常盤平蔵のつぶやき

五つのWと一つのH、Web logの原点を探る。

面白いという言葉では言い表せない面白さ  「鳩の撃退法」(上・下)を読んだ

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2024年はじめの(ブログ向け)読書(しかし既に3月)

2024年も既に3月である。月に三本ブログを書くという目標も、そもそもそんな目標があったのか?と言わんばかりに全く達成できていない。そして既に3月もほぼ中旬である。今月もゼロのままで終わる訳にはいかないと思い、毎日下書きのファイルを開いているのだが、書いては消しを繰り返して全然進まない。それぐらい今回読んだ(既に読んだのは二ヶ月ぐらい前のことになっている)『鳩の撃退法』の面白さを書き表すことが難しい。

以前のブログに同じ著者の『永遠の1/2』についての感想を書いているが、2023年にそれを読み終わったあとでブログに感想を書いたあとも止まない強い興奮の勢いで、同じ著者のその他の本を古本新本問わず集めまくってひとまず本棚に並べておいた。その時は集めるだけでひとまず満足していた。今回読んだ『鳩の撃退法』ももちろんその中にあったのだが、まさに『鳩の撃退法』というタイトルが何か得体の知れないなにかを感じさせ、逆にその得体の知れなさが、読み始めるきっかけを求めていたのかも知れない。

単純に本が上下に分かれている上にそれぞれがそれなりのぶ厚さを持っていることに、読み始めて読み通す勇気が湧かなかったというのもある。それに関しては23年に橋本治の「完本チャンバラ・時代劇講座」を読み通した事が大きいかもしれない。以前図書館で借りて、ざっと飛ばし読みしたものを、昨年文庫本二冊で復刻されていたのを見つけて読み始めたら面白くてサラッと読み切ってしまった。これならある程度のボリュームでも寝る前のちびちび読書で読み続けられると自身がついたと思う。

文庫本カバー見返しに著者の経歴が書いてある。まず『永遠の1/2』は「1983年に第七回すばる文学賞を受賞」とあって、『月の満ち欠け』は「2017年第157回直木賞受賞」とある。そして『鳩の撃退法』は「2015年第六回山田風太郎賞受賞」作だったので『月の満ち欠け』より先に書かれた本ということだ。

『月の満ち欠け』は、死んだ人が生まれ変わっていくという設定が面白くもあるが、一方でその理屈のない現象はオカルトでもあるので『永遠の1/2』のリアルで地を這うような手触り感とはちょっと異なる。しかし、今回読んだ『鳩の撃退法』はどちらかというと『永遠の1/2』に通じる物があると感じた。

 

 

 

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本を読み始めるきっかけはどこにでもある

2024年最初の読書として『鳩の撃退法』を本棚に並んでいるその他の佐藤正午の本の中から選んだのか?にはちょっとしたきっかけがある。それについて少し書くことにする。

昨年の10月頃、押し入れの中に溜まっていたガジェット類(ガラクタともいう)を売り払うためにハードオフに持っていこうと思っていたが、近所にゲオがあることを思い出した。ちょうどアップル製品だと買取額が20%upのキャンペーンもやっていたので、ここなら自宅から自転車でも来られるなとおもい、売るときのことを考えて箱や、製品保護のためのフィルムまでとっておいたMacBook(もちろん“トラックパッドは壊れていない”)とiPhone14Proを買ったことでお払い箱になったXSをIKEAの青と黄色のバッグにいれて持ち込んだのである。

2023年11月の最終の日曜日午後、ゲオのカウンターにいた彼女は事務的な口調で買い取りに関する注意事項を暗唱した。私はその声を半分上の空で聴き終わると、査定結果は後日でもいいよ、とブックオフだと普通のやり取りの発言をした。いえ、今日でないとダメなんです。そうでなければお持ち帰り下さい、と急に緊張感のある注意喚起を促す声になった。えっ?と思って改めて彼女の顔を見た。ショートカットの黒髪の下に妙に白い顔がありそこにある二つの目がこちらを見ていた。今日中に査定から支払いまでを完了しないとダメだと言うことを淡々と説明してくれた。なんとなく、これまでに買い取ったものを売ってしまって後からトラブルにでもなったのかなと想像したが、それはおそらく店の別の人で、彼女自身がそう言うミスをした訳では無さそうだなと思った。わかりました。じゃあ査定が終わる頃に戻ります、と言うと終わったらお知らせすることも可能ですという。携帯の番号を教えて下さいと言うので、0X0……と暗唱しようとすると、一瞬慌てた様な目の動きを見せた後に小さな紙と胸ポケットに刺さっていたボールペンを目の前に置き、こちらに書いてくださいと言った。

実際の会話はちょっと異なるのだがだいたいこのような感じで進んだ。途中を端折って結論から言うと、売ったお金をゲオでしか使えない「ルエカ」というカードにチャージしてもらった。なぜかというと現金でもらうより更に10%ぐらい割増になることがわかったからである。とはいえゲオの店内にゲームとかその他AV機器みたいなものしかないので、それでどのぐらい使えるか不安になったので、レンタル料としてもつかますよね?と先程の彼女に聞くともちろん使えますといわれた。そこで、店内にどんなソフトがあるのかをブラブラと見回っているときにレンタルのためのパッケージケースが並んでいる棚で藤原竜也(津田伸一)の鋭い眼光と出会ったというわけである。その時はまだどんな内容なのかはよくわからなかったが、とりあえず映画を見る前に原作を読む派なのでまずは2024年の最初の読書として「鳩の撃退法 上」を本棚から引っ張り出して毎晩読むことにしたというのが読み始める前までの話である。

 

 

 

 

結局映画は見てない

とにかく映画を見る前に原作を読んでおく派なので、ましてそれが佐藤正午の作品であれば読まない訳にはいかないという理由で読み始めたが、なんだろう、最初はいまいち何の話なのかよくわからない所が導入部になっているという変化球(?)なところが味噌だ。冒頭に出てくる家族が失踪するわけだけど、それを追いかけて進むと思っていたストーリーが、その次に出てくる作家(津田伸一)によって語られるストーリーなのである。

 結果として作者である佐藤正午は、作家津田伸一の視点からこの物語を書いている。しかし津田伸一も作中人物なので、津田伸一の行動の客観的な描写をしているのは佐藤正午だ。ここには作家・津田伸一としてのキャラクターが詳細に描写されており、それは作者・佐藤正午は別の人間としてちゃんと存在していると感じられる。それは映画では役者(今作では藤原竜也)が演じているため、画面で観たときには、自ずと確固たる人格がそこにあるのは自明のことのように思われるが、読書の中で架空のキャラクターに創作させ、その物語を劇中の作家だからこそ書く内容の話に書き上げるというのは並大抵のことではないと思う。

 

読後に「書くインタビュー」も読み始めた

 「鳩撃」を読み終わって、またしても強い興奮を覚えたので、本棚から次の本を読もうと考えて「書くインタビュー」の1から3も買ってあったのを見つけてそれを読みだした。冒頭一人目のインタビュアーがわずか数通のメールやりとりを行って脱落する展開に度肝を抜かれた。二人目のインタビュアーは、佐藤正午からのカウンターパンチをくらいながらも、なんとか続けて質問を投げ続けることに成功し、鳩撃執筆前の状態の著者の姿を語らせることに成功している。

二人の往復書簡を読んでいるうちに、作家・佐藤正午がどのような方法で小説を書いているのかが浮かび上がってくる。もともと雑誌連載時の副題に「小説の作り方」というのがあったらしいので、それがこのインタビューの大きな目的なのは当然だが、それを作家からの厳しい(もちろん自分にも厳しい)回答を積み重ねることで詳細を書かせているこのインタビュアーの仕事は大変素晴らしいと思った。

 

 

 

 

 

 

 

新作「冬に子供が生まれる」も出た

折しも新刊「冬に子供が生まれる」が直木賞作「月の満ち欠け」から七年ぶりに出版された。自分が注目している作家の新刊を買うチャンスが巡ってくるのは貴重(前回新刊をハードカバーで買ったのは原遼の「それまでの明日」を八王子二仕事でいったときに買ったのを思い出す)なので吉祥寺のジュンク堂で探したらなんと「サイン本」があったので一も二も無く購入した。しかし、まだ読んでいない。まずはもう一度津田伸一に会いたいとおもって「5」を手に取っている。

 

 

 

杖道がうまくなるために何冊か本を読んだ

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今年も残すところあと1週間

師走である。と思っていたらもう既に月の半ばを過ぎていた。今年一年をほぼ終わってみて、結局のところ「ブログを月三本書く」という目標は果たすことが出来なかった。十二月もこれを書ききれなければ0になる所であった。別に誰に頼まれているわけでもなく、好き勝手なことを書いているのだから別に月に三本書けなくてももちろん誰も困らないのだが、なかなかその壁が高くて超えられない。もう数年同じ目標を立てて挑んでいるのだが、文章を書くというのは精神の状態に大きく左右されるので、その波をうまく捕まえて書くだけで精一杯……いや、やっぱりそれはなんか言い訳じみているので、懲りずに来年も『月三本』を目標にして書いていきたいと思う。

前回杖道について書いたが、都大会で入賞して、昇段審査で落ちたという事件の少ない杖道修行に突然現れた山谷のお陰で、再び杖道(その先の武術としての神道夢想流杖術を見据えて)上達のために色々と本を読んだのでそれらについての感想をまとめて書いてみたいと思う。

 

一冊目「怪物に出会った日」を読んだ

ボクシングというのは階級社会の中で生み出された人間がやる闘牛のような娯楽だ、という認識があるのであまりスポーツとしてのボクシングには興味がない。しかし、怪物と呼ばれる選手がいて、その強さというものを多少なりとも明らかにしようという試みの本なので、これは読まねばと思い手に取った。

井上尚弥の強さを、井上と戦って負けた人にインタビューして明らかにしようという試みは半ば成功しているが、私のように純粋にこの本で井上尚弥を知った人(そんな人はごく少数かも知れない)には、少々物足りない部分もあった。当の井上本人のインタビューは皆無(たまにコメントした内容が拾われているが)であるからだ。

この本に収録されている選手たちは井上と対戦して負けたことで、選手人生を大きく変えられている人がほとんどだ。中には井上と自分の子供が対戦してリベンジ(?)する日が来るのではと考えている人もいる。その様なスケールで対戦相手に思われる選手というだけでもすごい事だろう。

今回私も昇段審査で初めて落ちた事で、杖道との向き合い方を考えることになり、この本も手に取ったわけで、ある意味負けたことから豊かさを引き出す事も出来るということを実感している。競技としての杖道は、空手の型を競う競技の様に、実際に戦うわけではないが、杖道は組み型であり、杖に対して太刀が、太刀に対して杖がお互いの技を成り立つ様に打ち合う。その技に説得力があることが必要だ。

 

 

二冊目「熟達論」も読んだ

何といっても、為末さん自身が「現代の五輪書」を書きたいというところからこの本の企画が始まっているらしい。それは読まないわけにはいかないだろう。「五輪書」と言えば我々の宿敵(?)宮本武蔵がその武術論を余すところ無く書き記した書物である。宿敵が手の内を明かした本を出したなら、当然流祖である夢想権之助も読んでいたに違いない。それが現代に蘇ったわけではないが、我々流派の末端に列なる者にも必読の書であるだろうということで読んでみた。

内容も本家と同じく5段階(遊、型、観、心、空)に分かれている。それぞれの段階で到達する技術や精神のあり方について書かれている。

一つ目の段階「遊」つまり遊ぶことというのは、目的の動作を行う上で自分の体を使って出来ること、やりたい事をやってみるということの様だ。これに関しては、私の杖道の師範が私が杖道を始めた時にいみじくもおっしゃっておられた言葉を思い出した。入門してまだ右も左も分からない頃に、私は師範に家でどの様な練習をしたら良いでしょうか?とお尋ねしたところ「杖を使って遊びなさい」とお答えになったのである。為末さんも最初に「遊」を挙げており、その理由は自分が楽しんで体を動かすこと=自分にもともと備わっている身体能力の追求にあるからだと書かれていたので、おそらく師範の「遊びなさい」ということの真意も同じだったのではないかと考えた。

二つ目の段階「型」の中で、走ることの基礎となる型は「片足で立つこと」のみであると書かれていた。為末大さんの本職は走る人であるので、ただ走るだけにそんなに沢山の技術が必要なのかと最初は思った。もちろんそれは私がやっている杖道と比較しての話なのだが、杖道は型武道として全日本剣道連盟の制定型は十二本ある。しかし、何か別の本で剣術というのは究極的には「刀を振り上げて振り下ろす」事であると結論づけていた本もあった。

その後の「観」「心」「空」に関しては、まだまだ辿り着けぬ境地だと思うので、これからも折に触れて読み返していきたいと思う。

 

 

 三冊目「ロバのスーコと旅をする」も読んだ

ロバと旅する男の話がどこら辺で武術とどの様にして繋がるのかは私にもわからない。しかしこの著者も別に大それた野望があってロバと旅している訳では無いと書いている。ただ、徒歩でロバを連れて(連れられてか)旅をしたいと思い、再び外国に飛んだのである。何か繋がりがあるとすれば、私が杖道を続けているのも、別に命を狙われているから自衛のための技術を学ばなければならないというような差し迫った理由はない。そう言ってしまえば、ただ白樫の丸棒を振り回していたいからだとも言える。(いや、それではまだ「遊」の段階ということになってしまうが……)

この本を読んでいただくとわかるが、ただロバと歩いて旅をしたいというだけにしては、結構この人は危険な目にも遭っているし、そのために行なっている努力も普通じゃないと思う。その、何のためにそれをやっているのかはよくわからないが、そのためには人から見ると驚くような労力をかけている、というのは何かに熱中してやり続けていることには共通のことの様な気がする。世間では推し活などと言われている、自分の推しのために尋常じゃない努力(ほとんどはお金をかけることだが)は、本来はそういう自分のために使う力なんじゃないかと思う。

ちょっと脱線したが、ロバと旅をするという目的のために様々な手段を駆使する姿は読んでいて共感できるし、大変勇気をもらえたと思う。杖道を続けていく上でも大変参考になる本だった。

 

 

四冊目「腰痛は怒りである」も読んだ

中国からの長い出張から戻って、杖道を再開した際に何度か腰痛に見舞われた。そんな時に杖道の先輩から、こんな本があるよと勧められたのがこれである。杖道が上手くなるためにはとにかく稽古を続けるしかない。杖道を続けるために身体のメンテナンスは欠かせない。すでにアラカン(阿羅漢ではない)なので、若い頃のように力任せで動くと、身体の方が先に悲鳴をあげる。また、武道で大切なことは「一眼二足三丹四力」といって力は4番目だ。二番目の足捌きが重要ということはわかるが、その足腰が上半身を乗せて動くため、一番負担がかかるのはその連結部である腰なのだろう。

で、この本だが、何と腰痛というのはそういったフィジカルなダメージよりも感情「怒り」がその原因であるという驚くべき説なのである。いわゆる認知行動療法と言われるものだと思うのだが、それにしても「怒り」である。映画「インターステラー」の劇中に『Do not go gentle into that good night』というディラン・トマスの詩を朗読する場面があったが、あの詩にあるように「死にゆく光に向かって怒れ」というような強い怒りが体に湧き上がったら、腰痛どころかいろんなところが痛くなるかもしれないが、日常的に持っている不満や怒りが腰痛を引き起こすというのはちょっと考え難い。しかし、この本によると、何よりそのメカニズムを信じなければならず、自分の中にある怒りをきちんと認識した上でそれを受け入れるしかないし、それができたら腰痛も消えるということなので、自分の中にある「怒り」についてもう少し慎重になってみようと思う。審査に落ちたことに対する怒り(誰に対して?)で腰痛になったのであれば、次回こそ合格出来るよう最善を尽くしていきたい。

 

 

杖道上達のための読書

杖道の上達のために以上四冊を読んでみて全体の感想としては、改めて本のタイトルを見てみると全然杖道や武術に関係ないように見える。しかしながら必ずしも術技そのものに関係なくても自分が何かを探究していれば、そこからヒントを読み取ることはできる。大事なのは探究を続ける事なのだと思った。読み取ったヒントを実際の稽古に生かしていかなければ意味がないので、できる限りお稽古を続けるしかない。そしてあわよくば三月の次回昇段審査で合格して怒らずに済むようにしたいものである。今年も当ブログ読んでいただきありがとうございました。皆様良いお年をお迎えください。

ジョードー、アウェイクンズ  ~ひさびさに杖道について書く~

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アフター・ディケイド

私が杖道の修行のため現在の団体の門戸を叩いて既に10年以上が経過した。さすがに「十年一昔」というだけのことはあって、その間に色々なことがあった。その中でも最大の変化は、私が入門した団体の師範がちょうど一年前ぐらいに他界されたことだろう。本当に文字通り現世から居なく成られたわけだが、おそらく別の次元、別の世界できっと武術の探求を続けておられると思う。いや、決してふざけているわけではなく、本気でそう思っている。それができる方だったと思う。

私の杖道稽古もコロナによる稽古できない期間もあり、道場での稽古が再開してからも漠然とした歩みを続けていた。それが夏頃にちょっとした変化があり、そして今月のはじめにあった昇段審査では壁に突き当たった。初めて審査不合格になったのである。いや、もちろん審査に落ちるというのは自身の不徳の致すところ、稽古不足が理由なのは明白である。しかし実は夏頃にあった変化というのはある大会で準優勝したというものであった。これまで大会に何度も出てはいたが、賞と名のつくものにはとんと縁がなかった私が、ここへ来て結構大きい賞をもらえたのは何故だったのか? 一緒に組んだ人が上手かったからというのももちろんあるだろう。その部分は大目に見て、自分の技の研鑽も多少は積み上がっているとみなした上で、その一方で舞い上がるような喜びともう一方で谷底に落ちるような悲しみ(というと少し言い過ぎか)が同時にやって来たことを機会として自分にとっての杖道の「今」について書いてみようと思う。

 

アフターコロナ

2022年のコロナ禍にみまわれて、道場での稽古が一年以上休止していた時期には自宅での一人稽古が推奨されていたが、その間に折悪しく師匠の逝去ということが重なり、今年の春ぐらいから道場での稽古は再開されたが、道場に戻ってきた人はもともと所属していた人の半数ぐらいに減っている。それでも逆にコロナ後から何か運動や趣味を始めようということで新たに道場へ来られた方々もいるが、全体としてはおそらく減り続けている気がする。

全日本剣道連盟は剣道、居合道、そして杖道の三道を管轄しているが、その中でも杖道が恐らく一番知名度が低いのではないかと思う。その理由はいろいろあると思うが、はっきりこれだ! というものはない。強いて上げると名前からして、それが何の為のものなのかが判然としないという点ではないかと思う。剣道は言わずと知れた、防具を着けて竹刀で戦うものだし、居合道は居合刀を使って型を行うものだと漠然と知れ渡っている。では、杖道は?そもそも杖って何? というところから説明が必要になる。

あらためて「杖道」とは?

過去のブログを見返してみて、7年前(!)にも杖道について書いている記事があった。しかし、その時の内容はお世辞にも説明しているとは言えないので、今回は「もし予備知識のない人に『杖道ってなんですか?』と聞かれたら何と答えるか?」を改めて考えてみる。

まず使用する道具は木刀と杖である。木刀に関してはおそらく殆どの日本人ならどこかで見たことがあると思うので説明不要だと思う。しかしもう片方の杖に関しては説明が必要だろう。この場合の杖というのは高齢者や足の不自由な人が道を歩く時に使用する7〜80cmぐらいの長さの杖、ステッキとは違って、長さが124cm、太さが3cmぐらいの白樫の丸棒である。

馴染みがないものの様に思えるが、実はこれは大抵の日本人であれば街中で目にする機会がある。市町村の警察署の前に立っている警備の警察官が持っている棒がそれである。何故警察官が持っているのかには歴史的な経緯があるのだが、時代劇などで城や屋敷に入ろうとすると棒を交差させて侵入を阻まれるシーンを見たことがある方も多いだろう。(ああいう時に持っている棒はもっと長い(6尺=180cmぐらい)ものかもしれない)

そこで例えば侵入を拒まれた人が、刀を抜いて力づくで押し通ろうとしたらどうなるだろうか? 棒を持った人はそれでもその人を阻まなければならないとしたら? そのような状況で戦うことを主眼においた術技を学ぶことが杖道である。

 

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人を殺さず傷つけず

ここで一つ疑問が湧いてこないだろうか。何故自分も刀を抜いて応戦しないのか?自分も武士であれば刀を二本差しているはずだし、仮に武士でなくても一本差す(刃物を一つ帯びる)ことは許されていたはずである。何故日本刀という世界でも類を見ない強力な刀剣を持つ相手に対して、武器とはおよそかけ離れた、何の変哲もない丸い木の棒で応戦しなければならないのか?これも歴史的経緯を説明しないと理解が難しいと思う。杖道のもとになった武術の一つに「神道夢想流杖術」がある。これは黒田藩の御留流(藩外に出さない)として代々下級武士に伝わった流派である。

ここからは私の想像になるが、この下級武士というところが重要で、先程も書いた通り武士であれば本来は刀で戦うことが普通である。しかし、平時の下級武士は治安維持のような任務も担っており、今で言う警察官のような働きをしていたのである。そのような役目の人たちが学ぶ術として捕手(とりて)術というものも伝承されているが、その中の棒を使って制圧する術に特化したものが杖術と言えるかもしれない。これが先述した今でも警察官が門衛に立つときにこの棒を持っている理由だと考えている。

神道夢想流杖術の伝書には「刀槍は人を傷つけ殺すゆえに望むに足らず、杖は人を殺さず傷つけず、しかも己の身を全うすることができる。それ故に武の大本である」という趣旨の言葉が書かれているらしい(全日本剣道連盟杖道」写真解説書 改定杖道入門 より)犯罪者を捕まえる際もある程度の暴力は正当防衛であるとしても、正義のためには傷つけたりましてや殺したりせずに対象を捕縛する必要がある。

12の基本技と12の型

ここまで書いてきて、杖道というものがかなり限定されたシチュエーションのための技術であると気付かされた。居合道にしても、お互いが室内で座って向き合っており、刀を鞘に納めた状態から、というような限定されたシチュエーションが設定されている中での技術だと考えれば多少の類似性は感じられるが、杖道は武器も異なるというさらに特殊性が加わっている。なぜ一方は木刀でもう一方は杖(丸棒)なのかという事を理解するだけでもこれだけの説明が必要になる。これらの道具を使って、12本の基本技と12本の(全日本剣道連盟の)制定型を稽古していく。12本の基本技は、それぞれ12本の型の中に出てくる技であると同時に、杖を使った打突の基本になっている。杖を使った打突とは元になった神道夢想流杖術の道歌「突けば槍 払えば薙刀 持てば太刀 杖はかくにもはずれざりけり」とあるように、多彩な使い分けをすることで同じ棒(杖)を槍のようにも、薙刀のようにも、はたまた太刀のようにも遣うということである。これらがどんな技なのかを文章で表すのは大変難しい。しかし、すでにそのような難事を先達の方が成し遂げておられるので、それを参考にしていただきたい。実はこれも無料で公開されている。全日本剣道連盟のホームページにある「剣道・居合道杖道を知る」というページの中にある「全剣連書庫」のなかにある。(以下がそのリンクである)それぞの基本技と制定型についてはまた別の機会に書きたいと思う。

jodo_manual.pdf (kendo.or.jp)

 

 

 

 

今再びのジョードー・アウェイクンズ

先程の伝書にあると言われる言葉の最後にあった「己の身を全うする」について最後に思うところを書きたいと思う。様々な事情があって敵対した相手であっても、相手を傷つけることなく、自分も負傷することなくその場を収めるということは争いの大小にかかわらず難しい。今もウクライナイスラエルで行われているような戦争ではお互いに数千、数万人規模の死傷者が出ている。こうなっては武という漢字の元々の意味「矛を収める」ということが大変困難だろう。このような大きな争いになってしまう前に、一人ひとりが「武=矛を収める」という意味での武道に携わることが出来たら、世の平和に寄与するに違いない。そのような意味において、この世の中に少しでも杖道が知られ、普及すると良いと切に願っている。

全世界が待望していたスターウオーズの最後の三部作は第7部「Force Awakens」から始まった。正直内容は今にして思えば第4部「New Hope」の焼き直し(繰り返し)だったが、逆に考えると、そうやって正義と悪の戦いは幾度も幾度も繰り返されてきたのだろう。400年前の同じく日本人が創始したこの武術、武道を令和の今やる意味はきっとそのような繰り返されてきた人類の歴史の中にあると思っている。

 

 

ターミネーターとの終わりなき戦い ~「未来から来た男 ジョン・フォン・ノイマン」を読んだ~

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すっかりご無沙汰

ブログを書く習慣がなくなってしまった。せっかく暑い暑い2023年の特別な夏が終わって、少しはまとまったものを考えることができるような気温になったのに、なぜ書けないのか? 一つには趣味で続けている杖道の審査や試合があったため、集中してお稽古をしていたからというのもある。基本的には土日しか出来ないので、パソコンのディスプレイに向かってキーボードを叩く時間が作れなかった。この2ヶ月ぐらいの杖道に集中した時期についても後で書きたいと思うが、まずはその間やはり寝る前にちびちび読書をして毎晩楽しみに読んだ「未来から来た男 ジョン・フォン・ノイマン」について書く。

 

 

爆縮レンズ

私がジョン・フォン・ノイマンという人物について特別な関心を持つようになったのは原爆の「爆縮レンズ」というものを設計した人ということをなにかの記事で読んだからである。アインシュタイン相対性理論によって原理的に原子爆弾というものが可能だということはわかったが、それを実際に爆発させるためには、ものすごい圧力で圧縮しなければならないが、それをどうやって実現するのか? というテクノロジーが生み出されていなかった。そこをこのジョンが設計した「爆縮レンズ」で実現したのだという。残念ながら物理の世界に詳しくないので、この「爆縮レンズ」がどのような原理で生み出されたのかは分からないが、光学レンズであれば光を屈折させて一点に集めるものを想像するが、それを爆発の力で実現するもののようだ。すなわち圧縮したい(核融合させたい)ものの周りに通常の爆薬を球状に配置(サッカーボールの皮の様なもの)して、それらの燃焼反応を同期させ中心の一点に圧力が集中する方法を編み出したということのようだ。今回読んだ本にも、この辺の開発ストーリーが書かれていた。しかし、思ったほど重要なエピソードという感じではなかった。その後の水素爆弾では別の方法による臨界状態の生成?を行うようになったので、ある意味プルトニウム原子爆弾のみのテクノロジーなのかもしれないが、それによって原子爆弾が実現可能になるかどうかというキーのテクノロジーであることは確かだろう。

 

ノイマン型コンピューター

我々が日々使っている、今もこの文章を書くのに使用しているPCの基本アーキテクチャーを作ったのもジョンだ。だからコンピューターはノイマン型と呼ばれている。一時期並列処理だとか、第五世代コンピューターだとか非ノイマン型コンピューターというものが考案された時期もあったが、今も主流はノイマン型だ。この先量子コンピューター(非ノイマン型)がそれに取って代わっていくかもしれないが、それらの機械の使用目的は現在も開発が盛んなChat GPTに代表されるようなAIのためだろう。以前のブログにも書いたが、確率処理だけで文章を生成しているのにその結果が人間にとって意味のあるものに感じられるというのは本当に不思議だ。機械は「意思」を持たない(機械の中にあとから幽霊が宿ることはない)が、そもそも機械というのは目的を持って設計された時点でそれは「意志」を内蔵している。あとはその「意志」をドライブする「意思」があればいいのだが、そこをこの世界のすべてをデータとして持った母数を基盤とした確率論的正しさで活動の方向性という「意思」を与えてやれば自己完結するのではないだろうか?

 

セル・オートマトン

ノイマン型コンピューターのプログラム上で動く自己増殖するセル・オートマトンライフゲームももともとはジョンの発明だ。一定のルールで自己増殖していく2D平面上のパターンを設定すると、一定の形状や動くパターンを見出すことができるという。こちらも高校生ぐらいの時に初めて知ったときから、今に至るまで何の意味があるのか今ひとつピンとこない。

しかし、初期状態の設定さえ与えてやれば、自分で自分を複製して無限に増えていく機械を想像すると、その意味はおぼろげながら見えてくる。例えとして、宇宙に一台の機械を放ったら、それが指数関数的に増殖していき宇宙をくまなく調べて回る探査機のようなものがもし出来たら、その基礎となるテクノロジーはこのセル・オートマトンということになるのだろう。

 

どの未来から来た男なのか?

日経新聞の土曜版には見開き2ページの書評コーナーがあるが、10月のページにこの本を評したものがあった。その選者が「そもそも、どの未来から来た男なのか?」という疑問を呈していた。日本にとって、世界唯一の原爆を実戦で使用された国にとっての未来とは異なる未来から来ただろうということだ。これについて少し考えてみた。

ぼんやりとそのことを考えながらここまで書いてきて、核兵器、コンピューター(AI)、セル・オートマトン、そしてジョンという名前を並べたら自然とあの話が浮かんで来た。そう、ご存知「ターミネーター」だ。今度NETFLIXproduction I.G.制作の新作アニメシリーズが作られるらしい。一作目から「2」「3」ときてテレビシリーズ(JKターミネーター)「4」(クリスチャン・ベール)「Genisys」「New Fate」と色々なターミネーター世界線が描かれてきている。

一作目で未来から来た男はカイル・リースで、それを行なったのがジョン・コナーなのだが、これらの実現のためにジョン・フォン・ノイマンが未来から来たというなら、それって正しくスカイネットが起動して人類を根絶する未来のための布石をしていたように見える。つまりノイマンスカイネット側から送り込まれた殺人ロボットT-XXXみたいなものだったということになる。この本の最初の方に実はジョンは別の天体から来たが、人間生活を学んで完璧にそれをこなしているのだというジョークが囁かれていたというエピソードが出てくる。こう聞くとまさにふさわしい感じがするが本当にそうだろうか?

 

 

 

ファースト・ターミネーター

「2」の冒頭でサラ・コナーのモノローグとして「世界はヘッドライトをつけないで高速道路を全速力で走っている車」みたいだと語るシーンがあった。テクノロジーの無軌道な発展はその先に何が待ち受けているかを考えていないという意味だと捉えていたが、現代文明に重要な意味を持つテクノロジーの発展の根本には常にこのジョンの影があることを踏まえるとまた別の意味が見えてくると思う。

ジョン・フォン・ノイマンハンガリー生まれだが、ヨーロッパでのナチスの台頭、ユダヤ人排斥を逃れてアメリカに渡る。ナチスはいわゆる「ユダヤ人問題に対する最終解決」として絶滅政策を行った。そのことに強い恐怖を覚えたジョンは、それに対抗するより強力な兵器として原子爆弾の開発、そのための数値計算のためのコンピューターの開発を行った。自ら(の民族)を絶滅せんとするものとの戦いを始めていたのである。そういう意味でではジョンはもう一人のジョン(コナー)と同じ立場にいると言えるだろう。

 

ジャッジメント・デイ

未来から来た(本当は来ていないが)ジョン・フォン・ノイマンはまさに自分のターミネーターとの戦いをアメリカに来て開始していたとすれば、どの未来から来たか? は自ずと答えが出るのではないだろうか。同じ民族の末裔が、まさに2023年の今約束の地で自らの国と民族の存続をかけて戦い続けており、そのためには「核の使用も辞さない」覚悟であるという。ただし、この本にも出てくるが同じユダヤ人であるアインシュタインイスラエルの方針には賛同できず、協力を断っている。ノイマンも同じだったようだ。

町山智浩の本「ブレードランナーの未来世紀」で解説されているように、この「ターミネーター」を含む一連の映画にはネタ元となる映画があってそれが「素晴らしき哉、人生!」という映画なのだが、それらに共通する筋書きは

(1)世界が少しづつおかしくなって、最終的に主人公が窮地に陥る

(2)誰かが主人公にこれはあれのせいで、このままほって置くと世界は破滅すると教える

(3)主人公はやるべきことを知り、そのために邁進、世界を救う

というものだったと思う(本が手元にないので記憶で書いています)

暗闇の向こうに見えてくるはずのものは「審判の日」なのである。それはいつかは見えないが、確実にやってくる「ジャッジメント・デイ=取り返しの付かなくなる日」なのである。それに対する終わりなき戦いをジョンの同胞(本人はそう思っていないかもしれないが)は続けているのである。

ジョン自身は最後はがんで死んでしまう。最終的には脳に転移して「5+7のような計算にも時間がかかる」ような状態になってしまう。ジョンが死んだ後の二番目の妻クラリのエピソードが一番深く考えさせられた。詳細は書かないがジョンがどのような男だったかはこの部分が語っていると思った。

 

 

俺はこう生きる(生きた?) 〜「君たちはどう生きるか」を観た〜

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巨匠のカーテンコール?

既に一ヶ月ぐらい前の話になってしまったが、表題の作品「君たちはどう生きるか」をもちろん(ツンデレ)吉祥寺ヲデオンで見てきた。画面の下は前列の観客の頭によって連なる大山小山の形で欠けているが、そんなことは全く気にならない。とにかく宣伝も前評判も全く聞かない状態で観た。こんなに事前情報がない状態で映画を観るのはほとんどないことかもしれない。それこそたまたまつけたテレビでやっていた映画を観る様な経験に近い。観終わってからもパンフレットもないので、登場人物や場所の名前などが記憶頼りなのはご了承頂きたい。

前作の「風立ちぬ」が最終作ということだったので、それを覆してでも作りたかった話と考えるか、巨匠のカーテンコール、あるいはボーナストラックぐらいのつもりでみるかによっても印象は違ってくるのではないかと思う。

 

難解なストーリー

世間の評判では特に若者にとってはストーリーが難解だったという様な声があるらしい。観終わってヲデオンから出る時に周りにいた女の子達が難しかったねー、と言う声を聞いた。しかし、(上辺上の)ストーリーとしては特に難解とは思わないが、ではこのストーリーが何を意味しているのか、作者宮崎駿は何を言いたいのか?と考えたときには、なんだかよくわからないというのが正直なところだ。

私が見た「もの」のあらすじを簡単に書くと、母(1)を亡くした主人公(2)が謎の使者(3)の導きによって謎の世界へ死んだ母を探しに行く。そこでは現実にいた人の面影がある別の人たち(4)がいて彼を助けてくれる。やがてその謎の世界を作った人(5)に対面し、この世界を引き継いでほしいと言われるが、欲に取り憑かれた仮の支配者(6)によって謎の世界は崩壊、主人公は現実の世界に戻る……という感じだ。

このストーリーを観終わって一番先にした解釈は、主人公(2)は宮崎駿で、戦争中に自身の母(1)を失くすまでは自分の生い立ち(「君たちはどう生きるか」の本をもらったことも事実)、疎開して母の実家の屋敷に移ってからは、謎の世界=自分の空想の世界で母を探す試みが、そのままアニメーション作家としての道のりで、途中から出てくる強欲なインコとその王(6)たちはアニメ作品を商業的に利用する人たち、謎の世界の創造者(5)は老境に至った自分自身で、その時点で主人公は君たち=広く言えば観客だが、おそらくこれからアニメーションを作っていくクリエイターたち(7)に変わっていて、ここまでのストーリーが全て後に続く人たちへのメッセージ「俺はこうやって作品作りをしてきた。君たちはどう作る?」となって終わる……というものだった。

ここであえて他人の感想を参考にしてしまうが、私が個人的に勝手に師匠と思っている内田樹先生がブログで感想を書いてくれているので、まずはそれを読んで頂きたい。

 

blog.tatsuru.com

我々は何を見たのか?

内田樹先生の感想によると、今回の作品にはこれまでの宮崎駿の作品にあったものが2つ無いらしい。一つは「可愛らしいトリックスター」そしてもう一つが「空を飛ぶ少女」だそうである。

可愛らしいトリックスターというのはトトロとかジジみたいなもののことだろう。今回の作品に出てきたアオサギは不気味な中年男がアオサギの着ぐるみをかぶっている様な出立ちだ。私の解釈だと、アオサギはやはり宮崎の分身で、謎の世界=自分の想像の世界であれば、そこへ自分自身をドライブするのはやはり「欲望」で、それはやはり外面の下に蠢く醜いけれど凶暴なものだろう。翼を持つというところからも果てしない空=空想への飛行を可能にする存在だ。

一方の空を飛ぶ少女というのは、魔女の宅急便の主人公はまさにそれだし、ナウシカカリオストロで飛んで行った峰不二子もそうだという。逆にもののけ姫のサンは飛ばないし、コナンのラナも飛ばないし、紅の豚のフィオも……最後は自分で飛行機に乗って飛んでたか。とにかく少女が満をじして空を飛ぶことで、観客のカタルシスを一気に爆発させて巻き込む演出が持ち味なところを封印してこの作品はできているということである。

 

私の観ない宮崎アニメ

私があまり好んで見ない宮崎アニメもある。まずトトロがそうだ。テレビで何度か放送があったはずだが、一度も最後まで見た事がない。「魔女の宅急便」は好きな方だが、やはり対象が女子だなと思う。「千と千尋の神隠し」も女子むけ「崖の上のポニョ」に関しては少女を通り越して幼女向けだろう。また、「風立ちぬ」も誰がターゲットなのか判らない映画だと思う。それこそ遺作(のはずだった)だから監督本人が納得していれば良いのかも知れないと思って観た気がする。

これらの作品をなぜ私が観ないのかにはあまり立ち入らないことにするが、ただ単に面白くないからと言うことではないと思う。むしろ積極的に忌避する成分が含まれている作品群なのじゃないかと思うが、その成分がなんなのかはよく判らないし、不愉快なものの腑分けをするのも作業としては意味があるかも知れないが、今回はパスする。

 

私が好きな宮崎アニメ

私が中学生の頃、テレビは毎日5時から7時ぐらいの間、つまり小学生や中学生が学校から帰って来て、「ご飯だよ〜」の声で食卓に呼ばれるぐらいまで(食事中もテレビを点けて良い家では観ていたかも知れないが、うちの家はダメだった)アニメーション漬けだったと言っても過言ではない。

その中で宮崎駿の作品だという意識を持ってみたのは恐らく「未来少年コナン」が最初だったと思う。実はその前に世界名作劇場で放映されていた「アルプスの少女ハイジ」も宮崎・高畑コンビの作品だったのだが、それを知るのは高校生になってアニメ雑誌を読み漁る様になってからだったと思う。そういう視点でアニメを見る様になって、ルパン三世(新)のテレビシリーズの中で宮﨑駿が担当した回「死の翼アルバトロス」や「さらば愛しきルパンよ」なんかでその良さを再確認した。そしてルパン三世劇場版第二作である「カリオストロの城」である。

この作品で見たルパン一味や銭形警部などの格好良さが私の人格形成に多大な影響を与えているはずだ。既に五十路になり、純粋な形では残っていないかも知れないが、それでも男は、人間はかくあるべしというのはこの作品の中から頂いたものだ。そういう意味では、「すずめの戸締り」の感想を書いたときに「もののけ姫」が残したメッセージ −我々は自然を壊しているし、それはもう取り返しがつかない ― が影を落としてはいるが、それは一つの十字架であって、人格の基礎が根を張ってそこから養分を吸い上げている対象ではない。ちなみにその頃の私のヒーロー像は「平賀キートン太一」だったからと言うのもあるかも知れないが……

 

 

 

私たちはこう生きる(生きた)

こうして考えてみると、今回の作品で「君たちはどう生きるか」と問われたなら、私は既に宮﨑駿監督の過去の作品で生き方についてのメッセージ("とんでもないもの"を盗めるような人間になること!)は勝手に受け取っているのだから、無理してこの作品を解釈する必要もない気もしてきたが、最後に一番気になった部分だけ挙げておく。私が見逃しただけなのかも知れないけど、直人が最初に異世界へ入った時に上がった島にあったお墓?は一体なんだったのだろうか?何かが出て来そうになったけど、なんとかそれをやり過ごしたみたいな描写でそのまま島を離れたまま最後まで触れられてなかった気がするけどアレこそが母の墓だったのだろうか?

傴僂女は出産の夢を見るか? ~「ハンチバック」を読んだ〜

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欲望を育てる

ちょうど一年ぐらい前に「家を買う」という、ある意味普通の人間なら人生最大の決断のために、欲望を育てるということについて考えてそれをブログに書いた。生きるために必要なものの一つが、どんな形のものであれその人の「欲望」に根ざしたものであるというのはあながち間違っていないと思う。

映画「スリー・ビルボード」で主人公に名指しで非難された警察署長は、美人の奥さんや素晴らしい馬を残して拳銃で頭を撃ち抜いて自殺する。自身が末期がんであることを知り、人生の来し方、行きし方を眺めてもう十分だと考えた末の行動だと読み取ったが、要するに欲望が全て満たされてしまった故にこれ以上生きる必要がないと考えて命を断ったということである。生きていることは何がしかの欲望を育てていくことだろう。この映画の警察署長の様に欲望を育てきって満足(末期がんで助からないということもあるが)して死ぬという人はこの世にはそう多くないと思う。

むしろ最後まで自分の欲望とまっすぐに向き合えなかったり、それを見つけたときには手遅れだったりということのほうが多いはずだ。なぜなら、大抵の欲望は突き詰めていけばモラルに反するものだからである。個人的なものであるということは、そのまま反社会的であることにつながっているからである。

 

 

妊娠と中絶を欲望する?

この小説の主人公は、かなり重度の障害をもっていて、それらのハンディキャップをテクノロジーの力で補完しなければ生きられないため、親の残してくれた遺産によってすべての補完機能を完備した自前の介護施設で生きている。その上両親が残してくれたらしき遺産により金銭的には全く困ることがないようだ。そしてネット上ではライトノベルや体験記事を書くことで社会との繋がりを維持している。

しかし、肉体の無いネットの世界でいくら妄想を膨らませても根源的な欲望は満たされない。彼女の欲望は人類一般の欲望である、健全な肉体を持ち、その肉体がなければ出来ないことだ。すなわち人類が人類であることからくる本能の一つ「親族を形成する」ために子孫を求めることである。そのためには生殖行為を行う必要がある。そこで介護スタッフを金で買ってそれを行おうと試みる。しかし、自分の肉体では妊娠、出産に耐えられないことは自覚している。そこで少なくとも妊娠すること、そしてその結果として中絶することを望むのである。

 

妊活に失敗

私も人類の一員であると一応自負しているので、かつて親族を形成しようと試みたことがある。「試みた」と言っている時点で先は見えているかもしれないが、その試みは失敗に終わった。その失敗の代償はかなり大きかった。一度は妻の胎内で生を受けたかに見えた我が子は、なぜか突然その営みを止めた。数ヶ月かけてわずかに大きくなった自分の肉体を妻の体の中に残したまま、魂は元いた世界へ戻ってしまったのである。

その残された肉体はそのままそこにとどまっているわけにはいかない。通常の玉姫様のように体外へと押し出されなければならないのである。もちろん玉姫様と同じように痛みを伴う。深夜に痛みに悶え苦しむ妻を虎の門病院まで自家用車で搬送することになった。妻が手術を受けている間、病院の廊下にあるベンチで真っ暗な窓の外を見ながらぼんやりと待っていた。やがて、あまりにも無力で手持ち無沙汰であった私は、仕方なくスマホでゲームをしながら妻が出てくるのを待っていた。

 

インベーダーゲームの進化系

タイトーの言わずと知れた名作「スペースインベーダー」。私のゲーム好きはあそこから始まったと言っても過言ではない。そのスマホ版ゲームとしてリリースされていた、今となっては名前も忘れてしまったが、タイトーシューティングゲームの歴史(進化の過程)を辿るようなゲームだったと思う。

今改めてなんとういうゲームだったかを調べようとApp Storeを検索してみたが、既にそのゲーム自体はすでにサービス終了していた。その理由はおそらくiOSのアップデートに合わせてゲームアプリもメンテナンスしていかないといけないが、そのためのリソースをかけてもそれに見合う収益は得られないと判断したからだろうと思う。

 

 

 

人体の進化は止まっている

我々は日々ささやかな知恵と勇気で人生に立ち塞がる障害をなんとか凌いで生きている。一方でハードウエアとしての人類は、かなり前にそのバージョンアップをやめている。収益が見込めないからバージョンアップを止めたゲームアプリとは理由は異なるが、環境に合わせて変化するのが進化なら、環境を自分たちの都合で改変できるようになった我々は進化しないだろう。おそらく唯一の変化に対応するために進化させてきた知能ですら、その代替となるChatGPTなどの生成AIを人類は開発してしまった。生成AIによる活動は人間の過去の資産を縮小再生産するだけだ。(私はシンギュラリティ否定派である)もはや完全に自分で自分の進路を塞いでしまったと言えるだろう。

 

暑すぎる今年の夏

本当に2023年の夏は暑かった。過去形で書いたが、九月になってもまだまだ暑さは続くのだろう。この暑さに対しても我々は生物学的な進化で対応することはできない。これまで培ってきた人類のささやかなテクノロジーを持って対処していくしかない。

ちょっと話が逸れたが、この小説の主人公は(あくまでこの話の主人公は作者が作り出したフィクションで作者ではない)残念ながら、その欲望を果たす前に頓挫する。その無念さは私と妻が味わった無念さと変わらないだろう。この話の主人公のような人が、例えば攻殻機動隊の草薙少佐のように義体を手に入れて、電脳世界だけでなく、リアルワールドでも活躍する様な未来が近いうちに来るだろうか。私たちのように、妊活に失敗という苦い経験をすることもなく、望めば人工子宮で子供を得られる様な未来が来るだろうか。おそらくそんな未来はもう来ないだろうと思う。そしてきっと来年の夏も今年以上に暑いに違いない。

 

 

健全な肉体に健全な精神は宿る?

この言葉は実は間違った広まり方をしていて、実際ギリシャ時代にこの言葉を本に書いたい人は、健全な肉体に健全な精神が宿るといいのだが(実際はそうではない)という意味で書いたという話を以前どこかで読んだ。

傴僂女がその身に宿した精神も、極めて健全な人類共通の欲望を持つに至った。「ノートルダムのせむし男」に出てくる主人公「カジモド」の名前の意味は「不完全」だそうだ。しかし彼が劇中でヒロインであるエスメラルダを思う気持ち=欲望は、その他の健全な肉体を持つ登場人物と変わらない人類として「完全なもの」だった。

テクノロジーの進歩とその袋小路が、我々の進化をとめてしまった。我々は永遠に不完全のまま止まることになったのかもしれない。しかし、その肉体に宿る精神は、それが健全であろうとなかろうと、人類の根源的な欲望を完全に備えていることをこの小説は示してくれたと思う。

 

 

 

出欠の葉書は二度郵便受けに届く  ~「苦役列車」を読んだ~

 

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実家へ

昨年の秋から中国出張が続いていたおかげで、年末の帰省もできなかった。その前もコロナを理由にかなりの期間実家には帰っていなかった。そこで今回の出張で溜まった代休を利用して実家に帰る事にした。東京から名古屋は新幹線のぞみ号に乗れば1時間40分ぐらいで着いてしまう。ただ、その短い時間の中にも色々とドラマがあるのが新幹線の不思議な所だ。行きの新幹線は昼頃名古屋に着く列車を選んだ。14号車の3列Aあたりに座ったと思う。出発してからしばらく立った頃、車掌さんが回ってきた。近頃はネットで予約して席を買うので、車掌さんはいちいち「切符を拝見」はしない。ところが私の列を見たとき「A席にお座りのお客様」と声をかけてきたのである。もちろん切符は持っているのでビビることはないのだが、声をかけられないと思って油断していたところに来たので少々動揺した。車掌さんはちょっと困った顔をして「お客様の……」と言いながら私の前の背もたれを指している。え?前の席の人からクレーム?とか思ったが全然違って、その背もたれについている洋服やレジ袋をかけるためについていると思われる可倒式のフックが半分ぐらいのところから折れてなくなっており、その穴が見えていたのである。わざわざそのことを伝えに車掌さんは私の所まで来たということなのだ。危ないので触らないでください……

わかりました。うーん、このフックを折るような何が起きたのだろう?別に使う用はなかったので問題はなかったが、隣の背もたれに付いている自分のではないフックを試しに引っ張ってみたら、バネでパタッと戻るのかと思ったら、ゆっくり戻るのでまた驚いた。恐らくだが、子供がこれをおもちゃにして、もしバネでパタンと戻る仕掛けだったら、それこそ前の席の人がイライラするだろう。それをさせないようにわざわざそんなダンパーを組み込んでいるのだと推察する。品質というかサービスというか、そのためにかけるコストだとは思うが……

 

古く馴染んだ町を歩く

名古屋について、ちょうど昼時だったのでまずは腹ごしらえと思い、やはり東海地方にきたからには「寿がきや」でラーメンを食べようと駅の西側にある地下街「エスカ」へと向かった。地下に潜って南の方へ行くとちょっと高級な寿がきやがある。これもコロナ前の記憶なので本当に今もあるのか半信半疑だったが、以前と変わらず営業していた。全然関係ないが、その後エスカの北側の方へいってみたらとんかつで有名ない「矢場とん」二行列ができていた。東京にも支店があるので珍しくないのだが、地元の名古屋でも未だに行列というのには少し驚いた。昼飯を食べる以外に特にやることもないので、中央線(正確には中央西線と言うらしいが、地元では昔から中央線と呼んでいた)に乗って地元の駅に向かう。車両も新しくなっていて、ドアの上に液晶ディスプレイが設置されていた。

ふと思い立っていつも降りる前の一つ前の駅で降りてみた。理由はブックオフによるためである。場所がおぼろげだったので、なんとなく一つ前の駅の方が近いのではと思ったのだがこれが大きな間違いで、強い日差しの下を一時間以上歩く羽目になった。

ブックオフに寄りたかった理由の一つは西村賢太の本を買うためであった。Twitterに紹介されていたエッセイの一文に興味を覚えて、それを読もうとおもったのである。しかし、店にあったのは芥川賞作の苦役列車であった。これもいつかは読もうと思っていたので本棚から手に取って何気なくぽパラパラとめくってみると葉書挟まっているのを見つけた。その内容を見て、黙ってそのままレジに持って行った。

 

葉書の内容

レジで商品を手渡した従業員のお姉さんが、挟まっている葉書に気がつくのではないかとハラハラしながら支払いを終えた。レシートを受け取ったときは気が付かなかったが、実は定価460円の文庫本が400円だったというのはあとから気がついた。出歯亀趣味で正直自分でも気持ち悪いが、それぐらいその葉書をじっくり読んでみたかったのである。

それはいわゆる結婚式・披露宴への出席の可否を回答するものだった。表面には上に郵便番号、右側に住所、そして中央に名字の異なる男女の名前が連名で印刷されており「行き」と書かれている(もちろんペンで二重線を引き「様」に直してある)。表面の住所は熊本県であり、裏面の住所は東京都渋谷区であった。葉書にはちゃんと63円切手が貼ってあった。しかしこれも招待側が貼っておくものだろうから当然だろう。

その二人の名前を仮にAさん(男)Bさん(女)としておく。裏面には招待された人の名前と住所、電話番号まで書かれている。直筆で女性名が書かれているのだが、その名字がBさんと同じである。つまりこの回答葉書を出そうと思って、しかし西村賢太の「苦役列車」に挟んだまま売ってしまった人は、近々結婚するカップルの新婦側の招待客であると同時に、親戚あるいは家族である可能性が高いということだ。葉書挟まっていた新潮文庫版「苦役列車」は令和4年2月25日第七刷版で、私が購入したのは令和5年6月18日なので出版されてから既に一年以上が経過している。恐らく熊本での結婚式はとうの昔に終わっているだろう。

肝心の「苦役列車」は真ん中に新潮文庫の特徴である栞の紐がおそらく一度も引き出されてない状態で挟まっていた。ブックオフでの値付けが高いことからも、ほぼ新古本として売られていたのだと思う。ページにもほとんど読んだ形跡がない。ということから推測すると、この葉書を出そうと思っていた人は買ったばかりのこの文庫本に挟み、そのまま読まずに売ってしまったと考えるのが普通だと思う。読まなかったからこそ葉書を挟んだことを忘れたのだろう。本を買った人が住んでいる場所が東京だとして、私がこの本を買ったブックオフは愛知県にある。本に貼ってあったブックオフの値札にはいつ処理(在庫になった日?)されたかが書いてあった。それは(すぐ剥がして捨ててしまったので)確か2023年の4月頃と書いてあったと思う。これが、この本が売られた時間と一致するのであれば、つい最近売られたことになる。ここまで色々推理してきたが、結局結婚式がいつだったのか?(この葉書はまだ間に合うのか?)を考えてみたが手持ちの情報ではそこまで読み切ることはできなかった。結局のところ、しばらく迷ったが、きちんと切手がはってあるので、そのままポストに投函することにした。きっとその数日後には無事に熊本に届いたことだと思う。受け取った人たち、出すはずだった人がどう思ったかは雲の向こう側だ。

 

 

苦役列車」の感想

肝心の西村賢太の「苦役列車」についてだが、前半にも書いたように芥川賞を取った当時からいつか読まねばみたいなことをずっと思っていたが、今回読んでみてタイトルはともかく「青春もの」というのが正直な感想である。実際に作者とは同じぐらいの年齢なので、東京と愛知県という環境の違いはあるが、時代的なものが同じ(はず)なので、学校での生活(当時の中学高校はつっぱりブームというか不良が幅を利かせており大変荒れていた)や男男間、男女間の距離などが実感としてわかる。実際に2012年には映画化もされているということを今回ネットで色々調べて分かったが、作者は「青春もの」という評価に大変不服だったと書いてあった。うーん、色々とめんどくさい人のようだがつい先日お亡くなりなっていたことも知った。

この話は私小説ということなので、主人公の名前である「北町寛多」はそのまま著者西村賢太のことなのだろう。彼がどの様に十代の最後を生きたかが文字通り赤裸々に書かれている。その実感が読んでいる方にも手に取るようにわかる……という人にだけ響く物語だと思う。私はどちらかというと響く方だが、そういう人間にとってこの本に出てくる日下部君のような人生を生きている人の内面は実は謎である。いや、この年まで生きていると実はそんなに大きな違いじゃないという気もする。しかしその僅かな違いを頑なに保持して、そこを拠り所に文章を書くとこのような物語になるというのが私の感想だ。そう考えると、この本に葉書を挟んだ(そしてそのまま出さずに売ってしまった)人の意図が少しわかったような気もするというのは考えすぎだろうか。