常盤平蔵のつぶやき

五つのWと一つのH、Web logの原点を探る。

スローつながりで読んでみた

 気になったので下記の本を読んでみた。

本の読み方 スロー・リーディングの実践 (PHP新書)

本の読み方 スロー・リーディングの実践 (PHP新書)

 

 例えばちょっと難しい本を読むとき、一回読んだだけでは内容が頭に入ってこないことはよくあると思う。その時どうするか。

これまではいわゆる「読書百遍、意自ずから通ず」というような言葉を思い出して、何度も件の箇所を読み返す詩か方法がなかった。百回も読む事は絶対にないが、3回ぐらい読んで意味がわからなければ残念ながらお手上げだった。

しかし、この本に書いてある「テクニック」を使えば昔やっていた魚の解剖のように一見不可分な肉塊に思える文章も論理的に切れに仕分けしていくことが出来るのだ。本の中では小説や哲学書などを例にあげてその構造をきれいに分解してみせる。

この本を知ったきっかけは実はシナリオ・センターの出している雑誌「月刊シナリオ教室」の中の「シナリオ技術で小説を書こう」というページに紹介されていたからだ。小説家を目指すなら本を沢山読まなければならない、と言うところから始まってではどのように読めばいいのか?と言う疑問に対する回答としてこの本に書かれているやり方が勧められていた。

そのために役に立つのは「書き手の立場になって読む」と言う部分だろう。作者の意図を推し量りながら読むことで、創作の道筋もおぼろげながら見えてくるかもしれない。どうしてそのような表現になっているのかを知ることは、どうしたらそのような表現が出来るかにも通じるからだ。

また、この本の中の一節に「早い仕事はどこか信用できない」という箇所があった。現代はスピードを求める。しかし、家を作るのに大急ぎで書かれた設計図で建設を始めましたと聞いたら、どこか不安になるように大事なことは急いでやられても必ずしもうれしくはないという例えだった。いま、シナリオ・センター本科に毎週20枚シナリオの課題を書いて持って行っているが、それもそれに当てる時間がないと言うこともあるが、急いで書かれていることがほとんどだ。

そのためにはやはり時間だろう。時間をうまく使うことがまず第一だと思った。

 

絵に描いた暖炉

www.itmedia.co.jp

WEBをみていたら見慣れない単語「スローテレビ」が目に入った。

スローフードスローライフなど生き急いでいる現代人にスローであることの価値を再認識させてくれた単語「スロー」だが、スローテレビとはいったい何なのか興味を持った。

上記の記事を読まれたわかると思うが、加工やナレーションを一切着けないで長時間その現象を写し続けるものがどうやらスローテレビと呼ばれるようだ。

確かに暖炉で燃える薪を8時間延々と写すというのは前代未聞だろう。マックのアプリにも暖炉で燃える薪の様子を再現したものがあったので、なんとなくそれをぼーっと見続ける気持ちというのはわかる。

暖炉

暖炉

  • Jesse Lauro
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 以前いた会社で作っていた、暖炉の模型が付いているヒーターがあった。日本では売ってないが外側が木のケースで出来ていてアーミッシュが一つ一つ作っているというというような触れ込みであったが、中身はPTCヒーターとアルミの小さなファンが付いているだけでほんのり暖かい程度だが、それでも売れていたらしい。

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たき火を見ていると安心するのは、人類が火を手に入れて肉食動物から身を守れるようになったからだと言う説もどこかで聞いた気がする。その辺から考えるとやはり人類は今強い不安の中にいるのかと思ってしまう。

もちろんスローテレビは暖炉だけではないので、それが注目を集めている理由ではないかもしれないが、今日本の地上波でやっているコメディアンやタレントが騒がしいだけのバラエティ番組ではなく、ただ暖炉や運河を進む様子を延々と見続けるというのは見る側にその映っているモノに心情的に参加すると言うことが必要になるようだ。

「スローテレビ」を成功に導いたNRKのプロダクション・マネージャーであるThomas Hellum(トーマス・ヘルム)によると、文化的に共感を呼ぶテーマを選ぶことが重要だという。そして、あえて映像に手を加えないで放送することで、視聴者が自分なりのストーリーを作れることが大事になると語っている。

 今にドローンが世界中を飛び回り、空からの映像を延々と見られる日が来るかもしれない。世界中の人がトゥルーマン・ショーになってしまう日が来るかもしれない。

 

トゥルーマン・ショー [Blu-ray]

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 時間も場所も違う人々が、共感できる人々や現象を見続ける。そうなったら地球も共感の下に一つになって平和になるのだろうか。

さらば朝7時に江戸川を渡る千代田線の風景よ

千代田線で松戸まで通うのもとうとう今日を含めてあと2日になった。折しも桜は満開である。最後に車窓から桜が拝めてよかったと思う。

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川を渡るとき進行方向に向かって左側に座っていると、晴れた日には朝日が川面を金色に光らせているのを見ることが出来る。佐野元春の『約束の橋」が聞こえてきそうだ。

www.youtube.com

以前のエントリにも書いたが、この一年の長距離通勤で前半は中央線で市川まで通っていたときは橋を渡る時間もそんなにかわらなかったはずなのに、窓からそんな景色が見えることは無かった。総武線各駅と千代田線は微妙に位置や角度が違うのでそうなったのかもしれない。後半千代田線で松戸ルートに変えて、座れるようになったのが一番よかったことだが、それと同じぐらいこの橋を渡る瞬間の風景が好きだった。

2015年の春に「約束の橋」を渡って都内に移り住んだはずだが、渡世の義理というか運命のいたずらというか、また松戸に通うことになったが、これでようやく本当に橋を渡ること出来そうだ。

rじゃなかとばい。ガンマばい、ガンマ!

先日仕事中に携帯電話が鳴って、見ると懐かしい人の名前が表示されている。

 

tokiwa-heizo.hatenablog.com

 この中に出てくるH先輩であった。この先輩も面白い話をいろいろ聞かせてもらった。何しろ語り口が面白いので、ここでそれを再録してもあまり面白さが伝わらないかもしれないが一つ書いてみようと思う。

 

先輩がまだ高校生の頃にバイク好きの友人同士で盛り上がった話題があったそうだ。それはSUZUKIが250ccの2ストロークバイク「RG250Γ(ガンマ)」を発売すると発表したときのことである。

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スズキ・RG250ガンマ - Wikipedia

バイク雑誌の記事には、当時のGPライダーであるフランコ・ウンチーニがテスト走行してみて「ほとんどレーサーそのものと思える」とコメントをしていたことから

・エンジン始動はキックでは無い → おしがけ?

交差点で発進に失敗しエンストしたらどうするのか?と言うような疑問を皆で語り合ったという。上の写真にはしっかりとキックレバーが写っている。と言うことは本当に想像図のレベルで話していたと言うことだろう。

しかし一番の話題は末尾に点いた記号「Γ(ガンマ)」であったらしい。

タイトルの「rじゃなかとばい」は、その後に続く「ガンマばい、ガンマ!」と言うセリフ当時の高校生の驚きが象徴されていると思う。なぜガンマだったのかは上にリンクを張ったWikipediaに書いてあった部分を引用する。

同社のグランプリレーサー「RGΓ」(RG→RGA→RGBの次に"RGC"でなくギリシア文字の3番目でありギリシア語で「栄光」を意味する「ゲライロ」の頭文字のΓを使いRGΓとした)にちなんだネーミングである。

確かに今までA→Bと来たのになぜ三番目がrなのかと思っただろう。いや、rじゃないんだ、ガンマなんだと。

既に2ストロークのバイクが路上から消えて久しい。毎日の通勤経路の松戸駅には昔懐かしいTZR250Rがいつも停まっているのを見るが本当に走っているところは見なくなった。そもそもレーサーレプリカなどというジャンルもほとんど廃れて、今は楽に乗れる原付をでかくしたようなスクーターばかりが走っている。今にそれらも電動に取って代わられるだろう。白い煙やエンジンオイルをまき散らさないのはいいことだが、そういう時代があったことは覚えておきたいと思う。

 

煉獄からの卒業

今週のお題「卒業」

春このシーズンにふさわしいこのお題。しかし以前のお題「20歳」に対するエントリーでも書いたように、春というのは気分の落ち着かない季節である。その理由は正に卒業や入学というリセット&シャッフルイベントのためだ。それまで1年間かそれ以上築き上げてきた人間関係や環境が一夜にして無に帰すのである。

 

tokiwa-heizo.hatenablog.com

 

それはたいていの場合苦痛を伴うものだろう。しかしこの春私は珍しく歓喜をもって卒業することが出来そうだ。それは通勤(という名の)煉獄からの卒業だ。

 

思えば昨年の春、転職した私は自ら志願して満員電車通勤というBootCampに参加した。いや、正確に言えばBootCampに行く前に最前線に送られたと言ってもいいだろう。梨畑五十朗の私が訓練もせずいきなり最前線である。

 

東京でどの路線の通勤が「煉獄」かは意見の割れるところかもしれない。しかし、その中でも常に上位に食い込むこ激戦区であることは恐らく誰の意見もそんなに変わらないのでは無いか。その路線とは「中央・総武線(快速)」である。

 

昨年の春から吉祥寺から市川まで途中お茶の水で各停の乗り換えて通っていた。吉祥寺駅では『たかの友梨ビューティークリニック」の看板の前から乗ることにしていた。その看板の女性の意味深なまなざしがよもや「そんな装備で大丈夫か?」という意味だと気がつくはずも無い。

私が乗る時間の吉祥寺からの快速はそこまでぎゅうぎゅうではない。座席もごく希に一つ二つ空くこともある。座席の前の立ち席ポジションを確保するのもそんなに難しくは無い。最初ショルダーバッグを使用して、電車に乗っても網棚には預けないでいたのだがあっという間に肩に激痛が走るようになった。周りを見回すと私の三倍ぐらい大きな鞄を平然と肩から提げてスマホでゲームに興じる歴戦の勇者たちがいるのだが、中年デビューの新兵である私はあっけなく降参した。急いでリュックのように背負える手提げ鞄をゲットし、乗車したら出来るだけ網棚に預けるようにした。

 

ある朝いつものように「意味深なまなざし」の下で電車を待っていると、私がいつも乗る車両の一部ががら空きになっている。おお、何かわからないがラッキーだとそそくさと乗り込んだ私はどこかの戦士が何かに敗れ去った後を見て愕然とした。床には白っぽい液体が加速と減速につられて前後に広がりつつあった。しかし、そのおかげでその前の席が3つも空いている。私はその戦士の冥福を祈りつつその液体をまたいで一番端に座った。やがて次の停車駅に着くとわずかな停車時間の間に駅員による的確な現場復旧が行われ、電車の床にはわずかなおがくずを残して、何事も無かったかのように電車は走り続けた。プロの仕事だった。この時私は積年の謎だった『電車の床に落ちているおがくず」の真実を知り、ひとしきり心の中で涙した。

 

運がよいと荻窪あたりで降りる人がいたりするので、そこから座れたりするのだが、大抵は無理だ。田舎の電車だと恐らく同じ時間に乗る人間はほとんど毎日顔を見るメンバーなので、段々覚えてしまうのだが、中央線に乗る人間は、常に毎日半数は入れ替わっている気がする。それでも「胸ポケットにラッキーストライクを入れている男」は中野で降りるとか、少しずつ覚えていくものだ。しかし、立ち席ポジションを選ぶときでも、目の前の人が比較的早く降りそうかというのは全然わからないものだ。経験則として実はドア近の席は意外に短距離で降りる人が多い気がする。

 

そんな感じで秋を迎えた頃、朝起きたら腰に激痛が走り、ぎっくり腰を再発した。それでもしばらくは中央線の戦場で踏みとどまっていたが、やはり寄る年波には勝てず転戦することにした。井の頭線経由で銀座線、千代田線を使い松戸まで行くというルートでも勤務先に通えると言うことがわかったので、そちらに切り替えた。この路線だとほぼ100%座っていける。時間が早いせいだが、渋谷まで出るの時が一番リスクが高いが、そこから先はむしろ通常の通勤とは逆方向なので全然空いている。

 

そうなってからはむしろ電車の中は読書の時間になったので、週に三冊読んだこともあった。なんせ一日4時間読書できるわけである。私も今までの人生でこんなに一定期間内に本を読んだことは無い。いままでは寝る前の10分ぐらいに読むのがせいぜいだったので、長い話は読めず、自然と評論やエッセイ、実用本になっていたのだが、一時間以上読み続けられるというのは本当に貴重だった。

 

そんな通勤生活ともあと少しで卒業である。後半は全然煉獄じゃないけど、とにかく一日のうち4時間を通勤に費やさなければならないのは(例え本が読めるとしても)やはり異常なことだと思った。通勤中に一番思ったのは、半ズボンの制服を着たお坊ちゃんからくたびれたスーツを着こなすサラリーマン紳士までおそらくずーっとこういう通勤を続けている人が首都圏には多いのだろう。まさに鍛え方が違う。そうでなければ企業戦士はつとまらない。聞くとやるでは大違い、ありきたりな結論ではあるが通勤電車恐るべしであった。

青春の光と影の街

今週のお題「好きな街」

 

何とも泥臭いタイトルになっているが、やはり若い頃に住んだ街を今思うと本当に懐かしく何とも言えない感慨が心に満ちてくる。その街とは長崎である。

 

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上の写真は野母崎から見た軍艦島である。市内からこの浜までは丁度いいドライブコースなので土日は渋滞する。夏はさらに海水浴客で混雑を極める。たぶん今も変わらないだろう。当時私はオフロードバイクに乗っており、デイパックにコンパクトロッドを突っ込んで道路沿いの小さな漁港をまわってルアー釣りを楽しんでいた。5,6センチの小さめのジグを使って、湾内を探るとギンガメアジという手のひらぐらいの大きさの回遊魚が沢山釣れた。持って帰って塩焼きにして食べることも出来た。マアジと違って淡泊な味だが自分で釣った魚の味は格別だ。晩ご飯のおかずも一品浮く。

 

軍艦島にも思い出がある。私がいた頃も基本的に立ち入り禁止だった。今は世界遺産にしょうといろいろ整備されているみたいだが、その頃は必要最低限の整備を続けている感じだった。島に渡るのはほとんどは釣り目的で瀬渡し船に乗っていく。私は友人の誘いで一緒に探検に行った。その後NHKのロケのバイトでもいった。この時は島で一晩を明かした。この島の魅力は一言では言い表せないが今の姿から否が応でも過去の姿を想像してしまう凝縮された街並みに有ると思う。ここでこういう風に暮らしてたんだろうな・・・というのがありありと目に浮かぶのだ。

 

また、浜の町という長崎市内のアーケード街があって、そこもよく歩いた。アーケードから細い路地を入っていくと、また何とも言えない風情があって本当に楽しかった。長崎の中心部は路面電車が走っている。もちろん今も走っているだろう。私がいた頃はどこまで乗っても100円だった。道路の真ん中に線路があるので、交差点を渡るときは線路とその周りに敷き詰めてある石畳みを突っ切らなければならないこともある。バイクでそこをとおるのは結構怖い。私みたいなオフロードバイクはそんなに問題ないが、一度原付が線路で滑ったあげくウイリーして吹っ飛ぶのを見たことがある。そういえば長崎ではよく事故を見た。

 

tokiwa-heizo.hatenablog.com

 この記事にも書いたが、この愛野展望台を抜けてさらに島原半島に向かうと、雲仙が見えてくる。上まで登ると地獄巡りや温泉には入れてちょっとした旅行気分だ。あの普賢岳火砕流は市内の喫茶店でランチを食べているときに、テレビで生中継していたのを思い出す。その後実際に土石流が流れた場所を見に行ったが、自然が起こす災害というものの規模の大きさを思い知った。

 

私にとって長崎は第二の、もしくは心の古里である。今も住んでいる人からすれば、既に昔の話ばかりだろう。数年前に訪れたときも町中の風景は激変していた。ショックで街をさまよいながらぼーぜんとした記憶がある。私の青春の光と影はどんどん消え去っていた。やはり「古里は遠きにありて思うもの」なのだ。

 

個人的「トイレの壁」

 

東京で暮らしていて最近特に感じるのは、駅や公共のトイレがきれいだと言うことだ。「割れ窓理論」によって、一つでも落書きを許せば続々と後から追随する人間が出てくるから、清掃する人たちがこまめに消しているのだろう。

 

昔九州・長崎は島原のフェリーの待合室にある男子トイレに入ったとき、小用の便器の目の前に「一歩前へ」と書いた張り紙があって、その横にマジックで「○○汽船は殿様商売しよんね」と書いてあって、何も命令口調で書いてあるからといってそこまで反感持たなくていいのではないかと思ったが、そういう落書きもほとんど見かけない。

 

かつての公衆トイレの壁と言えば「謎(だけど公知)な記号」とか「ボランティア精神あふれる女性の電話番号」なるものが書かれていたり大変賑やかだったと思う。そういうものはどこへ行ったのだろうか?別に世の中からなくなって困るどころかうれしいものの一つだと思うが、一方で人間の感情まで消えたわけではあるまい。

 

そこでふと思い当たったのがタイトルにある個人的な「トイレの壁」だ。みんなが電車の中でスイスイと指で触ってるあの板こそがそれなのではないだろうか。昔2ちゃんねるなんかの書き込みはその名の通り「便所の落書き」と言われていた。匿名なので不満やストレスのはけ口としての書き込みも多かった。今は私が2ちゃんねるをほとんど見なくなってしまったのでどうなっているかわからないが、恐らく今も変わらないだろう。

 

そのおかげで、現実の「トイレの壁」に書く必要がなくなったのでないか。ローカルなトイレの壁に書いても読む人はたかがしれているが、公的な「@トイレの壁」であれば一度に数万単位の目に触れる。その方がうっぷんの発散には効果的だろう。

 

自分としては、このブログがそういうものにならないようにしようと、努力はしているがたまにはそういうものも書いてみようかと思う今日この頃である。

 

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