常盤平蔵のつぶやき

ものづくりからもの書きへの転身を目指す文章修行のブログです。

「スターウォーズ Episode 9 スカイウオーカーの夜明け」を観た

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○令和二年の幕開け
皆さま、あけましておめでとうございます。本年も当ブログをよろしくお願いします。

○最終回だよ、全員集合!
2019年、令和元年の師走、22日の日曜日にTOHOシネマズ日比谷の4番スクリーン(IMAX、3D)でスターウオーズ、ナンバーシリーズの9作目「スカイウォーカーの夜明け」を観てきた。ご存知のようにスターウオーズは原作者であるジョージ・ルーカスが監督したEpisode 4 ”New Hope” から始まってEpisode 5 ”Empire strikes Back” Episode 6 ”Return of the JEDI”で一応の完結を観た後、ファンからの強い要望でEpisode1 ”Phantom of Menasu" Episode 2 ” ” Episode 3 ” ” の三部作を作った後、今度はファンの強い反発に心が折れたジョージ・ルーカスは7から9の三部作は作らないと宣言。それをディズニーがルーカスフィルム毎買い取って今回のEpisode 7 ”Force Awaiking” Episode 8 ”The last JEDI” が作られた。そして今回そのすべての最終作となるEpisode9 ”Rise of the Skywalker”だ。

ジョージ・ルーカスの手を離れて
Episode1から3に対してファンが強く反発した理由は「フォースの源は”ミディクロリアン”にある」という設定だった。この用語が劇中に初めて出てきたときには私もかなりの違和感を覚えた。修行とか努力はその才能を開花させる為には必要だが、結局はそういう素質(ミディクロリアン)を持ったものだけがフォースを持っていて、普通の人間にはそんな力はないという設定は、ある意味フォースという神秘的な力を「生まれ=遺伝的なもの」に由来するものとして、選ばれたものの特権にしてしまった。物語の中に出てくるある種の超能力に対してなんらかの設定を用意するということ自体は、アニメやSFの世界ではよくある事だ。
ところで前回神話の力という本を読もうと思って出張に持っていったのだが、読めなかったという話をしたが、改めてその内容を読んでみると、なんとルーカスはこの本の著者が語った内容に強く影響を受けているらしい。その結果、この本の対談はルーカスフィルムのあるパークでおこなわれることになったという。

 

 

スターウォーズは現代の神話
そもそもスターウォーズは4から6の後から作られた1から3を観ると明確だが、神話的な話である。「神話的な話」と言うのは何かというのは「神話の力」を読んで欲しいと思うのだが、私の解釈を簡単に言うと「世界の見方に関する話」ということだ。さらに、その本によると、現代は既に神話を失った世界である。神話を失うとは、世界の見方に関する物差しがない事を意味する。スターウォーズの様な映画は、神話の持つ力を現代に蘇らせんとする試みなのだ。
この世界は、以前「ゴーストストーリー」で触れた生の世界ではなく、人類がそのときその時に集合的に作り上げた<世界>である。つまりその<世界>に影響を及ぼすためにはアートの世界から語るしかない。映画も立派なアートだ。

 

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○レイの素性(ここからネタバレになります)
ルーカス的には英雄は、生まれながらに素質を持ち、その力が発揮された時に奇跡が起こり、その他大勢を救うという位置付けのものだ。4から6のルークは正にこの役目を果たして、悪の枢軸であるダース・シディアスを倒して銀河に平和をもたらす。
ルーカスの関わらない7から9で、新たに主人公となったレイは、1のアナキンの様に砂漠で最下層の人間として生きていた。その素性は謎で、幼い頃に両親に捨てられてその星に一人残された事になっていた。しかしアナキンは、父がいない事が示唆されており、つまりキリストと同じく処女受胎で生まれた事を匂わせている時点でもうメサイヤの素質十分だ。
それに対してレイは7の時は誰かの子ではなく、孤児としての存在だった。それは、レイと並行して動き出すフィンが子供の時に拐われて兵士にさせられている姿と同じに見えた。しかし今回の9での結末により、その後の二人の着地地点は大きく分かれた。
今作でフィンは同じく、洗脳ファーストオーダーから逃れて自由に暮らしている人間が自分以外にもいた事を知る。それに対してレイの方は、その出自が、強力なフォースを持ちながらそのダークサイドに堕ちた親玉、パルパティーンの孫娘だということが明らかになった。しかも、そのパルパティーン自身が、クローン技術で蘇ってかつての帝国を蘇らせるべく裏で全てを操っていたのである。

 

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○神々の戦いと民衆の戦い
クローン技術で蘇らせたのは他ならぬ大衆の中にある邪悪さということになる。帝国が支配する世界、軍事力で権力を守り維持していくことの方から利益を得る人たちがそれを呼び戻したと言うことになる。
ジェダイ同士の争いは、神々の闘いで、その結果として生まれた世界の戦いに巻き込まれた人間たちの戦いがあるというのがスターウォーズの世界観のようである。
そう考えると、やはりフォースとは金、それをたくさん持っている人間、権力者同士の争いで世界は左右されているという現代の世界情勢を7から9の世界観は鏡像としていると見るのが一番しっくり来る。ラストで、レイがスカイウォーカーと名乗る事は、権力者に正しくあって欲しいと言う大衆からの願望であり、それがあまりカタルシスを呼ばないことは、現実との剥離の大きさからなのかもしれない。

 

 

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○スカイウォーカーの系譜
ベン・ソロ=カイロ・レンの方は、また複雑だ。叔父がルーク、祖父がベイダー、そして父がハン・ソロである。彼は、7で登場した時からヘンテコなマスクをかぶっており、ベイダーのマスクの残骸を大切に保管している。つまり、勝手にベイダーの意思を継ぐものとして振る舞っている。そうなったきっかけは、ルークのもとでジェダイの修業をしていた時に、ルークに殺されそうになって逆にルークの他の弟子を皆殺しにして出奔したのである。
善と悪、神と悪魔の戦いがベースにあるため、力を持つものは善悪どちらかに分かれて戦うものというのがこの世界のルールのようだ。それにより、自分はベイダーの孫だし、悪の側なのだという考えに取り憑かれたのがカイロ・レンなのだろう。そしてかつてベイダーがルークを悪の道に誘ったようにレイにも、一緒に世界を支配しようと誘う。しかし、レイの力は徐々にカイロ・レンの力を上回り、ついにはレンをライトセーバーで刺し殺す。しかし、その直後、フォースによってレンを助けるのである。もはや、次元の違う力を目の当たりにしたレンは、自分が間違っていた事を悟る。そこからは、ベンソロとしてレイのサポートに周り、最後は自らのフォースを全て与えて役目を終える。

 

 

○物語の終わり、終わりは始まり
ラストシーンでレイが名前を聞かれて、更にファミリーネームを聞かれると言うシーンがある。名前を聞かれて名乗る、と言うことで真っ先に思い出すのは「ロボコップ」のラストシーンである。オムニ社の備品として人間の時の記憶を消されたはずのロボコップが、オムニ社の社長に「名前は?」と聞かれて「マーフィーだ」と名乗る。あの瞬間機械の身体と人間の心をもった存在として生きていくという事を受け入れたのだと思う。
4の始まりの地、ルークの育ての親の家に来て、ルークとレイアのライトセーバーを地面に埋めるレイは、何を考えてここに来たのだろうか。その答えとして、その際に地元の老婆に名前を聞かれたときにどう答えるか?があったと考えると「レイ・スカイウォーカー」と答えたことがロボコップのラストで「マーフィー」と答えたこと比べて、ストンと腹落ちしたとは言いがたい。しかし、時間が経って今考えてみると「マーフィー」のファーストネーム(ギブンネーム)だけでなく「スカイウォーカー」というファミリーネームを名乗ったことに深い意味があることに気がついた。
まあ、サブタイトルが「スカイウォーカーの夜明け(Rise of the Skywalker)」なのだから当たり前かもしれない。レイが「スカイウォーカー」を名乗ることは日本的に言えばお家再興の決意表明なのだろう。スカイウォーカーの系譜がすべて滅びた後でスカイウォーカーを名乗ることの意味はそれしかあるまい。また、宇宙の平和を願うものは、よいJEDIとして「スカイウォーカー」を名乗れば良いと言うメッセージかもしれない。
8のラストで名も無き少年が箒をふっと手に引き寄せる姿があった。それは8でルークが言った「私が最後のジェダイではない」と言うことがと呼応していたと思うが、そのような少年もいつか「スカイウォーカー」を名乗るかもしれないと夢想を膨らませてみた。

 

 

「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」を観た

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〇「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」を観た
12月の最初の週はベトナムハノイ)出張になった。先週の中国、深圳航空と違って、ベトナム航空は日本で言えばJALベトナムフラッグキャリアーだ。機材は最新型のB-787”Dream liner”だし、機内食も結構美味しい。その際ワインが提供されるのだがフランス統治時代にワイン文化が根付いているらしいので、結構ちゃんとしたワインが飲めると思う。機内のエンターテインメントシステムも充実しているので、最新の映画が観られる。残念なのは字幕まではベトナム語がデフォルトでそれ以外はほぼ提供されていない。なので日本語音声による吹き替えで観ることになる。その様な環境でこの映画を観た。普通は吹き替えでは観ないので違和感しかないのだが、ウエストワールドをAmazonプライムで吹き替えで見た時にも感じたが、役者の演技とセリフが同時に理解できるのは吹き替えの強みだと思う。

 

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タランティーノの『映画についての映画』
「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」は「映画についての映画」であるとあるサイトで紹介されていた。(どのサイトで紹介されていたのか見つけられないのだが・・・)これまでもタランティーノは基本的に「映画についての映画」を撮っていると書かれていたと思う。『映画についての映画」とはどういうことなのか?要するに「映画とは何かを語っている映画」と言うことだと思う。そう考えると今回の映画の賛否の分かれた結末も理解できると思う。
ブラピとレオ様が演じているキャラクターは二人とも架空の人物であるが、問題のシャロン・テートブルース・リーも出てくる。その中で実際の誰かというモデルもあるようだが、架空の人物が活躍すること自体がファンタジーで「映画」だ。映画というのはファンタジーを作るのが仕事だ。その裏舞台を見せてしまうと言うドキュメンタリー的な映画ではなく、それ自体をファンタジーにしてしまうのが今回の映画だと思う。

 

 

※ここからネタバレになります。

〇現実と異なるラスト
そもそも、私の年齢だとこの映画の一番中心となるネタ「シャロン・テート殺人事件」について衝撃を受けたり、関心を持ったりしたことがない。だから、アメリカ人がこの事件についてどういう思いを持っているのか機会があれば聞いてみたいと思っている。ただ、この映画のラストのようにシャロン・テートが殺されなかったら良かったとタランティーノ監督は思ったんだろう。そこで、自分が創造したキャラクター「クリス・ブース」と「リック・ダルトン」にその犯人たちをコテンパンにやっつけさせる。そして二人はその後シャロン・テートの家に招かれていく。その後タイトルが出る。「ーワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッドー」と。

 

世紀末倶楽部 vol.1 特集:チャールズ・マンソンとシャロン・テート殺人事件
 

 

 

〇ファンタジーの登場人物
「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・・・」と言うのはおとぎ話の冒頭に使われる常套句だ。日本語なら「昔々あるところに・・・」というところだろう。劇の途中でブラピ扮する「クリス・ブース」がブルース・リーとガチで戦うシーンがある。ブルース・リーはクリスに軽々と投げ飛ばされてしまう。私は途中でそのシーンを見たとき「?」と思った。別にタランティーノ監督がブルース・リーをディスりたいと思ってるわけではないだろう。キル・ビルユマ・サーマンに黄色いジャンプスーツを着させている訳だし、なにより同時代に数々のスターがいた中からブルース・リーを選んで登場させている訳だから思い入れがない訳がない。ではあの展開はなぜなのか?それは「クリス・ブース」のファンタジー性を上げるためだったんだろう。ブルース・リーにも勝つ男なら、ヒッピー達にも勝てる(しかもLSDでラリった状態でも)と観客に思わせるためだ。まあ、そんな小難しいことを考えなくてもラスト近くで「クリス・ブース」と「リック・ダルトン」がヒッピー達をぶちのめして丸焼きにする様を見てゲラゲラ笑える。

 

  

ブラッド・ピットレオナルド・ディカプリオ
このブログでは書かなかったが先月「アド・アストラ」を観た。ブラッド・ピットの演技が素晴らしいといわれていたが、こっちの映画でのブラピ扮する常に冷静な宇宙飛行士は映画冒頭の緊急事態に際しても心拍数がほとんど平常と変わらないという化け物のような人間なのでなんとなくピンとこなかった。しかし、この映画でのブラピは落ち目になった俳優のスタントマン役という、そのまま別の映画の主人公にしてもいいようなキャラクターだったので、映画の中でしっかりとした存在感を持っていた。その反対にディカプリオは、ある意味パロディ的なキャラクターだった。恐らくモデルとなったクリント・イーストウッドとかチャールズ・ブロンソンの全盛期を過ぎた時はこんな感じだったのかと思わせるエピソードで構成されており、それを楽しそうに演じているところが好感が持てた。

 

 

 

〇今年最後のブログ更新
恐らくこれが今年最後のブログ更新になるでしょう。新年一発目はもちろん、待ちに待ったスターウォーズ・Episode9になると思います。皆さんよいお年をお迎えください。

 

スター・ウォーズ/最後のジェダイ  (吹替版)

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スター・ウォーズ/フォースの覚醒 (字幕版)

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「夏の裁断」を読んだ

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島本理生の「夏の裁断」を読んだ
11月の最後の週に中国出張になったので、先日Honzで見つけた「神話の力」を読もうと思って準備していたのだが、あっさり持ってくるのを忘れた。無意識的には読みたく無いと思っているのかもしれないと考えると色々興味深いが、それに関する考察は、実際に「神話の力」を読んでからすることにする。

 

神話の力 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

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〇空港の書店
今回出張に行くに当たって、成田に着いてから外にも一切本を持ってきていない事に気がついたので、空港内にある本屋の改造社に行って、何か適当な本は無いかなと物色した。空港内の本屋は、来店する客層が限定されているので、ラインナップも特定の傾向があると思う。お客にはこれからまとまった時間があり、それは読書するという事にとって最も重要な条件をクリアしているという事だ。またまたスティーブン・キングの言葉を借りて恐縮だが、この本屋に並んでいる本にお客が求めることは「二時間飽きずに読み続けさせてくれるかどうか」だろう。そういう意味で、もしかしたら街の本屋のように(最近は街角の小さい本屋はどんどん無くなっているが)新刊本を漫然と入れているだけではなく、書評などで裏付けのある本を仕入れているのではないかと思った。今回購入した本も大変面白く、四時間を超えるフライトの中で、所々休んでストーリーの状況を咀嚼しながら楽しんで読むことが出来た。

 

夏の裁断 (文春文庫)

夏の裁断 (文春文庫)

 

 

〇本の自炊
改造社ではそういうつもりで本棚の背表紙を眺めていたが、ふと少し前に直木賞を受賞された島本理生氏の本が目にとまった。それが今回の『夏の裁断』である。裏表紙にある内容紹介を読むと「自炊」と書いてあって、しかもその意味は本来の「ご飯を自分で作ること」ではなく「紙の本を電子化すること」の方だったのである。私も、紙で残っているものを電子化するために富士通ScanSnapとPLUSの裁断機をもう10年ぐらい前に購入して「自炊」をする。私の場合は主に写真とか昔の書類を電子化して体積を無くして行こうというのが目的だったので、本の自炊はあまりやらない。あまり見ないけど資料として手元に置いておきたいと言うような本だけ自炊しているが、本という物体自体にも思い入れがあるので、この本の主人公も初めてほんの自炊をするときに、その生々しい行為について嫌悪感を表明していたが、まさしくそれは本好きには共通することだと思う。また、文庫本というパッケージは、小型軽量で電子書籍のようにデバイスも電源も必要としない大変優れたものであるので、これを更に裁断してスキャンしてもそれ程利便性が上がらないと思っている。

 

 

 

プラス 裁断機 自炊 A4 コンパクト PK-213 26-366

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〇あらすじ
主人公は作家の菅野千紘で、年齢は30歳前後だったと思う。祖父が学者で鎌倉に家があり、その家を処分するために祖父がため込んだ蔵書を「自炊」して保存しておくため一夏をその家で過ごすと言うのが基本のストーリーだ。そこに数人の男性が出入りすると言う展開で全体としてみればラブストーリーだ。主人公が一人で飲み屋に行って酒を飲んだりするときにもつ煮込みとビールを好むなど、著者自身のプロフィールと重なる部分があると言うことを後で知った。物語の冒頭、ある出版社の営業である柴田という男との付き合いでトラブルを起こしたところから始まる。千紘の母はスナックを経営しており、そこにかつて来ていた客から性的虐待を受けた過去があり、男性との付き合いに障害を抱えている事が後々明らかになる。自分の本の装丁をしてくれたイラストレーターの男性や、鎌倉の焼き鳥屋で偶然で会うサラリーマン男性、ラジオ番組に呼ばれたときにであったモデルの若い男などと次々関係を持つ。この本は雑誌に掲載された「夏の裁断」を第一章として、そのあと「秋の通り雨」「冬の沈黙」「春の結論」とその後の展開が加筆されて一冊の本になっている。逆に「夏の裁断」だけだとこの話が何処に着地するのか(しないのか)が全く見えなかったと思う。残りの三章は最初の一章から比べるとそれぞれ短いが、それらの物語を得て主人公は一応の決着と未来を得る。

 

〇感想
第一章のなかで自炊する場面で、本のページの断片的な文章からその本を向かし読んだときにどんな感想を持ったとかを描写するところがあるが、もしかしたら作者のたくらみとしては、そういう風に自分の作家としての基礎担っている部分を紐解きながら、内照していくことだったのかも知れないと思った。しかし、その辺の自炊に関わる話は後半は影を潜めていく。先ほど触れた本を破壊することによる自傷にも似た感覚のような部分と男との付き合いにおける主人公の抱えるデリケートさとのつながりもあるような気はするがそこは正直よくわからない。しかし、そうやってドリフトしていく展開自体は大変面白かった。しかし、私がこの本を読んで一番困ったのはその冒頭からトラブルを起こす「柴田」というキャラクターの捉えどころのなさである。どうもこの「柴田」という男は女性にもてるらしいのだが、正直どの部分が魅力なのかが私にはわからなかった。私は男なので当たり前かも知れないが、改めて女性の考えることは不可解であると思ったし、それがまた新鮮で面白かった。つぎは映画化もされた「ナラタージュ」を読んでみようと思っている。

 

ナラタージュ

ナラタージュ

 

 

第29回文学フリマ東京に出店します

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表紙と裏表紙です

c.bunfree.net

〇二回目の出店です
昨年の秋、開催の数日前に確かネットかなにかで文学のフリーマーケットがあるというニュースを聞いたので、当日の昼ぐらいに浜松町からモノレールに乗って流通センター駅に降り立った。はじめて降りた駅だったが、集まっている人たちの様子になぜか親近感を感じた。これまでコミケには数回行ったことがあったが、(基本的には)文字だけの本の即売会というものを初めて見て、おお!こんな世界があったのか!と感銘を受けたので、その次の第27回文学フリマ東京には出店する側として初めて参加してみた。
その時出品した本は、以前からKindleで売っている拙著「家電OEMの会社で働くあなたのための参考書」をリアル本にしたものである。以前ブログで出店すると言うお知らせはしたが、結果については全く触れていなかったので、少し書いて置くが30部刷って25部売って帰ってきた。11時に一般入場が開始されて、5時に終了だったが、4時ぐらいに25部売り切ったので撤収してきた。本当は5時に販売終了した後、クロージングとして掃除や机の片付けなどがあったと言うことを今年の案内を見て知った。前回は8時に行って机やラベルの設置などをボランティアとして手伝ったので、まあ許されるかなと思っている。

 

tokiwa-heizo.hatenablog.com

 

 

家電OEMの会社で働くあなたのための参考書
 

 

〇2019年11月24日 流通センター ク−11です
そして今月24日に第29回文学フリマ東京が開催される。今回は私単独ではなく、表参道にあるシナリオセンターで一緒に学んでいた人たちと一緒に「OMS脚本団」という名前でアンソロジー本を作った。内容は短編シナリオ集で、シナリオセンターで課題としてやる「20枚シナリオ」というものをベースに、各人がおなじ「再会」というお題で書いたものを集めた本である。私以外に13人が同じお題で違う話を書いているので、読み比べて楽しんでいただけると幸いである。

 

tokiwa-heizo.hatenablog.com

 


ただし、当日は別件(杖道の大会)があって誠に残念ながら今回は参加できない。前回初めて出店したときに、自分が書いて作った本を手売りするというのは大変楽しかったので、今回も是非とも参加したかったが、一方杖道も自分のライフワークなのでおろそかに出来ない。苦渋の選択ではあったが、今回は仲間たちにお任せすることにした。次回「創作シナリオ集2」の時には必ず参加したいと思っている。

bunfree.net

「お砂糖とスパイスと爆発的な何か」を読んだ

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フェミニスト批評入門
この本の副題は「不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門」である。昔からフェミニストとかフェミニズムと言う言葉が今ひとつ頭に馴染まないと感じている。かといってさらにその言葉の意味を辞書で詳しく調べても、そこに書いてある概念がやっぱりすんなりと頭に入ってこないのはなぜなのか?その謎が少しでも解けないかと思いこの本を読んでみた。読んでみてわかったのだが「フェミニスト批評」というのはフェミニストを批評するのではなく、フェミニストの視点から批評するということだった。

 

お砂糖とスパイスと爆発的な何か?不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門

お砂糖とスパイスと爆発的な何か?不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門

 

 


この本の著者の専門は英文学、なかでもシェークスピアで、その作品をフェミニストの視点から批評することである。その傍ら、年間に映画と演劇をそれぞれ百本ずつ見る上に本を年間260冊も読むそうである。大学で研究して学生に講義しながら、それらの批評をブログにアップしている。ご本人も書かれているがいくら何でも多すぎる、なぜこんなことが続けられるのかと。その理由は「楽しいから」と書いてあるのだがなぜ楽しく批評し続けられるのかというとフェミニスト批評をするからだそうである。批評とはどうやってするのかについてはまえがきに詳しく書いてあるのでそこを読んでいただくのが早いが、これが私にとって本当に為になった。私もこのブログで本や映画、ドラマなどを紹介するような文章を書いてきたが、自分が書いたものが「批評」であるとはとても言えない。しかし、ここに書かれている内容を会得して少しでも「批評」出来るようになりたいと思った。

 

※この本の内容は以下のサイトで読めるものも多いです。

https://wezz-y.com/archives/authors/kitamurasae

※実ははてなでブログもやってたんですね。

https://saebou.hatenablog.com/

 

フェミニスト批評とは
前述のように批評のやり方はこの本の冒頭に書いてあるのだが、その方法のひとつとしてフェミニスト批評というのがある。で、肝心のそのフェミニスト批評だが、まずフェミニストとはなにかというと「今の世界はデフォルトで女性差別が組み込まれているということを主張する人」と言うのがこの本を読んだ段階での私の理解である。つまりフェミニスト批評というのは作品の中に女性差別が入り込んでいるかどうかを見つけ出すことだと理解した。

 

〇「ベイビー・ドライバー」をフェミニスト批評する
去年話題になったときに結局観なかった「ベイビー・ドライバー」という映画をつい最近有線放送の録画で観ることができた。とりあえず観た感想としては面白かった。今までのブログだったらどの辺が面白かったとか、書く所だが、正直それだと独立したブログとして書くほどのこともないと思った。しかし、フェミニスト批評だと、いろいろと面白いだけでない点があると思った。

 

あらすじは公式サイトで

 https://bd-dvd.sonypictures.jp/babydriver/

 

〇登場人物の中の女性キャラクター
・デボラ
ヒロインであるデボラはちょっと笑顔が(いい意味で)アホっぽいブロンド美人で、ダイナーのウエイトレスだ。このキャラクターはかなりステレオタイプな感じで、主人公が王子様として迎えに来るというプリンセス的な立ち位置にいると思う。恐らくフェミニスト的にはオールドファッションでつまらない、男性支配の視点からのヒロイン像ということになるだろう。それの笑顔がアホっぽくて可愛く見えると言う私自身のなかに女性差別があるということになるのだろうか。関係ないが、この女優の名前「リリー・ジェームズ」というのだが、ハリー・ポッターの両親「リリー・ポッター」と「ジェームズ・ポッター」を足して二で割った?様な名前だと思った。

・ダーリング
バディと組んでいるダーリングはラテン系の顔立ちで、劇中で仕事以外の時間はバディとずーっといちゃついている。しかし、いざ仕事(銀行強盗とか銃の密売人と交渉するとか)になると自ら銃をぶっ放して活躍する。女性差別からはほど遠く、解放された女性と言える……のだろうか。そうならざるを得なかった背景にはきっと普通の社会で抑圧されて来たからこそ、アウトローの世界に解放を求めているとすれば、やはり女性差別の被害者と言うことになるだろう。劇中で、ダーリングをいやらしい目で見た男をバディが殺したという会話が出てくるが、それも、男に頼っていると言う意味では、自分の力で自由に生きているわけではないということだろう。そもそもアウトローの世界こそ男性中心(暴力中心)なのだから当たり前という気もする。

・主人公の母親
既に故人となっているので主人公の中でしか出てこないが、どうも歌手だったようだ。主人公が子供の頃に、自動車の助手席で運転席の父親?と口論している最中に交通事故を起こして亡くなったようだ。主人公のカセットテープの中に「MOM」という一本がありその中に母親の歌声が入っているのである。死んでいて声だけが残っていると言うのが象徴的だが、どうも主人公にとっての理想的な女性のようで、そういう意味では主人公はマザコンなのかもしれない。マザコンフェミニストがどうつながるのかは今ひとつわからないが、恐らく女性に母親的な役割を求めることも、一定の役割を押しつけるという意味でフェミニスト的には差別なのかも知れない。

〇自動車の運転=男性優位の象徴?
RCサクセションの「雨上がりの夜空に」という歌があるが、この歌の歌詞で暗示されているのは車の運転=セックスである。この映画の主人公ベイビーは運転が上手い=セックスが上手いと言うことを暗示しているのだろうか?片岡義男の短編小説で、女性が運転するでかいアメ車のオープンカーが、上手く駐車場から出せずに困っている所に、ソフトクリームを食べながら男性が通りかかる。そして、女性の代わりに巧みなドライビングで車を運転し、リバースのまま駐車場出口まで車を運転してやるという話があったが、この小説もそういう観点で見ると、まさに「そういう話」なのかもしれない。
そういえば、この映画のラスト近くで、主人公はデボラの運転で逃げるのだが、国境(州境?)付近の橋で非常線がはられていて、追い詰められたとき、主人公は車から降りてなおかつその時車の鍵を端から投げ捨てる。つまりデボラから車を運転することを取り上げるのである。車を運転するというのは男の仕事だという事を意味しているのだろうか。ベイビーが刑務所に5年服役して出てきたときは、デボラが迎えに来ているのだが、もちろん運転席はベイビーに明け渡している。セックスを主催するのは男性であると言うことを暗示してるのだろう。

 

〇個人的に気になった点
ケヴィン・スペイシー扮するドクが、逃げようとするベイビーとデボラのために自らを犠牲にして追っ手と撃ち合って死ぬ(?)辺りがどうにも違和感があった。これまでケヴィン・スペイシーのやってきた役(ラスベガスをぶっ潰せの教授役など)がイメージとしてあるため、どうしてもそういう行動を取るキャラクターに見えないためである。恐らくこの違和感はフェミニストとは何の関係もない、と思う。

 

 

「演劇部5分前」を読んだ

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◯高校演劇の話です
表題のタイトルの漫画があるのだが、いったいどのぐらいの人が知っているのだろう?もしかしたら大変有名なのかも知れないので失礼な話をしているかも知れないが、内容を読んだ限りでは、そこまでメジャー感のある内容ではなかった。私はたまたま妹から送られてきたので読んでみたのだが、最初の数ページはかなり読む人を選びそうである。ただ、そこを我慢して読み進めていくと意外と(失礼!)それぞれのキャラクターが立っており、なぜ、三年生で部活?演劇部でないとダメなのか?ということが徐々にわかってくる。しかし、この導入部分はもう少しわかりやすくしてもよかったのではないかと思う。

 

演劇部5分前 コミック 1-3巻 セット (ビームコミックス)

演劇部5分前 コミック 1-3巻 セット (ビームコミックス)

 

 



◯「64」をAmazonプライムで見た
「64(ロクヨン)」は、横山秀夫の最高傑作という呼び声の高い作品で、自分としては「クライマーズ・ハイ」が本当に面白かったので、本・映画・TV版ドラマと全て見てかなり楽しませてもらった。きっとこの作品も面白いに違いないと思ってはいたものの、本も映画も上下巻、前後編と長大な作品であるためずーっと二の足を踏んできた。しかし、この度の台風19号の襲来により、家で待機している時間がまとまって取れた(というか、テレビ、映画を見るぐらいしかやることがない)のでついにこの映画を見ることにした。
表題の漫画の話の前になぜこの話をしているかというと、今回読んだ漫画の感想の枕としてなのだが、この映画、既にご覧になった方はご存知だと思うが、出演している役者が大変豪華である。主人公の佐藤浩一、被害者役の永瀬正敏、犯人役の緒方直人などいろいろな役者がその役柄で物凄い存在感を発揮している。佐藤浩一の妻役の夏川結衣などは、見ている方が怖くなるような表情の冴えを見せていた。まさに演技力のフルコースが味わえる感じだった。この、映画やドラマ、演劇などの作品の中での「役者の仕事とは何か?」というのがこの漫画のテーマだなと思ったからである。
結論から書いてしまうと、役者の仕事とは、二時間なら二時間の映画ドラマ演劇の間中観客の興味を惹き、作品の世界に引きずり込んでおくことである。その事をこの漫画の中で明確に指摘するシーンがあるが、なるほどと思った。

 

64-ロクヨン-前編

64-ロクヨン-前編

 

 

 

64-ロクヨン-後編

64-ロクヨン-後編

 

 


◯あらすじてきなもの
高校三年生になって後輩もいない(卒業してしまうと廃部)のに演劇部の活動に情熱を燃やすはみ出し者たちの物語である。在学中に廃部になりそうになり、その弾みで中部大会に行ってみせると言ってしまったことから、なんとか舞台演劇をやり遂げようとする……と言うのがあらすじだ。その中で重要な登場人物は、演劇部のなかで役者としての本質的な力を持つ〇〇〇〇と、プロの役者志望で高校を出たら本格的に女優になろうとしている△△△△である。何で〇〇や△△と書いてあるかと言うと、全三巻を読み終わった後でも名前が頭に入らなかったのである。これもやっぱりキャラクターという記号を読者に印象づける部分が弱いのかなーと思う。しょうがないのでWikipediaで調べたがページがなかった。更に仕方がないので漫画を読み直して〇の方が原田温子△の方が矢野涼香であると言うことがわかった。実際にはそれ以外の登場人物が複数おり、それぞれがそれぞれの事情を抱えている青春群像劇である。
最終的に演劇をある意味成功させる。それをもってこの物語は収束するわけだが、なんとなくすっきりしない結末である。漫画の連載は人気がなければ打ち切りというのもあるが、このお話は主人公が高校生でなくなる時点で終わりを迎えるのは必然なので途中でぶつ切れになったわけではないだろう。

 

〇あらためて役者の仕事とは
高校生くらいの頃に、そういう世界に興味を持ち始めた友人に誘われて、七ツ寺共同スタジオなんかに演劇を観に行っていたが、かなり頑張って集中していないと観続けていられないものから、何もかも忘れて喰い入る様に見つめてしまう舞台があったが、その差は恐らくそういうところにあったのだろう。また、確か森尾由美だったと思うが、たまたま券をもらったのか、何かの弾みでアイドル主演のミュージカルを見た時は、話はヘナヘナだったと思うが、やはりアイドルは華があるので見てしまう。観客を一定時間舞台や画面に釘付けにする事がまず第一に役者の仕事なのだなという事をこの漫画は教えてくれた。

 

「Harry Potter and the Philosopher’s Stone」を読んだ

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ついに、17章までなんとか読み切った。本当に同時に買ったオーディオブックのスティーブン・フライの朗読あっての読書だった。この人の七色の声というか、臨場感のある 朗読は、そのあとで見た映画よりもむしろ面白い。
私は常々、本や映画やゲームの面白さは、いかに「参加」出来るかにかかっていると思うのだが、これには少し説明が必要だろう。「参加」というのは、自分の頭を使うということである。本、映画、ゲームの中でおそらく映画は一番参加しにくい。全ての情報が目と耳から入ってくるのでそれらを合成して情報として受け取るだけだからだ。その合成はほとんど無意識に脳内で行われており2時間ぐらい経つと頭の中にストーリーが出来上がっている。それらを同時に楽しむわけだが、楽しんでいる時間も2時間だ。
その後の人生の中で思い出してまた楽しむことが出来るかも知れないが、その様な深い情報を持った映画はなかなかないだろう。また、深い(層の厚い)情報には、それを受け取るこちら側にも深い知識を要求される。それらを兼ね備えていなければ、いくら監督が映画のワンカット、シーンに深い情報を埋め込んでいてもそこに到達することができない。(町山智浩さんの解説本をよむとそういう深い楽しみを引き出してくれているので、本当に凄いと思う。)

ハリーポッターのストーリーは広く知られていると思うので、あらすじ等は書かない。ネタバレになると思うが、読んでみてどこがすごいと思ったかを書きたいと思う。

 

 

⒈右肩上がりのストーリー展開
以前読んだベストセラーコードにも書いてあったが、ハリーポッターは典型的な右肩上がりのストーリー構造になっている。それはむしろ小説の方が顕著で、映画だけを観た人はあまり印象がないかもしれない。小説では初めハリーが引き取られるダーズリー家がいかにひどい人間の集まりかを描写する。しかも、ダーズリー一家は魔法や超常現象などを全く信じないという偏狭な人たちなのである。そこへ預けられて育てられるハリーは本当に大変だろうと読むものが心配せずにはいられないのである。

 

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⒉明快なキャラクター設定
先述のダーズリー家の人々もそうだし、ホグワーツの先生、生徒達ももともと文字しかない小説の上でキャラクターの設定が明確に描写されており、読む上でもはっきりと誰が誰かわかる。これは映像化する時かなり楽だったと思う。以前読んだ「映画の脚本を書くためにあなたがしなければならないこと」にも書かれていたが、キャラクターとは行動なのである。その人物の行動がキャラクター(性格)を表しているということであるが、まさしくハリーやハーマイオニー、ロンの行動と言動からキャラクターが見える。これは著者が子供向けに書こうと思ったから、ある程度カリカチュアライズされているにしても、お手本にするべきだと思った。

 

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⒊伏線の張り方
読者を引き込むためには、サスペンスの要素は欠かせない。そのためには伏線(読み進めていくと明らかになる事をチラ見せすること)が重要になってくるが、もちろん既に皆さんご承知のとおり、全7作からなるシリーズになている。そのシリーズへの伏線と、今回の「賢者の石」の中で回収する伏線が散りばめられており、一冊を読み終わったあとで満足感と続きへの期待感がバランスよく形成される。この辺は、著者がどの辺まで計算、計画して書いていたのかは判らないが、おそらく大まかなシリーズ構想は最初にあったと思う。(まだ、シリーズ全部読んだわけではないのでその点は推測です)

 

Harry Potter the Complete Audio Collection

Harry Potter the Complete Audio Collection

 

 

 

ホグワーツ(魔法使いのための学校)と魔法省
これが、この物語で一番凄い発明だと思うが、魔法使いの学校だけでなく、その先の魔法省というものがあり、魔法省の仕事というのは一般人から魔法の存在を隠すことを仕事としているという設定である。魔法使いのお話でありながら、現代劇なのだ。剣と魔法のファンタジー世界ではなく、今私たちが生きているこの世界と同次元に存在(隠されているが)すると言い切っっている所が凄いのである。1番目のダーズリー家にハリーが預けられることも、魔法使いと普通の人間が共存しているその仕組みを身近に見せるために是非とも必要な設定だったのだろう。

 

最後に映画版の主人公とその周辺の人物のキャスティングと私の脳内映像との差について少し触れるが、主人公であるハリーは、もっとシャープなイメージだった。映画版のダニエル・ラドクリフは品が良すぎるというか、育ちが良すぎる感じがしてしまう。ロンに関してはよくわからないが、もう少し包容力のあるタイプのような気がするので、これもちょっと違うような気がする。ハーマイオニーエマ・ワトソンが美人すぎたと思う。もう少しガリ勉タイプで頭でっかちなイメージだ。まあこの辺はきっと散々論じられていると思うので何を今更感が一杯だが、逆に、映画のイメージがあっても文章を読むことで、明確なキャラクターが別に浮かび上がってくるあたりが、J・K・ローリングがうまく描写しているということだと思う。

 

ハリー・ポッターと秘密の部屋: Harry Potter and the Chamber of Secrets

ハリー・ポッターと秘密の部屋: Harry Potter and the Chamber of Secrets

 

 ↑もちろん次はこれを読みます。