、そういうお話なのかと思って聞いていたが映画を観たり、本を読むことはなかった。タルコフスキー版よりはエンタメ性を高めたハリウッド版の映画「ソラリス」になっていたと思うが、世間でもあまり話題にならずに消えていった気がする。(その理由も実は今回のテキストに書いてあるので参考にされたい)
しかし、今回の100分で名著の番組でも紹介されていたが、SーFマガジンの海外部門でオールタイムベストの一位に君臨しているらしい。そこでこの機会にまずは番組で勉強してみようと思ったのである。

 

 

第一回をみて、そのミステリアスな展開と設定に強烈に惹かれたたので、土曜日の表参道でのシナリオ教室の帰りに青山ブックセンターにいって入手した。そして読み始めるとページをめくる手が止まらない。あっという間に読んでしまった。実際は件のテキストで今回の新翻訳をやった沼野充義さんの解説で、難解な部分や報告書、学術書の体裁を持って書かれているページがあるが、そこをちゃんと読むことでよりこの物語の理解が深まると書かれており、逆にその部分はじっくり腰を据えて読むことが出来たのもスムーズに読めた理由かも知れない。実際にその部分は確かに描写が細かく、フルカラーで奇妙な形状を延々描写してあるのでめんどくさくなると飛ばしたくなるのだが、あえて頭の中でその部分をじっくり思い描きながら読んでみた。

この話の骨格は「異星の文明とのファーストコンタクト」である。少し前にみた「メッセージ」とも繋がるが、あの映画は見た目は全く人類と異なるヘプタポッド(昔の火星人のイメージ)ではあったが、少なくとも言語を持ちそれを人類に向かって投げかけてくれていた。それを言語学者が解読することで異星人からのメッセージを理解し、人類が未来を切り開くと言う話だった。

 

 


しかし、この「ソラリス」は刻々と姿を変えるゼリー状の海がそこにあるだけで、人類からの呼びかけにも一切反応がない。物語の上で、人類はもう何十年もソラリスを研究し続けておりソラリス学成る学術分野まで出来ているのである。この全く意思の疎通の出来ない存在である海に新しい試みといしてX 線をつかってメッセージを送ったことでその観測ステーション内で不思議な現象が起き出す。

 

(ここからネタバレになります)
ステーションにいる人間の意識の奥底に眠っている記憶からもっとも際だった「もの」を取り出して実体化するのである。「もの」と書いたがそれは基本的に人間である。しかし、現実に存在した人間出ない場合もあるのだ。その人が持っている秘めたる欲望や、目を背けてきた恐怖などが現実に血や肉をもって現れるのである。これは、正直恐ろしいことだ。普段隠しているがおぞましいことを考えている人間がいれば、そのおぞましいものが現実になって現れるのである。しかも、それはそれを生み出した人間のそばを離れないのだ。そしてあらゆる手段を使っても破壊することが出来ない。

これだけだとエイリアンのような話になってしまうが、主人公のもとへやってくる「もの」は大変悲しくも美しい思い出の産物なのである。これが、この本を海外部門SFの歴代一位たらしめている理由だろう。主人公の「お客さん」(作中では”もの”はお客さんと呼ばれる)は彼の昔の恋人で喧嘩の果てに薬物で自殺したハリーという女性なのである。これがまた細かく描写してあるのだが、なんと自殺した19歳当時のままなのである。殺伐とした観測ステーションに、かつて愛したままの姿の美少女が現れるのだ。まさにこの一点で「レムたん、わかってる〜」と唸ってしまった。

最もおぞましいものが、最も美しく甘美な形で現れるのである。新体操なんかで出てくるルーマニアとかの選手のような、東欧の妖精たちを思い浮かべてみて欲しい。(ちょっと思い入れすぎか)これは十代の頃に読んでも、その設定と発想の素晴らしさはわからなかっただろう。面白い本に出会うと、なぜもっと早く読まなかったのかと悔やむこともあるが、この本に限っては、読むべき年齢に達したので本の方から私の所へやってきたのではないかと思った。(そういう意味で「お客さん」かも)

なぜかというと、前回のブレードランナー2049でもテーマとなっていた「人間とは何か?我々とは何か?」というテーマで繋がっていたのである。そしてさらにこのソラリスは「人間にとって他者とは何か」というその先の話まで扱う。わからない相手をわからないまま見つめ続ける、と言うスタンスが「他者」に対するときは求められるだろう。それは科学の探究においては基本のスタンスだ。これがあるからこそ真摯に現象に向き合わねばならないことになる。小保方さんのように、自分の都合で自然現象という「他者」を解釈して己の価値基準に組み込むことは許されないのだ。

タルコフスキー版もソダーバーグ版もこの点を変えてしまっているため、レムはその映画化に落胆したそうだが、二度も映画化されてそれでも作者の本当に伝えたいことからずれてしまうのはなぜか?それはこの話のテーマが映画のようなエンタテインメントを追求するメディアには向いていないからではないか。「他者」とどう向き合うかと言うような根源的な問いをエンタテインメントに仕立てるのは無理がある。そこでソダーバーグはハリーと主人公の部分だけをとりあげて、ソラリスの「海」の存在はそのための装置にしてしまったようだ。

確かにお客さんとしてやってくるハリーの存在も本当にうまく設定されており、その姿形だけでなく、記憶を本に再構成された存在のはずなのに、主人公への愛ゆえにまた自殺を図るのである。しかし先ほども書いたが、「お客さん」は不死身だ。それは排除できないと言う意味でもあるし、「お客さん」自体が消えたいと思っても消えられない存在でもあるのだ。この辺の設定は本当にすごい。確かにここだけでもドラマはなり立つ。またまた「ブレードランナー2049」の話で恐縮だがKの恋人としてのジョイは、現実には存在しないプログラムとしての存在だが、Kを本当に愛するプログラムとして描かれている。だからポータブルの端末にコピーしてアンテナを折ってくれなど、本来のハードウエアや供給元としては逸脱したようなお願いをKにする。この構図はまさにソラリスでの「お客さん」としてのハリーとそっくりだ。そして戦いのさなかにラブによって端末を壊される直前Kに「愛している」と告げるところなど、そのプログラムを作った人間の意図を超えて「事実」となっていたと思うのだ。