常盤平蔵のつぶやき

五つのWと一つのH、Web logの原点を探る。

「AI vs.教科書が読めない子供たち」を読んだ

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この本を読む前に将棋ソフト「ポナンザ」が人間に勝つまでの話を書いた本を読んだ。

 

 


この本で、AIだとか機械学習とかについてある程度勉強してAIがこれからどんどん賢くなったら、人間を超えていき、世界を変えて、スカイネットとかスペリオールドミナントなんていう時代が来たりするのでは無いかとぼんやり思っていたのだが、今回の本を読んで、それは全く見当違いと言うことがわかった。それがわかったことは良かったのだが、別の意味でこの本は衝撃的な内容であった。

 

AI vs. 教科書が読めない子どもたち

AI vs. 教科書が読めない子どもたち

 

 これからの子供たちが大人になったときの仕事が大変だ

この本は二部構成になっており、前半は著者が率いていたプロジェクトで「東ロボくん」というAIにいろいろと知恵を施して東大入試を受けさせる内容であり、AIが何が出来て、何が出来ないかを明らかにする内容である。結果として「東ロボくん」は東大に受かるだけの実力を備えることは出来なかったが、そのことをふまえてその「出来ないAI」でもこのレベルのことは出来る(むしろ得意)ということから、今後10年でAIに奪われる職業、残る職業というものを考察すると同時に、今の子供たちに読解力がないという事実をスタンダードリーディングテストを通じて明らかにする。やばいよ〜やばいよ〜、今の子供たち、AIに仕事とられるよ〜!という話なのである。

 

読解力がない!

このテストが私にはかなりショックであった。出来ないのである。文章を書くことを得意と思っていた私としては、読むこと、書いてある文章を読みとることはそれなりに自信を持っていた。しかし、次から次へと間違うのである。文章が読めていないのだ。論理的にかかれている文章から、きちんと事実を読みとることが出来ない。中学、高校のレベルの教科書の文章である。当然その道を通ってきた訳だが、どうして学校の成績が悪かったか理解できた気がする。まとまった量の試験結果を統計処理した結果を見てさらに落ち込んだ。どんな文章でも、正解率8割以上というグループがいるのである。それが所謂旧帝大に入学した学生だった。つまり、そのレベルの人間は、教科書の文章を一回でも読めばその内容がきちんと頭にはいるのである。特別試験勉強をする必要もないのだ。

 

秀才の正体

私が中学生の頃にもクラスに一人か二人はそういう奴がいた。試験前に一切勉強しないにも関わらず、100点とかそれに近い点数をとるのである。確かにそういう生徒たちはその後、東大、京大、阪大という旧帝大に入ったと風の噂で聞いた。友達としてもそんなに面白い奴では無かったが(向こうもそう思っていたのだろう)何にしても優秀であった。そいつらは読解力が人よりも優れていたのだった。

 

読解力を上げなければ!
この本の中では、読解力は年をとっても伸びると書いてある。実は私にとってはそれがさらにショックであった。先程も述べたように中学、高校とまさに読解力がなかったせいで、学校の成績はずーっと低空飛行をしていた。しかし、曲がりなりにも大学に入り、自分としても難しい本も読んで、難しい話をするようになり、それなりに読解力も上がったと信じていた。しかし、この本の中にある例題を解いて、ページをめくるたびに間違いまくる。読解力ぜんぜん上がってないじゃん!ということなのである。

こんな読解力でシナリオライターなんかになれるのか?たしかにシナリオライターはAIに奪われない仕事かもしれないが、そもそもなれなければ奪われるも何もあったもんではない。読解力をあげなければと真剣に思ったのであった。
ただ、読解力はあくまで文字を読んで文章の意味を正確にとる能力だ。映像から意味を読みとる能力とは異なると思いたい。そうでないとこのブログで映画評論なんてとてもかけないと言うことになってしまいそうだから。

 

教科書を悪文にしているもの

さらにその後考えたのだが、そもそも教科書の文章に問題があるのでは無いか?この本の中にも、スタンダードリーディングテストに間違ったことを「教科書の悪文ぶり」に関するクレームとして著者に訴えてくる人が少なからずいたと書いてある。しかし、悪文かどうかはともかく、その教科書で現に教育現場で子供たちは日々勉強している現実を考えると、それを読み解く力、読解力が必要なのは間違いない。それは私もそう思う。だが、その先にはその悪文を良文に直す努力もするべきでは無いのか?

教科書というのは教科書検定を合格したものだけが出版されているわけだから、その検定が、教科書の文章をかなり歪ませているのではないだろうか?いわゆる新しい日本の歴史教科書を作る会みたいに、自虐史観を変えたいとか、政治的な思惑をなんとか潜ませようとする人間の意図を読み取り、それをニュートラライズさせるために更におかしな文章になっているのではないだろうか?それが教科書の文章を悪文にしている理由なのではないだろうか。

 

わかったつもり?読解力がつかない本当の原因? (光文社新書)

わかったつもり?読解力がつかない本当の原因? (光文社新書)

 

 

「レディ・プレイヤー・ワン」を観た(+Oculus Go)

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#「レディ・プレイヤー・ワン」を観た
もう2週間前になるが、5月13日日曜日に、渋谷のTOHOシネマズで「レディ・プレイヤー・ワン」を観た。今回は突然思い立って観に行ったので前売り券も買わず、正規の大人料金で見た。果たしてその金額に見合う内容だっただろうか。

 

 

##あらすじ
2075年、世界はますます混乱していて、さらに人類はそれを解決しようとすることを諦め掛けていた。そのような世界で人々が求めるのは逃避である。「オアシス」というネット上のサイバースペース(ウイリアム・ギブスンの「ニューロマンサー」は本当に時代を先取りしていた)での娯楽に逃げ込んでいた。そこにはあらゆる娯楽があり、そこで現実世界と同じように様々な経験と生活に必要な糧までを得て生きている。
「オアシス」はその世界を作った人間の趣味により80年代のカルチャーをベースにしている。音楽、ファッション、映画なども全て80年代のものが中心だ。
その創立者が死んで、突然この「オアシス」内に秘密の鍵を3つ隠した。それらを見つけた人間には、「オアシス」の全権利を与えるということが宣言されたため、各プレイヤーはその鍵を探している。

 

ニューロマンサー (ハヤカワ文庫SF)

ニューロマンサー (ハヤカワ文庫SF)

 

 


主人公は、創立者の人生を深く調べることでその謎を解き、最終的に3つの鍵を手に入れる。そして「オアシス」の権利を得てやった事は「オアシス」を週に2日は休みにするという事だった。仮想世界より現実の方がいいからというのがその理由だ。
これに、そのオアシスの権利を手に入れるために、何千人もの従業員プレイヤーを雇っている企業が絡んでくる。そいつらが主人公がゲットした鍵を得るために、色々と妨害してくるのだが・・・正直この結末には・・・平凡を通り越して怒りすら覚えた。

 

##これでいいのかスピルバーグ
映画の冒頭、第1の鍵を見つけるためのゲームはレースゲームで、主人公の乗る「バックトゥーザフューチャー」のデロリアンと「AKIRA」の通称「金田のバイク」がカーチェイスするシーンは、確かに感無量なものがあった。私が高校生ぐらいの時に地元の本屋で電話帳みたいな漫画「AKIRA」の単行本を買っていた頃がフラッシュバックした。また、デロリアンは、つい先日Amazonプライムビデオで三部作を一気に見直して、やはり名作であることを再確認したばかりである。

 

 


そういう人間にとっては、いちいち画面の端に映るキャラクターやアイテムが何であるかを確認する度に記憶のフラグが立っていくのだが、それは逆に映画単体で見た時には何の意味も持たない引用の洪水だ。
「アレって、アレだよね」と記憶を共有する仲間同士で画面を見ながら一時停止して語り合うにはいいかもしれないが、ストーリーとしてその辺にどれだけの意味があるのか。

 

AKIRA 〈Blu-ray〉

AKIRA 〈Blu-ray〉

 

 

#オアシスに行きたい
と、ここまでが見た直後の感想だ。後からじわじわ効いてくるのはゲーム世界「オアシス」の存在だった。ストーリーと言うより、その入れ物である現実と「オアシス」の対比が一番印象に残ったのである。現実世界のグダグダっぷり、国内政治を見ても森友加計学園問題の顛末をめぐる与野党の攻防の泥仕合。海外を見ればトランプ、北朝鮮の茶番劇と見るに堪えないものばかりで、今そこにある問題は完全に置き去り状態だ。映画の中の未来で無くて、いままさに「オアシス」が必要だ。
そこで私の取った行動は・・・「Oculus Go」を購入することだった。現時点でスタンドアローンVR世界に入ることのゴーグルとしては、もう一つLenovo製の「MIrage Solo」があるが、ネットでその比較記事を読むと、少なくとも現時点では「Oculus Go」のほうが「オアシス」に近そうに思えたからだ。まあ、値段が手頃というのもあったが・・・

 

www.oculus.com

 

#「Oculus Go」
ここからは「Oculus Go」の使用感レビューになります。私は実はOculusのDK2を購入して、しばらく試してみたことがあるので、VRゴーグル自体は全くの初めてと言うわけでは無い。さらに、スマホをはめ込んで3D映像などを見ることの出来る市販のゴーグルも何回か試している。その上で、この「Oculus Go」だが、まず、スタンドアローンで確実にコンテンツを楽しむことが出来るという点で、今までで一番いいと思う。これがこのまま進化していけば、いずれは「オアシス」に行ける日も近いのではないかと思う。

 

#3D酔いはやっぱりおきる
FPSのゲームなんかを長時間やっていると、たまに3D酔いをすることがあるが、その時の体調にもよると思うのだが、このゴーグルもちょっとでも体調が悪いとか、何かのきっかけで酔ってしまうことがあった。個人的には空腹時とかがやばい気がする。これはヘッドトラッキングの精度が高いほど酔わない可というと、そうでもない気がする。普通のモニターでFPSをやっていても酔うときは酔うからだ。

 

#やっぱり重い
あとは、やはり目の前5cmぐらいの所にスマホと同じような機械をぶら下げている。それを支えているのは頭の後頭部まで回り込んだゴムバンドだ。やはりこれが重たい。おかげで、なぜか首の後ろの筋肉と言うより側頭部から顎を支えている筋肉がパンパンになった。なぜかはわからない。そのおかげで、孫悟空のわっかをはめられているような痛みを覚えた。現在はだいぶ楽になったが、そもそも「Oculus Go」と関連があったかどうかは謎だ。

 

#キラーコンテンツ
恵比寿方面のアプリはまあキラーコンテンツとしては、安定だとは思うが、一般に普及するためには意味が無いので、少なくともインストールベースを増やす効果はあるだろう。爆発的に普及するためには、もう少し何かがでてこないと難しいだろう。ジェットコースターやホラー系のアプリは、1,2回やったら飽きてしまう。その辺は「オアシス」でも2Dでもできるゲームsか提示されていなかったと思う。
今のところ、それが何かはわからないが、きっとこの入れ物に似合う何かが出てくると思う。それはこの映画で提示されたものとは似ても似つかないものかも知れない。

「人はなぜ物語を求めるのか」を読んだ。

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GW中に「人はなぜ物語を求めるのか」という本を読んだ。

これまでシナリオの勉強のために結構な数を読んできたが、いわゆるナラトロジー(という言葉も今回初めて知りました)あるいは物語学のような学問分野を知りたい人にはとてもいい入門書だと思った。

 

 


それだけでなく、今の自分に生きづらさを感じているような人にも、人間は本質的に物語を求めるということがその一因になっていると解き明かしてくれる。


本の中で「二度生まれ」という概念が出てくるが、要するにアインシュタインの言葉「常識とは18歳までに集めた偏見のコレクションにすぎない」という言葉と同じで、生きづらさの正体は、それまでに集めた「偏見」によって形作られた自分自身の人生のストーリーに囚われている状態というのがこの本の主張のである。

 

二度生まれの説話とはこんな話だそうだ。
あなたが真っ暗闇の中、崖を滑り落ちているとする。その途中で偶然手に当たった枝を掴んで何とか落下を止めることができた。しかし周りは真っ暗で、枝を掴んでいるだけで、それ以上何処かに取り付く島があるわけではない。
そのうちに手も痺れてきて、枝を握っているのはもう限界になる。
手を離したくはないが、もうダメだ。あなたの手は枝に掴まっている力はない。あなたは落ちる。しかし、僅か15cm下に地面があり、あなたは大の字になって地面に寝転がる。大地とは神の恩寵であり、あなたが思い切って手を離せば、神は受け止めてくれる・・・と。

 

自分が思い込んでいるストーリーにしがみついていないで、思い切って手を離せば違う自分になれるという意味にも解釈できる。自分は、これと良く似た話を以前読んだ記憶がある。それはリチャード・バックの「イリュージョン」だ。

 

イリュージョン (集英社文庫 ハ 3-1)

イリュージョン (集英社文庫 ハ 3-1)

 

 

巻頭にある救世主の例え話で、水の中で暮らしている生き物が岸や水草にしがみついて暮らしている世界がある。その中の一人が、退屈でたまらないからという理由で手を離す。流れに身を任せたその生き物は、一度ひどく岩に叩きつけられるが、それでも岩にしがみつくのを嫌がったので、それ以上はどこにもぶつかる事はなかった。下流へと流されていく途中で、下にはしがみついて生きているその他の生き物たちが、その一人を見上げて、すごい、飛んでるぞ、あいつは救世主だと囁く。しかし、どんどん流されていくためにあっという間に伝説になってしまう。伝説の救世主の誕生だ。しかし、当の流れて行った生き物はこう思う。みんなも手を離せばいいのに、と。

 

私自身もこのストーリーのように、しがみつくのをやめて手を離したつもりだ。確かに一度毎日2時間の通勤というひどい目にもあった。しかし、それでもしがみつくのを嫌がったので、今の暮らしがあるのだと思う。これからも転がり続けていきたい。南回帰線越えれば過去は皆蜃気楼だ。

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「リメンバー・ミー」を観た

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5月6日に吉祥寺オデオンで14:05の回に「リメンバー・ミー」を観た。予約して決済した後で吹き替え版ということに気がついたが、後の祭りだった。しかも、同時上映として「アナと雪の女王・王国のクリスマス」みたいなおまけ上映があった。その結果、私の横には小学生ぐらいの女の子が一人で座っており、キャラメルコーンを食べながら映画を鑑賞していた。お陰で私は隣の少女の口から漂うコーンスナック特有の甘ったるい香り付きで鑑賞することになった。

オデオンは、なんというか、本当に古き良き(悪しき)映画館の要素が今も健在なので、どうしてもノスタルジックな気分になる。シネコンばかりの現在こういう形の映画館はどんどんなくなって行くだろう。吉祥寺にはもう一軒先日「グレイテストショーマン」を観た吉祥寺プラザという映画館もあるが、大事にしなければと思う。

 

 

##アナと雪の女王
最初にまず、アナと雪の女王のその後のストーリーを描いたものを見た。正直あの雪だるまのオラフというのは、酷い外観(というかキャラクターデザイン)だと思うが、その声を当てているのがピエール瀧なのである。おそらく本編の方でもそうだったと思うが、なんかあの喋り方を聞いていると苛立ちを感じるのはなぜだろう?とにかく無理やりオラフに問題を起こさせて、それが解決するというマッチポンプな展開で小学生でなくてもスナック菓子を食べながらでないと観ていられない内容であったと思う。

 

東ハト キャラメルコーン 80g×12袋

東ハト キャラメルコーン 80g×12袋

 

 

##リメンバー・ミー
こちらは、前評判から泣ける話と聞いていたので、ハンカチは用意して見始めた。

「死者の日」というものがメキシコにはあって、その日は一年に一度死んだ人が現世に戻ってきて家族や子孫と一緒に過ごす日ということだが、これはキリスト教的にはない話だろう。しかし、我々日本人はまさに「お盆」という風習があり、一年に一回死んだ人や祖先の霊が戻ってくるというストーリーを信じている。今回の映画の最初の方でそのシステムが明快に説明される。

まず①死んだ人が現世に帰ってくるには生きている時に一緒に過ごした人がその人のことを覚えていて、祭壇に写真を飾っていなければ死者の国を出て現世につながる橋を渡ることはできない。

また、②メキシコでは小動物(犬、猫、鳥、トカゲなど)が魂を導く精霊みたいなものを兼ねており、死者の国にも自由に行き来できるし、霊も見えるということになっているようだ。

そして③死者の国に行った人は、現世にいる人が一人もその人のことを覚えていなくなった時点で「二度目の死」を迎え死者の国からも消滅する。

##この映画のストーリー(ネタバレです)
このリメンバー・ミーの物語の中では主人公の少年は音楽が好きで音楽で身を立てて生きたいと考えている。
ある年の死者の日、広場で音楽コンテストが開かれることになった。そのコンテストに出て、自分の音楽の才能を家族に認めさせたいと思い、そのことを家族に訴えるが聞き入れてもらえない。
その家族の先祖がミュージシャンを志して家を出たことで、一家は稼ぎ頭を失い、遺された母が靴職人として家族を支えた。そのことからその家では音楽は禁止になっているのだ。
その先祖のミュージシャンが、少年の憧れの人である国民的に有名ミュージシャンではないかという情報がもたらされる。主人公はこれまでその人のビデオを観ながらこっそりと音楽の練習をしていたのだ。
どうしてもコンテストに出たい主人公は、憧れの、国民的に有名なミュージシャンの墓にあるギターを盗んでコンテストに出ようとする。自分の先祖であると考えているため、許されると思ったのだ。
しかし死者の日に死者のものを盗んだということで、呪われ、死者の国にいってしまう。そこで、主人公の祖先のミュージシャンがどうして家族と離れることになったかという謎が明かされる。
実は国民的に有名なミュージシャンに曲を提供していたのが先祖のミュージシャンであり、彼は本当は家に帰りたかったが、その国民的有名ミュージシャンに殺されたために家に帰れなかったのだった。
そのことを死者の国で知り、現世のそれ以外の家族に伝えたことで、音楽をやることも許され、末永く幸せに過ごしました、めでたしめでたし・・・という話だった。

リメンバー・ミーでは、家族全員が「ミュージシャンの先祖は家族を捨てていったので、音楽はロクなものじゃない」というストーリーに取り憑かれていたが、死者の国を冒険して真実を持ち帰った主人公によって、その呪いから解放されたという話とも言えるだろう。

正直、映画が終わって明るくなるのが大変困った。前回の「グレイテスト・ショーマン」の時よりも涙を流していたのはなぜだったのか?正直よくわからない。死者の記憶をたどるとき、楽しかった思い出しか浮かんでこないからかもしれない。それが永遠に失われたことを再認識するとき、人は涙するのだろう。

 

 

「シェイプ・オブ・ウオーター」を観た

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劇場と作品
4月15日、吉祥寺オデオンで「シェイプオブウオーター」を観た。1日一回の上映になっており、19時15分からだったのだが、観客の入り具合はまあまあだった。日曜日の夜に劇場で映画を観るというも案外楽しいなと思った。

今年度アカデミー作品賞受賞作品であり、革命的な作品と言われている。それはホラーで怪獣映画が初めてアカデミー賞をとったからだそうだ。ただ、それだけではないようだ。

毎度おなじみ町山さんの解説によると、今回の授賞式はマイノリティへの配慮というか視線に満ちていたようである。プレゼンターのコメントがほとんどそういう方面への配慮に溢れていたそうである。しかし、アメリカに住んで、トランプ政権下の空気を感じていないと何を言っているかわからないと言っていた。この絵以外に出てくる半魚人も「実際には存在しない」が、それは「存在するのにいない事にされている」マイノリティの人々と同じだ。昨年まではそういうマイノリティの映画はヒットしないといわれていたが、今年から変わったのだという。その象徴がこの作品のアカデミー賞受賞なのだろう。

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※ここからは基本的には映画を観た人向けの内容です。ストーリーには直接触れていませんが、内容はネタバレしています。

 

登場人物
・イライザ
主人公は白人女性だし、なぜマイノリティなのか最初わからなかったが、1962年のアメリカでは口がきけないという事は、障害者であり、障害者はマイノリティなのであった。
この主人公が、始まって1分で風呂場で◯◯◯ーするという、驚愕の展開なのだが、その性の悦びに関しても、メジャーとマイナーの対比が描かれている。(メジャーの方は後で出てくる役人のストリクトランド)
この女優さんは以前にウディアレンのブルージャスミンという映画で見たことがあったことを思い出した。この時も、ちょっとラリっているのかな?と思わせる演技だったが、濃いと言うか、クセになると言うか、後に残る印象深い演技を見せる女優さんだなと思う。

 

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ガイルズ(画家)
イライザの隣の部屋に住んでいるイラストレーターのおじさんが描いている絵は、ノーマン・ロックウエルの描いていた様な絵であり、まさにアメリカの幸せな時代を象徴するような絵なのである。しかし、彼はホモセクシャルであり、やはりマイノリティだ。おそらく会社を解雇されたのも、その事が会社にバレたからだろう。パイ屋の若い男になんとか気に入られようとするが、逆に酷い目にあう。この辺りのくだりは、「マグノリア」に出てきたクイズ少年のおじさんにも似たようなエピソードがあったが、そもそもなぜあんな軽薄そうな兄ちゃんに惚れるのかがわからないが、その辺の心理は女性と同じなのだろうか?

 

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半魚人
これを書いてしまうと既にネタバレかもしれないが、半漁人の風貌が日本の特撮ヒーロー物に出てくるマスクのようである。おそらく50歳近い人しか知らないと思うが「超人ビュビューン」に出てくるバシャーンとか、凛々しい口元は「人造人間キカイダー」や「イナズマン」を思わせる造形だった。ギレルモデルトロ監督はおそらくこの辺の特撮にも知見があると思われるので、そこから引用している可能性も高い。しかし、この口元の造形は、最初違和感を感じた部分である。オリジナルの大アマゾンの半漁人は口が耳まで裂けたグロテスクな顔をしている。しかし今回の彼は目は両生類のカエルやイモリを思わせる二重の瞼を持っているが、全体としてはスマートでありX-MENの中に出てきても違和感はないデザインだ。これは実はラストシーンで大事な意味を持つ。イライザとキスをするのである。その場合ワニ口ではそのシーンが全然締まらないだろう。町山さんの解説によると、ギレルモデルトロ監督は、まさに先述の「大アマゾンの半魚人」で、半魚人=中南米の人という立場から、半魚人がヒロインと結ばれてハッピーエンドになる話を6歳に初めてその映画を見た時から想像し、自分で漫画を描いていたという事だから、あのラストシーンは非常に思い入れがあるものであったと思うし、そうであるからには美しいシーンでなければならず、あのような引き締まった面立ちの半魚人の王子様になったのだろう。

 

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ストリックランド
1962年は国家主義のもとで邁進する役人が威張っていた時代のようだ。ストリックランドはその代表だが、それ以外の人間はほぼ名前がない。上官のハリル元帥に完全に支配されている。
イライザ、ゼルダとのトイレの中での会話は傑作だ。
「人間(男)には二種類いる」と言う話には色々なバリエーションがあるが、今回のも記憶に残る分類だった。いわく、小便をする前に手を洗う男と、小便をした後で手を洗う男に分かれるらしい。そして後から洗うやつは軟弱者だそうだ。
その後彼は半魚人に左手の指を2本食いちぎられる。食いちぎられた指はつなぎ直しても元どおりにはならない。劇中の時間経過とともにどんどん黒ずんでいき、最後の決戦前には自らその腐った指を引きちぎるのである。これもシナリオ的には段々とストリックランドが追い詰められていく様がその指に象徴されていたと思う。先ほどのイライザはオナニー、ストリックランドは子供(これがまたノーマンロックウエルの絵のような家族なのもあえてそういう描写なのだろう)が学校に出かけてから嫁さんと昼間っから堂々と○ァッ○するシーンがあって、ケツに思いっきりボカシが入っていたが、そのシーンの最中にも嫁さんにも「指から血が出てる」と言わせている。また、しばらく後では「指が臭う」と同僚に言われるシーンもあり、着実に観客にもその事を意識させる演出が繰り返されていた。非常にうまいと思った。
この俳優さんは「マン・オブ・スティール」でもゾッド将軍の役でものすごく悪そうな顔をしている。日本人でいえば遠藤憲一のような感じだ。今回ものその悪人顔を余すところなく発揮している。

 

 

ゼルダ
イライザの友人で職場では一番の理解者。個人的にはハゼみたいな顔で、この両生類が主役の映画の舞台に選ばれたんじゃないかとおもった。
ストリックランドが半魚人を逃した犯人を探して家に来た時も、脅されてもイライザの事を喋らなかったのに、横にいたいつもは無口なダンナがペロッと喋ってしまったことに対して怒り以下の台詞を言う。
「喋らないなら、今も黙っていて欲しかった。」
何となくこの描写だけで、当時の黒人の置かれた立場が分かる気がする。

 

ホフシュテイン博士
ソ連のスパイでありながら、半魚人に魅せられた一人。殺して解剖しようとするストリックランドに抗議する。アメリカ名はボブだったが、後半イライザに本名を告げるシーンがある。本名イコール本心と言ってもいいだろう。ただ、この映画、政府の秘密研究機関ということになっているが、そういう側面からの半魚人に関するエピソードはまったく出てこない。その辺のところを担うキャラクターであったはずだが、ソ連のスパイである事しか描かれなかった。これは監督の意図したものであったと思うが、60年代とはいえ今の科学の基礎が築かれたのはあの時代なので、もう少しあっても良かったのでは無いだろうか?

その他の登場人物
・ハリル元帥
偉い人で、偉そうになってしまった人。その当時のアメリカを象徴しているのだろう。

ソ連の特務機関員
その当時のソ連を象徴しているのだろう。

普遍的なテーマ
この映画には、あらゆる創作物(フィクション)が持つ側面としての普遍性があると思う。それは、存在しないことになっているものに生き続ける場所を与えることだ。その彼らだけが運び続ける真実がある。私も子供の頃沢山の特撮ヒーローやアニメに出てくるヒーロー、ヒロインをみた。実際の世界ではどんなに困ってもヒーローは助けに来てくれない。自分でなんとかするしかない。だからこれはファンタジーだ。忘れ去られたマイノリティたちの声なき声(まさに主人公は声がない)が人の記憶の中で生き続けている可能性を具体的に示してくれた。
そして、マイノリティ同士の連帯感だけではない、未知の存在への興味。そこにしか居場所のないものたち。そういう今のアメリカが忘れているものを、しっかりと意識させるためにこの映画に賞を与えたのだろう。

タイトル
最後にタイトルについて。サイモン&ガーファンクルの歌に「サウンド・オブ・サイレンス」(沈黙の音)というのがあるが、まさにこの映画のタイトルも「シェイプ・オブ・ウオーター」(水の形)である。両方に共通するのは、どちらも本来存在しないものという点だ。無音の状況に「シーン」と擬音を当てたのは手塚治虫の発明だが、本来形のない水についてこのような美しい物語を生み出したデルトロ監督は本当に素晴らしい。

 

サウンド・オブ・サイレンス

サウンド・オブ・サイレンス

 

 

杖道昇段審査について

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2018年3月18日に新宿スポーツセンターで東京都剣道連盟主催の杖道5段以下昇段審査会があった。杖道の昇段審査は一年に2回、春と秋にあるのだが、技能の習熟以前に、前の昇段審査を受けて合格してからの時間が次の昇段審査を受けるための条件となっているため、一定の期間を過ぎなければ昇段審査を受けることが出来ない。今回私は3段から4段になる審査を受けたのだが、それは3段になったのが丁度3年前の3月だったことを意味する。
結果は合格であった。無事に4段になれたのである。今回は正直無事に合格できて本当にほっとしている。その理由を以下に述べたいと思う。

##前回の審査
思い返せば三年前に3段の昇段審査を綾瀬の東京武道館第二武道場で受けたときは、全く落ちるとは思っていなかった。しかし、その頃4段をこれから受けるという先輩と直前に話したとき「(緊張で)ゲロ吐きそう」と言っていたのが印象的だった。私の目から見て十分過ぎるほど技が出来ていると思っていた先輩の発言だっただけに、内心かなりショックではあった。結果その先輩は見事合格したので、やはりあのレベルであれば合格するのだなと胸をなで下ろした記憶がある。

##自分でも納得できない日々
しかし、振り返って今回の審査の前の数ヶ月は、自分でもなんとなく納得できない日々が続き、稽古にもあまり身が入らなかった。本来4段審査の前には道着の袴を、入門したときから使っているテトロンの袴から木綿の袴に替えると言われていた。理由は、本来は袴は木綿であり、4段からは指導者の一部となると言う意味からも正式な装いをする必要があるからである。それも迷っている内に購入をお願いする時期を逸してしまい結局テトロンの袴のままで当日を迎えた。さらに、審査の2週間前には9本目の「雷打(らいうち)」という形をやっている最中に、相手の太刀先が杖尾を握った手の小指の先端に当たり爪が死んで真っ黒になった。当ててしまった相手にもかなり気まずい思いをさせてしまっただろうと思う。

##「もやもや感」の正体
そもそも「自分でも納得できない日々」とは何に納得できなかったのか。まず、審査を受けると言うこと自体にも納得できていなかった。それは前回の3段を受かったときに、単純に2段から一段上がったという喜びはあったが、自分の中で質的に何かが変容したとか、技の切れがグンと良くなったと言うことはなかった事が影響していると思う。
自分の問題であるとは思うが、正直3段になっても何も変わらなかったのである。稽古をしている最中にいろいろと細かい点で注意されることは沢山あるのだが、それが出来るようになっても、それは正しく型どおりの動作が出来るだけで、試合や審査では問題になる部分ではあるとわかっているが、では本来の技、武術としての質的な隔たりのある差なのだろうか?という「もやもや感」がその正体だったのだろう。

##質的な変化
ところが今回の4段への昇段は違った。その理由は「3段までとは質的に異なる領域に入ったと言う実感が持てた」からである。それには「もやもや感」として持ち続けてきたものが一つの形を結ぶことが出来たからである。それは「気合い」だ。

杖道は技をかけるとき「エイッ」あるいは「ホー」という打ち込むのと同時に出すかけ声がある。剣道でも面を打つときは「メン」、小手を打つときは「コテ」などと打つ場所を同時に呼称するという決まりがある。(関係ないが仮面ライダーなどの特撮ドラマで、技を繰り出すときにその技の名前を叫ぶが、これは視聴者にその技の名前を覚えて貰うためにあえてやっているのかと思っていたが、元々剣道でもやられていたことなんだなと思った。)杖道では円の軌道で出す技の時は「エイ」、直線的な軌道出だす技は「ホー」とそれぞれ叫ぶことになっている。(最近は体当たりも「エイ」になり、「ホー」が減ってきているが・・・)
私はこの「気合い」が何回も出していると、出なくなることがあり、声が裏返ってしまうと言う悩みを抱えていた。それを改善するため、先生からもいろいろとアドバイスを貰ってこれまでやってきたが今ひとつ完全にはなおらなかった。3段の審査の時は審査の時やる5本だけなのでなんとか喉が保ったが、昨年の大会などで、2、3回戦を勝ち進むと、最後の方は声が裏返ってしまうと言うことが起こっていた。やはり声が裏返ると自分でも気が抜けるというか、集中力が切れてしまい技全体がダメになるという問題があり、実は深刻な悩みだったのである。

##気合いの出し方
それが昨年秋に先生からの指導で「エ」と「イ」でこれまでと違う口の形、声の出し方をするようになり(詳細な内容はここでは説明できないので省略する)、気合いを出すことで体の中に不思議と力がみなぎる感じを味わうことが出来たのである。これが先生が意図した事かどうかはわからないが、自分なりに身体感覚として正しいと思えたので、少しずつ努力してきた。
最初のうちは、おそらくいままで使っていなかったインナーマッスルを使って声を出しているので、1時間ぐらい出しているとその発声方法が続けられなくなり、従来の声の出し方になって、やはり喉がかすれ声が裏返ってしまうという事が起きていた。これはやはりそのインナーマッスルを鍛えて行くしか無いと思って、稽古中とにかくその声の出し方だけに気をつけて続けてきたつもりである。それにより、昇段審査の前には2時間の稽古時間中その発声方法で「気合い」をかけても声が続くようになったのである。

##新しい世界
自分なりに納得できる「気合い」が出せるようになったことで、それぞれの技で手足、杖、太刀の角度や位置を細かく注意されることも、自分の動作に組み込んでいくことがスムーズに出来るようになったと感じた。私がそう感じているだけで、周りから見ている指導者の方々からはちっとも出来ていないではないかと思われているかも知れないが、それは今後も追求を続ける課題である。しかし、今後も杖道を続けていく上で最も大事な軸となる「気合い」と「身体」が一致している(様に感じられる)ことは一つの新しい領域に入ることが出来たのではないかと考えている。今後も精進を続けていきたい。

 

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映画二本立て「グレイテスト・ショーマン」と「 スリー・ビルボード」を観た

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3/4日曜日は映画を二本見た。吉祥寺オデオンで「スリー・ビルボード」を見るためにそのための時間調整として吉祥寺プラザで「グレイテスト・ショーマン」を観た。

なんとも贅沢な時間調整だが、考えてみれば私の小さい頃は、映画館は系列があり、そのロードショーは新作を二本立てだった。今みたいに完全入れ替えでは無かったので、同じ映画を1日に二回連続で見ることもできた。ただし、その間に挟まってるおめあてでない映画を観ないといけないのだが。

 

そんなわけでSF映画ラブロマンスが二本立てだったりしたので、仕方なく観た映画というのもある。意外にそういうのが記憶に残っているものだ。吉川晃司の「ユー・ガッタ・チャンス」は「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」と同時上映だったので、当時アニメファンだった私は、どうしてももう一回観たくて、吉川晃司がゴジラの様に東京湾を泳いで上陸する場面を見たのだが監督も大森一樹でなかなか爽やかな青春映画だったと思う。

 

You gotta chance吉川晃司・シナリオ写真集

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しかし、今回の2本立てはとりあえず、見たくなくてたまたま見たというわけではなく、一応選んで見に行ったものだ。とは言うものの「グレイテスト・ショーマン」は全然期待していなかったのだが、歌や台詞がとにかく心に響くのだった。やはり作り手が映画のクリエイターとしての悩みと重ねている部分があるのだろう。その部分がこちらにもビシビシと感じられて、涙腺が緩みっぱなしだった。お陰で目に入った花粉も全て洗い流すことができた。

 

 

グレイテスト・ショーマン(サウンドトラック)

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グレイテスト・ショーマン
実在の人物であるP.T.バーナムをモチーフに、夢を諦めない男の生き様を描いたミュージカル。今風の音楽とキレのあるダンスで、最初から最後まで緩むことなく見せるのはすごいと思う。出てくるサーカス団員も奇妙だが美しく描かれていた。別に歴史修正主義なわけじゃないと思うが、これが史実だと思う子供がいたら問題だとは思う。
シナリオを勉強する人間としては、その構成やメッセージの出し方なんかがすごく参考になった。キャラクターの作り方もそれぞれが王道な造形で、お手本のようだった。

 

スリー・ビルボード
そしてこちらである。昨夜主演女優がアカデミー主演女優賞をとったことからもわかると思うが、主役の女優が素晴らしい演技だった。炭火の様にじわじわと彼女の感情が伝わるのだ。ほとんど表情は変わらないのにである。女優自身が監督に次の映画で役をくれと逆オファーしたぐらいだから、元から気合充分なのは当然としても、並々ならぬ熱量を感じた。

 

※ここからネタバレになります。

 

主人公 復讐→愛
映画が始まる直前に自分の眼の前の席に女が来て座ったので、またしても、画面の端に半円形の欠けができてイラっとしたのだが、朽ちかけた三枚の看板を見るうちにそんな事も全く気にならないぐらいに引き込まれた。画面に現れた主演女優がただならぬ雰囲気を醸し出しているのだ。それもそのはず、また毎度おなじみ町山智浩さんの解説で、この役のテーマソングはコレですというところがあるのだが、そのイメージは西部劇の音楽なのである。

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この三枚のビルボードは、続・荒野の用心棒でジャンゴが引きずってくる棺桶と象徴しているものは同じだろう。そしてチェーホフの言う通り、舞台にライフル銃があれば、それは発砲されなければならないのだ。事実そこに名前を書かれたウィルビー署長は自殺してしまう。主人公は孤軍奮闘しているかに見えて、見知らぬメキシコ人にて助けられたり、ビルボードを貼り付ける仕事をした黒人に助けられたりと、快進撃を続ける。途中友人が窮地に立たされたりといくつかの山谷を超えて、警察署側の人間と直接ではないが、対決を果たしその結果二人の運命は思わぬ方向へと進み出す。

 

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ウィルビー署長→死亡
主人公に直接対決を挑まれるこの警察署長は末期ガンに侵されており、余命いくばくもない。最初はそれを盾に主人公と交渉しようとするが、逆に主人公の強い意志を知ることになる。
普通こう言う話だと、警察署長が悪徳の人で、それを倒す事を目的に話が加速して行くものだが、この映画では実際は物凄くいい人なのである。「田舎の善人」なのだ。

 

「田舎の善人」とは、この映画の中で、最初の方に出てくる広告会社の人が読んでいる本、フラナリーオコナーの短編のタイトルである。町山智浩さんの指摘で、早速図書館で借りてきて読んだのだが、実はウィルビーという名前は、この本のその話の中に出てくる地名だった。
彼の奥さん役は、どこかで見たことがあると思ってパンフレットを見ると、リメイクされたロボコップでも奥さん役をやっていた人だった。ロボコップでは、オリジナルでは奥さんは全く出てこない。しかし、リメイクでは重要な役として出てくる。自分の夫を生き返らせるためにロボコップになることを承諾するという決断を迫られる。
その姿は、夢にも見そうなほどにエロスに溢れており(感想には個人差があります)、彼が肉体を失った悲しみをより引き立たせる役割があったと思う。今回の役も、幸せの絶頂で自ら死を選んだ署長に残された未亡人としての対比を最大限にするために、その容姿は使われていた。

 

ディクスン警部→ただのディクスン
最終的に警察を解雇されてしまうのだが、彼は一貫して署長サイドの人間だ。その理由は彼が署長の事を心から尊敬していたからである。その尊敬は実は報われない恋の側面も持っている。実は彼はゲイだったのだ。それが彼が劇中でヘッドホンできいているアバのチキチータから読み取れるらしいのだが、私にはわからなかった。しかし、署長の遺書で「ゲイと言われたら性差別主義者と言ってやれ」とかはっきり書いてある。そのことの一番の理解者は署長だったのだ。


その署長が死んだ事で彼の怒りは頂点に達した。主人公サイドの人間に理不尽な暴力を振るった事で、さらなる主人公からの報復を受ける。しかし、その際に署長からの手紙を読んで彼は愛に目覚めるのだ。この場合の愛はエロスではなくアガペーの方である。
その結果があのラストシーンへとつながるのだろう。主人公も、怒りと暴力応酬では何も救えないという事を、別れた夫の新しい恋人の言葉によって気付く。そして二人で愛を行うために、未だ見ぬ悪を退治しにいくのである。世界を救うヒーローコンビの誕生だ。
アメリカがこれまで世界の警察官として、他国の争いに介入し続けてきたことの理由は、こういう動機にあったと教えてくれた気がした。そういう意味では、この映画もアンチトランプのメッセージを持っている。

 

善人はなかなかいない
フラナリーオコナーの短編集に善人はなかなかいないというのがあって、その話がこの映画のモチーフとなっていると、パンフレットの町山智浩さんが書いている。
前述の短編集にも載っている話で、早速読んで見たのだが、この中では、最後に登場人物を皆殺しにするはみ出しものという悪人が出てくる。皆殺しの場面で最後の一人になっ老婦人とこのはみ出しものが行うやりとりが、この話の焦点なのだ。
このはみ出しものが、オリジナル版のロボコップに出てくるクラレンスという悪人を思わせる。暴力と恩寵というテーマは、おそらくポールバーホーベン監督の映画にも通じるものがある。

 


フラナリーオコナーは、暴力は一種の恩寵であると考えていたらしい。恩寵という概念には馴染みがないので、それについて詳しく語るのは難しい。キリスト教における神の恵み、愛というところか。
先ほどの短編のラストのはみ出しものと老婦人のやりとりは、殺される直前、その恩寵というものを理解した老婦人とそれを与えられた犯罪者、もしくはそうなるきっかけを与えたのは命を奪うという行為を与えた犯罪者の側、の両側面があるだろう。そういうもののの応酬がこの映画の中にあったと思う。

 

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